座間コミニティー

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◆正しい者の祝福

2013年03月31日 13時28分23秒 | 聖書

正しい者の頭には祝福があり、
悪者の口は暴虐を隠す。      (箴言一〇6)

暴虐と祝福、何というコントラストでしょう。
自分の運転手を次々と殺して保険金をごまかしていた会社社長の犯罪が、新聞に出ていました。海に連れていき、酒を飲ませて水の中で殺し、事故に見せかけたのです。ブラジルまで逃げて、とうとう警官隊に射殺されました。
暴虐な世相になってきました。自分の子を伸び伸び遊ばせられないような寂しい冷たい世の中です。
しかし私は、あるクリスチャンを知っています。その人は、金持ちでも有名でもありません。小ぢんまりした家に住んでいます。ところが、近所の人は、悩み事があるとこの家を訪ねていきます。この人の前に出ると、何でも打ち明けられるのです。話をよーく聞いてくれます。いけないことは、それはいけないとはっきり言ってくれるけれど、励まして自信を持たせてくれます。相談に来た人は心の重荷がおりて、ほっとして帰っていきます。まわりの人は、この家を尊敬をもって見ています。この家から祝福が流れてくるからです。神がその方の頭に祝福を注ぎかけ、その祝福が流れ出して、ご近所の人々までうるおしています。
神は、あなたを祝福の泉とされたいのです。そのためにイエス・キリストは十字架にかかり、あなたの罪をゆるされました。そのために、イエス・キリストはあなたを造り変えてくださいます。あなたを祝福のもとにし、神の国の仕事のため有用な存在とするために、生まれ変わらせてくださるのです。
「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました」(Ⅱコリント五17)。

 

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◆彼の打ち傷によって、

2013年03月31日 13時26分28秒 | 聖書

私たちはいやされた。(イザヤ五三・五)

ピラトは主を兵士に渡してむち打たせた。当時ローマのむちは最も残酷な拷問に使われた。それは牡牛の皮で作られ、あちこちにとがった骨が入れてあるので、打ち下ろされるたびに、骨の小片が恐ろしい裂傷を与え、肉を骨からむしり取るのであった。救い主はもちろん柱に縛りつけられて、このようにむち打たれたのである。主はその以前にもむちで打たれたことがあった。しかしおそらく、このローマの兵士のものが、一番耐えがたかったであろう。私のたましいよ。ここに立ち、打たれた救い主のおからだのために泣け。
主にあるたましいよ。イエスがあなたの前に苦悶という愛の鏡を立てられる時、あなたは涙なしにイエスを直視することができるだろうか。純潔なゆりよりも美しい主が、ご自身の鮮血のために、ばらよりも赤くなられたのである。イエスがむち打たれたことによって、祝福に満ちたいやしが与えられたことを感じる時、私たちに愛と悲しみが共にわくのではないか。もし私たちが主を愛しているならば、今主の燃えるような愛を感じなければならない。
 見よ。忍耐深い主がいかに立たれるかを
 見よ。主は侮辱の極みを受けられた
 罪人らは全能なる主の御手をしばり
 造り主である主の御顔につばきした
 主の額には深くいばらがくい込み
 傷口より真紅の血がほとばしる
 背に鋭いむちを受けられたが
 そのむちが主の心を引き裂いた
一室に閉じこもって、私たちは泣いていたい。しかし日々の仕事をもっている。それなら、主が血潮を流された御姿が心に深く銘記されるように祈り、夕べには主との交わりのために帰り、私たちの罪が主をお苦しめしたことを思って嘆こう。

 

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申命記25章4節

2013年03月31日 07時00分00秒 | 聖書

25:4 「脱穀をしている牛にくつこを掛けてはならない。」


 脱穀は、収穫を得た時、その麦の穂についている籾を取る時になされます。

まず麦の穂を乾燥させて、次にそれを石臼に入れ、牛にその石臼を回転させることによって脱穀がなされていました。

 ここでは、そのような脱穀の作業をしている時には、その働きをしている牛にくつこを掛けてはならないと命じています。

くつこというのは、牛や馬の口にはめる「かご」のことです。

これをつけることによって、人を咬むというようなことがなされないためです。

 ところが、ここでは脱穀している時には、その働いている牛にくつこを掛けてはならないと命じています。

それは牛のためです。

くつこをかけていると、人を咬まないだけではなく、食べることもできません。

長く働いていれば、おなかも減ることです。

ですから、そうした働きをしている牛にはくつこをはめないで、働きの収穫に与らせなさいと命じているのです。

 パウロは、この所を引用して、主の働き人がその働きによって報酬を得るのは当然である、と語っています。

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◆時を惜しんで働く人

2013年03月30日 09時45分44秒 | 聖書

夏のうちに集める者は思慮深い子であり、
刈り入れ時に眠る者は恥知らずの子である。(箴言一〇5)

長野県のある中学校のPTAで、三年生にアンケートをとりました。それを整理して、PTAの総会で発表しました。「困った時だれに訴えるか」という項目で、約二百人の中学生のほとんどが「父・母・おじ・教師」などと答えた中に、たった一人「神」と書いた中学生がありました。この発表を読みあげた時、出席していた母親たちが思わずドッと笑ったとのことを聞きました。
このことには、私たち日本人の平均的な気持ちが表れていないでしょうか。けっして、悪気があったり軽蔑したから笑ったのではないでしょう。思わず笑ったのです。
しかし思わず笑ったその中には、「神のこと・霊的なこと・永遠のこと」を人生の中・頭の中から押し出そうとしている私たちの生き方が映し出されているのではないでしょうか。ほんとうに困った時に、なぜ私たちは、「神さま」と神の前にひざまずこうとしないのでしょうか。
働き盛りの人生の夏のうちに、健康で働けるうちに、今は見えていないもの、つまり永遠の神の存在を認め、その神のみこころを知ることに努力を傾けないでよいはずはありません。また人生の刈り入れ時を迎え、人生の結論をそろそろ出さなければならないころ、やがて永遠の世界と正面きって対面しなければならないのに、何の用意もせず、眠りこけているのです。
これは大変なことではないでしょうか。「恥知らず」といわれても返すことばがありません。

 

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◆彼が……そむいた人たちとともに数えられたからである。

2013年03月30日 09時43分04秒 | 聖書

(イザヤ五三・一二)

なぜイエスは、自分が罪人とみなされることを忍ばれたのであろうか。この驚くべき謙遜は、多くの有力な理由によって解くことができる。
こうされたため、主は罪人の代弁者となることができた。ある種の裁判で弁護士は被告と同一視され、法律的に二者は分離されない。さて罪人が法廷に引き出される時、イエスはご自身でそこへ出て来られる。主は審問に答えるために立たれる。ご自身の脇腹、両手両足を指さして、ご自分が代わられた罪人のために、正義の糾弾に答えられる。ご自身の流された血をもって抗弁し、自ら罪人となり、完全に弁護の任を果たし、裁判官は「彼を救って、よみの穴に下って行かないようにせよ。わたしは身代金を得た」と宣告する。
私たちの主イエスは、罪人の心をご自分のほうに引きつけるために、背いた人たちとともに数えられた。私たちは、同じリストに載せられている方をどうして恐れることがあろうか。私たちは、はばからず主のもとに行き、自分の罪を告白することができる。私たちとともに数えられている方が、私たちに罪を宣告することはおできにならない。
主が罪人のリストに載せられたのは、私たちが聖徒として登録されるためではなかったか。主は聖く、聖い者の中に名を記され、私たちは罪人であり、罪ある者の中に数えられていた。主はご自分の名前を向こうの聖なる表からこちらの起訴状に移され、一方私たちの名前は、起訴状から取り去られて、受け入れられる者の表に記される。ここでイエスとその民とは、完全に入れ替わるのである。イエスは自らを私たちのあらゆる不幸と罪の状態に置かれ、私たちにはイエスの所有されるすべてのものが与えられる。主は私たちに、主の義、主の血、また他の一切の所有物を持参金として与えられる。主にある友よ。背いた人たちとともに数えられた主とあなたが結合されることを喜べ。また明らかに主にある新しき者の中に数えられることにより、あなたが真実に救われたことを証しせよ。

 

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申命記24章6節

2013年03月29日 08時08分27秒 | 聖書

24:6 「ひき臼、あるいは、その上石を質に取ってはならない。いのちそのものを質に取ることになるからである。」


貸借をする時に、同族から利息を取るということは、律法により禁じられていました。

しかし、質を取るということは、禁じられてはいませんでした。

これは、問題が収まれば、利子を取らずに、そのものが返還されるからです。 

しかし質を取る場合にも、ここでは制限を設けています。

それは石臼、あるいはその石臼の上石を、質に取ってはならないというのです。

石臼はパンを作る時の、生活の必需品でした。

値段も決して安価なものではありませんでした。

従って、それを取ってしまいますと、日々の生活に困難をきたします。

ですからそれを取るなと言われたのです。

 現代では、生活の最低保障という考え方が定着しています。

最低でも人々が生活ができるように守ること、それが人としての配慮すべき義務であることを語っています。

神によって造られた人であるからこそ、その人の最低の生活手段は、奪い取ってはならないのです。

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申命記24章5節

2013年03月29日 08時06分30秒 | 聖書

24:5 「人が新妻をめとったときは、その者をいくさに出してはならない。これに何の義務をも負わせてはならない。彼は一年の間、自分の家のために自由の身になって、めとった妻を喜ばせなければならない。」


新婚に関する規定です。

新婚は、両方共に喜びに満ちているものです。

楽しい限りです。

しかし、戦いに出るということは命がけのことでして、死んでしまう可能性もあります。

ですから、この新婚の喜びを妨害することを防ぐために、一年間は兵役に出なくても良いと命じています。

その結婚を喜び、感謝をするためです。

ここを見ますと、この1年の間、夫は、「自分の家のために自由の身になって、めとった妻を喜ばせなければならない。」と語られています。

自分の家のためといい、また妻を喜ばせるとは何かといいますと、その間に子供を生んで、彼らの家庭が形成されるためということです。

そうした配慮を与えておられるのです。

 子供が与えられるということは、夫婦にとってうれしいことです。

そのことによって良い家庭が築かれ、国もまた安定します。

その配慮がここでなされているのです。

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◆怠 惰 と 勤 勉

2013年03月29日 07時52分45秒 | 聖書

無精者の手は人を貧乏にし、
勤勉な者の手は人を富ます。     (箴言一〇4)

無精者が寄り集まって相談しました。「おい、みんなで無精会ってのつくろうか。」「よせよ。面倒くさい。」こんな無精者が目立って落語の材料になるくらい、日本人は勤勉ではないでしょうか。私たちが自分は無精だと思っていても、外国人から見ると日本人は勤勉で働きすぎると言われています。
「わたしゃ、このマージャンをやるために、昼間は会社で働いているんですよ」という人にも会いました。これもどうかと思います。けれども一般に、日本人の勤勉はただがむしゃらに勤勉のための勤勉となっていませんか。つまり、ほんとうに生きがいを感じ、使命感に躍動しつつ、喜んで一生懸命働いているのかというと、そうではないらしいのです。
厚生省の統計情報部がまとめた一九七八年の数字によると、働き盛りの四十代五十代の人の自殺率が、もはや二十代の自殺率を追い抜いています。今まで日本では、老人の自殺に次いで二十代の自殺が多く、働き盛りは少ないといわれていたのに、ショッキングです。「悩み多き四十代」と新聞には見出しが出ていましたが、人生の目的がはっきりしていなければ、働く喜びも生きがいもあるはずはありません。
ある牧師はこう言いました。「こんにゃくだって、一本くしを通せばシャンとする。日本人に必要なのは、精神的バックボーンである。」神を知り愛を知り、神のため人のために汗を流し涙を流すという一本筋の通った勤勉な人生は、豊かな人生を生み出すのです。
「わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです」(ヨハネ一〇10)。

 

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◆キリストは御子であられるのに、

2013年03月29日 07時50分46秒 | 聖書

お受けになった多くの苦しみによって従順を学び……。(ヘブル五・八)

私たちの救い主イエスでさえ、苦難によって完全になられたと言われている。したがって、完全にほど遠く、罪深い私たちが、苦難を通るように命ぜられたとしても驚いてはならない。かしらである方がいばらの冠をかぶらせられたのに、そのからだの肢体が安逸をむさぼっていてよいのだろうか。キリストがご自身の血の海を渡って冠を得られたのに、私たちは銀のスリッパをはいて、足をぬらさずに天国へ歩いて行くのだろうか。否! 主のご経験は、私たちに苦難が必要であることを教え、真に新生した神の子どもがそれを逃れたり、逃れようと欲してはならないことを教える。
しかしキリストが「苦しみによって従順を学び、完全な者とされた」との事実の中に、一つの非常に慰めとなる思想がある。それは、主が私たちに対して全き同情をもたれるということである。このキリストの同情が私たちを支える力となる。昔、ある殉教者はこう言った。「私はこの苦難のすべてに耐えることができる。それはイエスが苦しまれたからであり、今も私の中にあって苦しんでおられるからである。主は私に同情してくださる。それで私は心強い」と。主にある友よ。苦しみの時いつもこのことばを思い出せ。
あなたが主の足跡に従う時、主を思い、自らの心を引き立てよ。主のご同情の中に麗しい心の支えを見いだせ。そして苦しみは名誉であり、キリストのための苦しみは栄光であることを深く覚えよ。使徒たちは、御名のために辱しめられるに値する者とされたことを喜んだ。キリストのために苦しみ、キリストと共に苦しむ恵みを与えられるのに応じて、主は私たちに栄誉をも与えられる。クリスチャンの宝石はその苦難である。神の油注がれた王たちの位を証明するものは、彼らの困難と苦悩と悲哀である。だから、この名誉が与えられる時にそれを避けず、抜擢されるのに顔を背けることのないようにしようではないか。悲しみは私たちを高め、困難は私たちを引き上げる。「もし耐え忍んでいるなら、彼とともに治めるようになる。」

 

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申命記24章1-4節

2013年03月28日 07時15分40秒 | 聖書

24:4 「彼女を出した最初の夫は、その女を再び自分の妻としてめとることはできない。彼女は汚されているからである。これは、主の前に忌みきらうべきことである。あなたの神、主が相続地としてあなたに与えようとしておられる地に、罪をもたらしてはならない。」


離婚について語っています。

離婚は、男性が離縁状を出せば勝手に離婚ができるというようなことを、ここで語っているのではありません。

離婚の原因として、何か男性にとって不都合なことがあった時と言われています。

つまり、不品行などがあった時のことでしょう。

 離婚の時には、離縁状を渡せというのです。

と言うのは、離縁状がないと女性は再婚ができないからです。

つまり、再婚すれば、姦淫罪になってしまうからです。

また、自分が離縁した女性に再び復縁を望むといって、その女性を自分の所に入れることも禁じられています。

それはその女性が、再婚の相手と一度結ばれたことによって、彼にとっては汚れた関係になっているからです。

ですから、その人も主の前に汚れに染まった人とならないために、元の女性との再婚を禁じているのです。

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申命記23章24-25節

2013年03月28日 07時14分13秒 | 聖書

23:25 「隣人の麦畑の中に入ったとき、あなたは穂を手で摘んでもよい。しかし、隣人の麦畑でかまを使ってはならない。」


 落ち穂拾いということがあります。

ミレーの絵が有名ですが、聖書ではルツのことがよく知られています。

他人の畑に入って、そこに落ちている穂を拾って集めたのです。

こうした行為を、主は認めていました。

そして農家の人に、自分の畑の落ち穂は、自分たちで拾ってはならないと命じていたのです。

貧しい人達のために取らせなさいと命じたのです。

これは、ぶどうも同じでした。

24節では、貧しい人々は、かごを持って取ってはならないが、食べても良いと言われたのです。

 主は、主の御心として、貧しい人々に配慮することによって、公平にまた平和に生きることができるように、豊かな人々に助け合うというあり方を求めたのです。

 なぜかと言いますと、豊かな人が収穫に預かることができたのも、それは主の恵みによっていたからです。

その主の恵みに感謝して、貧しい人々に配慮をすることは、神様の恵みに対する感謝の表れであったからです。


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◆正しい者を飢えさせない

2013年03月28日 07時11分04秒 | 聖書

主は正しい者を飢えさせない。
しかし悪者の願いを突き放す。    (箴言一〇3)

日本人は、「飢える」ことを忘れてしまいました。私たちのまわりには、あり余るほど食べ物があるようです。しかし今でも世界人口の三分の一は飢えています。三分の一は十分食べられないで、おなかをすかしたまま寝るのです。残りの三分の一だけが、十分食べているそうです。
今の日本人の多くは、食べ物には飢えていません。しかし、この富める社会にも飢えがあると思います。それは、人と人との間の心のぬくもり・愛情の飢きんです。教育は十分、お金はどっさり、着る物は流行の先端をいっていたとしても、この飢えは解決されません。
この飢えは、神の愛を知ることによって満たされます。十字架にかかってくださったイエス・キリストの愛を受け、自分も他人に与える喜びを知った時、この飢えは初めて解決するのです。人間関係も変わってきます。神を知り神の愛を心に住まわせる人に、一人として飢える人はないのです。
パウロはこのことをあかしして、「私の神は、キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます」(ピリピ四19)と言いました。
神の愛を知らず、知ろうとせず、自分の能力や自分の魅力だけでやっていこうとする自信家は、やがて突き放されてしまいます。

 

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◆人知をはるかに越えたキリストの愛……。

2013年03月28日 07時08分48秒 | 聖書

(エペソ三・一九)

キリストの愛の麗しさ、その満たし、その偉大さ、真実さは、人間の知り尽くし得ないものである。人の子に対するそのたぐいない愛を語ることばがどこにあろうか。それは全く広く大きいので、つばめが水面をかすめて飛ぶように、すべての人のことばは表面に触れるだけであり、測り知れない深さは、依然としてその下に横たわっている。
「おお愛よ。あなたは測ることのできない深淵だ」と詩人が歌ったのは、まさに真実である。なぜなら、このキリストの愛は測り得ないものであり、だれであっても、その深奥を極めることはできないからである。
イエスの愛について正しい概念をもつために、私たちがまず知らなければならないことは、主の初めの崇高な栄光の高さと、受肉された恥辱の深さである。しかしだれが私たちに、キリストの栄光の崇高さを語ることができようか。主がいと高き天上の王座におられた時は、主の主、神の神であられた。もろもろの天とそこにある万軍とは主の造られたもので、全能の御手は天体を支え、ケルビムとセラフィムの賛美の歌は絶えず主を囲み、全宇宙のハレルヤコーラスは、その王座にみなぎっていた。主はすべての被造物を統べ治め、万有の神として永遠にほめられるべき方であられた。いったいだれがその栄光の高さを語り得ようか。
また一方、主がいかにへりくだられたかを語ることができようか。ただ人になられたということと、悲しみの人になられたということとの間には、非常に隔たりがある。神の子であられた主が血を流し、死に、そして苦しまれたのである。そのご苦難は無比であり、恥辱の死を遂げられ、父なる神に捨てられなさったのである。これこそ、いかに深い霊感を与えられた人もうかがい得ない、愛によるへりくだりの深奥である。
ここに愛がある! その愛は、「人知をはるかに越えた」ものである。ああ、この愛により、私たちの心を賛美と感謝に満たし、その愛の力を現実に現すものとしてください。

 

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◆財宝も役立たず

2013年03月27日 09時25分40秒 | 聖書

不義によって得た財宝は役に立たない。
しかし正義は人を死から救い出す。(箴言一〇2)

何年か前に北海道で、自分にかけた三千万円の保険金をだましとるために、駅で寝とまりしていた七十八歳の老人を身代わりにしたてて殺し、警察につかまった六十歳の男がいました。その記事を読んで、ひどい! 残酷だ! と思いました。それと共に、まさに「不義によって得た財宝は役に立たない」と感じたのです。
こんな残虐な犯罪は、めったにないことでしょう。しかし私たちに、「神を恐れる」「神のきよさを尊ぶ」気持ちがないならば、この犯人の心にあったと同じようなうそやごまかしが、心の中や生活の中に去来するでしょう。「『清く正しく』、そんなきれい事を言っていたのではこの世の中は渡れない。困った時の神だのみで、神さまにもたのみたいけど、神さまにうそやごまかしはだめと言われたのでは困る。」――こんな気持ちで、求道心までごまかしている人もたくさんいるのではないでしょうか。
しかし、そんな心配は不要です。イエス・キリストのまわりに集まった人たちをごらんなさい。みんな、困っていた人や苦しんでいた人でした。だから、イエスのもとに集まってきたのです。イエスは、彼ら一人一人を受け入れてくださいました。一人一人は、もう忘れることのできない魂のどん底からの助けを受け、救われたのです。そして、うそやごまかしの必要でない新しい生活が始まりました。
今、悩み苦しんでいる方がいますか。思いきって神のもとに来て、素直な心で、飛びこんでみていただきたいのです。天地を造り、私たち一人一人を造り、私たちの心を造られた神に、甘えてたよってみることをおすすめします。神は、けっして悪いようにはなさいません。すべてがここから始まるのです。

 

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◆そのとき、弟子たちはみな、

2013年03月27日 09時23分32秒 | 聖書

イエスを見捨てて、逃げてしまった。(マタイ二六・五六)

主は決して弟子たちを見捨てられなかった。しかし弟子たちは、命惜しさに、主のご苦難が始まる前に臆病にも主を捨てて逃げ出した。このことは私たちに貴重な教訓を与える。すなわち、すべての信者が、もし気ままに行くならばいかに弱い者であるかを示している。すべての信者は羊にすぎない。狼が来れば彼らは逃げる。弟子たちはあらかじめこの危険を警告されており、主を捨てるよりはむしろ死を選ぶと誓っていた。しかし、彼らはあわてふためいて逃げ去った。
これは人ごとではない。今朝私は、主のためにどのような試練にも耐え、絶対忠実に仕えようと決心する。しかし心して行かなければ、使徒たちと同様、不信仰に陥り、主を見捨てるかもしれない。約束と実行とは別である。彼らがイエスのかたわらに雄々しく立ち得たならば、彼らにとって永遠の名誉であったろう。しかし彼らはその名誉から逃げ出した。私を彼らのようにならせないでください! 十二軍団よりも多くの御使いをただちに集めることのできる主の近くにいる以外に、安全な場所があるだろうか。しかし彼らはその場所から逃げ出した。神よ。私もまたこのような愚行をすることのないように守ってください。
神の恵みは臆病者を勇者とすることができる。くすぶる燈心でも、主のみこころならば祭壇の炎となって燃え上がる。うさぎのように臆病であった使徒たちも、聖霊が下ってからは獅子のように大胆になった。このように聖霊は、私の背信のたましいを変えて、勇敢に主を告白させ、その真理の証人とされるのである。
主は親しい者たちの不信仰を見て、どれほど苦しまれたことであろう。これは主の杯によどむ苦味であった。しかし主はそれを飲みほされた。私はその中に、さらに一滴を加えないようにしたい。もし私が主を捨てるならば、再び主を十字架につけ、公然と主を辱しめるのである。聖霊なる神様。どうか、このような恥ずべき結果に終わることのないように、私を守ってください。

 

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