座間コミニティー

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6月7日(木)のつぶやき

2018年06月08日 02時30分51秒 | 仏教

◆熱心になって……。

2018年06月07日 17時05分39秒 | 聖書
(黙示録三・一九)
もしあなたがたましいの回心を見、「この世の国は、私たちの主の国になった」という叫びを聞きたいと思うなら、また、冠を救い主の頭に置き、その御座が高められることを願うなら、熱心になれ。神のご支配の下におけるこの世の回心の道は、教会の熱心によるほかないからだ。すべての徳はそれぞれの働きをする。が、熱心が第一である。深慮、知識、忍耐および勇気はそれぞれの役目をもつ。が、熱心が先頭に立たなければならない。あなたの知識は役立つ。あなたの才能を軽く見てはいけない。しかし、重要な役割を果たすのは知識でも才能でもなく、あなたの熱心なのである。
この熱心は、聖霊の実である。熱心は、心の中における聖霊の不断の働きから、その活力を引き出す。もし私たちの内なるいのちが衰えるならば、もし私たちの心臓が神の前にゆっくりと脈を打っているならば、私たちは熱心ということを知らないであろう。しかしもし、私たちの内なるものがすべてたくましく、活発になるならば、私たちは、キリストの王国が来るのを見、みこころが天で行われるように地でも行われるのを見ようとする愛の熱情に燃えないわけにはいかない。
深い感謝の思いが信者の熱心を養う。私たちが掘り出された穴を見るなら、なぜ生涯を神のために費やさなければならないかの十分な理由を見いだす。
そして熱心はまた、永遠の未来を思うことによってかきたてられる。熱心は涙にかすむ目で地獄の炎をながめるので、まどろむことがない。憧憬のまなざしで天の栄光を見つめるので、奮い立たずにはいられない。熱心は、しなければならない仕事が山積みしているのに、時はわずかしかないことを感じている。したがって、そのもっているすべてを主のためにささげる。
熱心はまた、キリストの模範を思い起こすことで、絶えず強められる。キリストは衣をまとうように熱心をまとわれた。義務の車輪は、なんと速く主と共に進んだことだろう。主は道草することを知っておられなかった。私たちは、これと同じ熱情を表すことで、主の弟子であることを証明しようではないか。
 

「しかし、

2018年06月07日 17時04分33秒 | 聖書

サマリヤを通って行かなければならなかった」(ヨハネ4:4)

主は、わざわざ迂回して「サマリアを通らねばならなかった」。
それは、心が飢え渇いて救いを求めている、一人の女性に会うためであった。
主は「旅の疲れで」井戸のかたわらに座っておられた。
非常に疲れて、座り込んでおられた。

通常の旅行の日程を変更し、わざわざ遠回りし、身体もクタクタに疲れながら、多大な犠牲を払い、一人の魂を追い求めて下さる。
サマリヤの女性は偶然、主に出会ったのではない。主が彼女を求められたからだ。
「わたしに水を飲ませてください」とへりくだって頼まれ、会話の糸口を作り、個人伝道をされた。
彼女の心の渇きに生ける水を与え、応えられた。

同様に、私たちも、主が追い求めて下さったから救われた。
主に出会うまでに、色々な布石があったはずだ。
不思議に主に出会うように、導かれていた。
つまり、主が求めて下さったゆえだ。
この、主が私たちを一心に求めて下さった愛が、救霊の愛だ。
この愛に突き動かされた宣教師や働き人を通して、福音が全世界に宣べ伝えられて行った。

困難な異文化の中で、又、難しい田舎伝道など、義務で出来ることではない。
主のご愛に応えて、主から与えられた魂への愛だ。
私たちも、魂の救いのために、働きたいと願う者に、主は主からの愛を下さる。
遣わされた場で用いて下さる。
主が追い求められた魂の救いに、私たちも用いられる。何と光栄な事だろう。
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伝えてくれる人がいたから私達も救われた。
嫌な質問にも喜んで答え、主のご愛をそのまま与えて下さった。
主の失われた魂に対する悲しみやご愛を自分のものと出来るよう祈ろう。そ
して主に用いていただこう。


今日の聖人の記念日

2018年06月07日 08時12分01秒 | キリスト教

聖メリアドク司教

6世紀年ごろ

 メリアドクは、イギリスのウェールズの裕福な家に生まれ、育った。自分の財産をすべて貧しい司祭たちに施し、土地は困っている人たちに与えた。彼の評判は高まったが、ますます世間から離れ、隠退したいと思い、自らは徹底した清貧の生活を送った。ヴァンヌの司教に選出された後も、厳しい生活を続けた。

 メリアドクは、「貧しさは気苦労を取り除き、聖性の母となる」という言葉を生涯、身をもって実践したのだった。彼は、イギリスのコーンウォールと北フランスで尊敬されている。特にコーンウォールでは、彼の偉大な業を伝えた奇跡劇が現在も残っている。またブリタニーのある所には、彼が使ったとされるベルがあり、口の不自由な人や、頭痛で悩む人の上に置くと治る、といわれている。


◆富とわずらい

2018年06月07日 08時10分50秒 | 聖書

正しい者の家には多くの富がある。
悪者の収穫は煩いをもたらす。    (箴言一五6)
財産・大きな屋敷・広大な土地・莫大な預金がかえって人生のわずらいをもたらしている例は、たくさんあります。あなたも、身近にそんな姿を見ておられるかもしれません。私も、一代で何十億の財産を築いた人が自殺をしたのを聞きました。豪華なお屋敷に妻は独りいて、とても寂しそうだったそうです。夫は愛人の別宅にいました。そして、憂いとわずらいとに満ちた人生は、自殺にまで追いつめられてしまったのです。
私たちは金持ちになって、金の不自由などしたくないと思います。しかし、なぜみな財産や金を求めるのですか。それは、金や財産が、安心・安定・満足・平和をもたらすと思うからではないでしょうか。本命は金ではなく、ほんとうの満足・ほんとうの幸せ・ほんとうの平安・ほんとうの喜びなのです。
聖書は、「正しい者の家には」、そんなほんものの富がどっさりあると言います。正しい者・悪者というと、すぐどたばたドラマの善玉・悪玉を考えてしまいます。けれども聖書の言う正しい人は、第一に、神を正しいと認める人。第二に、神の正しさが実現することを心から期待する人なのです。反対に、神を度外視し問題にしないで、自分中心・自分の欲望中心だけで生きる人が悪者です。
自分の罪深さや弱さを深く感じる謙遜な心を持って、神を第一として神にすべてをゆだね、神のゆるし・満たし・慰め・助けを期待しきる時、どうなるでしょうか。キリストは約束されました。
「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます」(マタイ六33)。
 

◆主を愛する者たちよ。

2018年06月07日 08時10分04秒 | 聖書
悪を憎め。(詩篇九七・一〇)
悪があなたにどれほどの害を与えてきたかを考えるだけでも、あなたが「悪を憎む」のは当然である。ああ、罪は、なんというわざわいの世界をあなたの心にもち込んだことか。罪は、あなたが救い主の美を見られないように、あなたの目を見えなくし、贖い主の招きを聞けないように、あなたの耳を聞こえなくする。あなたの足を死の道に向けさせ、あなたの心の泉に毒を流し込む。それは、あなたの心を腐らせ、「人の心は何よりも陰険で、それは直らない」と言われるまでにした。神の恵みによるご干渉の前に、悪があなたを勝手にほんろうしたとしたら、いったいあなたはどうなっていたことか。あなたは他の人のように御怒りを受けるべき子であり、多くの人々と共に悪に走っていた。私たちのすべてはそうであった。しかし、パウロは私たちに告げる。「しかし、主イエス・キリストの御名と私たちの神の御霊によって、あなたがたは洗われ、聖なる者とされ、義と認められたのです」と。
私たちが過去を顧み、悪のなした害を思うならば、悪を憎む理由は十分ある。だから、もし全能の神が干渉し、私たちを贖い出さなければ、たましいは当然滅びていたであろう。現在も悪は私たちの強敵であり、常に害を与え、滅びに陥れようとすきをねらっている。だから、主にある友よ。苦しみを望まないなら、「悪を憎め」。もしあなたの行く手にいばらを散らし、死の枕にいらくさを植えることを望むなら、悪を憎まなくてよい。しかし、あなたが幸福な生涯を送り、平和な死を遂げることを望むならば、聖潔の大道を歩み、終わりに至るまで悪を憎め。もし真実に主を愛し、主をあがめようとするなら、「悪を憎め」。
悪を愛するクリスチャンをいやす道は、主イエスとの親しい交わりに入ること以外にない。主と共に住め。そうすれば罪と親しくすることはできない。
 みことばによって私の歩みを整え
 私の心を真実なものとして
 罪に支配させず、主よ
 私の良心を聖く保ってください
 

詩篇104篇31-35節

2018年06月07日 08時08分01秒 | 聖書

104:34 私の心の思いが神のみこころにかないますように。私自身は、主を喜びましょう。
104:35 罪人らが地から絶え果て、悪者どもが、もはやいなくなりますように。わがたましいよ。主をほめたたえよ。ハレルヤ。


この地に混乱と不安とをもたらしたのは、人です。

特に、人の罪です。

ですから、その罪がなくなることを求めるのです。

そして、その時の実現は、イエス様が再びこの地にお越しになられる時に実現します。

その時には「罪人らが絶え果て、悪者どもが、いなくなる」ことが起こります。

しかし、それまでの間、私たちのなすべきことは何でしょう。

それは、ただ呆然として、その到来の時を待つのではありません。

弟子達が、天に上られたイエス様のみ姿を見つめていた時に、み使いが彼らに告げたことは、「あのお方は同じ有様で、またお出でになります。」ということでした。

つまり、またお出でになるのですから、そのお方の御心を心に置いてこの世で生き、働きなさいということでした。

主を仰ぎみつつ歩むことが、大切なのです。


創世記42章1節

2018年06月07日 07時56分09秒 | 聖書

★ヤコブはエジプトに穀物があることを知って、息子たちに言った。「あなたがたは、なぜ互いに顔を見合っているのか。」


■O:今日のコラム
兄たちがヨセフを売った時から既に20年以上経っているのですが、父ヤコブが「エジプトに行きなさい」と言った時、兄たちが顔を見合わせました。自分たちがヨセフに対してしたことを思い出したからです。

「思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。」(ガラテヤ6:7)

いくら時間が経っても、蒔かれたものは良いものも悪いものも必ず刈り取るということが、御言葉の中に約束されています。ヨセフのストーリーを読んでいて、さらに聖霊様がこの御言葉を思い起こさせてくださいました。

「神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。」(1ヨハネ4:20)

この御言葉は、私が中学生の時に参加したキャンプで当時とても仲の悪かった姉との関係を示され、悔い改めの祈りに導かれた御言葉でした。小さい頃から教会に連れられていましたが、自分の「罪」が分かりませんでした。

イエス様の十字架が他の誰でもない、この私のためであったということが、この時この御言葉を通して初めてわかり、涙がとまらず「イエス様ごめんなさい」と祈ったことを覚えています。



■A:考えてみよう
今年、新宿シャローム教会においては「神の約束の完成を見る年となる」ということがテーマで掲げられています。私たちに与えられている人間関係、「家庭」に「学校」に「職場」に、2017年の歩みにおいて蒔かれてきた悪い種はあるでしょうか。放置して、その種が成長し、どんどん根深くなってしまっているものがあるでしょうか。見て見ぬ振りをせず、諦めることなく、全てをご存知な神様に差し出していきましょう。

私は今、自分自身の取り扱いとともに「家族の回復」を願い、神様に祈っています。ヨセフは、のちの章においては、自分を売った兄弟たちを赦し、和解しています。それは、ヨセフが自分に対する神様の約束・計画を悟っていったからです。

目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。私たちは、心から神様を愛したいと願います。であるなら、絶えず自分を顧み、悔い改めによって私たちの心の地を、主に取り扱っていただきましょう。イエス様だけが、すべての悪感情から、苦味から、傷から、自己中心から、癒し、解放してくださるお方です。

聖霊様の火によって燃やされ、イエス様の十字架の血潮によって抜き取っていただいたら、いよいよ、真実な主の約束を握り、神様の計画・約束の成就を見るまで、約束の御言葉の種を蒔き続けていきましょう!




■P:祈り



イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。


6月5日(火)のつぶやき

2018年06月06日 02時30分51秒 | 仏教

今日の聖人の記念日

2018年06月05日 07時48分35秒 | キリスト教

聖ボニファチオ司教殉教者

672年ごろ-754年

 イギリスのクレイトンの貴族の家に生まれ、修道院の付属の学校で教育を受けた。ベネディクト会の修道院に入り、宣教師としてフリースランド(オランダ)、さらにドイツの宣教活動に専念した。

 722年に、教皇グレゴリオ2世からドイツの司教として叙階され、皇帝シャルル・マルテルの保護のもとに目覚ましい活動を続けた。ゲルマン人は、ガイスマーにある巨大な樫の木に「雷神トール」が宿っていると信じ、礼拝していた。そのため、ボニファチオはその木を切り倒し、人々を迷信からさまし、多くの人が、キリスト信者になったといわれる。

 ボニファチオは、世俗化した教会を改革し、チューリンゲンやヘッセンに修道院を建てた。なかでもフルダ修道院はドイツの宗教、学問、芸術などの文化活動の中心となった。のちにフリースランド宣教の途中に、異教徒に襲われ殉教した。ボニファチオは、西欧文化発達の基礎を築き、ドイツの使徒として知られている。


◆見 て い る 目

2018年06月05日 07時47分24秒 | 聖書

主の御目はどこにでもあり、
悪人と善人とを見張っている。    (箴言一五3)
私の書斎に、両面いっぱいに一つの目が描かれている一枚の変わった絵がかかっています。ずっと前に宮崎県のある町の旅館にとめていただいた時、その地方で名の通った前衛画家である、そこのご主人が、アトリエを見せてくださいました。たくさんあった絵の中で私のひきつけられたのが、この絵だったのです。「これ、何の絵です?」「何の絵に見えます? みな、見る人が別のことを言うのですよ。」「私には目に見えますよ。神さまの目です。いつも私をじっと見守り、また見張っていらっしやる神の目です。」「ほほう、そうですか。じゃ、その絵は先生にさしあげます。」そういうわけで、いま私の書斎に掲げられているのです。
私の友人の益田泉さんは、戦後、シベリアの強制収容所に入れられて、心も体も凍りつくような苦しい経験をされました。森林伐採の強制労働に耐えられず、次々と死んでいく人の死体をうめようとしても、凍りついた土地を掘ることもできなかったそうです。そんな苦しい日々に、子どものころ覚えた「主の祈り」を、いつも唱えたそうです。すると不思議に、「独りじゃない。神さまがじっと私のことを見ていてくださる」と分かったということです。日本に帰ってからクリスチャンになり、教師になり、たくさんの寂しい人・苦しんでいる人の友となっていらっしゃいます。
そうです。神はあなたの外も内もみな知って、愛のまなざしで、じっとあなたを見張っていてくださるのです。自分の罪や弱さをごまかそうとしたり、おれはおれでやっていけるというごうまんな心で歩むのではなく、この愛のこもった神のまなざしを常に受けて歩む時、静かで平和な充実した人生があるのです。神と人とに秘密を持とうとする自我心と罪の心には、神の目はつらいかもしれません。しかし、神を信じ仰ぐ心には、太陽のようにあたたかい神の御目です。
 

◆主は、

2018年06月05日 07時44分47秒 | 聖書
彼のうしろの戸を閉ざされた。(創世七・一六)
ノアは、神の愛の手により、この世のすべてのものから離されて閉じ込められた。神の選びの戸は、私たちと悪人たちの住む世界とを隔てる。私たちの主イエスがこの世のものでなかったように、私たちもこの世のものではない。世の多くの人々が求めている罪や快楽に、私たちはもう入ることはできない。また虚栄の市の通りで、やみの子らと遊ぶこともできない。なぜなら、天の父が私たちを閉じ込められたからである。
ノアは神と共に閉じ込められた。「箱舟に来なさい」というのが主の招きであった。これにより、主ご自身が箱舟の中で主のしもべおよびその家族と共に住むとのみこころを明らかにされた。こうして、すべて選ばれた者は神の中に住み、神は彼らの中に住まわれる。このように、父、子、聖霊の三位一体なる神の交わりの中に入れられる人は幸いである。神の「さあ、わが民よ。あなたの部屋にはいり、うしろの戸を閉じよ。憤りの過ぎるまで、ほんのしばらく、身を隠せ」という恵みの招待に無関心であってはならない。
ノアはわざわいが及ばないように閉じ込められた。洪水は彼を天のほうに押し上げ、風は彼を行く手に吹き送った。外は滅亡のみだったが、箱舟の中には安息と平和が満ちていた。キリストなくしては私たちは滅びるが、キリスト・イエスの中には全き安全がある。
ノアは完全に閉じ込められたので、箱舟から出たいという願いすら起こさなかった。キリスト・イエスにある者も、永遠にそのうちにある。彼らは永遠に外に出ることはしない。永遠の真実が彼らをキリストのうちに閉じ込めたからである。悪魔の敵意も彼らを連れ出すのは不可能である。ダビデの家の君が閉じられた以上、だれもそれを開くことはできない。そして終わりの日、家の主人として主が立って戸を閉じられるならば、単に口先のみで信仰を公言する者が戸をたたいて、「主よ、主よ。あけてください」と叫んでもむだである。賢い娘たちを閉じ込めたその同じ戸は、愚かな娘たちを永遠に閉め出したからである。
主よ。恵みにより私を閉じ込めてください。