19:27 「あなたがたの頭のびんの毛をそり落としてはならない。ひげの両端をそこなってはならない。
19:28 あなたがたは死者のため、自分のからだに傷をつけてはならない。また自分の身に入墨をしてはならない。わたしは主である。」
ここでは頭のびんの毛を剃ること、またひげを落とすこと、そして死人のために自分の体を傷つけることを禁じています。
びんの毛というのは、もみあげのことです。
それを切ってはならないというのです。
現在でも、イスラエルの厳格な宗派の人々は、この戒めに従って、もみあげを切ることはしません。
ところで、この戒めは何のことでしょう。
カナンの地にイスラエルの民が入ったときに、彼らが、その現地の人々が行っている習慣や歩みにならうことを、禁じている戒めなのです。
彼らは偶像礼拝を行うときに、もみあげを切ったり、ひげを切ったり、また体を傷つけたりいたしました。
そうした自分につけている物の一部を傷つけ、痛みつけることによって、益をもたらすと思ったのです。
しかし、イスラエルの民は主の民です。
偶像礼拝をして、その風習にならうべきではないと言っているのです。
思慮のあるしもべは、恥知らずの子を治め、
その兄弟たちの間にあって、
資産の分け前を受け継ぐ。 (箴言一七2)
ほんとうの意味で人生で成功する人は、思慮深い人だと思います。思慮深い人は人を生かせる人なので、多くの人が集まってきて、人のリーダーになります。また、生きた物や金の使い方ができるので、物や金が集まってきます。そんな意味でも成功者になります。
思慮深い人とは、アイデアマンとか、単に頭がいい人ではありません。第一に、現在の目の前のことばかりでなく、人の見えない将来が見える人です。第二に、自分の都合・損得・気持ちがいい悪いに損なわれることなく、人の気持ち・立場・全体がよく見える人です。第三に、何が正しいか、何が価値のあることか、何がなすべきことかがはっきり分かる人です。
まとめて言えば、ほんとうの思慮深さとは、自分や人間のレベルの目ではなく神の目を持つことです。神がどう見ておられるかが分かり、神の目をもって自分を見、人を見ます。ですから、自分の弱さや罪深さを十分知りながら、人々をありのままに受け入れ、愛し尊ぶことができます。そこで、いつしか人々を生かすリーダーとなります。また、神の目をもって金や物をも見ます。それは神が与え、神から預けられたものであり、自分は正しい管理者だと心得るので、奪い、自分だけもうけることよりも、与え、よく用いることに心がけます。そこで、金と物を任せられ、成功者となるのです。このように思慮深い人は、人と神との信頼を受けて治める者となります。
ヨセフはしもべでしたが、主人の家を治め、ついにはエジプトの宰相となりました。ソロモンの思慮深いしもべヤロブアムは、ソロモンの恥知らずの子レハブアムと資産を分け、思慮深い少年サムエルは、祭司エリの恥多き子よりも抜きん出て、真の民の指導者となったのです。聖書は、思慮深い人を造りあげます。
(ヨハネ一七・二二)
見よ。主イエスの限りない心の広さを。主は私たちにその所有のすべてを与えられた。主がその所有のごくわずかを与えられるだけでも、天使の世界のすべてを限りなく富ませたことであろう。しかし主は、そのもっておられるすべてを私たちに与え尽くすまでは満足されなかった。もし私たちに、ご自身のあわれみの食卓からパンくずを食することを許されたとするならば、それすらも驚くべき恵みであろう。しかし主は中途半端なことはなさらない。私たちをご自身と共に食卓に着かせ、私たちと共にごちそうを食される。主がその宝庫よりごくわずかを与えられるとしても、それに応えて永遠までも主を愛すべきである。しかし実際は、それどころではなく、主はその花嫁をご自身のように富ませ、栄光と恵みを共に分かとうとされる。私たちを共同相続人とし、私たちがご自身と同じものを所有するようになるまでは満足をされない。
主はその財産のすべてを教会の倉に移し、すべてのものを贖われた民と共有される。主の家には、主がかぎを保管して、その民に任せられない部屋は一つとしてない。ご自分の所有物を民に自由に取らせ、彼らを愛し、その宝を自由に用いさせ、彼らがもち得る限りを自分たちのものとしてもたせられる。キリストは、その愛と恵みに満ちたびんを信者のくちびるに当て、永遠に飲み続けるようにと命ぜられるのである。それを飲みほすことができれば、それでよい。主はそれを望まれる。しかし飲みほすことができないので、主は十分に飲むようにと命ぜられる。それはすべて主にある者の所有だからである。天にも地にも、これにまさる真実な親しい交わりの証拠があるだろうか。
自分のものではない美をまとい
御座の前に立つとき
あなたのありのままの姿を見
汚れのない心であなたを愛するとき
主よ。そのとき初めてほんとうに
いかに多く与えられているかを知ります
昨日、佐々木珠記さんが緊急入院いたしました。
お祈りをお願いいたします。
完全な健康体になって退院ができますように、とお願いいたします。
大西
19:23 「あなたがたが、かの地にはいって、どんな果樹でも植えるとき、その実はまだ割礼のないものとみなさなければならない。三年の間、それはあなたがたにとって割礼のないものとなる。食べてはならない。」
割礼のことが言われています。
イスラエルの民は、自分たちが主に属する民であることの印として、生まれてから8日目に割礼を受けました。
それが、自分たちは主に属する民であるとの自覚をもたらしました。
ここでは、約束の地に入ったとき、そこに植えた果樹の木は未割礼であると言われています。
神の物になっていないというのです。
木というのは、植えたらすぐ実がなるわけではありませんし、また、未成長な木からとった実は甘くはありません。
4年目を迎えたときに初めて、その実をとることが出来ます。
その時に、主に収穫の感謝と賛美を献げる物となるというのです。
そして、5年目からおいしく食べることが出来るようにされるのです。
割礼を受けたものとなるということが大事なのです。
教会でも同じです。
信仰を持っても、洗礼を受けない人がいます。
それは同じような、未割礼な者であるのです。
一切れのかわいたパンがあって、
平和であるのは、
ごちそうと争いに満ちた家にまさる。(箴言一七1)
これは、美しい宮殿に住み、美しい女たちに囲まれ、山海の珍味に飽いていたソロモン王のことばです。彼は、ごちそうはあっても争いに満ちた王宮の生活から逃げ出したかったに違いありません。ソロモン王でなくても、「ごちそうなんてなくていい。ぜいたくな邸宅なんてなくていい。ほんとうの平和・ほんとうに平和な家庭が欲しい」と思っている人は多いのではないでしょうか。
私は、感じやすい少年時代に、争いの絶えない家庭にいました。五十センチと離れず同じ食卓を囲んでいるのに、夫と妻の心が通わず、親と子の心が通じていなかったのです。針のむしろに座るような毎日。――とうとうこんな現実から逃げ出したくて、私は自殺未遂をしてしまったほどでした。
平和とは、ただ、争いがないということではありません。それは、いっしょにいるのがうれしく、いっしょに何かするのに張り合いがあり、楽しい。――つまり、愛で心と心とがつながっている状態です。そんなすばらしい、すてきで平和な交わりのために、次の三つの段階があることに、私は気がつきました。
・ ある一人の人が、自分勝手な生き方を心から悔い改めて神の前にへりくだると、その人の心と神とが、まず平和になる。
・ 神と平和になった人の心がくだけきって、からっぽになって神の前に出ていると、人工的な平和ではなく、人格的な神の平和・天来の平安が、その人の心の中に満ちる。
・ その人の心の中に神の平安が満ちると、今まで争い合ったり憎み合ったりしていた人々の間にも平和の力が及んで、人と人との間に平和が花を咲かせる。私の家庭が、まさしくこのプロセスを通らせていただいたのです。
イエスにあって眠った人々をイエスといっしょに連れて来られるはずです。(Ⅰテサロニケ四・一四)
世を去ったたましいが無感覚のままで眠っていると考えないようにしよう。「あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます」というのが、すべての臨終の聖徒に対するキリストのささやきである。彼らは「イエスにあって眠っている」。しかし彼らのたましいは、神の御座の前で日夜イエスをほめたたえ、その血で彼らの罪を洗ってくださった方に対してハレルヤを歌っているのである。
肉体は、草におおわれた地下の寂しい寝床に眠っている。この眠りは何を意味するのであろうか。眠りと関連する概念は「安息」である。そしてそれは、神の御霊が私たちに伝えようと望まれる考え方である。眠りは夜を昼のための安息の時とする。眠りはたましいの戸を堅く閉ざして、すべて侵入する者に「しばし待て」と命じる。それは内なるいのちが新緑の園に憩うためである。働き疲れた信者は静かに眠る。それはあたかも疲れた幼子が母の胸に眠るのに似ている。
ああ、主にあって死ぬ人は幸いである。彼らはその労働を離れて休息する。そしてそのわざは彼らに従う。その静かな休息は、神が彼らに十分な報いを与えるため呼び覚まされる時までは、決して破られることはないであろう。天の使いに守られ、永遠の神秘に包まれて、栄光の相続人である彼らは眠り続ける。そして、やがて時が満ちて贖罪が全うされるのである。
彼らが目を覚ました時はどうであろう! 彼らは最後の憩いの場所に横たえられた時、疲れ果てていた。しかし起き上がる時はそうではない。安息に入った時は額にしわがあり、顔はやつれきっていた。しかし起き上がる時は美と栄光をまとっている。見るかげもないしなびた種が、美しい花となってちりの中から咲き出る。墓の中の冬は去り、贖いの春と栄光の夏が来る。
死は幸いである。なぜなら、その時神の力が私たちの仕事着を脱がせ、朽ちることのない結婚の晴れ着をまとわせるからである。「イエスにあって眠る」者は幸いである!
19:19 「あなたがたは、わたしのおきてを守らなければならない。あなたの家畜を種類の異なった家畜と交わらせてはならない。あなたの畑に二種類の種を蒔いてはならない。また、二種類の糸で織った布地の衣服を身に着けてはならない。」
家畜に関して、2種類の違った家畜を交わらせてはならないこと、また畑には、2種類の種を蒔いてはならないこと、そして2種類の糸でおった衣服を着てはならないことを語っています。
今の時代は、衣服はいろいろの糸を使った派手なものですし、また畑もいろいろなものが蒔かれています。
なぜ、こうしたことを禁じておられるのでしょうか。
ここで主が語っておられることは何でしょう。
1つの所に2種類、ということに問題があります。
つまり、通常言われる「二股をかけている」ということが問題なのです。
神様は、種類に分けて物を創造してくださいました。
ですから、同じ系列ではいろいろなものがあります。
しかし、種は、基本的には別の種と互いに交わることはありません。
同じように神様に対しては、二股をかけるような姿勢を好まれないのです。
主に真実であれ、と言われるのです。
しらがは光栄の冠、
それは正義の道に見いだされる。 (箴言一六31)
日本の社会は、ものすごい勢いで老齢化していきます。国をあげて幸福に老いるというか、幸福な老人になることが課題ではないでしょうか。社会福祉も、もちろん大切です。しかし、私たち一人一人の生き方にかかわる根本問題として、このことをとらえなければなりません。
「しらがは光栄の冠」といえるような老い方が確かにあります。ところが、大方はどうでしょう。年をとると、力を失います。今まで自分の力でやり抜いたのができなくなります。今までの地位や権力の座をほかの人にゆずりわたし、今まで受けてきた尊敬や興味や関心を失ってしまいます。人の世話にならなければ、どうすることもできません。生きがいを見失い、豊かな平安もゆとりもなくなります。ただ食い気だけの生き物になりさがっていきます。失う、そして果てるのです。
しかし、栄光に満ちた老年もあります。それは、若い時から自分の肉の力や知恵で得て、つかんで、ためこんできたのでなく、神の知恵・神の力で生き、与え続け、仕え続けてきて迎えた老年です。そんな老年には、豊かに備えられたものがあります。
第一に、老年になっても生きる目的や生きがいを、神がいつでも与えてくださいます。第二に、神に与えられた生きる目的が分かると、老年で寝たきりになっても、人に喜ばれ神に仕える仕事が与えられるものです。第三に、神と人の愛を受け、満足することができます。第四に、最後に神の愛と輝きの胸のもとに帰る望みに満ちています。
今、あなたの心はどうでしょうか。神は見ておられます。輝かしい老年への道・正義の道を歩んでいるでしょうか。
(出エジプト八・二八)
これは、暴君パロの口から発せられたずる賢いことばである。パロは、もしあわれな奴隷の境遇にあるイスラエル人が、エジプトから出て行かなければならないとすれば、あまり遠くへは行かせないようにしようと思った。すなわち、その武力の届かない所、そのスパイたちの目の及ばない所へは行かせまいとしたのである。同様に、世の人々は、私たちが旗色を鮮明にすることを好まず、もっと寛大であり、厳格すぎないようにと言うのである。
この世に対して死に、キリストと共に葬られることは、世の人に嘲笑される経験である。だから、この教えはすべて無視され、軽蔑さえされる。この世の知恵は妥協の道を勧め、何ごとも「ほどほどにせよ」と言う。この世の意見によれば、純潔であることは望ましいが、あまり厳しすぎてはならない。真実であることはもちろん良いことであるに違いないが、過ちを厳しく非難するのはいけないと言う。この世は言う。「信仰深いことはよいことだ。でもにぎやかな社交を拒んではいけない。時にはダンス・パーティーにも行き、クリスマスの時に劇場へ行くぐらいのことはさしつかえない。流行をけなしたり、世の人たちが皆していることに、声を大きくして反対して何になるのか」と。多くの信仰告白者は、このずる賢いことばにつり込まれて、永遠の滅亡に陥る。
もし私たちがすべてを打ち捨てて主に従いたいと思うならば、ただちに孤立の荒野に行き、肉の世のエジプトを後にしなければならない。この世の格言を捨て、この世の快楽、この世の宗教を捨て、主がそのきよめられた民を召された場所へ、遠く旅立たなければならない。町が火炎に包まれる時、私たちの家は町から遠く離れていればいるほどよい。疫病がはやる時、その地から遠く離れていればいるほどよい。毒蛇からは遠く離れていればいるほど安全である。そして世の俗習からは、離れていればいるほどよいのである。すべての真の信者に向かって、「彼らの中から出て行き、彼らと分離せよ」とのラッパを吹き鳴らせ。
19:18 「復讐してはならない。あなたの国の人々を恨んではならない。あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。わたしは主である。」
十戒の大事な戒めの1つのまとめとして、「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。」と語られています。
イエス様が、律法の戒めで最も大事な戒めは何かと問われた時に、答えられた言葉がここの言葉です。
ここでは、その隣人を愛するということが、どういうことなのかということを語っています。
それは復讐をしないこと、また人々を恨まないことだ、と語っています。
自分に不利益をもたらした人に対しては、人は報復をしたくなります。
また復讐が出来ない時には、その人を恨んで悶々とする時があります。
その受けた被害と苦しみを思うからです。
しかし、神様は、それでもなお隣人を愛しなさいと言われます。
主が知らないことが、そこで起こっているわけではないからです。
復讐は、主がなさることです。
主にある者は、なお、隣人を愛する愛に生きるべき事を、命じておられるのです。
ねじれ者は争いを巻き起こし、
陰口をたたく者は親しい友を離れさせる。(箴言一六28)
聖書は、「ねじれ者」とずばり言ってのけたことばを使っています。
ある時、やりつけないことですが、洗濯をしてみました。洗濯機の中の衣類が全部ねじれて固まってしまい、一つ一つ離すのに苦労しました。そのねじれたかたまりを見て、「ああ、こんなことが人生にあるな」と思ったのです。こじれにこじれてしまった人間関係。――夫と妻がうまくいかず、いつの間にか子どもやほかの家族までねじれに引きこんで、ねじれきってしまった家庭がないでしょうか。職場でも、同じようなことが起こっています。そのような状態は、皆をくたくたに疲れさせるのです。その原因は多くの場合、一人の人の心のねじれなのです。
ねじれた心から、意地悪なことば・陰口・非難・あてこすりが出てきます。アラブのことわざに、「人は、言わないことばの主、言ってしまったことばの奴隷」とあります。口から出たことばはもうコントロールが利かず、人間関係をねじまげ、争いを巻き起こします。心と心が通じない、壁のあるいやな情況にしてしまいます。構えられた無言のようなねじけた態度も同じ働きをしますし、顔つきや動作でも同じことです。頭がよくて実力もある人でも、心がねじけていては何にもなりません。自分の感情や都合で相手を解釈して、一ねじりも二ねじりもするために、友を失い、平安を失い、生きがいを泥まみれにしてしまいます。
人を素直に受け入れ、善意で解釈し、悪をたくらまないまっすぐな心は、愛の心です。また、自分の我欲を突っ張らないへりくだった平和な心です。イエス・キリストは、「平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです」(マタイ五9)と言われました。神を知り、イエス・キリストに従う時、私たちは心をまっすぐにしていただけるのです。
(イザヤ一四・一〇)
口先だけで信仰を公言する背教者のたましいが、裸で神の前に立った時の運命はどうであろうか。彼はどうして、「のろわれた者ども。離れ去れ。あなたはわたしを拒んだ。それでわたしもあなたを拒む。あなたは姦淫を行い、わたしを離れた。わたしもまた、永遠にあなたをわたしの前から追放し、あわれみを注がないだろう」という神の御声に耐えることができるだろうか。
終わりの大いなる日に、集まった大群衆を前に背教者が仮面をはがされる時、その恥辱はどれほどであろうか。これまで決して信仰を告白したことのない俗人や罪人が、火の床から身を起こし、後ろ指を指すのを見よ。ある者は言う。「やあ、あいつがやって来た。やつは地獄でも説教するのか」と。他の者は言う。「あいつだ。あいつは悪口を言ったと言って私を責めたが、今偽善者の正体を表した」と。さらに他の者は言う。「ああ、あの賛美歌好きの男がやって来た。集会にはいつも出席し、天国行きは保証されたように大言していたあの男だ」と。
偽善者のたましいを滅亡に引きずり込む時ほど、悪魔が熱心になる時はないであろう。バニヤンは『天路歴程』の中で、地獄に引き戻される光景をものすごいタッチで描いている。七つの悪霊が九つのひもで一人の男を縛り、彼が自ら歩いていると公言する天国に至る道から引き戻して、地獄の裏門から投げ入れる。
信仰を公言する者たちよ。地獄の裏門に心せよ。「あなたがたは、信仰に立っているかどうか、自分自身をためし、また吟味しなさい。」あなたの状態を見つめよ。自分がキリストの中にあるかどうかを見よ。自分をさばく時はとかく寛大な判決を下しがちである。しかし、この点において正しくあれ。特に自分に対して厳しくあれ。もし岩の上に家を建てていないなら、家が倒れる時、その倒れ方はひどいことを記憶せよ。
主があなたに誠実と、貞節と、断固たる勇気を与えてくださいますように。この悪い世にあって、あなたが脇道にそれることのありませんように。