座間コミニティー

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◆もし神が光の中におられるように、

2017年08月31日 16時03分00秒 | 聖書
私たちも光の中を歩んでいるなら……。(Ⅰヨハネ一・七)
私たちはこのような水準に達し得るのだろうか。私たちが「私たちの父」と呼ぶ神に関して、「神は光であって、神のうちには暗いところが少しもない」と記されている。私たちは、この神のように、はっきりと光の中を歩むことができるだろうか。たしかにこれは、私たちの前に置かれた模範である。救い主ご自身がこのように言われたからである。「あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。」私たちは、神の完全にとうてい及ぶことはできないと感じるかもしれない。しかし、それを追求すべきであり、その標準に達するまでは決して満足してはならない。まだ若い芸術家が鉛筆を手にする時、ラファエロやミケランジェロに匹敵することを望めない。しかし、心に高貴な理想をもたないならば、平凡な画家で終わるだろう。
神が光の中におられるように、クリスチャンも光の中を歩めというみことばは、程度ではなく、類似を意味するものと思う。私たちは真に、また心から、正直に光の中にあるが、神と同じ程度に光の中にいることはできない。私は太陽に住むことはできない。それは私の住まいとしては明るすぎる。しかし、私は日光の中を歩くことはできる。そのように私は、本質的に無限に善であられる万軍の主に属している完全な純潔とまことには達し得ないが、主を常に私の目の前に見て、内に住んでくださる聖霊の助けによって、その御姿に似るように努力することはできる。
有名な聖書注解者ジョン・トラップは言った。「私たちは質(クォリティ)において、神が光の中におられるように光の中にいるかもしれない。しかし、神と同程度(イクォリティ)にいるのではない」と。
私たちは神と同じ光をもち、神がその中を歩かれるようにその中を歩くべきである。しかし、聖潔と純粋とにおいて神と程度を同じくすることは、私たちがヨルダンを渡り、いと高き方の完全に入るまで残されなければならない。聖なる交わりと完全な聖めは、光の中を歩くことと結ばれていることを心に留めよ。
 

「イエスは、ご自分では、

2017年08月31日 16時01分59秒 | 聖書

しようとしていることを知っておられたからである」(ヨハネ6:6)

男だけで五千人、女子供を入れると倍もいたかという大勢の人々を前にして、主はピリポを試された。
空腹の人々に「食べる物がない、どうしようか」と。

ピリポはソロバンをはじき、計算した。答えは「ノー・不可能」だった。
アンデレも、あるいは、主は何かして下さると思ったから、何か持っている人を探した。
しかし、こんなに大勢に小さな弁当では、焼け石に水だ。だめだと思う。

大勢の群衆、食べ物が無い、手持ちも無い、このような状況で、主はすでに「しようとしている事」があられた。
これは何と心強い事だろう。

あなたが今、このような状況なら、主はすでに方策を持っておられる。
しようとする事があられる。私たちに方法ではなく、「信仰」を求めておられる。
「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません」主が喜ばれるのは信仰だ。

そして、「小さな」ものを用いて下さる。五つのパンと「小さい」魚を二匹だ。
今、新しい歩みに招かれているか。新しい環境、仕事、奉仕・・自分は小さな者だと思うなら、主はその「小さな」者を用いられる。

「イエスはパンを取り、小さい魚も同じようにして」主の手に握られる時、大きな祝福として、主が用いられる。
人々は満腹する。一番肝心な事は、その「小さな」ものが主の手にあるかどうかだ。 
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主は、小さなものを用いて、何倍もの祝福に変える力を持っておられる。
それを信じているかを問われている。よい思いつきであっても、それが心配事であってもそれを主の手に渡して安んじていよう。 


今日の聖人の記念日

2017年08月31日 06時05分14秒 | キリスト教

聖ライムンド・ノンナート

1204年ごろ-1240年

 ライムンドは、スペインのカタロニアで生まれた。
 母が難産のため亡くなったので、ライムンドは帝王切開で取り出され、そのため「ノンナート」(ラテン語で「生まれそこない」)という名前が与えられた。

 生涯に関する記録はほとんど分からないが、ペトロ・ノラスコが創立したメルセス会の修道会に入ったといわれている。

 北アフリカやスペインで、イスラムの捕虜となっているキリスト教徒の解放のために活動した。
 命を落としそうになったことも度々あったが、ライムンドは彼らを救うために命がけで使命を果たした。

 スペインに戻ったライムンドは、教皇グリゴリオ9世によって枢機卿に任命された。教皇は彼をローマに呼んだが、その旅の途中、カルドナで病に倒れて亡くなった。


◆善  意  の  人

2017年08月31日 06時04分07秒 | 聖書

善意の人は祝福を受ける。
自分のパンを寄るべのない者に与えるから。(箴言二二9)
さて、「善意の人」が登場しましたが、あなたは、どんな人になりたいでしょうか。人に何と言ってもらいたいでしょうか。
ところで、この聖書のことばは「善意の人」を推奨しています。「利口な人」「アイデアマン」「先が見える人」「実力者」「やる気のある人」「ユーモアのある人」「明るい人」「まじめな人」「親切な人」、皆それぞれいいのですが、「善意の人」とはどんな人でしょうか。「善意の人」の直訳は、「目のよい人」です。それは、神のように人を見ることのできる人なのです。
聖書の言う「善意の人」のすばらしい解説が、コリント人への手紙第一、一三章にあると思います。「礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます」(5―7節)。
・ 人の悪を思わない人。
よいほうへよいほうへと善意に解釈し、ひがみっぽくない人です。
・ 人のうわべや過去にこだわらず、差別しないで受け入れる人。
・ 人を信じ期待し忍耐深く待つ人。
つまり、真実の愛のある人ではないでしょうか。そして愛は、惜しみなく与えます。お返しのできない人に与えて、お返しを期待しません。私たちのために、ご自身を十字架の上で与えつくしてくださったイエス・キリストの中に、この愛の完璧な模範を見いだすことができます。
キリストの愛の中にとかされた人こそ、判断力のない愚かなお人よしではなしに、祝福を受ける善意の人になりうるのではないでしょうか。
 

◆わたしの腕に拠り頼む。

2017年08月31日 06時03分06秒 | 聖書
(イザヤ五一・五)
激しい試練に直面して、クリスチャンは地上に何一つ頼るべきものをもたないので、ただ神にのみその身をゆだねることになる。彼の船が真横に傾いて危機に瀕し、人の助けが全く及ばなくなった時、彼は単純かつ全面的に、自分を神の摂理と守りにゆだねなければならない。人をこのように岩に打ちあてて難破させるあらしは、実は喜ばしいものである。たましいを神に追いやり、神にのみ吹きつける烈風は幸いである。時に私たちは、友人が多すぎるために神に行かないことがある。しかし、貧しく、友もなく、無力で、どちらを向いても身の置き場がないならば、御父のもとに駆けて行き、その幸いな腕により頼むのである。切迫した特別な困難を負い、神のほかにそれを打ち明けることができないならば、かえってそのことを感謝するであろう。なぜなら、そのような時にこそ主について深く学ぶからである。
あらしに悩む信者よ。あなたを御父のもとに追いやる苦難は、幸いな苦難である。今、神のほかに頼るものはない。だから、神にすべての信頼を置くように努めよ。あなたの主を、卑しむべき疑いや恐れによって辱しめるな。信仰に堅く立って、神に栄光を帰せよ。
あなたにとって神がこの世界を千万集めたほどの価値があることを、世に向かって示せ。主なる神があなたの助け手であられる時、あなたは貧困の中にあっても富める者であることを、世の富める者に示せ。あなたの下に永遠の腕がある時、自分が弱い時にこそ強いことを、世の強い者に向かって示せ。強くかつ雄々しくあれ。そうすればあなたの主である神は、天地を創造されたように確実に、あなたの弱さのうちにご自身の栄光を現し、あなたの患難のうちにご自身の力を示される。もし青空が目に見える一本の柱で支えられていたら、天の荘厳さは損なわれるであろう。あなたの信仰もまた、もし肉眼で見えるものに頼っていたなら、その栄光を失うのである。
この月の最後の日に、どうか聖霊があなたに、イエスにある安息を与えてくださいますように。
 

詩篇59篇10-13節

2017年08月31日 06時01分29秒 | 聖書


59:13 激しい憤りをもって滅ぼし尽くしてください。滅ぼし尽くして、彼らをなくしてください。そうして、神が地の果て果てまでもヤコブを治められることを、彼らが知るようにしてください。


ダビデは激しい憤りの思いを持って、主へ願いを告げています。

悪しき者を滅ぼし、また滅ぼし尽くしてくださいというのです。

彼はそれほどまでに苦しめられ、また痛めつけられてきた、その心の苦しみを告げています。

人は他人に騙されたり、不正なことをされると怒り、その人々に復讐をしようと考えることがあります。

実際に、そのようなことをしてしまう人もいます。

では、ダビデも今、そのように祈っているのでしょうか。

そうではありません。

彼は苦しめられ、また痛めつけられました。

しかも、自分が彼らに不正をしたからでもありません。

彼は不正に、苦しめられたのです。

しかし彼は、自分で復讐するとは言いません。

主に委ねたのです。

主は「復讐はわたしのすることである。」と言われます。

正しい判断は、主のみが出来るのです。

だから、主に委ねるのです。


歴代誌第二29章3節

2017年08月31日 05時57分58秒 | 聖書


★彼はその治世の第一年の第一の月に主の宮の戸を開き、これらを修理した。


■O:今日のコラム
ヒゼキヤ王は、ダビデの基準に生きた素晴らしい王でした。ダビデがその治世の最初に、主の臨在の象徴である契約の箱を取り返したように、ヒゼキヤ王は、その治世の最初に主の臨在の象徴である神殿を回復したのです。

私たちの一日の始まりも主ご自身を求めることから始めると良いのです。目が覚めて、まず思う存分スマホをチェックして、メールやLINEを確認することから一日を始める方もおられると思います(私もたまにやってしまいます)。

しかし、主は、「まず神の国を求めなさい」と言っておられます。一日の初めに主を求めることは良いことであると信じます。朝というヘブル語は「ボケール」です。それは求めるという意味の言葉「バケール」から派生しています。
 
一日の初めに主を求めましょう!まず朝に、第一に、神の国を求めましょう!初物が聖ければ、すべてが全てが聖いのです。



■A:考えてみよう
朝、起きてからまず最初に、ひれ伏して神に感謝を捧げましょう!私は、一年前に主から示されて以来、これを毎日の習慣としています。
このことを通して、礼拝の心が祝福されることを信じます。また、家に主の臨在と喜びが回復していくことを信じます。



■P:祈り
主よ。今日の一日を感謝します。今日は新しく主が造られた日です。この日を喜び、楽しみます。私を、また家族を守り、支えてください。



イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。


8月30日(水)のつぶやき

2017年08月31日 02時24分56秒 | キリスト教

◆私をいやしてください。

2017年08月30日 16時36分18秒 | 聖書
主よ。そうすれば、私はいえましょう。(エレミヤ一七・一四)
わたしは彼の道を見たが、彼をいやそう。(イザヤ五七・一八)
霊の病をいやすことは、神のみがもっておられる大権である。肉体の病は、人が仲介していやされるかもしれない。しかしその時ですら、薬に効力を与え、人体に病を追い払う力を与えてくださる神をあがめるべきである。霊の病に至っては、偉大ないやし主の手のみがこれをいやす。そして神は、ご自分の独占権としてそれを主張される。「わたしは殺し、また生かす。わたしは傷つけ、またいやす」と。「わたしは主、あなたをいやす者である。」このことばは、人のくちびるからは出すことのできない約束であり、永遠の神の御口からのみ出る。
そのゆえに、詩篇の作者は主に向かって叫んだ。「主よ。私をいやしてください。私の骨は恐れおののいています。」さらにまた「私のたましいをいやしてください。私はあなたに罪を犯したからです。」敬虔な人々が主の御名を賛美する時も、同じように「主は私たちのすべての病をいやす」と言う。人を造られた方は、人を回復させることができる。私たちの性質を造られた方は、それを新しく造り変えることができる。キリストのうちに「神の満ち満ちたご性質が形をとって宿って」いることは、どれほどすばらしい慰めだろうか。
私のたましいよ。おまえの病がどのようなものであっても、この偉大ないやし主はいやすことができる。このいやし主が神であられる以上、その力に限界はない。だから、暗くて理解力がないなら、そのままで来い。弱くなった足、信仰のない手、短気の熱、失望落胆の発作の状態のままで来い。あなたの現在あるままの姿で来ればよい。もう何ものも、神である主イエスから流れ出るいやしの力をさえぎることはできない。汚れた霊のレギオンも、愛する医師の力を認め、決して妨げようとはしなかった。
過去において、主の患者はすべていやされた。これから後もまたそうである。友よ。今夜、主のうちに憩うことを願うなら、あなたもその一人となるであろう。
 

「彼らはまた、憎しみのことばで私を取り囲み・・

2017年08月30日 16時35分25秒 | 聖書

私の愛への報いとして私をなじります。私は祈るばかりです」(詩篇109:3)

ダビデは真実を向けた相手になじられ、愛するに関わらず憎しみで攻撃されるという辛い苦しい経験をした。
サウル王やアブシャロムによる迫害ではないかと言われている。

非常なる苦悩であったろう。愛や誠意、真心は必ず通じると思いたいが、そうでない場合があるという事だ。
その場合はどうすれば良いかを、ダビデを通して学ぶ事ができる。

誠意と愛をもって接して来た人々が、敵対し、攻撃して来る。
邪悪な口と、欺きの口と、偽りの舌をもって、憎しみの言葉で取り囲み、罵り、なじって来る。
苦しい状況だ。まさに、人間の神に対する態度そのものだ。

しかし、神は、神を捨て、神に敵対する者を更に追いかけ、御子まで殺して下さった。
その御子を私達はどう扱ったか。
神の愛すら通じないのであれば、罪人である人間同士の愛が通じなくとも不思議はない。

主は十字架上で、人々の罵りに対してどうされたか。
人々の赦しを御父に祈られた。ダビデも同じだ。
「私は祈るばかりです」。相手に復讐するのでなく、神に心の内のすべてを打ち明け、神に叫び、神に知って頂くことができる。

神に心の内を叫び祈ったダビデは、この後、賛美と感謝へと変えられて行く。
今、もしこのような苦しみの中にいるなら、答えは「私は祈るばかりです」。
神に心の何もかもを打ち明け、聞いて頂こう。平安に変えられる。
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私達の毎日が親しい者の中で平和に暮らせるならラッキーだろか。
けれど理不尽な環境の中でしか祈れない祈りがあり、明確な神からの慰めを見る。
恐いのは人ではなく、試練の中で神に焦点を合わせられない事だ。


今日の聖人の記念日

2017年08月30日 06時47分45秒 | キリスト教

聖フェリクス司祭 聖アダウクト殉教者

3-4世紀

 4世紀、皇帝ディオクレチアヌスのキリスト教迫害が始まったころ、司祭であったフェリクスは信仰を守りとおし、死刑の宣告を受けた。死刑場に連れて行かれる彼の態度は、信仰深く落ち着いており、その姿は傍観していたある男性の心を打った。この男性は「わたしも、この人が信じている神に従っている者です。信仰のためなら命をささげます」と大声で叫び、すぐにローマ兵士から捕えられた。だれもこの人の名を知らず、彼は「アダウクト」(追加された者の意)と呼ばれた。

 2人の殉教者は、オスチア街道のコモディラ墓地に埋葬された。354年に作成された殉教者のリストには、「フェリクスとアダウクト」とだけ記録されていたといわれる。のちに、彼らの墓は作り直された。


◆種まきの人生

2017年08月30日 06時46分34秒 | 聖書

不正を蒔く者はわざわいを刈り取る。
彼の怒りの杖はすたれる。      (箴言二二8)
ここでソロモンは、王座から不正をほしいままにする暴君はその結果、必ずわざわいを刈りとり、その支配の杖はいつか折れてしまうと言っているようです。
しかし、まいたものは刈りとるようになるとは、何という厳粛な事実でしょう。パウロはこう言いました。「神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。自分の肉のために蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊のために蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです」(ガラテヤ六7―8)。
私たちの人生を、種をまいている人生だと考えたことがおありでしょうか。昔ユダヤ地方では、畑に畝などつくらないで、パアッパアッと種をばらまいたそうです。そこで、イエス・キリストは、「まかれた種のうち、道ばたの種は鳥に食われ、岩地に落ちた種は日に照りつけられて生えても枯れ、いばらの中にまかれた種はひょろひょろ伸びるだけで実を結びませんでした。よく耕された土地にまかれた種だけが、三十倍、六十倍、百倍の実を結んだのです」と話されました。
悪の種をまいても、生えないで無事のことがありましょう。しかし、あなどってはなりません。最後には、滅びの刈りとりをきっとどこかでします。善や愛の種をまいても、踏みにじられて生えないことも多いでしょう。しかし、いつかどこかで、愛の花が咲き、その実がみのるのです。私の家のおばあちゃんは、小さな小さな土地を耕して種をまきます。肥料をやり、水をやります。私たちが忘れたころに、私に「初物だよ」と言ってブロッコリーを食べさせ、「咲きましたよ」と言って、かわいい鉢の花を私の机の上に飾ってくれるのです。
何とかして、私たちは愛の種をまく者となりたいものです。
 

◆待ち望め。

2017年08月30日 06時45分57秒 | 聖書
主を。(詩篇二七・一四)
待つということはたやすいようであるが、キリストの兵士にとってはきわめて困難なことである。神の戦士には、じっと立ち止まっているよりは、前進や強行軍のほうがほるかにたやすいのである。
熱心に主に仕えようと願うたましいが途方にくれることがある。そのような時にはどうしたらよいか。気落ちしていらだつのか。後ろに逃げ出すのか。単なる推定から、前に突進するのか。否、ただ待つのである。しかし祈りつつ待つのである。神を呼び求め、事の詳細を神の前に広げよ。直面する困難を神に語り、私たちを助けられるとの約束のみことばを握って求めよ。
二つの義務の間にはさまれた時、幼子のように謙遜になり、単純な心で主を待ち望むのは、実に麗しい。私たちが自分の愚かさを知り、みこころのままに導かれることを願うのは、たしかによいことである。
そして信仰をもって待て。あなたの神に対する揺るがない確信を表明せよ。信仰なくして、また信頼なくして待つのは、主を侮ることである。たとえあなたが真夜中まで待って、なお主が来られないとしても、主がよいと思われる時必ず来られることを信ぜよ。ビジョンは来るであろう。決して遅れることはない。
静かに忍耐して待て。苦しみの中にあっても神に逆らうことなく、かえってそのために主をあがめよ。イスラエルの民がモーセにつぶやいたように、決してつぶやいてはならない。古い世界に再び戻ることを願うな。与えられた試練をあるがままの姿で受け入れ、自己中心の思いを退け、単純にしかも全き心をもってそれを神の御手にゆだねよ。そしてこう祈れ。「主よ。私の願いではなく、みこころのとおりにしてください。私は進退に窮し、どうしたらよいのかわかりません。ただあなたが洪水を裂き、敵を散らしてくださるのを待ちます。たとえ待つ日が何日であろうとも、私はあなたを待ちます。なぜなら、神様。私の心はあなただけに向けられているからです。あなたこそ私の喜び、私の救い、私の避け所、また私の強いやぐらであるとの確信をもってあなたを待ち望みます」と。