座間コミニティー

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◆神はモーセに、「わたしは自分のあわれむ者をあわれみ、

2016年11月25日 16時37分34秒 | 聖書
自分のいつくしむ者をいつくしむ。」と言われました。(ローマ九・一五)
これらのことばによって主は、ご自分が主権者としての意志によって恵みを与えたり、恵みをさしひかえたりする権利をもつことを、明白に主張しておられる。生殺の権利が独裁君主に与えられているように、全地の審判者はその裁断に従って罪人に罪を宣告したり赦したりする権利をもっておられる。
人はその罪のために、神に対するすべての権利を喪失した。彼らは滅びに値する。彼らがすべて滅びたとしても、不平を言う根拠はいささかもない。もし主が介入して、幾らかの者を救われるとするならば、主は正義の目的が妨げられない範囲内でなされる。しかしもし、罪を宣告された者がその正しい判決のままに苦しむのが最善であると判断されたならば、何びとも主を法廷で責めることはできない。
人間の権利をすべて神と同じ立場に置くべしと論ずる議論は、みな愚かであり無礼である。私たちが自分自身の全き破滅と当然受けるべき罰を思い、罪に対する神の裁断の正しさを考えれば、主が私たちを救う責任をもっておられないという真理に対して、もはや異論はないだろう。もし主が他の人々を救いに選ばれたとしても、私たちはあたかも主が不正をなさったかのように、つぶやくことはないであろう。もし幸いに、主が私たちを顧みてくださったとするなら、それは、私たちが受けるに値しない主の好意の、自由な発動である。私たちはそれに対して、とこしえに主の御名をたたえなければならないと感じるであろう。
神の選びの対象となった人々は、どのようにしてその神の恵みを十分にあがめられようか。彼ら自身には誇るべき何ものもない。神の主権がそれを除くからである。主のみこころのみがたたえられ、人のいさおしなどは永遠の侮辱の中に投げ入れられる。選びの教理ほど、私たちを謙遜にさせるものはない。これは私たちに感謝の心を起こさせ、その結果、私たちをきよめる。信者よ。選びを恐れず、慎みつつ喜べ。
 

「わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ・・・

2016年11月25日 16時36分28秒 | 聖書

それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり・・・」(エレミヤ29:11)

ジグソーパズルをした事があるかも知れない。
一つ一つのピースが埋まるべき所に埋まると、素晴らしい絵が完成する。
感動ものだ。

一つ一つのピース自体だけを見ると、断片でわけがわからない。
しかし、それぞれのはまるべき場所にふさわしくはめ込んで行くと、見事な絵が出来上がる。

一つのピースとして無駄なものはない。全ピースが欠く事なく必要だ。
私達の日常に起こる一つ一つの出来事も、「なぜ?」「どうして?」と戸惑う事が多い。
理解できず、わけがわからない事がある。

しかし、それら一つ一つの出来事に、神の計画と意図がある。
ピースが埋まって、序々に全体が見えて来ると、どのような絵かが、明らかになるように、時の経過と共に、主のお心がわかって来る。

教えようとして下さっている事がわかる。
一つ一つ出来事を、後で考え合わせた時に、ピタッとはまって解き明かされる事を、経験した事があるだろう。

一つ一つがつながって、主の言わんとしておられる事が見えて来る。
一つとして無駄な出来事は無い。今、試練の中だろうか。
今、理解は出来ないが、それは主の御手から来ている。

一羽の雀さえ父のお許しなしには地に落ちない。神のなさる事は、時にかなって美しい。
今はわからないが、信仰によって受け入れよう。それがベストだったと、後でわかる。
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理解できない事の中にいるのは不安だろう。
でも全てが神様の御手から来ていると私達は知っている。
それはわざわいではなく、との約束の御言葉がある。
信仰によって今日も平安に守られますように。


今日の聖人の記念日

2016年11月25日 07時41分23秒 | キリスト教

聖カタリナ(アレキサンドリア)おとめ殉教者

?-309年

 カタリナは、エジプトのアレキサンドリアの貴族の家に生まれ、早くから学問を修め、才能に恵まれていた。あるとき彼女は、ひとりの隠修士からキリストの教えを聞き、洗礼を受けた。18歳のとき、ローマ皇帝マキシミヌスは、市民たちに偶像崇拝を命じ、従わない者は処罰することを公布した。カタリナは、公に信仰を表わしたので、皇帝は50人の学者を集め、彼女を屈服させようとした。しかし、学者たちは彼女に感化されて、キリスト教こそ真の宗教であると公言し、改宗した。憤慨した皇帝は、学者全員を処刑したが、カタリナに対しては、その学識の豊かさと美しさに心をひかれていたので、彼女が信仰を捨てれば、皇后にするとまで言った。しかし、彼女が拒否したので、皇帝は怒り、彼女を車輪に縛りつけて身を引き裂くという刑を執行するよう命じた。それでも彼女が命を落とさなかったため、最後は、斬首された。

 彼女の遺体は、天使によってシナイ山に運ばれたと伝えられている。

 カタリナを敬う習慣は、8世紀ごろに東方教会から西方教会に伝わり、10世紀にはイタリアを中心に広まった。釘を打った車輪と、イエス・キリストとの婚約指輪、剣などを持った姿で描かれている。

 若い女性、学者、弁護士などの守護の聖人とされている。


◆施し散らす人

2016年11月25日 07時40分18秒 | 聖書

貧しい者に施す者は不足することがない。
しかし目をそむける者は多くののろいを受ける。(箴言二八27)
取りこむばかりで、出さない人・施さない人がいます。パレスチナの死海は、水を取り入れるばかりで、どこからも出さないので塩分が高くなり、生き物が一つも生きられない「死の海」となりました。
パウロは、「金銭を愛することは、あらゆる悪の根です」(Ⅰテモテ六10参照)と言いました。欲の深い人は、十戒の一つであるむさぼりを犯すばかりではありません。争いを起こして、家庭や社会から平和を奪います。また、何よりも自らのはらわたをくさらせるのです。
私の尊敬する老牧師は、月給十万円でしたが、一年間で五百万円から六百万円を献金していました。月給だけでしたら一年分の百二十万円は、一家の生計を支えるだけでも十分だとは思えません。けれども、この牧師先生は与えることばかり考え、祈りの目標を立て、惜しげもなく与えました。そして、余分のものは、自分のために一円も使いませんでした。不思議なくらい、この牧師のところに金が集められ、必要なことのために、あちらこちらへ分けられていきました。「お金のことを通貨というけれど、ほんとだね。お金が、ぼくのふところを川の流れのように通過していくよ。でも、いつでも新鮮な恵みをいただいて、不足を感じたことはないんですよ。まかず刈らず倉に収めない空の鳥まで養いたもう神は、私を十分以上に養っていてくださいます。」こう話してくださいました。
私たちは、何一つこの世に持ってこなかったし、また何一つ持って出ることもできません。とするなら、豊かに与えられるのは、惜しみなく分け与えるためではないでしょうか。私の友人のつくった賛美歌には、「おしみなく与えた主に、おしみなく捧げよう」(『友よ歌おう』いのちのことば社刊、五六頁参照)とあります。
 

◆捕われ人には赦免を……

2016年11月25日 07時39分36秒 | 聖書
告げるために。(ルカ四・一八)
捕われ人を解放できる者は、イエスのほかにない。真の自由は主によってのみもたらされる。
それは正当に授けられる自由である。万物の相続者である御子は、人を自由にする権利をもっておられるからである。
それは高い価によって買われた自由である。キリストは解放を宣言されるが、それは御血をもって買われたものである。あなたが自由にされたのは、主が拘束され、苦しまれたからである。身も心も軽くなったのは、主が代わって重荷を負われたからである。
高い価によって買われたものであるにもかかわらず、それは惜しげもなく主から与えられる自由である。イエスは、この自由を与えるために、私たちに何も要求されない。私たちが荒布をまとい、灰の中に座しているのを見て、美しい自由の着物をまとえとお命じになる。主は私たちをあるがままの状態で救ってくださる。
イエスの与えられる自由は永久不変であり、どのような鎖によっても私たちを再び縛ることはできない。主なる方が私に「捕われ人よ、あなたを解放する」と言われると、永遠にそうなるのである。この世は誘惑をもって私たちを陥れようとするかもしれない。しかし、私たちの味方である方は、私たちのすべての敵よりも強い。私たちの偽りに満ちた心は、私たちを苦しめ悩ますかもしれない。しかし、私たちのうちに良いわざを始められた方は、そのわざを継続しまた完成される。もし神が私たちを無罪とされたなら、だれが私たちを罪に定めることができよう。高い峰の上を飛び、雲のかなたに舞い上がるわしも、キリストが解放されたたましい以上に自由ではない。
もし私たちが、律法のもとになく、そののろいから自由になっているのであれば、私たちは感謝と喜びをもって神に仕え、私たちのもっている自由を実際に示そうではないか。「ああ、主よ。私はまことにあなたのしもべです。私は、あなたのしもべ、あなたのはしための子です。あなたは私のかせを解かれました。」「主よ。私はどうしたらよいのでしょうか。」
 

ヨブ記33章1-11節

2016年11月25日 07時38分06秒 | 聖書


33:8 「確かにあなたは、この耳に言った。私はあなたの話す声を聞いた。
33:9 『私はきよく、そむきの罪を犯さなかった。私は純潔で、よこしまなことがない。
33:10 それなのに、神は私を攻める口実を見つけ、私を敵のようにみなされる。
33:11 神は私の足にかせをはめ、私の歩みをことごとく見張る。』」



 まずエリフは、ヨブの語っていたことに耳を傾けてきたと告げます。

ヨブが告げてきたこと、それは次のことだ、と。

自分は神の前に罪を犯してはいない。

従って、自分は清い。

自分はその心において、神の前に間違ったことを思ったりしてはいない。

こうした自分であるのに、神は自分を責める口実を見いだして、自分を責め立てている。

神は自分を敵のように見て、自分の足を止め、自分の歩みを見張って、自分を苦しめている、と。

彼はこのように語って、ヨブの主張を告げたのです。

 彼はヨブの語っている言葉、口から出ているその主張に目を留めています。

しかし彼は、ヨブの心の苦しみには、触れようとはしていないのです。


ヨハネの福音書9章28節(詩篇87篇)

2016年11月25日 07時36分05秒 | 聖書


★彼らは彼をののしって言った。 「おまえもあの者の弟子だ。 しかし私たちはモーセの弟子だ。

■O:今日のコラム
みなさん、いつもマナメールをご購読くださり、心から感謝します。現在、2,000人以上の方がご登録くださり、また、多くの方が受け取ったメールを沢山の方に転送されているという報告を聞いています。外の働きに遣わされたときも、多くの方が「マナメール読んでいます」と言って励まして下さいます。心から感謝します。
しかし、私の個人的な願いがあります。それは、マナメールを見て満足するのではなく、むしろ、みなさんご自身がみことばを読み、そこから直接神様から語りかけられ、その語りかけを受けてその通りに行動されることです。もし、このマナメールだけをご覧になってみことばを読んでいないというのであれば、今日、切なる飢え渇きを持ってみことばを開きましょう。必ず主はあなたに必要なみことばを指し示して下さいます。

さて、今日の聖書の箇所は、生まれつきの盲人が安息日にイエス様に癒やされるという箇所です。多くの事をこのエピソードから教えられますが、注目したいキーワードは「目」「親子」「安息日」「罪」ということばです。
福音書では、多くの人が癒やしを受けますが、その多くの箇所で親子が登場するのにお気づきでしょうか。今日の箇所もこのように書かれています。

(1)罪と親子

「弟子たちは彼についてイエスに質問して言った。 「先生。 彼が盲目に生まれついたのは、 だれが罪を犯したからですか。 この人ですか。 その両親ですか。 」(2節)

ここから読み取れることは、当時のユダヤの文化において、病は罪から来るもので、先祖から流れてくる咎が原因だ」と考えられていたのではないかということです。
その証拠に、弟子たちは盲人を見た時に上のような質問をイエス様にしたのではないかと思います。

「それらを拝んではならない。 それらに仕えてはならない。 あなたの神、 【主】であるわたしは、 ねたむ神、 わたしを憎む者には、 父の咎を子に報い、 三代、 四代にまで及ぼし、」(出エジプト記 20:5)

咎とは罪の結果生じる具体的な罰せられるべき行為です。もし、誰かが罪を犯し、悔い改めないままで子孫を残すなら、その咎は三、四代にまで及ぶのです。そして、「罪から来る報酬は死です。 しかし、 神の下さる賜物は、 私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」(ローマ6:23)

そうです。どのような罪・咎を背負っていても、親からどのような罪・咎が流れてきていても、永遠のいのちはキリストのうちにあります。この方の流された命である血によって、私たちの罪・咎は洗い清められます。悔い改めと血潮をもって、日々自分の、そして先祖から流れてくる罪・咎を洗い流していきましょう。
そして、悔い改めるなら、同時に肉体的な病も癒やされていくと信じます。

(2)罪と目
しかし、ひとつ問題があります。それは、私たちの霊の目が閉ざされているので、自分の罪・咎を悟ることが出来ないということです。
イエス様は今日の聖書の箇所で、「目が開かれる」ということと「罪」を紐付けられています。
私たちは不思議なもので、他人の罪や失敗はすぐに気づきます。しかし、案外自分の罪や失敗は気づいていないものです。ですので、私は人の弱さや罪の性質、失敗を見るのであれば、それを自分のものとしてとらえ、みことばを通して悔い改めます。
人に弱さや罪の性質が見えるのは、それが私たちの内側にあるものであり、それが相手に写っているだけであるということを知らなければなりません。

「また、 なぜあなたは、 兄弟の目の中のちりに目をつけるが、 自分の目の中の梁には気がつかないのですか。」(マタイ7:3)

相手の弱さを見る時、相手を裁くのではなく、まず、それらを自分の罪の性質として認識して悔い改めること。それが上のみことばのように、まず自分の目の中から梁を取り除けるということだと思います。
罪と目は密接に関わっています。皆さんの霊の目が開かれ、イエス様の輝かしい栄光と聖さを見て、自分の光が当てられてない部分を悟ることが出来ますように。

(3)罪と律法
また、もう一つの問題は、他人の弱さが何であるかをはっきりと見分けなければならないということです。
私たちの心に語りかける声は、大きく分類して、神からの声、悪魔からの声、そして自分自身の肉から出た声に分けられます。私たちはこれを見分けていく必要があります。
それでは、どのようにしてこれを見分けることができるのでしょうか。人生経験からもあるいは可能かもしれませんが、それでは不十分です。それらを見分ける唯一の方法はみことばを通してです。

「それでは、 どういうことになりますか。 律法は罪なのでしょうか。 絶対にそんなことはありません。 ただ、 律法によらないでは、 私は罪を知ることがなかったでしょう。 律法が、 「むさぼってはならない」と言わなかったら、 私はむさぼりを知らなかったでしょう。」(ローマ7:7)

律法とは、広い意味でモーセ五書、また旧約聖書を指します。上のみことばに書かれているように、たしかに律法が「むさぼってはならない」と言ってくれないと、むさぼりという事自体を私たちが認識できなかったでしょう。
聖書、特に旧約聖書を読む時に「神様は怖い方。なぜならいつも私を責めて、私を裁くから」という方がいらっしゃいます。それは事実です。しかし、なぜそのような事を愛に満ち溢れた天のお父さんがされるかを知る必要があります。
また、黙示録を読んでも同じように「怖い」と感じる方もいらっしゃいます。しかし、それは天のお父さんの愛です。
なぜなら、天のお父さんは、私たちから罪の性質を全て切り離したいと切に願っておられるからです。神様は聖なるお方ですから、私たちも神の子どもとして聖くなっていく必要があります。そのような霊的な成長を妨げてしまうのが私たちの内にある罪の性質です。
聖書のみことばは、私たち自信を滅ぼそうとしているのではありません。私たちの中にある罪の性質を私たちから切り離し、聖霊様の火によって焼き尽くしたいと願っているのです。
ですので、聖書を読んでいて罪責感がやってくるなら、素直に「神様、私の中にある弱さを認めます。これを2000年前にイエス様は背負ってくださり、十字架の死と葬りと復活を通して私に永遠の命を与えてくださったことを感謝します。私の弱さはイエス様の血潮によって強さへと変えられたことを感謝します」と祈ってみて下さい。
この祈りを続けていくうちに、自分がどれほど霊的な圧迫の下に生かされていたかを知ることができるでしょう。解放されるなら、本当に心も身体も軽くなります。
天の父が完全であるように、私たちも完全になることを目指していきましょう。

(4)安息日
最後は安息日です。ユダヤの人々は安息日を守ることに命をかけていました。なぜなら安息日を守ることは律法で命じられているからです。これを守らなければ民から断ち切られるか、石打にされてしまいます。それは守ることに必死になるのも分かります。
しかし、残念なのは彼らはその律法の本質を理解していなかったということです。律法の本質は天の父の愛です。神様は私たちをぎゅーっと抱きしめたいからこそ、私たちの内にある罪の性質を律法により悟らせ、それをイエス様の血潮で洗い流されます。
しかし、当時の律法学者たちは目的を見失い「安息日を守る」ということが目的となってしまっていました。本来の目的は天の父の所へ行くことです。安息日はその手段です。
長い歴史の中で、彼らは律法を守ることが全てになってしまっていたのです。神の教えを人の教えへと変えてしまい、自分自身が重荷を負ってしまっていました。イエス様は言われます。

「すべて、 疲れた人、 重荷を負っている人は、 わたしのところに来なさい。 わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、 へりくだっているから、 あなたがたもわたしのくびきを負って、 わたしから学びなさい。 そうすればたましいに安らぎが来ます。 わたしのくびきは負いやすく、 わたしの荷は軽いからです。 」(マタイ11:28-29)

私たちが負うのはイエス様の下さる荷物です。
特にクリスチャンとしての歩みが長くなってくると、神様の教えからの教えから徐々にそれていってることにすら気付かないこともあります。それを悟らせることができるのが律法です。みことばです。

今一度、私たちは律法の本質に立ち返りましょう。
イエス様は律法を廃棄するために来られたのではなく、成就するために来られました。(マタイ5:17)
イエス様は律法を書かれた張本人です。著者が直接ご自分の書かれたことをその御口で解説されているのが福音書であり、それが凝縮されているのがマタイ5~7の山上の垂訓です。

もし、律法をそのまま守るのであれば私たちは死に向かっていくかもしれません。しかし、律法を成就された方、イエス様に従っていくなら、私たちは永遠の命を持つことが出来ます。

今日の聖書の箇所で律法学者が言ったことば「おまえもあの者の弟子だ。 しかし私たちはモーセ(律法)の弟子だ。」これは小さなことではありません。


■A:考えてみよう
私からもみなさんに質問します。律法に従いますか。それとも、イエス様に従いますか。
私たちはもう一度、律法の本質を知る必要があります。それは自分の力では悟ることが出来ません。
律法の書をイエス様の十字架を通して見る必要があります。それだけではなく、御霊の助けが必要です。
この事が1ヨハネ5章7、8に書かれていることです。

「あかしするものが三つあります。 御霊と水と血です。 この三つが一つとなるのです。」

御霊によって祈り、水(みことば)を朗読し、悔い改めとイエス様の血潮を宣言して祈る祈り。これを毎日続けていくなら私たちはキリストの弟子として成長させられます。

そして、日本の中で忠実にこれらを続ける皆さんを通して、この国に国家的な、今まで歴史上誰も見たことがなかったような大リバイバルが起こっていくことを祝福します。


■P:祈り
愛する天のお父さん、あなたはいつも良いお方です。あなたが私を愛してくださることによって、時には厳しく戒めてくださることも感謝します。その戒めは私たちを滅ぼすものではなく、むしろ生かし、永遠のいのちへと至らせて下さる道であることを感謝します。
どうか父なる神様、あなたが下さる知恵と啓示の御霊を注いで下さい。そして、私たちの霊の目を開いて下さい。あなたをもっとはっきりと見るために。みことばの悟りを与えて下さい。みことばを通してあなたと個人的な関係をもっと深めていくことが出来ますように。
今日もイエス様の血潮で私たちの罪の性質を洗い流し、清めて下さい。御霊で満たし続けて下さい。
そして、あなたが定められた時を悟り、それに向けて具体的に備えをしていくことができる信仰と行動力を与えて下さい。
このマナメールを読んでくださっている一人ひとりを通して、この国の国家的なリバイバルがもたらされることを感謝します。

イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。


11月24日(木)のつぶやき

2016年11月25日 01時37分35秒 | キリスト教