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7月29日(土)のつぶやき

2017年07月30日 01時23分18秒 | キリスト教

◆父がわたしにお与えになる者はみな、

2017年07月29日 15時32分10秒 | 聖書
わたしのところに来ます。(ヨハネ六・三七)
この宣言のみことばは、選びの教理を含む。父なる神がある人々をキリストに与えられるのである。それは、「有効召命」の教理を含む。与えられた人々は必ず来なければならず、また事実来るのである。彼らがいかに頑強に抵抗しても、暗やみの中から神の驚くべき光の中に導かれる。それは私たちに、信仰が欠くことのできないものであることを教える。キリストに与えられた人といっても、イエスに来るのでなければ救われないからである。キリスト・イエスという門を通る以外に、天国への道はない。父なる神が私たちの贖い主に与えられた者は、すべてそのみもとに来なければならない。したがって、キリストに来なければ、だれも天国に入ることはできない。
おお、この「来ます」ということばの含む力と尊厳よ。主は、彼らが来る力をもっているとも、来ることを欲するなら来ることができるとも言っておられない。「来ます」と言われる。主イエスはそのための使者であられる。みことばと御霊により、人々を穏やかに優しく、来ないではおられないようにさせて、婚礼の晩餐を食べさせてくださる。そしてこのことを、主は人間の自由意志を妨げることなく、恵みの力によってなさる。ある人の意志を私が支配しても、その人の意志は完全に自由であることがある。その時は強制が人間の心の法則に従って働くからである。イエスはこのことをご存じで、反抗できない議論をもって理解力に訴え、力強い理由をもって情に訴え、たましいのすべての力と情の上に不思議な聖霊の力を及ばせて、人を全く征服される。かつて反抗していた人も、愛によって征服されて、喜んで主のご支配に従うようになる。
しかし、神に選ばれた人であることをどのようにして知ることができよう。それは結果によって知ることができる。彼らが喜んでキリストを受け入れ、単純な偽りのない信仰をもってみもとに来て、救いのすべて、願いのすべてとして、主に憩うことによって。友よ。あなたはこのようにイエスのみもとに来た。
 

「しかし、みこころは一つである。だれがそれを翻すことができようか。

2017年07月29日 15時31分23秒 | 聖書


神はみこころの欲するところを行われる」(ヨブ23:13)

ヨブは、10人の子供たちを失い、家財や家畜、しもべたち、すべての財産を失った。
次にヨブ自身も、全身を悪性の腫物でおおわれ、非常なる苦しみに会った。

しかし、ヨブは、神がご自身が欲する事だけをされ、誰もそれを翻すことができないと信じていた。
神の欲するところは、しばしば私たちの思うところと大きく異なる。

ある時は理解できない事もあるし、納得が行かない事もある。
神は、私たちがたとえ理解できなくても、納得できなくても、従って行く者と訓練されるために、理解を越えた事態を起こされる。

「前へ進んでも、神はおられず、後ろに行っても神を認める事ができない」右に行っても、左に行っても神がおられないと。
余りにも深い試練の中で、時に、どうしてこんな事がと、神がおられるのだろうかと、思ってしまう。

そのような状況の中で、「神は最善をされる」「神にはご計画がある」と信じて、従って行く者と変えられて行く。
疑いや不安、恐れや思い煩いに襲われる。サタンからの火矢が飛び交う。

「しかし、神は、私の行く道を知っておられる」と信じることができる。
神のみこころは一つであり、神のみこころだけが成る。自分の思い通りにならない時、願いと相反する時こそ、信仰が試され、練られ、成長へと導かれる時だ。

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信仰人生で自分の思い通りでない状況にぶつかる。この時こそが信仰の試しだ。
願望通りであり、自分に都合良ければ幾らでも従える。
しかし思い通りでない時こそ、自分の利得のためでなく、神が神であられるゆえに従って行ける恵みの時だ。


「あなたの道を主にゆだねよ。

2017年07月29日 11時03分06秒 | 聖書

主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる」(詩編37:5)

ある人が、留学を祈り、神の導きを信じて、海外に出た。
最初は順調に行っていたが、様々な不意の出費があり、1年の終わる頃、貯えが底をついてしまった。
必要のために祈り続けた。
幾ら祈っても、道が開かれず、奨学金の道も閉ざされた。

「導きを信じて来たのに、どうして?どうか与えて下さい」と、尚も祈り続けたが、すべての道は閉ざされていた。
なぜ?どうして?イライラし、焦る心が湧き上がる。
しかし、状況を思い巡らし、これだけ祈っても、期日になっても与えられなかったので、これが神のご意志と受け入れる事を決心した。

「自分はもっと学びたかったが、この事を神の御心と受け止め、帰国します」と祈った。
すると、イライラして、思い煩いで一杯であった心に、すうーっと平安が臨んだ。
平安で心が満たされた。喜びが来て、心から主に感謝した。

すると直後に、現地の知人からバイトの依頼が来て、とにかく請求書の必要経費がすべて支払えた。
そうこうしていると、全く無理と、はなから諦めていた、別口の奨学金が下りたとの連絡が来た。驚いて感謝した。

結果的には、願っていた通りの必要な学びを終えて、帰国できた。
教えられた事は、御心を自分の力で行ない、御心なのだからと、自分で押し進め、成し遂げなければと、必死になっていた事だった。

心に平安は全く無く、焦りと、思い煩いで一杯だった。
主は、そんな自分自身を明け渡す事を、望まれた。
そして委ねた時に、全き平安が来て、すべての必要が満たされた。
あなたも今必要な事は、委ねることだろうか。
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早く解決して、早く安心したい。
神様、神様と祈りながらも祈りの答えは自分で決めていないだろうか。
主にゆだねよう。右でも左でも主にお任せする時、解決は今見えなくても心は守られる。




今日の聖人の記念日

2017年07月29日 10時59分53秒 | キリスト教

 聖マルタ

1世紀

 イエスの時代に、エルサレムの近くのベタニアに、兄弟であるマリアとラザロとともに住んでいた。彼女は、敬虔な生活を送っていた。聖書に「イエスはマルタとマリアと、ラザロを愛していた」(ヨハネ11.5)とあり、ラザロが死んだとき、マルタはイエスのもとに使いを送って、イエスへの信仰と信頼を表し、ラザロを生き返らせてもらった。その後もマルタはマリアとともにイエスに従った。


◆借り手・貸し手

2017年07月29日 10時58分54秒 | 聖書

寄るべのない者に施しをするのは、
主に貸すことだ。
主がその善行に報いてくださる。   (箴言一九17)
韓国のすばらしい牧師で、清らかで力強い生活と働きをしている方が、こう言われたのを忘れることができません。「報いを望まないなんて、人間としてうそっぱちです。私は、やがて神さまからたくさんほめていただきたい、輝かしい冠をもらいたいのです。」そういえば使徒パウロも、「私は神から冠をいただく日をめざして一心不乱に走っています」と言いました(ピリピ三14参照)。私たちには、地上の人の報いを求めて生きるか、天の栄光ある神の報いを求めて生きるかの、二つに一つの生き方があるのではないでしょうか。そして私たちの多くは、あまりにも地上の褒賞ばかりを求めすぎるのではありませんか。
イエスは、街角に立ってラッパを吹き、自分の善行をひけらかすようなパリサイ的やり方をきらわれました。かえって、右手がしたことを左手に知らせるなと言い、また、お返しができないような飢えた者や渇いた者に、一かけらのパンや一杯の冷たい水をあげること、それこそ「わたしにしてくれたのだ」と言われました。そして、そのような人が受ける天での栄光に満ちた報いを語られたのです。
リビング・バイブルは、この箇所を「貧しい人を助けるのは神に貸すのだ。神は、すばらしい利息を払ってくださる」(英訳)という意味に訳しました。
寄るべのない人・貧しい人・病める人・困っている人が最後的に苦しんでいるのは、見捨てられた孤独と、愛されず必要とされていない苦しさです。あなたがそんな人の隣人になり、その人をも神は必要で生かしていてくださるのだと、あなたの無言の愛で分からせてあげることこそ、主に、貸しをつくるのです。そして、あなたが受ける天での報いは大きいのです。「あめにたから つめるものは げにもさちなるかな」と、讃美歌は歌います(讃美歌五一三番)。
 

◆しかし私は絶えずあなたとともにいました。

2017年07月29日 10時58分12秒 | 聖書
(詩篇七三・二三)
「しかし」――アサフが神に告白したすべての愚かさと無知にもかかわらず、彼が救われ、受け入れられ、常に神の御前にある恵みを得ていたことは真実であり、確かである。自らの招いた損失と、心の虚偽、下劣さを十分に意識しつつも、なお輝かしい信仰の力により、彼は「しかし私は絶えずあなたとともにいました」と歌った。
主にある友よ。あなたはアサフの告白と感謝に入らなければならない。彼と同じ精神で、「しかし、私はキリストのものであるので、絶えず神とともにいました」と言うように努力しなければならない。
これは次のことを意味する。すなわち、私が常に主のみこころの中にあること――主は常に私のことを思い、私の益を図っておられるということ。次に、常に主の目の前にあること――主の目は決して眠ることなく、いつも私の幸いを見守っておられるということ。そして、何者も私を奪うことができず、絶えず私は主の御手の中にあること。祭司長が不断に十二の部族の名を胸につけていたように、常に主の心に記念として刻み込まれていることである。
おお、神様。あなたは常に、私をみこころに留めてくださっています。あなたの愛の心は絶えず私をあわれんでくださいます。あなたは常にその摂理により私の益を図ってくださいます。私を封印のようにあなたの腕につけてくださいます。
驚くべき恵み! 神様。あなたはキリストの中に私を見られます。そして私は軽蔑すべき者であるのに、私をキリストの衣をまとい、キリストの血で洗われた者として見てくださいます。こうして私は御前に受け入れられて立ちます。このように私は常にあなたの恵みの中にあり、「絶えずあなたとともに」います。
ここに試練と患難の中にあるたましいへの慰めがある。
「しかし」――友よ。このことばを心の中で言え。そしてこのみことばの与える平安を受け入れよ。「しかし私は絶えずあなたとともにいました。」
 

詩篇51篇14-17節

2017年07月29日 10時56分57秒 | 聖書


51:16 たとい私がささげても、まことに、あなたはいけにえを喜ばれません。全焼のいけにえを、望まれません。
51:17 神へのいけにえは、砕かれた霊。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。

自分が罪を自覚して、悔いて、悔いを表すために、自分が動物の犠牲を捧げても、それを主が喜ばれるわけではないと語っています。

主が本当に喜ばれるのは、自分が本当に神の前に罪人であることを自覚して、「もうそうしたことを行わないようにしよう」「もう主を悲しませることがないようにしよう」と思う、そうした心からの悔い改めと、罪を悲しむ、砕かれた魂であるというのです。

それを主が求めておられるというのです。

私たちも同じです。

罪を悔いるというのは、「ごめんなさい」ということだけではないのです。

その犯した罪のことを真剣に考え、また罪を犯してしまう自分を心から悲しむこと。

そして、「再び同じような罪を犯さないようにしよう」と決意をして、主に助けを求める心、それを主は待っておられるのです。



詩篇51篇10-13節

2017年07月29日 10時55分39秒 | 聖書


51:10 神よ。私にきよい心を造り、ゆるがない霊を私のうちに新しくしてください。
51:11 私をあなたの御前から、投げ捨てず、あなたの聖霊を、私から取り去らないでください。
51:12 あなたの救いの喜びを、私に返し、喜んで仕える霊が、私をささえますように。


ダビデは、自分が主の前に、主の御心を喜んで覚えて、従って生きることができるためには、「主が自分に新しい心を与えてくださる以外に、その道はない」と告白しました。

ですから彼は主に願って、「揺るがない霊を、私のうちに新しくしてください。」と願っているのです。

自分を本当に変えてくださるのは、神の力以外にない。

神の言葉と神が遣わしてくださる御霊の働きによる以外にないと、言っています。

御霊の働きに預かる時に、私たちの魂は新しくされ、主の御心に喜んで従うようになるのです。

主の前に変えられることを求めるのですから、主が与えてくださった方法で変えていただくのです。

主の御言葉に聞いて、主の御言葉に伴う御霊の熱心な働きにより頼むことによって、変えていただくのです。


第一歴代誌11章17-19節

2017年07月29日 10時53分52秒 | 聖書


★ダビデはしきりに望んで言った。「だれか、ベツレヘムの門にある井戸の水を飲ませてくれたらなあ。」
すると、この三人は、ペリシテ人の陣営を突き抜けて、ベツレヘムの門にある井戸から水を汲み、それを携えてダビデのところに持って来た。ダビデはそれを飲もうとはせず、それを注いで主にささげて、
言った。「そんなことをするなど、わが神の御前に、絶対にできません。これらいのちをかけた人たちの血が、私に飲めましょうか。彼らはいのちをかけてこれを運んで来たのです。」彼は、それを飲もうとはしなかった。三勇士は、このようなことをしたのである。



■O:今日のコラム
第一歴代誌10章でサウル王が死に、11章でダビデがイスラエルの王となりました。この11章には、ダビデの勇士のかしらたちの名前が記されています。その中に、ペリシテ人の支配下にあったベツレヘムの門の井戸から、いのちをかけて水を汲んできた三人の勇士たちが出てきます。

彼らの名はヤショブアム、エルアザル、シャマ(2サムエル23:11)です。彼らはほかの勇士たちよりもまさっていました。三人のかしらであるアブシャイやダビデの護衛長ベナヤも、「あの三人には及ばなかった」とあります(1歴代11:20-21,24-25)

なぜ、彼らはこのような賞賛を受けたのでしょうか。

ダビデは、彼らが汲んできた水を「いのちをかけた人たちの血」と言い、それを飲まずに、それを注いで主に捧げました。一見、なぜ…と思ってしまいます。しかし、飲まなかったのではなく、飲めなかったのです。

ダビデは主の心にかなった者でした。主の心をダビデは声にしたのではないかと思います。彼らが汲んできた水は、彼らのいのちをかけた従順であり、それは主が喜ばれる、主への捧げものとなったのです。

「するとサムエルは言った。『主は主の御声に聞き従うことほどに、全焼のいけにえや、その他のいけにえを喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。』(1サムエル15:22)

聖書で「聞く」と「従う」はセットで書かれています。ヤコブ書には、聞くだけの者であってはいけませんとあります(ヤコブ1:22)。聞いたら、従うこと、行うことが大事なのです。

今日の箇所で、三勇士はダビデの声を聞いて従いました。しかし、彼らは初めからこのように聞き従うことができる者だったのでしょうか。最初から、ペリシテ人を打ち殺す強さ、ダビデを支える力ある勇士だったのでしょうか。

「また、困窮している者、負債のある者、不満のある者たちもみな、彼のところに集まって来たので、ダビデは彼らの長となった。こうして、約四百人の者が彼とともにいるようになった。」(1サムエル記22:2)

ダビデのもとに集まったのは、このような人たちでした。この者たちがダビデと共に過ごし、サウルの追跡と苦難を耐え抜いた結果、勝利を治める力ある勇士、王の声に聞き従う、いのちをかけた勇士となったのです。ダビデと彼らの信頼関係は、ダビデの王国、王権を強固にしました(1歴代誌11:10)。このことは、私たちへの励ましだと感じます。

私たちは今、誰と過ごし、誰の声を聞き、誰についていっているでしょうか。誰に、また何にいのちをかけているでしょうか。時間をかけているでしょうか。

「いのちをかける」ということは、そこに全生涯、自分のすべてを捧げるということです。ダビデはキリストの型です。私たちがイエス様と共に過ごし、イエス様の声を聞き、イエス様に従い、ついていくなら、私たちは主の勇士として勝利を治める者となるのです。そのためには、いのちをかけなければなりません。私たちのいのちをイエス様に捧げる者となりましょう。

イエス様が王として治める御国と王権が、私たち一人一人、主の勇士たちによって、この地上においても力強くあらわされていくことを信じます。



■A:考えてみよう
・私たちは王である主の声に耳を傾けているでしょうか。自分の声や人の声を聞いていないだろうか。今日、主が語られる声を聞いて、その声に従う者となっていくことが出来ますように。

・私は「キリストいのち」という賛美が好きです。この歌詞にあるように、どこまでもイエス・キリストについていく者となりたいと願います。私たちのいのち、時間、お金、与えられているものを、絶えずイエス様に捧げることを選び取っていくことが出来ますように!
それを助けて下さる聖霊様の力を今日も受け取っていきましょう。



■P:祈り



イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。


テトスへの手紙3章7~8節

2017年07月29日 10時46分24秒 | 聖書


★それは、私たちがキリストの恵みによって義と認められ、永遠のいのちの望みによって、相続人となるためです。
これは信頼できることばですから、私は、あなたがこれらのことについて、確信をもって話すように願っています。それは、神を信じている人々が、良いわざに励むことを心がけるようになるためです。これらのことは良いことであって、人々に有益なことです。



■O:今日のコラム
私たちは、キリストの義を恵みによって与えられました。しかし、「約束のものを得るために必要なものは忍耐です」とあるように、そのことによって約束のものをすべて相続するわけではありません。

私はイエス様を受け入れたばかりの頃、このように考えていました。「イエス様を受け入れたらみんな同じ報いを受けるんだ。今、受け入れた人も、50年イエス様を信じている人も何も変わらない」と。しかし、これは偽りです。それならば、救われてこの地上を歩んでいる時間は、全く私たちにとって無駄な時間です。救われたらすぐに天に上った方が良いことになります。

義と認められることは恵みですが、報酬というものは、何かをしなければ得られないものです。主は何度も何度も聖書の中で、新約においても旧約においても、「あなた方の行いには報いがある」と教えています。

例えば黙示録の最後の章では、
「見よ。わたしはすぐに来る。わたしはそれぞれのしわざに応じて報いるために、わたしの報いを携えて来る。」(黙示22:12)

とあります。
あなたがたの行いに応じて報いる、というのが聖書の原則です。だから、聖徒たちに良いわざに励むことを心がけるように勧めて、聖徒たちが益を受けるようにと、パウロはテトスに教えているのです。

ただ、肉の力によってでは、私たちは何一つ良いわざ、つまり御心を行うことはできません。まず主の臨在にとどまってこそ、私たちは出て行って良いわざをすることができるのです。

旧約時代には、主の神殿を中心としたイスラエル国家にとどまることを命じられ、新約時代になって、出て行ってすべての国の民を弟子とするように命じられたように。初代教会が、聖霊を受けるまでエルサレムにとどまっていなさいと言われ、その後、聖霊が臨むなら地の果てにまで証人となりなさいと言われたように。

祈りの生活、主の前にとどまることなしに、私たちは実を実らせることはできません。イエス様も、私にとどまっていなければ、実を実らせることはできないと語っておられます。

祈りの時間に基準はあるのでしょうか?イエス様は、ゲッセマネの園で一時間でも祈っていることができないのですか?と言われました。日本人は忙しく働くことで知られる民族です。一時間を聖別することは、大きなチャレンジであるかもしれません。

しかし毎日一時間、主の前にとどまることは永遠の時間の報いに関わってくるとても重要なことです。何よりも主との関係が、この一時間から深いものになっていくことを信じます。異言がなくては、一時間祈ることは難しいでしょう。異言を受けていない方は、ぜひ求めてください。

すでに祈りの生活をもっている方にお勧めします。主はあなたに語られたはずです。主はあなたに御心を明かしてくださったはずです。主はあなたに言葉とともに力を与えてくださっているのです。祈りの場から去っても、主はあなたとともにいるのです。私たちが行動で応答するときなのです。恐れてはいけません。

主を愛しているなら、主に従うことで愛をあらわすのです。主に信頼をおいて、自分を捧げるのです。このことには大きな報いがあることを信じましょう!

私たちの行いに応じて主は報いてくださるのです。コップ一杯の水を与えたことに対しても主はその報いを忘れていないのです。この報いとはイエス様ご自身です。イエス様と一つになることです。イエス様を知ることです。イエス様とあらゆるものを共有することです。愛も、希望も、喜びも、悲しみも。

私たちの相続地はイエス様そのものなのです。



■A:考えてみよう
祈りの生活を持ち続けましょう!主を求め、主との親密な関係の中へとますます入っていきましょう!そして、祈りの場を離れても主を尊び、主の臨在にとどまり、主を愛し、主に従順するのです。

そのときに主は、イエス様の御性質を私たちの内に与えてくださって、私たちはますます主を愛する者となっていくことを信じます。

■P:祈り
主よ。私に祈りの油をさらに注いでください。あなたに対する飢え渇きを新しくしてください。心からあなたを慕い求め叫び求めることができるようにさせてください。

古い自分を捨てて、罪を告白して、今日も十字架の前に出て行きます。隔ての壁を取り去ってください。あなたを見えなくする覆いを取り去ってください。イエス様にとどまります。誰でもあなたの内にあるなら新しく造られたものです。古いものは過ぎ去って、見よ。すべては新しい。この御言葉は、私のためのものです。

天で御心がなされるように、地でも御心がなされますように。そのために私が御心を行うことができるように助けてください。御心を行うことに対する使命感を与えてください。イエス様が十字架という使命を成し遂げるために来られたように、私も、自分の十字架を負って、全うできるようにさせてください。そうしてこそ、イエス様のように栄光にあなたの御性質によみがえることを信じます。

あなたを得させてください。永遠のいのちはあなたです。私のいのちはあなたです。私の求めるものはあなたご自身です。あなたを得ていなければ何もありません。あなたを得るならばすべてがあるのです。



イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。


7月27日(木)のつぶやき

2017年07月28日 01時23分33秒 | キリスト教

◆神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。

2017年07月27日 16時10分29秒 | 聖書
(ローマ八・三三)
これは最も尊い挑戦である。これに答えることはできない。選ばれた者のすべての罪は、彼らの救いの偉大な擁護者の上に置かれ、贖いのわざによって取り去られた。そしてもはや神の記録の書には、神の民の罪は一つも記されていない。神はヤコブに罪を見ず、イスラエルに悪を見られない。彼らは、キリストにあって永遠に義とされている。
罪が取り去られる時、罪の罰も除かれる。クリスチャンに対して、神の怒りの御手から打撃が加えられることはもはやない。信者は、父なる神によって懲らしめられるかもしれない。しかし審判者である神はクリスチャンに対して、「わたしはあなたを赦した。あなたは無罪放免だ」としか言われない。クリスチャンにとって、罪の罰としてのこの世における死も第二の死も存在しない。
彼は罪から解放されるとともに、罪の罰からも完全に自由にされる。そして、罪の力もまた取り除かれる。罪は私たちの前に立ちふさがり、絶えず戦いを挑んで私たちを動揺させるかもしれない。しかし罪は、イエスと結合されたすべてのたましいにとっては征服された敵である。クリスチャンがもし神により頼むならば、打ち勝つことのできない罪は一つもない。天において白い衣をまとっている人たちは、小羊の血によって打ち勝ったのであり、私たちも同様に勝つことができるのである。どのような肉欲も強すぎることはなく、どれほどつきまとう罪も振り落とせないものはない。私たちはキリストの御力によって打ち勝つことができる。
クリスチャンよ。これを信ぜよ。あなたの罪の判決は終わった。もがくことがあるかもしれないが、罪の死は定まっている。神はその額にすでに罪の宣告を書き記された。キリストは、それを十字架につけられた。「十字架につけてしまったのです」と記されている。行け。そして罪を克服せよ。主があなたを助け、主を賛美するために生きさせてくださるように。なぜなら、罪はそのすべての咎と恥と恐れとともに去ってしまったからである。
 

「こうして、アブラハムは、忍耐の末に、

2017年07月27日 16時09分41秒 | 聖書

約束のものを得ました」(ヘブル6:15)

アブラムは、子孫が天の星のようになるとの、主の約束を信じていた。
しかし、目に見えるところ、なかなか成就しそうにない。
その頃は、夫婦に子供が無い場合は、召使いに子供を産ませ、その子を跡継ぎにすることが、普通であった。

それで、子供ができない中、この慣習にならって、サラは一つの提案をした。
主が産めないようにしておられるのだから、女奴隷によって子供を持つようにと。
アブラムにとれば、自分の言い出した事でなく、妻の申し出であり、サラの言う通りに女奴隷ハガルの所へ入った。

しかし、重大な事は、この時アブラムは祈らず、主の御心を求めなかった事だ。
自分の思いで「肉」で動いてしまった。
肉は、一見良い考えに思えるが、必ず問題を引き起こす。
ハガルは、子供のないサラを見下すようになった。

ハガルはイシマエルを産んだ。イシマエルはアラブ人の先祖となり、今日のパレスチナ紛争に至っている。
アブラムが人間的判断によって、良かれと行なった肉の行動は、後世にまで甚大なトラブルとなった。
アブラムが100歳の時に、肉が、人間的力が絶えた 時に、イサクが与えられた。

今、あなたの状況はどうだろう。
神の約束を待てないで、自分で動くなら、イシマエルを産み出してしまう。
肉の知恵と力で動かず、神が動かれるのを、約束を忍耐して待とう。
それが最も美しい神の時であり、何より神の栄光が現わされる。
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たち動く事はたやすく出来るが、何もせずじっと待つ難しさに不信仰をいつも示される。
しかし神様の言葉は必ず実現される。
その御約束を最後まで、しっかりと見つめ、待ち続けたい。