座間コミニティー

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◆主に感謝し、

2016年11月05日 16時41分08秒 | 聖書
御名をほめたたえよ。(詩篇一〇〇・四)
私たちの主は、ご自分の民がすべて、主のほむべき人格についての高く幸いな思想を豊かにもつことを望まれる。イエスは、その兄弟たちがイエスを低く評価することを望まれない。花嫁が主の美しさに歓声をあげることを喜ばれる。私たちは、主をパンや水のような、生命を保つための必要最低のものとすべきではない。たましいを魅了するたぐいない歓喜とみなすべきである。なぜなら彼は、ご自身をこよなき美を誇る「すばらしい値うちの真珠」、言うことのできない香りを放つ「没薬の袋」、尽きることのない芳香をただよわせる「シャロンのサフラン」、無上のきよさを装う「ゆりの花」として表現されたからである。
キリストについて崇高な思想を得る一つの助けとして、天上にあって、主がどのように評価されているかを覚えよ。天にあっては、物事が正しい標準で測られる。神は、私たちに対する言うことのできない賜物である御ひとり子を、どれほど尊んでおられるか。また主の足もとで顔をおおうことを無上の誉れとする天使たちは、主を何と考えていることか。そして血潮に洗われた聖徒たち――夜も昼も御名にふさわしい賛美をささげる彼らが、主をどのように考えているか。
キリストを高く評価することは、私たちを主との正しい関係にかなう行動に導く。御座に座しておられるキリストを高く仰げば仰ぐほど、御座の下で身を低くすればするほど、私たちは主のためになすべき分を正しく行うために備えられる。私たちが主イエスの権威に喜んで服するために、主はご自身を高く評価することをお望みになる。主を高く評価するならば、私たちの愛は増す。愛と尊敬とは互いに手をつなぐ。
だから信者よ。あなたの主のすぐれた点を十分に考えよ。主が人性をとる前にもっておられた本来の栄光を学べ。御座を捨てて十字架の死へと進まれた無比の愛を考えよ。よみのあらゆる軍勢を征服された主をあがめよ。よみがえり、冠を受け、栄光の御座に着かれた主を仰げ。主の御前に身を低くせよ。こうしてこそ、主に対する愛は本来の姿になる。
 

「お前の弟が来て、だましたのだ。

2016年11月05日 16時40分22秒 | 聖書

そしておまえの祝福を横取りしてしまったのだ」(創世記27:35)

イサクは長男エサウに祝福を与えようと、獲物の料理を持って来るようにと言った。
それを聞いた母リベカは弟ヤコブにその祝福をと、視力の衰えているイサクをだました。

イサクはエサウだと思い込み祝福を与えた。そこにエサウが戻り、事の次第を知った。
イサクは激しく身震いし、エサウは大声で泣き叫んだ。

企みを知ったエサウは怒りでヤコブを殺そうとした。それで家におれず、逃亡し叔父の所へ身を寄せるはめになった。

家族が傷つけ合い、バラバラで、皆が不幸だ。どこに問題があったのか。
イサクは「兄が弟に仕える」との神の御心が示されているに関わらず、自らの肉の思いでエサウを偏愛した。

リベカもヤコブを溺愛し、神を信じ、神の主権のもと、神がされる事を待ち望むのでなく、肉で狡猾に画策し祝福を奪った。

ヤコブも神の計画を信じ、委ねるのでなく、父をだまし、自力で奪い取った。
エサウは長子の権利を豆の煮物と引き換えた。

「長子の権利を売った俗悪な者」彼は長子の権利を軽んじた。皆が神を仰ぎ、神に従うのではなく、自己中心に、肉の思いで動き、招いた結果だ。

親子、夫婦、兄弟関係、皆に亀裂が入り、ぐちゃぐちゃだ。神は大きなご計画の中で、これらすべてを益として行って下さったが、しかし、ここで学べる。

肉で、自分の思いで動くのでなく、神の主権を認めて、神を待ち望み、委ねて歩む事がいかに祝福であり、大切かを。
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自分の思いで現状を見て行く時、恐れと不安で一杯になる。神様がして下さる・・の視点に立てますように。
起こることの中に神様を見つめて歩めますように。


今日の聖人の記念日

2016年11月05日 07時45分00秒 | キリスト教

聖ザカリアと聖エリザベト(洗礼者ヨハネの両親)

 

 新約聖書のルカ福音書では、エリザベトとザカリアは「二人とも神の前に正しい人で、主の掟と定めをすべて守り、非のうちどころがなかった」と書かれている(参照 ルカ1.5-25)。

 彼らには、子どもができず、すでに2人は年をとっていた。そのころ、ザカリアに大天使ガブリエルが現れて、「エリザベトに子どもが産まれる。その子をヨハネと名付けよ」と告げられた。ザカリアは、その言葉を信じなかったため、預言が成就するまで話すことができなくなった。

 ヨハネが誕生すると、親類たちは、割礼を施し、父の名を取ってザカリアという名を付けようとした。ところが、ザカリアが「この子の名はヨハネ」という字を板に書いた。するとたちまち彼は話すことができるようになり神を賛美し始めた。これは、ザカリアの賛歌として知られている(ルカ1.68-79)。

 後の伝承によると、ザカリアはヘロデ王からヨハネの所在を尋ねられたときに、決して言わなかったために殺されたといわれている。
 


◆あなたは本気で叱れるか

2016年11月05日 07時43分48秒 | 聖書

あからさまに責めるのは、
ひそかに愛するのにまさる。      (箴言二七5)
「愛するあまり、悪いことをしても何も注意しないより、しかる時ははっきりしかるほうがいいのです」と、リビングバイブルでは訳しています。
ひょんなことからある時、私の家のおばあちゃんと私の妻が、やくざの大親分と話し合う機会がありました。人を二人殺し、十八年間も刑務所暮らしをし、今も保釈中のその人は、こう言ったそうです。「わしは、箸にも棒にもかからないわるさ。だれもわしを叱ってくれる人がいなかったからな。」
陰で批評したり、ほかの人の品定めをする人は多くいます。しかし、本気になって叱ってくれる人・直言してくれる人は実に少ないのです。
あなたは、本気で人を責められますか。叱れますか。親であるのに本気で叱らない。教師・先輩であるのに、本気で直言しない。友人であるのに、本気で責めない。――これは、どこかが間違っています。どこが、間違っているのでしょうか。
第一に、自分だって模範的でもないのに人のことを言えるかという弱気や遠慮もありましょう。第二に、こんなことを言ったら、いやがられたり逃げられるばかりだ。失うことのほうが多くて効果は少ないという恐れや計算もありましょう。第三に、そんなことを言って憎まれたくない、人によく思われたい、格好よくいきたいという気持ちも働きましょう。
しかし、ほんとうに叱れない、また本気で直言できないことに、二つの根本的理由がないでしょうか。第一は、何がほんとうによいことなのか、何が人生のほんとうの目標なのか、自分自身で知らないし分からないことです。つまり、神を知らないことです。第二は、ほんものの愛を持たず、結局エゴイストだということです。
 

◆あなたを攻めるために作られる武器は、

2016年11月05日 07時43分01秒 | 聖書
どれも役に立たなくなる。(イザヤ五四・一七)
今日は英国の歴史の上で有名な日であり、神はこの日、英国民に対して二度も大いなる救いのみわざをなされた。すなわち、一六〇五年の今日は、英国の議会を破壊しようとしたある人々の陰謀が暴露された日である。彼らが私たちに対して地下の洞窟で陰謀を燃やした時、神は、天から鈍い光を下して、それを白日の下にさらされたのである。そして、第二の一六八八年の今日は、ウィリアム三世がトルベイに上陸した日である。このことによって、権勢を握ろうとする国王派の野望が粉砕され、宗教上の自由が確保された。
この日は若い人たちのお祭り騒ぎのためにあるのではない。むしろこの日は聖徒たちの歌によって守られるべきである。私たちの清教徒の祖先たちは、敬虔な態度でこの日を特別の感謝をささげる日とした。マシュー・ヘンリーによって年々この日になされた説教の記録が今も残っている。
私たちプロテスタントの精神をもち、自由を愛する者は、この記念日を聖なる感謝をもって迎えなければならない。私たちの心とくちびるをもって、「私たちはこの耳で、先祖たちが語ってくれたことを聞きました。あなたが昔、彼らの時代になさったみわざを」と言おうではないか。
神様、あなたはこの国民を福音の本拠となし、敵が起こり立った時にもその手から守ってくださいました。主よ、度重なる救いのみわざに対して、私たちにも重ねて歌をささげることを得させてください。私たちが反キリストを憎むことをいよいよ深くさせてください。また彼らの絶滅の日を早くしてください。その時まで、常に私たちは「あなたを攻めるために作られる武器は、どれも役に立たなくなる」という約束に信頼します。
今日、イエスの福音を愛する者はすべて邪教の絶滅と神の真理の伝播を願い求めるべきではないだろうか。さらに私たちは自分の心を探り、内にひそんでいるかもしれない、自分を義とする律法主義的な残りかすを、追い出そうではないか。
 

ヨブ記26章1-4節

2016年11月05日 07時41分28秒 | 聖書


26:2 「あなたは無力な者をどのようにして助けたのか。力のない腕をどのようにして救ったのか。
26:3 知恵のない者をどのようにしていさめ、豊かなすぐれた知性を示したのか。」




 ヨブは、神が偉大な方であることをよく知っています。

ですから、ヨブの友人達が神様の偉大さを語る時に、そのことを否定したり、無視したりしているわけではありません。

誠に、彼らが語る神の偉大さということについては、ヨブも心から同意をしているのです。

 ところが、時に人生には、人にはわからないことがある。

その1つは、ヨブのように信仰を持ってまじめに生き、主の御心をなそうとしている人が苦しめられ、又その持てるものの一切を奪われるという不幸を負うようなことは、一体なぜなのか。

こうした深刻な問いに対して、人はすぐ答えを見いだすことが出来るのか、というのです。

ところが、ヨブの友人達はいとも簡単に、ヨブに対して答えを述べる。

ヨブはそうした彼らに対して、誰があなた方にそのような知恵と知識を与えたのか、というのです。



1ヨハネ1章 :7~10節

2016年11月05日 07時39分12秒 | 聖書


★しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。
もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。もし、罪を犯してはいないと言うなら、私たちは神を偽り者とするのです。神のみことばは私たちのうちにありません。

■O:今日のコラム
私達の魂はただ一度、十字架の上で成された主イエス・キリストの完全な贖いと、十字架の上で流された主イエスの血潮による継続的な聖めを必要としています。

ヨハネは手紙に「 もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し」と書いています。ここにある「罪を赦し」と言う言葉はただ一度完全な赦しを与えて下さると言う意味です。

しかし、続く「すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」と言う言葉は「継続して聖め続けて下さる。」と言う意味です。

ただ一度の罪の赦しと、継続的な聖めを受ける為の重要な秘訣は、私達が自分の罪を言い表す事です。

罪を言い表し、主イエスの血潮を告白して祈る時、今もなお生きて働く主イエスの血潮が私達の罪を洗い、完全な聖さを与えて下さるのです。

そして、血潮により聖められた私達の魂は良い地となり、主の御言葉の実を豊かに結ぶ様になります。しかし、私達が悔い改めや罪を告白する事を拒むなら私達の魂は頑なになり、御言葉の実を結ぶ事が出来なくなります。「もし、罪を犯してはいないと言うなら、私たちは神を偽り者とするのです。神のみことばは私たちのうちにありません。」(10節)

日々、悔い改めと血潮の告白により主を愛し、主に従順する柔らかな心を受け取り続けましょう。

■A:考えてみよう
悔い改め、主イエスの血潮を告白して祈る時を持ちましょう。


■P:祈り



イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。


11月4日(金)のつぶやき

2016年11月05日 01時32分18秒 | キリスト教