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◆刈り入れ時は過ぎ、夏も終わった。

2016年12月31日 15時59分40秒 | 聖書
それなのに、私たちは救われない。(エレミヤ八・二〇)
救われない! 愛する読者よ。これがあなたの悲しむべき状態か。来るべきさばきが警告され、命がけで逃げよと命じられているこの時に、あなたは救われていないのか! あなたは、救いの道を知っている。あなたはそれを聖書の中で読む。あなたはそれが、講壇の上から話されるのを聞く。友人を通して、それがあなたに説かれる。それにもかかわらず、あなたはそれを無視しており、そのゆえに救われていない。主が生きている者と死んだ者とをさばかれる時、あなたは弁解のことばもないであろう。聖霊は、あなたがかつて聞いた説教のことばに多少でも祝福を与えられた。そして神のご臨在によってあなたが力づけられた時もあった。しかし、あなたはまだキリストなしである。
これらのすべての望みの多い季節は、来て、また去っていった。――あなたの刈り入れ時は過ぎ、夏も終わった。――しかしあなたはまだ救われていない。歳月は次々と来て、また去り、永遠に至る。そしてあなたの最後の年も、すぐにやって来るであろう。青年期は過ぎ、壮年期も過ぎようとしている。しかし、あなたはまだ救われていない。
私に質問させていただきたい。あなたは結局は救われるのか、と。そのような見込みがあるだろうか。最も幸運な季節はすでに去ったが、あなたはまだ救われていない。これから先、他の社会があなたの状態を変えるだろうか。あなたに対して尽くされた数々の手段は失敗に終わった。忍耐強く、この上ない愛情をもって尽くされた最善の手段が、失敗に終わったのである。
あなたに対して、これ以上いったいどうすればよいであろう。患難も繁栄も、あなたに何の印象も与えなかった。涙も祈りも説教も、あなたの荒れ果てた心にはむだであった。あなたが救われる可能性は、もうなくなってしまってはいないか。あなたは、死が希望の戸を永久に閉ざしてしまうまで、現状を続けるのではないか。このような想像から、あなたは後ずさりするのか。しかし、それは最も合理的な考え方なのである。何度となく入浴を拒んだ者は、結局最後まで汚れたままでいるのではないか。好機がこれまで決して来なかった人間に、どうしてこれから先、それが来ることがあろう。それが決して来ないとして恐れることは、論理的である。そしてあのペリクスのように、あなたは地獄に行くまで好機を見いだすことはないであろう。
おお、その地獄はどんなものか。そしてあなたが、まもなくそこへ投ぜられる恐るべき可能性について考えてみよ!
読者よ。あなたが救われないで死んだと想像してみよ。あなたの運命は、どのようなことばによっても描写することはできない。あなたの恐るべき状態を涙と血をもって書き、うめきと歯ぎしりをもって語れ。あなたは主の栄光からの、そして主の御力の栄光からの、永遠の破滅をもって罰せられるであろう。私は願う。主にある者としての私の声が、あなたを驚かせ、神の必要をあなたに悟らせるように。
おお、賢明になれ。遅くならないうちに……。そして新しい年の始まらないうちに、全く救うことのできるイエスを信じよ。この最後の時間を黙想のために聖別せよ。そしてもし、深い悔い改めの心があなたのうちに起こされればよい。そしてもしその結果、イエスにある謙遜な信仰に導かれるならば、それにまさるすばらしいことはない。あなたの罪が赦されないうちに、この年を去らせてはならない。真夜中の新年の鐘の音を、喜びのない霊の上に響かせるな!
今、今、今、信じなさい。そして生きなさい。
いのちがけで逃げなさい。
うしろを振り返ってはいけない。
この低地のどこででも立ち止
まってはならない。
山に逃げなさい。
さもないと滅ぼされてしまう。
 
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「ほんとうに、自分の中で死を覚悟しました。

2016年12月31日 15時58分40秒 | 聖書


これは、もはや自分自身を頼まず、死者をよみがえらせて下さる神により頼む者となるためでした」(Ⅱコリント1:9)


私たちは、なかなか自分の弱さを認められない。
認めているつもりでも、全面無力など決して認めたくない。
少しぐらいの力を残しておきたい。少しぐらい認めて欲しい。

徹底無力など余りにも惨めで認められない。
なぜなら、人前で弱さを見せたくないし、人に自分の弱みを知られたくない、その事が証拠だ。
もし、無力を認めていたなら、人前でもありのままおれるはずだ。

無力を認めたくない、拒否している事が問題で、そうであれば、神に頼る事ができない。
無力でない人が、神に頼ることは不可能だ。
信仰とは神に頼ることだと、頭ではわかるのだが、頼る事はできない。

なぜならどこまでも自分を認めて欲しい、力を誇りたい、肉の自分がいるからだ。
人は徹底無力になった時に初めて神に頼る。
正直に自分の姿を見る時に、苦しみが真に恵みだとわかる。

自らをへりくだらせ、徹底的に無力であることを、認めさせてくれるのは苦しみしかない。
御霊が苦しみを通して、自らの無力を認めるようにさせて下さる。これは大きな恵みだ。

パウロは、非常に激しい耐えられないほどの圧迫を受け、命さえも危うくなり、そこで自分を拠り頼まず、神を真に拠り頼むようにされた。
無力を認めたくない者が、変えられるのは、恵み以外の何ものでもない。
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無力なら、祈り続け頼るしかない。祈りはするが実際は自力で動き回っていないだろうか。
前から来るものを通して、自分の無力さ、弱さ、罪深さに気づいて行けますように。

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今日の聖人の記念日

2016年12月31日 07時24分08秒 | キリスト教

聖シルベストロ1世教皇

在位314年-335年

 シルベストロは、ローマに生まれ、キリスト教迫害時代、教会のために貢献した。長い迫害の時代が終わり、313年に皇帝コンスタンティヌスがキリスト教を公認した直後に、シルベストロは第33代の教皇に選ばれた。5世紀の伝説によると、シルベストロは皇帝に洗礼を授けたといわれている。彼は宗教会議を開き、ドナトゥス派を破門し、325年のニケア公会議では、アリウス派の異端を退けた。また皇帝の援助で、ローマにラテラン大聖堂、聖ペトロ大聖堂、聖ラウレンチオ教会などを建てた。

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◆祭りの終わりの大いなる日に、

2016年12月31日 07時22分57秒 | 聖書
イエスは立って、大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。」(ヨハネ七・三七)
主イエスは全き忍耐を保ち、祭りの終わりの日に至るまでユダヤ人の心に訴えられた。同じようにこの一年の最後の日においても、主は私たちの心に訴えられ、私たちに恵みを与えようとして待っておられるのである。主が年々私たちのある者に対してなされる忍耐は、まことに驚くほかない。主は、私たちの挑戦、反逆、そして聖霊に対する反抗さえ耐え忍ばれる。私たちが、なおあわれみの国にいるということは、実に驚異中の驚異である。
あわれみはきわめて明白に表された。なぜなら、イエスは叫ばれたからである。主は単に声を大にされたというのではなく、優しく語りかけられたのである。主は私たちに和解を訴えておられる。パウロは「神が私たちを通して懇願しておられるようです。私たちは、キリストに代わって、あなたがたに願います」と言っている。なんという熱烈な、心に迫ることばであろう。主は罪人たちのために泣き、母親がその子どもを愛するように私たちを御胸に抱き寄せられる。主の愛のなんと深いことか。このような呼びかけに対し、心を動かさないでいられるだろうか。
備えは十二分になされている。人がたましいの渇きをいやすのに必要なものはすべて備えられている。贖いは私たちの良心に平安をもたらし、福音は私たちの悟性に豊かな教訓をもたらす。またイエスのご人格は、私たちの心に最も気高い愛の対象を刻み、イエスにある真理は、私たちの全人格に最も純粋な栄養を供給する。渇きは激しい。しかし、イエスはそれを取り去ることができる。イエスはたましいが全く飢えていても、それを満ち足らせてくださる。
この宣言は最も自由なものである。すなわち、渇いている者はだれでも歓迎するというのである。そこには渇いているという以外に、何の差別も設けられていない。それが貪欲、野心、快楽、知識、安楽などの渇きであろうと、渇いている者はすべて招かれているのである。渇きそのものは、悪いものであるかもしれない。そこには、恵みのしるしはいささかもなく、肉欲をさらに満足させようとする罪のしるしのみが見られるかもしれない。しかし、主イエスが招かれるのは、人のうちに美徳があるからではない。主は自由に、だれかれの区別なく招かれるのである。
また、イエスご自身のみもとに来るということが、ここにおいて明白に宣言されている。罪人はイエスのもとに来なければならない。善行や、儀式や、教理に来るのではなく、十字架上で自らのからだの上に私たちの罪を負ってくださった贖い主のみもとに来なければならない。血を流して死に、かつよみがえられた救い主は、罪人にとって唯一の希望の星である。ああ、一年の最後の日において、太陽が沈む前に今、イエスのみもとに行って、主から飲む恵みを得たい。
ここには待つことも準備することも言われていない。飲むことのためには、何らの資格も要求されていない。だれが飲んでもよいのである。品性が罪に汚れているということは、イエスを信じる上でいささかも妨げとなりはしない。私たちはこの水を飲んで渇きをいやすために、金の杯も、宝石を散りばめた杯も必要としない。貧しい者も、ただかがんで口を流れにつけさえすればよいのである。どんなに汚れたくちびるであっても、神の愛の流れに触れることができる。そのくちびるは流れを汚さないばかりか、かえってその水によって清められるのである。
イエスは希望の泉である。愛する読者よ。優しい贖い主が、私たち一人一人に向かって叫ばれる愛の御声を聞け。
「だれでも渇いているなら、
わたしのもとに来て
飲みなさい。」
 
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詩篇1篇1-3節

2016年12月31日 07時21分49秒 | 聖書


1:1 幸いなことよ。悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に着かなかった、その人。
1:2 まことに、その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。1:3 その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。



 人にとって幸いなことというのは、多くあります。

結婚、就職も幸いの内の1つです。

人からの多くの祝福を受けます。

ところで、ここでの幸いというのは、神さまから祝福を受けるという意味での、幸いなことです。

神さまが喜んでくださって、その人々に祝福をくださるというのです。

では、どのような人々が祝福に預かるかと言いますと、「主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。」人だというのです。

人の語るすすめとか、人が語る人生訓のような教えではなくて、主が教えてくださっている教えを喜ぶ人だというのです。

主はみ言葉を持って人を教え、また御心を伝えておられます。

それを学んで、従う人を、主は祝福されるのです。

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黙示録21章1~4節

2016年12月31日 07時19分55秒 | 聖書


★また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。
そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」

■O:今日のコラム
黙示録19章から22章は、信仰の歩みのゴール、教会のゴール、イスラエルのゴール、人類の歴史のゴールが記されている偉大な箇所です。

ゴールが分からないマラソン大会に参加するなら、皆が途中で疲れ走る事を止めてしまうでしょう。同じ様に、ゴールを知らないで信仰生活を送るなら皆この世の楽しみと思い煩いで心がいっぱいになり、信仰の戦いを勇敢に戦い抜く事を止めてしまうでしょう。

しかし、ゴールを一心に見つめ、そこに用意されている栄冠を知っているランナーは、苦しみの登り道も、日照りの道も、襲って来る痛みや渇きを耐え、忍耐を持って走り抜きます。同じ様に永遠の救いとそこに用意されている朽ちる事の無い栄冠、永遠の報いを一心に見つめる時、私達は聖さを愛し、切に主イエスを求め、みことばを喜びとし、あらゆる信仰の試練を最後まで耐え抜く力を聖霊様を通して受け取る事が出来るのです。

共にこの一年の終わりに黙示録19章から22章を朗読し、私達に用意されているゴールに目を向け、新しい年の備えをして行きましょう。

■A:考えてみよう
黙示録19~22章を朗読しましょう。そして今年一年の一つ一つの恵みを数え主に感謝する時を持ちましょう。


■P:祈り



イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。

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12月30日(金)のつぶやき

2016年12月31日 01時31分04秒 | キリスト教
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◆その果ては、

2016年12月30日 16時02分46秒 | 聖書
ひどいことになるのを知らないのか。(Ⅱサムエル二・二六)
読者よ。もしあなたが、ただの自称信者であって、キリスト・イエスにある信仰をもっていないならば、次に述べるのが、あなたの終局の真の描写である。
あなたは礼拝に忠実に出席する。あなたの心が神と共にあるから出席するのではなく、他の人々が行くからあなたも行くのである。これがあなたの振り出しである。次の二十年か三十年、今のような状態が続くとしよう。外見は集会に出席して信者らしく見せかけているが、心は真の信仰をもっていない。
静かに聞いてほしい。あなたに、あなたのような人の臨終の床の有様を見せなければならないからである。彼の額は汗にぬれている。彼は目を覚まして叫ぶ。「神よ。死ぬのはつらいことです。……牧師を呼びに行ったか。」「はい。今来られます。」牧師が来る。「先生。私は死ぬのが恐ろしいのです。」「希望がないのですか。」「希望をもっているとは言えません。神の前に立つのが恐ろしいのです。ああ、どうか私のために祈ってください。」彼のために熱心な心からの祈りがささげられ、救いの道が何度も彼の前に示される。しかし、救いの綱を握らないうちに、私は彼が沈んでいくのを見る。その冷たくなったまぶたの上に、私は自分の指を置く。そのまぶたは、もう決してこの地上のものを見ることがないからである。その男はどこにいるのか。そして、その男の真の目はどこにあるのか。「ハデスで苦しみながら目を上げると……」とある。
ああ、なぜもっと早く目を上げなかったのか。それは、福音を聞くことに慣れきって、たましいがその下で眠っていたからである。ああ、もしあなたがかしこで目を上げることになるとすれば、あなたの嘆き、悲しみはどれほどであろう。それを救い主のみことばによって表そう。「父アブラハムさま。私をあわれんでください。ラザロが指先を水に浸して私の舌を冷やすように、ラザロをよこしてください。私はこの炎の中で、苦しくてたまりません。」
どうかあなたが神の御怒りのもとで、このことばを発することが決してないように。
 
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「もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬのです。

2016年12月30日 16時01分52秒 | 聖書


しかし、もし御霊によって、からだの行ないを殺すなら、あなたがたは生きるのです」(ローマ8:13)

誰しも外部から見ていると、よくわかる。
人の事は冷静に見ることができるので、見えるのだ。
いつも問題を起こす人の特徴がある。それは「私、私、私」だ。

どこまで行っても、ただ「私」なのだ。「私」しか無い。「私」がすべてだ。
強烈な自我がある。私はああで~こうで~、強固な自分があり、自分の思いがあり、誰にも触れさせない、御霊にすら触れさせない、恵みに自分で心閉ざしている。

だから問題なのだとでも、言おうとするなら、激怒だ。
「自分のことをわかってくれない」となる。すべてをシャットアウトして、自分の殻にこもる。
誰も入る事を許さない。人の事はわかるが、自分も同様だ。

肉は、強烈な自己愛だ。自分から一歩も出ない。自分で自己憐憫の殻にこもってしまう。
自分自身もどうだろう。「私」「私」だろうか。そここそが問題だ。

常に「私」が問題で、トラブルメーカーだ。
自己愛から、自分の殻から出て、御言葉に一歩従ってみよう。
御霊に従う時、心に平安が広がる。
御霊によって、生き生きと真に生きて行く。自分が変えられて行く。

自分が変えられるのは、御言葉に従う事によってだ。自我の殻が破られて行く。
一歩一歩を自我に従う選択でなく、主の言葉に従う選択をするなら、必ず変えられて行く。
心に喜びと平安を経験し、主のみわざを見て行く。
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「私」を自分で守る事をやめ、「私」を全て主に明け渡せるなら、何と世界が変わるだろう。
今、示されている御言葉はなんだろう。まず従ってみよう。


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今日の聖人の記念日

2016年12月30日 09時16分17秒 | キリスト教

聖メラニア

383年ごろ-438年

 メラニアは、ローマに生まれた。祖母は大メラニアであり、エルサレムに女子修道院を設立した聖人であった。
 メラニアは、397年に父から強制されて結婚したが、不幸にも2人の子どもを亡くし、夫とともに禁欲生活の道を選んだ。父の死後、莫大な財産を相続したメラニアは、それを貧しい人びとや、教会のため、また多くの奴隷解放のために使った。西ゴート族が襲ってきたときは、夫とともにローマを離れ、アフリカに行き、聖アウグスチヌスと出会ったといわれている。その後エルサレムに住み、431年、夫に先立たれてから、オリーブ山に彼の墓を作ってその近くに小屋を建て、祈りと修行の生活に励んだ。そのうちに彼女のもとに女性たちが集まり、修道院となった。

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◆事の終わりは、

2016年12月30日 09時14分54秒 | 聖書
その初めにまさり……。(伝道者七・八)
ダビデの主を仰ぎ見よ。その初めがどうであったかを思え。「彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。」あなたはその終わりを見るか。主は父なる神の右に座し、その敵を足台にしようとしておられる。「私たちもこの世にあってキリストと同じような者である」なら、当然十字架を負わなければならない。そうしなければ、決して冠を得ることはできない。あなたが泥の中をはって進むのでなければ、決して黄金の大通りを歩むことはできない。それゆえ、クリスチャンよ。雄々しかれ。「事の終わりは、その初めにまさり……」とある。
うごめく毛虫を見よ。なんと卑しい姿だろう。それが事の初めである。しかし、あの目の覚めるような羽をもち、日光の中にたわむれ、花の杯より蜜を吸い、幸福といのちに満たされている蝶を見るがよい。それが事の終わりである。あなたは死のさなぎになるまでは毛虫なのである。しかし、キリストが現れたなら、キリストのありのままの姿を見るので、キリストに似た者となる。主に似た者となることを覚えて心を安んぜよ。あなたが目を覚ますその時には、主のようになっていることを見いだして満ち足りるであろう。
天然のダイヤモンドは、研磨機にかけられてその全面を削り取られ、一見貴重と思われる部分までも失わなければならない。王の戴冠の際には、喜びのラッパとともに王冠が王の頭上に置かれ、その冠からはまばゆいばかりの光が輝く。しかしその光は、直前まで研磨機によって悩まされ痛めつけられていたあのダイヤモンドから出ている。このダイヤモンドに、あなた自身をなぞらえてみるがよい。あなたは神の民の一人であり、今は玉を磨く時なのである。信仰と忍耐をもって待て。王冠が永遠不朽の王の頭上に置かれるとき、一条の栄光の光があなたからも流れ出るであろう。
「彼らは、わたしのものとなる。――万軍の主は仰せられる。――わたしが事を行なう日に、わたしの宝となる。」まことに「事の終わりは、その初めにまさる」のである。
 
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ヨブ記42章9-17節

2016年12月30日 09時13分14秒 | 聖書


42:11 こうして彼のすべての兄弟、すべての姉妹、それに以前のすべての知人は、彼のところに来て、彼の家で彼とともに食事をした。そして彼をいたわり、主が彼の上にもたらしたすべてのわざわいについて、彼を慰めた。彼らはめいめい一ケシタと金の輪一つずつを彼に与えた。



 主はヨブの祈りをお聞きくださって、彼の友人達に災いを下すことをされませんでした。

それどころか、ヨブの兄弟達や知人達が彼の元に来て、ヨブが受けた苦しみを覚えて彼を慰めてくれました。

また後に、ヨブに子供達も与えられ、その繁栄を以前のもの以上として下さいました。

こうして、主はヨブを祝福してくださったのです。

 今、私たちの心に下記の詩篇の言葉が響きます。

42:1 「鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、神よ。私のたましいはあなたを慕いあえぎます。
42:2 私のたましいは、神を、生ける神を求めて渇いています。」と。

 み言葉を通して、神様はご自身のことを告げ、御心を伝えてくださっておられます。

その知識を与えてくださっておられるお方は、真に、生ける神であられるのです。

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詩篇119篇105節(黙示録20章)

2016年12月30日 09時10分52秒 | 聖書


★あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。

■O:今日のコラム
ハッピー・ハヌカ!と言われても、一体何かわからないかと思います。実は、今はクリスマスの原型となったと言われるユダヤのハヌカの祭りの真っ最中なのです。ユダヤ暦5777年、2016年のハヌカの祭りは8日間祝われるので、ちょうど12月25日からはじまり、2017年の1月1日で終ります。
この祭りは主が定められた例祭ではないのですが、この祭りの中に奥義が隠されています。
ハヌカの祭りの起原は、紀元前160年頃、アンティオコス4世によって神殿が汚されました。アンティオコス4世らは神殿を壊しただけでなく、神殿内にゼウス像を持ってきたり、ユダヤ人が忌み嫌う豚の血を神殿の中にぶちまけたりしました。
また、律法の書を読むことを禁じ、さらに安息日を祝うことも禁じました。
それに対して声を上げたのがイェフダ・マカバイというユダヤ人です。彼は汚された神殿を立て直し、宮を清めました。そして、神殿内で使う燭台用の油が無いことに気づき、取り寄せようとしましたが8日間かかってしまいます。しかし油は1日分しかありません。
そこで主に祈ると、なんと1日分しか無いはずの油が8日間絶えることなく燃え続ける奇跡が起こったそうです。それゆえ、ハヌカの祭りは別名宮きよめの祭り、また光の祭りとも言われます。イエス様もこの祭りを祝われたことが次のみことばから分かります。

「そのころ、 エルサレムで、 宮きよめの祭りがあった。時は冬であった。 イエスは、 宮の中で、 ソロモンの廊を歩いておられた。」(ヨハネの福音書10:22-23)

また、ハヌカの祭りは冬至の時期と重なります。冬至は一年で最も夜が長い時間です。これは、これ以上闇(夜)が長くなることがなく、これからは光(昼)の時間が長くなっていく事を啓示しています。
闇は光に打ち勝てません。

「光はやみの中に輝いている。 やみはこれに打ち勝たなかった。」(ヨハネ1:5)

そして、ハヌカの祭りでは、今でもキャンドルに光を灯してお祝いするという習慣があります。それに使う器具をハヌキヤと言います。形はメノラー(燭台)に似ているのですが、メノラーは枝が7本あるのに対して、ハヌキヤは枝が9本あります。(イスラエルに旅行した際は、お土産を買う時にメノラーとハヌキヤを間違えないようにしてくださいね)
9本の枝のあるハヌキヤの中心の枝は他と違っています。これは、「シャマッシュ」と言って、種火、しもべ、仕えるものという意味があります。まずこのシャマッシュに日が灯され、1日目はその隣のキャンドルに、2日目は1日目のキャンドルともう一本のキャンドル…というふうに、火を追うごとに1本ずつ灯す数が増えてき、8日目に全部が灯ります。
このシャマッシュはイエス様を意味しています。しもべであり種火であるイエス様の光が一人ひとりに灯されていき、やがて世界中に光が灯って行くことを啓示しています。

さらに、光は殺菌作用があります。太陽に当てると多くの菌は死滅します。アンティオコス4世(闇の力)によって汚された宮を清めるのは光です。しかし、現代では神殿はもうありません。
イエス様はこのように言われます。

「イエスは彼らに答えて言われた。 「この神殿をこわしてみなさい。 わたしは、 三日でそれを建てよう。 」(ヨハネ2:19)

イエス様は建造物ではなく、ご自身の御身体が神殿だと言われたのです。さらに、みことばにはこのようにも書かれています。

「神の宮と偶像とに、 何の一致があるでしょう。 私たちは生ける神の宮なのです。 神はこう言われました。「わたしは彼らの間に住み、 また歩む。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。」(2コリント6:16)

イエス様の十字架の死と復活の後、神の神殿はイエス様の御身体から私たちの身体へと移りました。
この光の祭り、宮きよめの祭りの時期、私たち自信をきよめる必要があります。何によってきよめるのでしょうか。光です。光とはみことばです。

「初めに、 ことばがあった。 ことばは神とともにあった。 ことばは神であった。この方は、 初めに神とともにおられた。すべてのものは、 この方によって造られた。 造られたもので、 この方によらずにできたものは一つもない。この方にいのちがあった。 このいのちは人の光であった。」(ヨハネ1:1-4)

終わりの時代、このことが本当に重要になってきます。マタイの24章で、イエス様は弟子たちが立派な神殿を指差した時、終わりの時代について語り始められます。

「この御国の福音は全世界に宣べ伝えられて、 すべての国民にあかしされ、 それから、 終わりの日が来ます。それゆえ、 預言者ダニエルによって語られたあの『荒らす憎むべきもの』が、 聖なる所に立つのを見たならば、  (読者はよく読み取るように。 )」(マタイ24:14-15)

私たちの聖なる所に立っているのは光でしょうか。闇でしょうか。私たちの魂の座に座っているのはイエス様でしょうか。それ以外のものでしょうか。神の宮である私たちの聖なる所に『荒らす憎むべきもの』が立つことが無いよに、私たちはみことばの光できよめ続けられる必要があります。

申命記6章にあるように、このみことばは私たちの心の板に刻まれ、そして額と手に置かれます。
また、今日の通読箇所である黙示録にもこのように書かれています。

「また私は、 多くの座を見た。 彼らはその上にすわった。 そしてさばきを行う権威が彼らに与えられた。 また私は、 イエスのあかしと神のことばとのゆえに首をはねられた人たちのたましいと、 獣やその像を拝まず、 その額や手に獣の刻印を押されなかった人たちを見た。 彼らは生き返って、 キリストとともに、 千年の間王となった。」(黙示録20:4)

みことばが獣の刻印から私たちを守ります。

今日のみことばにあるように「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。」来る2017年、皆様の歩みがみことばの光によって義の道へと導かれますように。


■A:考えてみよう
年末年始、みことばの光によって自分自身の内側を照らしていただこう。一日最低でも通読で決められている箇所(2章分)を音読することを決心しましょう。また、それ以上読むこともチャレンジしましょう。通読箇所に加えて、詩篇を5篇分、箴言を1章分、山上の垂訓(マタイ5,6,7章)。
それ以外にも自分で聖書朗読のプランを作り、それを一日のいつ行うかを決めましょう。第一のものを第一とすることにより、2017年が多くの実を結ぶ一年となることを祝福いたします。

「まことに、 その人は【主】のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。 3 その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、 その葉は枯れない。その人は、 何をしても栄える。 」(詩篇1:2-3)


■P:祈り
愛する天のお父さん、私たちにみことばが与えられていることを感謝します。私たちはみことばに飢え渇きます。真理を追求したいという情熱が湧き上がってきます。知恵と啓示の御霊を注ぎ、みことばの真理を悟らせて下さい。みことばを知ることはあなたを知ることです。みことばに口づけします。みことばを何よりも愛します。
私の中にみことばの喜びを爆発さてせ下さい。みことばは私の上あごに蜜よりも甘いです。そして、みことばの光によって私を照らし、きよめ続けて下さい。
愛する花婿なるイエス・キリストのお名前によってお祈りいたします。アーメン。

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12月29日(木)のつぶやき

2016年12月30日 01時32分45秒 | キリスト教
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◆あなたがたは、

2016年12月29日 17時50分45秒 | 聖書
キリストについて、どう思いますか。(マタイ二二・四二)
「あなたがたは、キリストについて、どう思いますか。」これは、あなたのたましいの健康状態を見る大いなるテストである。主はあなたにとって、「人の子らにまさって麗しく」、「万人よりすぐれ」、「すべてがいとしい」方であられるか。キリストがこのように重んじられるところでは、人のすべての霊的能力は力強く働く。あなたにとって、キリストの存在は高いか。それとも低いか。このバロメーターによって私はあなたの信仰を見極める。
もしキリストのことをほとんど考えず、そのご臨在なく生きることに満足しているならば、もし主の栄光を現すことをほとんど心にかけず、その戒めを顧みないならば、私はあなたのたましいが病気にかかっていることを知る。しかし、もしあなたの第一の思いが、「私はどのようにしてイエスの栄光を現したらよいか」であるならば、また日ごとの願いが、「ああ、できれば、どこで神に会えるかを知り」たい、であるならば、私はあなたに告げる。「たとえあなたに多くの弱点があり、神の子どもであるかどうかもほとんどわからなくても、あなたは安全である。なぜならイエスをこの上なく重んじているから」と。
私は、あなたの着ているぼろを気にしない。あなたは王なるキリストの装いをどのように考えているだろうか。私は、たとえあなたの傷口からどくどく血が流れていても、あなたの傷を気にしない。あなたはキリストの御傷をどのように考えているか。それはあなたにとって、輝くルビーのように尊いか。たとえラザロのように掃きだめの中にいても、私はあなたを低く評価しない。あなたは、美しい王を何と考えているか。主はあなたの心の中で、栄光の高貴な王座を占めておられるか。できれば、主をさらに高くあがめたいとあなたは願うか。主を賛美するメロディーに、もう一つのラッパを加えることができるならば、喜んで死にたいと思うか。あなたが自分自身についてどう考えようと、もしキリストがあなたにとって偉大であるならば、遠からずあなたは主と共になるであろう。
 
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