座間コミニティー

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◆この人々は歌うたいであって……

2016年07月31日 16時56分43秒 | 聖書
昼となく夜となく彼らはその仕事に携わった……。(Ⅰ歴代九・三三)
 
宮の中において、聖なる歌が決して絶えないように定められていたのはよいことであった。歌うたいたちは、常に、とこしえにあわれみに富まれる主を賛美していたのである。主のあわれみが昼も夜も絶えなかったように、音楽もその聖なる務めをやめなかった。
私の心よ。このシオンの宮の絶えない歌は、おまえに快い教訓を与える。おまえもまた不断の債務者であり、主の愛が絶えないのと同じように、おまえの感謝を決して絶やしてはならない。おまえの最後の住まいである天国において、神への賛美は絶えることなく続いている。おまえもまた、とこしえにハレルヤと賛美することを学べ。太陽が地上に光をまき散らすように、神の光も感謝に満ちた信者を目覚めさせて朝の賛美を歌わせ、聖徒のもつ祭司としての職務によって、不断の賛美をささげさせる。彼らは、私たちの地球を感謝の衣で包み、賛美の黄金の帯で取り巻く。
主こそ、不断の賛美を受けるにふさわしい方であられる。そのご人格のゆえに。その創造のみわざと摂理、被造物に対するいつくしみのゆえに。ことに贖いのすばらしいみわざのゆえに。そしてそれから流れ出る驚くべき祝福のゆえに。
主を賛美することはいつも有益である。それは昼を楽しくし、夜を輝かせ、労苦を軽くし、悲しみを和らげ、地上の喜びに聖なる光を投じて、私たちの目が、地上の喜びによってくらまされることのないようにする。私たちは、今何か歌うべきことをもっていないのか。私たちの現在の喜び、過去の救い、あるいは未来の希望について歌い出すことができないであろうか。地は夏の果実を生じ、干し草は納屋に納められ、黄金の穀物は鎌を入れられるのを待っている。太陽はこの実り多い地上をゆっくりと照らす。夜も短くなった。しかし、私たちの心からの礼拝の時は長くありたい。
イエスの愛によって励まされて、今日の日を聖い喜びの歌をもって終えようではないか。
 
 

「すべての事について、

2016年07月31日 16時55分57秒 | 聖書

感謝しなさい」(Ⅰテサロニケ5:18)

ジョニーという有名な人がいる。
水泳の飛び込みで、脊髄を痛めた。九死に一生を得たが、一生身体は動かないと宣告された。
死を願った。鏡に映る姿はとても人間ではない。

窪んで落ち込み血走りどんよりした2つの眼球。
36キロの身体は、黄疸になり黄色い皮膚に覆われた骸骨だ。

太った頭は不気味であり、話をする時見える歯も薬物治療のため黒くなっている。
とても生きて行けない。が、周囲に励まされて行く。

「神がどう見ておられるかが大切。人がどう見るかは重要でない。気にするな。
人の基準で自分を見ると、負け犬にしかならない。
神からの価値だけを考えよう」自分が、神の似姿である神の作品だという事に目が向いた。

自分の動かない身体、自分の格好、自分の能力、出来る事、出来ない事、自分で自分がどう見えたとしても、自分の事を神に感謝する事にした。

感謝を献げ続けていると、パズルのように、すべてのものをふさわしい所に置くよう助けられた。
より良く神に仕える事ができ、より幸せになれるように、神がこの身体を与えられたと理解できた。

こうでなかったら確実に人生最後まで自己中心に生きていたであろうと。
神が特別干渉して下さった事に心から感謝した。

今、幸せそのもので、他のものに変えたいと全く思わない。
感謝する事は、つまり神を認める事だ。その時、神は自由に働く事がおできになる。
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他のものに変えたくない自分であったり、環境だと感謝しているだろうか。
人がどう見るかで生きる者から、神様が下さったポジションを感謝していく者へと変えられたい。


今日の聖人の記念日

2016年07月31日 12時58分38秒 | キリスト教

聖イグナチオ(ロヨラ)司祭

1491年ごろ-1556年

 イグナチオは、スペインのバスク地方の貴族ロヨラ家に生まれ、幼いころから騎士道精神を身に付け、名誉を求めることを価値としていた。1521年、戦場で負傷し、病床にあったイグナチオは、キリスト伝や聖人伝を読んで感銘を受けた。そしてすべてを捨ててキリストに従う決心をし、マンレサに退いて、祈りと苦行に専心した。このときの霊的体験が、有名な著書「霊操」を生みだした。それから、ローマとエルサレムに行き、ヨーロッパに戻りパリ大学で勉強をした。学友の中から6人の同志を集め、パリのモンマルトル聖堂で、「より大いなる神の栄光のために」、また「すべての人のために」働くことを誓って、「イエズス会」を創立した(1540年に正式に認可)。そのなかには、日本の最初の宣教師であるフランシスコ・ザビエルもいた。

 現在会員は、世界各地で、教育など多くの分野で活躍している。日本では、東京の上智大学をはじめ、鎌倉市、神戸市、広島市、福岡市などでの教育事業や、黙想指導、教会司牧、社会正義など、社会の中で人々の必要のために働いている。


◆人の計画・神の計画

2016年07月31日 12時57分21秒 | 聖書

人の心には多くの計画がある。
しかし主のはかりごとだけが成る。(箴言一九21)
 
ナポレオンは、実にちみつな計画を立てた人だったそうです。ワーテルローの戦いに臨んだ時も、一点の非の打ち所もないプランを立てていました。しかし、その日に朝から降った大雨のために、十二分に立てられたそのはかりごとは、ついえ去りました。ナポレオンとその軍隊は敗れ、ついに、その敗北から立ちあがれなくなったそうです。人が、人の力によって人のために立てる計画とは、そんなものではないでしょうか。むなしいものです。
しかし、「人は心に自分の道を思い巡らす。しかし、その人の歩みを確かなものにするのは主である」(箴言一六9)と聖書は言います。どうせなるようにしかならないんだ、そんなやけのやんぱちからは、何の祝福もよいことも出てきません。どうすれば、主から祝福を受けることができるでしょうか。
第一に、自分の考え・願い・計画を祈りの中で神の前に持ち出し、神に相談してみることです。神に正し、力づけていただくのです。
第二に、「だれでも、思うべき限度を越えて思い上がってはいけません。……信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい」(ローマ一二3)とパウロが述べたすすめに従うことです。
第三に、「神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださるのです」(ピリピ二13)とあるように、神に与えられた志を働かせそれを実践していくことです。神は私たちに、その時々にその力をも与えてくださいます。いいえ、成し遂げてもくださるというのです(ヘブル一三21参照)。
これが、祝福を受ける理想的な姿ではないでしょうか。
 
 

◆わたしは彼らにおり……。

2016年07月31日 12時56分26秒 | 聖書
(ヨハネ一七・二三)
 
このみことばのように、私たちのたましいと主のご人格が結合しているならば、私たちの霊の交わりの水路はなんと深く広いことであろう。これは糸のような流れが曲がりくねって通る狭い鉄管ではない。驚くほどの深さと幅をもつ水路であり、それに沿って豊かな水がとうとうと流れている。
見よ。私たちの前に主は門を開いてくださる。ためらうことなく入ろうではないか。この霊の交わりの都にはたくさんの真珠の門がある。それはそれぞれ一つの真珠によって造られ、各々の門は私たちを歓迎し、私たちが入ることができるように最大限に開かれている。仮に、ただ一つののぞき穴があり、それを通してイエスと会話をもつことができるとしても身に余る光栄であるのに、まして、このような大きな門から大手を振って入れるとは、なんという祝福であろう。仮に、イエスが私たちをはるかに離れ、あらしの海がその間に横たわっていたとしても、私たちは使いを送って自分たちの愛を主に伝えたいと願い、御父の家からの便りを得ようとするであろう。
しかし、主の心づくしを見よ。主は私たちの隣に家を建てられた。否、主は私たちと同居し、あわれな、卑しい心とともに宿ってくださり、私たちと永遠に親しく語ろうとしておられる。
ああ、もし私たちが不断に主と親しくお交わりしようとしないならば、なんと私たちは愚かであろうか。友人同士が遠く離れており、しかも道が危うく困難であれば、互いに会うことの少ないのは当然である。しかし同じ屋根の下に住んでいて、ヨナタンがダビデを忘れることがあろうか。
主にある友よ。なぜ主のぶどう酒のうたげにつらならないのか。あなたの主を求めよ。主はあなたの近くにおられるから。主を抱きしめよ。主はあなたの兄であられるから。主にすがれ。主はあなたの夫であられるから。主をあなたの心に押しつけよ。主はあなたの骨肉であられるから。
 
 

エステル記1章10-12節

2016年07月31日 12時54分53秒 | 聖書


1:11 王妃ワシュティに王冠をかぶらせ、彼女を王の前に連れて来るようにと言った。それは、彼女の容姿が美しかったので、その美しさを民と首長たちに見せるためであった。
1:12 しかし、王妃ワシュティが宦官か
ら伝えられた王の命令を拒んで来ようとしなかったので、王は非常に怒り、その憤りが彼のうちで燃え立った。



 アハシュエロス王には、ワシュテイという王妃がいました。

その彼女も、訪れてきた客人の夫人たちを接待するために、祝宴を催していました。

初めの事件が起こったのは、この時です。

 王は酒に酔った時、自分が自慢したい人を客人に見せたくなりました。

それは王妃でした。

彼女は大変美しかったようです。

そこで王は彼女を客人たちに見せ、その美しさを自慢したいために、彼女に王冠をかぶらせて更に美しく見せることにして、彼女を宴会の席に呼んでくるように命じたのです。

ところが、王妃はそれを断りました。

自分も宴会で忙しく、王の宴会に行くどころではなかったからです。

王は激しく怒りました。


第一テサロニケ5章6節

2016年07月31日 12時51分26秒 | 聖書


★ですから、ほかの人々のように眠っていないで、目をさまし、慎み深くしていましょう。

■O:今日のコラム
おはようございます!7月30日(土)の朝です。

今の時代、暗闇の勢力が今までにないほどに強まっています。私達は、本当に目をさましていなければ暗闇の勢力に飲み込まれてしまいます。
なぜなら、サタンは吠えたける獅子のように、わたしたちを食いつくそうとしているからです。

エノクさんもそのような時代にある中で、目をさまし、主の臨在の中で、主と共に歩み続け、あまりにも親密であったが故に、生きたまま天に引き上げられました。

「エノクは神と共に歩んだ。神が彼を取られたので、彼はいなくなった。」(創世記5:24)

主の臨在の中で過ごす時、私たちは目をさまし、本当の真理を悟ることができます。世の現状に葛藤を覚えていたアサフさんもそうでした。

「私は神の聖所に入り、ついに彼らの最後を悟った。」(詩篇73:17)


私たちがこの終わりの時代において、信仰を守り、主の臨在の中で、目をさまして歩むならば、天の御国にただ入るのではなく、私たちは義の栄冠を受けとることができます。

「私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。今からは、義の栄冠が私のために用意されています。」(第二テモテ4:7~8)

救われている私たちは天の御国に入ることが約束されています。しかし、そこで満足したくはありません。この時代において、主の臨在の中で主と出会い続け、天の御国において、永遠の実を結び、義の栄冠を受け取りたいと願います。

そのためには、一日たりとも無駄な時間はありません。周りの状況に目を向けるのではなく、主だけに集中していきましょう!
エノクさんのように毎日主との親密さの関係に入り、目をさまし、天の御国での豊かな永遠の実、義の栄冠を勝ち取っていきましょう!

そして、天に引き上げられる時、ただ、私は役に立たないしもべで、なすべきことをしただけですと主に言いたいです!

■A:考えてみよう

毎日の様々な葛藤の中で、主の血の注ぎかけを受けて、まことの聖所に入り、主との親密さの中で、目をさましていましょう。
「こういうわけですから、兄弟たち。私たちはイエスの血によって、大胆にまことの聖所に入ることができるのです。」(ヘブル10:19)



■P:祈り




イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。


7月30日(土)のつぶやき

2016年07月31日 01時35分50秒 | キリスト教

◆わたしのところに来る者を、

2016年07月30日 15時13分31秒 | 聖書
わたしは決して捨てません。(ヨハネ六・三七)
 
この御約束には期限がない。単に「罪人が初めてわたしのところに来る時、これを捨てない」とあるのでなく、「決して捨てない」とある。このことばの原語は「わたしはしない、捨てはしない」、「わたしは決して捨てない」との意である。この聖句は、主が最初に信者を拒まれないことを意味し、最初にされないことを最後までなさらないことを言っている。
しかし、信者がキリストのみもとに来て後に罪を犯すならば、どうなるのか。「もしだれかが罪を犯したなら、私たちには、御父の御前で弁護してくださる方があります。それは、義なるイエス・キリストです。」信者の信仰が後退すればどうなるのか。「わたしは彼らの背信をいやし、喜んでこれを愛する。わたしの怒りは彼らを離れ去ったからだ。」信者は誘惑に陥るかもしれない。「神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。」
だが信者は、ダビデのように罪に陥るかもしれない。しかし主は、「ヒソプをもって私の罪を除いてきよめてください。そうすれば、私はきよくなりましょう。私を洗ってください。そうすれば、私は雪よりも白くなりましょう」との祈りに答えてくださる。「わたしは……わたしにそむいたすべての咎を赦す。」
主は言われた。「わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。」おお、震えるか弱き者たちよ。あなたはこのみことばに対して何と言うか。これは尊いあわれみではないか。キリストに来た者は、しばらくの間大切にされ、その後顧みられなくなるのではない。主はあなたを受け入れ、花嫁とされ、あなたは永遠に主のものとなる。では、もう恐れを抱く奴隷の霊ではなく、「アバ、父」と呼ぶ子としての霊を受けよ。おお、「決して捨てません」というみことばの中にある深き恵みよ。
 
 

「主よ。いつまでですか。

2016年07月30日 15時12分35秒 | 聖書

あなたは私を永久にお忘れになるのですか」(詩篇13:1)

ダビデは、「いつまでですか」を4回も使って、主に赤裸々な気持ちを訴えている。
いつまでこの苦しみ悲しみが続くのか、いつまだ御顔を隠されるのか、心には一日中悲しみがあり、いつまで思い計っていないといけないのか、いつまで敵は勝ちおごるのか。

自分の気持ちを隠して、きれい事を並べるのではなく、正直な、率直な、自分の気持ちをそのまま告げて祈っている。
詩篇の色々な箇所で、ダビデは苦しみ、怒り、嘆き、悲しみ、理不尽な思いを神にぶつけている。

「あなたがたの心を神の御前に注ぎ出せ」と。
神は我らの避け所であるのだからと。前の祈りは、はなから聞かれない。
祈っても無駄だ。本音を受け止めて下さるお方だ。
本音の私たちそのものを愛していて下さるとは、何というご愛だろう。

ダビデは、いつまでですか!と心の底の思いを率直に、言い表した後、変化が起きた。
「私の心はあなたの救いを喜びます。
私は主に歌を歌います」嘆きと苦しみが、賛美と喜びに変わっている。

神に心の底を率直に正直に言い表し、告げて行く時に、不思議だが心が平安にされる。
状況が変わらなくても、自分の心が変えられて平安を与えられる。

醜い、汚い、ありのままの自分の姿を認める事により、光の中に出される。
光に隅々までくまなく照らされるので、癒され、成長して行く。

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正直な祈りだけが、神のお心に触れる。
誰にも言えない心の思いを、神にそのまま率直に告げよう。
人に言うと、余計ややこしくなる事がある。
まず神に思いの丈を、気持ちを言い表そう。
心に平安が臨み、受け止められているとわかる。


今日の聖人の記念日

2016年07月30日 06時50分06秒 | キリスト教

聖ヨハネ・コルンビニ

1300年ごろ-1367年

 ヨハネ・コルンビニは、イタリアのシエナの貴族の家に生まれた。巨額の富を築いたが、貧しい人々を少しも心にかけなかった。ある日、妻が持っていた「エジプトの聖マリア」の伝記を読んで感銘を受け、今までの自分の態度を深く反省した。彼は、財産を貧しい人に与え、病人を世話し、泊まるところのない旅人に宿を提供するようになった。そしてついにはすべての財産を人々のために与えた。ヨハネの徳は広まり、多くの貴族が彼のもとに集まって指導を求めるようになったので、彼は共同生活を始め、修道会を創立した。会員はいつも人々を訪問するときに「イエス・キリストが賛美されますように!」と祈っており、その会は「イエズアト会」と呼ばれるようになった。

聖ペトロ・クリソロゴ司教教会博士

380年ごろ-451/485年

 聖ペトロ・クリソロゴ(金の言葉の意味)は、380年ごろ、イタリアのラヴェンナ(イモラ誕生ともいわれる)に生まれた。424年~431年の間にラベンナの司教に選ばれた。当時、この古い都は帝政時代の栄光期にあったが、その中で、ペトロ司教は牧者としての任務を忠実に果たし、また、優れた政治家でもあった。福音に基づいて生活へと導く彼の説教は有名で、その多くが今日まで伝わっている。そこには、同時代のアウグスチヌスのような雄弁も、レオ教皇のような神学もみられないが、彼の説得力と実生活に即した教えがあり、また飾り気がなく分かりやすい教えで、ラヴェンナの市民は高く評価していた。ペトロ司教は日ごろからこう言っていた。「民には民の言葉で話さなければならない。」

 ラヴェンナの年代史によると、ペトロ司教は451年から485年の間の7月31日に亡くなった。


◆自分の子をこらしめよ

2016年07月30日 06時49分02秒 | 聖書

望みのあるうちに、自分の子を懲らしめよ。
しかし、殺す気を起こしてはならない。(箴言一九18)
 
「殺す気を起こしてはならない」とは、とんでもないとお感じになるかもしれません。八つ当たり・憎しみ・やけっぱちなどのヒステリー的感情で子どもをこらしめるなといわれているのでしょう。
とにかく、「むちを控える者はその子を憎む者である」(箴言一三24)とも記されているように、子どもは、望みのある幼いうちにこらしめるべきだというのが、一貫した聖書の教えです。ところがこのごろは、子どもをこらしめられない親が、大部分なのではないでしょうか。ある女性が、しみじみとこう言われました。「私の娘は、離婚して帰ってきて、もう口もきかずにふさぎこんでいます。私が甘やかしたのが悪かったと、今になると分かるのです。」
どうして甘やかしてしまい、こらしめられないのかを考えてみました。
第一に、子どもに対する責任を自覚していないことです。神は、資格もない私たちを愛し生かし、親にしてくださいました。親として任命し、こんな資格もない者に、子どもを愛する愛を与えていてくださるのではありませんか。あなたほど、あなたの子どもを叱る責任を負わされている人は、ほかにはいないのです。
第二に、子どもの前でよく思われたいという助平根性があることです。だから、きらわれると思うと、こらしめることができません。
第三に、子どもじみた「かわいそう」という気持ちに押されていることです。そこには、猫かわいがりな自己中心の愛しかありません。手術をしなければ死ぬ時、かわいそうだからやめてと言うでしょうか。センチメンタルなことでは追いつかないのです。
第四に、根本的に何が価値あり、永遠のことかが分かっていないことです。神とか絶対とかが分からないのです。
 
 

◆それに思い当たったとき、

2016年07月30日 06時48分17秒 | 聖書
彼は泣き出した。(マルコ一四・七二)
 
ある人々は、ペテロは一生、主を拒んだことを思うたびに涙が流れて止まらなかった、と考える。そうかもしれない。彼の罪は非常に大きなものであったが、後には恵みが彼の中に完全なわざをなした。この経験は程度の差こそあれ、聖霊によって生まれつきのままの石のような心を取り去られた、すべての贖われた者に共通の経験である。
私はペテロのように、「たとい全部の者がつまずいても、私はつまずきません」と言った尊大な約束を思い起こす。私たちは苦い後悔の思いをもって、自分のことばを追憶する。どのような誓いをなし、それがどうなったかを考える時、私たちは悲しみの涙にくれる。
ペテロは主を拒んだことを思った。自分がそれをした所、そのような極悪な罪を犯させた小さな理由、彼が偽りを証拠立てようとして激しく誓ったこと、彼をこのような罪に追いやったその心の恐るべきかたくなさについて考えた。私たちも自分の罪を思い起こし、その極悪さを考える時、無神経な、かたくなな態度をとり続けられないだろう。私たちは自分の家をボキム(泣く所)とし、主に向かって、罪に対する新たな愛の赦しが与えられるように叫び求めないであろうか。私たちが涙を浮かべずに罪を見ることが決してないように。そのようなことがあるなら、遠からず私たちの舌は地獄の火に焦がされてしまう。
ペテロはまた主の愛に満ちたまなざしを思った。鶏の鳴き声の後に、主は悲しみと愛のまなざしを与えられた。このまなざしは、ペテロにとって一生忘れることのできないものとなった。それは聖霊の注がれない千万の説教よりもはるかに力があった。深く罪を悔いたこの使徒は、自分をもとの位置に回復された救い主の完全な赦しを思い出した時、きっと涙を流したに違いない。しかし私たちは、この上なく愛と善に富んでおられる主のみこころをお痛めしたことを思う時、いくら泣いても泣ききれない気持ちなのである。
主よ。岩のような私の心を打って、水をほとばしらせてください。
 
 

エステル記1章1-9節

2016年07月30日 06時46分57秒 | 聖書


1:2 アハシュエロス王がシュシャンの城で、王座に着いていたころ、
1:3 その治世の第三年に、彼はすべての首長と家臣たちのために宴会を催した。それにはペルシヤとメディヤの有力者、貴族たちおよび諸州の首長たちが出席した。



 エステル記は、イスラエルの民が罪を犯した為に外国の地に捕囚として移され、後に支配者が代わって、ペルシャ支配下で生活をしていた時の事件を扱った書物です。

アハシュエロス王は、紀元前の480年代から460年代に王として君臨した人です。

彼は「ホド」すなわちインドから、「クシュ」すなわちエチオピアまで治めていたと語られていて、広大な王国を形成し、また支配していました。

その権力の強さと大きさを示しているのが、ここでの宴会の状況です。

「シュシャン」の城で催された宴会には、「ペルシヤとメディヤの有力者、貴族たちおよび諸州の首長たちが出席し」、その宴会は180日にも及んだと語られています。

それは豪華絢爛でありました。

こうした時代に事件が起こったのです。


1テサロニケ4章16~18節

2016年07月30日 06時44分53秒 | 聖書


★主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。こういうわけですから、このことばをもって互いに慰め合いなさい。


■O:今日のコラム
初代教会の聖徒達の最も大きな慰めと希望は主イエス・キリストの再臨でした。私達は再臨に対して二つの重要な信仰の姿勢を持つ必要があります。

一つは、たとえ明日再臨が起こるとしても、今日任せられた事を忠実に行うという信仰です。パウロも再臨の啓示をテサロニケの人々に分かち合いながらも、「落ち着いた生活をすることを志し、自分の仕事に身を入れ、自分の手で働きなさい。」(1テサロニケ4:11)と言っています。マルティン・ルターは「明日、主が戻って来られるとしても、私は今日リンゴの苗を植える」と言う言葉を残しています。私達は絶えず再臨に対する信仰を持ちながらも、主にあって10年後、20年後の計画を持ち、毎日任せられた事を忠実に行なっていく必要があるのです。


そして、もう一つの重要な信仰の姿勢が「今日、再臨が起こるかもしれない。」という緊急性を伴って日々準備をする信仰を持つ事です。初代教会の聖徒達は、この姿勢を持って福音を宣べ伝え、聖さを保っていました。

彼らが福音を伝えた目的は教会を大きくメガチャーチにする教会成長の為ではなく、「すべての造られた者に福音を宣べ伝えなさい。」という主イエスの命令を受け、そして地の果てまで福音が届く時、主イエスが再び戻って来られる。という再臨に対する信仰を持って福音を宣べ伝えたのでした。

ローマ書15章でパウロがイスパニア(現在のスペイン)まで福音を宣べ伝えに行く事を計画していると記されています。なぜパウロは当時の世界の中心だったローマに福音が届くだけでは満足出来なかったのでしょうか?それはイスパニアは当時の地図で地の果てと呼ばれる地でした。パウロの切なる願いは、主イエスの再臨の時を早める為に地の果てまで福音を届けたい。というものだったのでしょう。

初代教会の聖徒達が福音を宣べ伝えてから現在まで約2000年が経ち、現在はあらゆる言語への聖書翻訳もどんどんと進み、またインターネットやメディアを通しても急速に全世界に福音が宣べ伝えられています。今は、まさに切迫した再臨を待つ時だと言うことが出来ます。主イエスは必ず戻って来られます。それがいつかは誰にも分かりません。今日か明日か、数年後か数十年後か・・・。私達は再臨の時期について論争するのではなく、パウロはこの再臨の言葉をもって「互いに慰め合いなさい。」と言っています。

全ての悪が裁かれ、真実な神の義が顕される時。苦しみと悲しみは消え去り、私達の目から涙が拭われ、信仰の忍耐に対する報いがもたらされる時。主イエスの再臨の時に、全ての完成がもたらされます。私達はこの恵みに満ちたゴールを日々見続けて、信仰の目をしっかりと覚まして、日々、御霊によって聖くされる事を追い求め、再臨のことばをもって互いに励まし合いましょう。


■A:考えてみよう
1テサロニケ4章を朗読し、再臨に対して準備する信仰を育みましょう。


■P:祈り



イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。