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◆もし神が光の中におられるように、

2015年08月31日 16時40分39秒 | 聖書
私たちも光の中を歩んでいるなら……。(Ⅰヨハネ一・七)
 
私たちはこのような水準に達し得るのだろうか。私たちが「私たちの父」と呼ぶ神に関して、「神は光であって、神のうちには暗いところが少しもない」と記されている。私たちは、この神のように、はっきりと光の中を歩むことができるだろうか。たしかにこれは、私たちの前に置かれた模範である。救い主ご自身がこのように言われたからである。「あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。」私たちは、神の完全にとうてい及ぶことはできないと感じるかもしれない。しかし、それを追求すべきであり、その標準に達するまでは決して満足してはならない。まだ若い芸術家が鉛筆を手にする時、ラファエロやミケランジェロに匹敵することを望めない。しかし、心に高貴な理想をもたないならば、平凡な画家で終わるだろう。
神が光の中におられるように、クリスチャンも光の中を歩めというみことばは、程度ではなく、類似を意味するものと思う。私たちは真に、また心から、正直に光の中にあるが、神と同じ程度に光の中にいることはできない。私は太陽に住むことはできない。それは私の住まいとしては明るすぎる。しかし、私は日光の中を歩くことはできる。そのように私は、本質的に無限に善であられる万軍の主に属している完全な純潔とまことには達し得ないが、主を常に私の目の前に見て、内に住んでくださる聖霊の助けによって、その御姿に似るように努力することはできる。
有名な聖書注解者ジョン・トラップは言った。「私たちは質(クォリティ)において、神が光の中におられるように光の中にいるかもしれない。しかし、神と同程度(イクォリティ)にいるのではない」と。
私たちは神と同じ光をもち、神がその中を歩かれるようにその中を歩くべきである。しかし、聖潔と純粋とにおいて神と程度を同じくすることは、私たちがヨルダンを渡り、いと高き方の完全に入るまで残されなければならない。聖なる交わりと完全な聖めは、光の中を歩くことと結ばれていることを心に留めよ。
 
 

『イエスは「わたしにさわったのは、

2015年08月31日 16時39分37秒 | 聖書

だれですか」と言われた』(ルカ8:45

この女性は12年間も出血が止まらない状態で、どんなにか苦痛と辛さの中にあった事だろう。
律法によると不浄との事で、礼拝にも出れず、宗教的にも社会的にも疎外されていた。
経済的にも治療に財産を使い果たし、良くなるどころか、ますます悪くなり無一文となり、これから先どうすればよいのか、何の望みもなく、心身もう限界で、ぼろぼろであったろう。
わらにもすがりたいように、救いを求めていたに違いない。
そんな時、主の噂を聞き、せめて主の着物にでも触れば必ず直ると思った。
必死であった。触った時、血の源が枯れて、ひどい痛みが直った事を感じた。
誰にも知られずに、隠れてそっとその場を去りたかったが、主が「触ったのは誰か」と問われた。
後方で群衆に紛れ潜んでいたが、隠しきれないと思い、震えながら進み出た。
「イエスの前に出」たのだ。どんなにか勇気の要った事だろう。
「すべての民の前で」イエスに触った理由と、癒された次第を話した。
自分を卑しめ、こそこそと暗さの中に隠れていたのが、主に導かれて、従う事により光の中へと入れられた。
あるがままを告白できた。主は「あなたの信仰が」と信仰を認め「安心して行きなさい」と、もう恐れも不安も怯える事もない、全き平安を下さった。
身体だけでなく、心も癒され全人格的救いを下さった。
告白は彼女自身のためであった。あなたにも、告白を求めておられるだろうか。
光の中へと招くために。
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隠しおおしておきたい、陰に押し込めていたい、誰にも知られたくない、その事を神は光の中に、明るみに出される。
実は私達自身の癒しのためだ。
自らの状態を主の前に認めて行く時に、全面的に癒される。


今日の聖人の記念日

2015年08月31日 06時23分45秒 | キリスト教

聖ライムンド・ノンナート

1204年ごろ-1240年

 ライムンドは、スペインのカタロニアで生まれた。
 母が難産のため亡くなったので、ライムンドは帝王切開で取り出され、そのため「ノンナート」(ラテン語で「生まれそこない」)という名前が与えられた。

 生涯に関する記録はほとんど分からないが、ペトロ・ノラスコが創立したメルセス会の修道会に入ったといわれている。

 北アフリカやスペインで、イスラムの捕虜となっているキリスト教徒の解放のために活動した。
 命を落としそうになったことも度々あったが、ライムンドは彼らを救うために命がけで使命を果たした。

 スペインに戻ったライムンドは、教皇グリゴリオ9世によって枢機卿に任命された。教皇は彼をローマに呼んだが、その旅の途中、カルドナで病に倒れて亡くなった。


◆善  意  の  人

2015年08月31日 06時22分30秒 | 聖書

善意の人は祝福を受ける。
自分のパンを寄るべのない者に与えるから。(箴言二二9)
 
さて、「善意の人」が登場しましたが、あなたは、どんな人になりたいでしょうか。人に何と言ってもらいたいでしょうか。
ところで、この聖書のことばは「善意の人」を推奨しています。「利口な人」「アイデアマン」「先が見える人」「実力者」「やる気のある人」「ユーモアのある人」「明るい人」「まじめな人」「親切な人」、皆それぞれいいのですが、「善意の人」とはどんな人でしょうか。「善意の人」の直訳は、「目のよい人」です。それは、神のように人を見ることのできる人なのです。
聖書の言う「善意の人」のすばらしい解説が、コリント人への手紙第一、一三章にあると思います。「礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます」(5―7節)。
・ 人の悪を思わない人。
よいほうへよいほうへと善意に解釈し、ひがみっぽくない人です。
・ 人のうわべや過去にこだわらず、差別しないで受け入れる人。
・ 人を信じ期待し忍耐深く待つ人。
つまり、真実の愛のある人ではないでしょうか。そして愛は、惜しみなく与えます。お返しのできない人に与えて、お返しを期待しません。私たちのために、ご自身を十字架の上で与えつくしてくださったイエス・キリストの中に、この愛の完璧な模範を見いだすことができます。
キリストの愛の中にとかされた人こそ、判断力のない愚かなお人よしではなしに、祝福を受ける善意の人になりうるのではないでしょうか。
 
 

第1歴代誌9章17-27節

2015年08月31日 06時21分36秒 | 聖書


9:19 コラの子エブヤサフの子コレの子シャルム、その父の家に属する彼の兄弟たち、すなわちコラ人は、その奉仕の仕事につき、天幕の入口を守る者となった。彼らの一族は主の宿営をつかさどり、その門口を守る者であった。



 レビ族というのは、神殿で奉仕をする人々のことです。

レビ人の中のアロンの家系の者達は、祭司としての奉仕を担当しました。

しかし、その他のレビ人は、神殿に関わるいろいろな奉仕をしていました。

ここでは、レビの部族の中で、コラの氏族の奉仕のことが語られています。

彼らの担当は、幕屋の入り口の門番であったと語られています。

後には、神殿での門番となっていった人々です。

 幕屋は主が共にいてくださる、聖なる所です。

ですから、ユダヤ人以外の人は入ることが出来ませんでした。

従って、この門で、人々を見張ることが必要でした。

さらに幕屋の中にある器物は、多くが金で覆われていたり、また銀で土台が作られていて、高価なものが多くありました。

それらを盗賊から守る奉仕も託されたのです。


◆わたしの腕に拠り頼む。

2015年08月31日 06時18分54秒 | 聖書
(イザヤ五一・五)
 
激しい試練に直面して、クリスチャンは地上に何一つ頼るべきものをもたないので、ただ神にのみその身をゆだねることになる。彼の船が真横に傾いて危機に瀕し、人の助けが全く及ばなくなった時、彼は単純かつ全面的に、自分を神の摂理と守りにゆだねなければならない。人をこのように岩に打ちあてて難破させるあらしは、実は喜ばしいものである。たましいを神に追いやり、神にのみ吹きつける烈風は幸いである。時に私たちは、友人が多すぎるために神に行かないことがある。しかし、貧しく、友もなく、無力で、どちらを向いても身の置き場がないならば、御父のもとに駆けて行き、その幸いな腕により頼むのである。切迫した特別な困難を負い、神のほかにそれを打ち明けることができないならば、かえってそのことを感謝するであろう。なぜなら、そのような時にこそ主について深く学ぶからである。
あらしに悩む信者よ。あなたを御父のもとに追いやる苦難は、幸いな苦難である。今、神のほかに頼るものはない。だから、神にすべての信頼を置くように努めよ。あなたの主を、卑しむべき疑いや恐れによって辱しめるな。信仰に堅く立って、神に栄光を帰せよ。
あなたにとって神がこの世界を千万集めたほどの価値があることを、世に向かって示せ。主なる神があなたの助け手であられる時、あなたは貧困の中にあっても富める者であることを、世の富める者に示せ。あなたの下に永遠の腕がある時、自分が弱い時にこそ強いことを、世の強い者に向かって示せ。強くかつ雄々しくあれ。そうすればあなたの主である神は、天地を創造されたように確実に、あなたの弱さのうちにご自身の栄光を現し、あなたの患難のうちにご自身の力を示される。もし青空が目に見える一本の柱で支えられていたら、天の荘厳さは損なわれるであろう。あなたの信仰もまた、もし肉眼で見えるものに頼っていたなら、その栄光を失うのである。
この月の最後の日に、どうか聖霊があなたに、イエスにある安息を与えてくださいますように。
 
 

8月30日(日)のつぶやき

2015年08月31日 01時45分22秒 | キリスト教

◆私をいやしてください。

2015年08月30日 17時34分16秒 | 聖書
主よ。そうすれば、私はいえましょう。(エレミヤ一七・一四)
 
わたしは彼の道を見たが、彼をいやそう。(イザヤ五七・一八)
霊の病をいやすことは、神のみがもっておられる大権である。肉体の病は、人が仲介していやされるかもしれない。しかしその時ですら、薬に効力を与え、人体に病を追い払う力を与えてくださる神をあがめるべきである。霊の病に至っては、偉大ないやし主の手のみがこれをいやす。そして神は、ご自分の独占権としてそれを主張される。「わたしは殺し、また生かす。わたしは傷つけ、またいやす」と。「わたしは主、あなたをいやす者である。」このことばは、人のくちびるからは出すことのできない約束であり、永遠の神の御口からのみ出る。
そのゆえに、詩篇の作者は主に向かって叫んだ。「主よ。私をいやしてください。私の骨は恐れおののいています。」さらにまた「私のたましいをいやしてください。私はあなたに罪を犯したからです。」敬虔な人々が主の御名を賛美する時も、同じように「主は私たちのすべての病をいやす」と言う。人を造られた方は、人を回復させることができる。私たちの性質を造られた方は、それを新しく造り変えることができる。キリストのうちに「神の満ち満ちたご性質が形をとって宿って」いることは、どれほどすばらしい慰めだろうか。
私のたましいよ。おまえの病がどのようなものであっても、この偉大ないやし主はいやすことができる。このいやし主が神であられる以上、その力に限界はない。だから、暗くて理解力がないなら、そのままで来い。弱くなった足、信仰のない手、短気の熱、失望落胆の発作の状態のままで来い。あなたの現在あるままの姿で来ればよい。もう何ものも、神である主イエスから流れ出るいやしの力をさえぎることはできない。汚れた霊のレギオンも、愛する医師の力を認め、決して妨げようとはしなかった。
過去において、主の患者はすべていやされた。これから後もまたそうである。友よ。今夜、主のうちに憩うことを願うなら、あなたもその一人となるであろう。
 
 

今日の聖人の記念日

2015年08月30日 06時26分44秒 | キリスト教

聖フェリクス司祭 聖アダウクト殉教者

3-4世紀

 4世紀、皇帝ディオクレチアヌスのキリスト教迫害が始まったころ、司祭であったフェリクスは信仰を守りとおし、死刑の宣告を受けた。死刑場に連れて行かれる彼の態度は、信仰深く落ち着いており、その姿は傍観していたある男性の心を打った。この男性は「わたしも、この人が信じている神に従っている者です。信仰のためなら命をささげます」と大声で叫び、すぐにローマ兵士から捕えられた。だれもこの人の名を知らず、彼は「アダウクト」(追加された者の意)と呼ばれた。

 2人の殉教者は、オスチア街道のコモディラ墓地に埋葬された。354年に作成された殉教者のリストには、「フェリクスとアダウクト」とだけ記録されていたといわれる。のちに、彼らの墓は作り直された。


◆種まきの人生

2015年08月30日 06時25分29秒 | 聖書

不正を蒔く者はわざわいを刈り取る。
彼の怒りの杖はすたれる。      (箴言二二8)
 
ここでソロモンは、王座から不正をほしいままにする暴君はその結果、必ずわざわいを刈りとり、その支配の杖はいつか折れてしまうと言っているようです。
しかし、まいたものは刈りとるようになるとは、何という厳粛な事実でしょう。パウロはこう言いました。「神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。自分の肉のために蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊のために蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです」(ガラテヤ六7―8)。
私たちの人生を、種をまいている人生だと考えたことがおありでしょうか。昔ユダヤ地方では、畑に畝などつくらないで、パアッパアッと種をばらまいたそうです。そこで、イエス・キリストは、「まかれた種のうち、道ばたの種は鳥に食われ、岩地に落ちた種は日に照りつけられて生えても枯れ、いばらの中にまかれた種はひょろひょろ伸びるだけで実を結びませんでした。よく耕された土地にまかれた種だけが、三十倍、六十倍、百倍の実を結んだのです」と話されました。
悪の種をまいても、生えないで無事のことがありましょう。しかし、あなどってはなりません。最後には、滅びの刈りとりをきっとどこかでします。善や愛の種をまいても、踏みにじられて生えないことも多いでしょう。しかし、いつかどこかで、愛の花が咲き、その実がみのるのです。私の家のおばあちゃんは、小さな小さな土地を耕して種をまきます。肥料をやり、水をやります。私たちが忘れたころに、私に「初物だよ」と言ってブロッコリーを食べさせ、「咲きましたよ」と言って、かわいい鉢の花を私の机の上に飾ってくれるのです。
何とかして、私たちは愛の種をまく者となりたいものです。
 
 

第1歴代誌9章10-16節

2015年08月30日 06時24分44秒 | 聖書


9:10 祭司たちからは、エダヤ、エホヤリブ、ヤキン、
9:11 アザルヤ。彼はヒルキヤの子、順次さかのぼって、メシュラムの子、ツァドクの子、メラヨテの子、神の宮のつかさアヒトブの子。



 レビ族の中で、特にアロンの家系の人々が神殿での奉仕にあたりました。

その家系の人数が、後になってどれほど増えたのかということが語られています。

13節の所を見ますと、「彼らの同族で一族のかしらたち、1,760人。彼らは神の宮の奉仕の仕事に熟練した、力のある人々であった。」と、このように語っています。

つまり、祭司達の人数は1,760人もいたことが分かるのです。

預言者のヨハネが生まれた時に、父ザカリヤは神殿での奉仕に当たっていました。

しかし、こうした奉仕の当番に当たるというのは、人数から推し量りますとそれほど回数は多くはなかったことを見るのです。

また、祭司の数が多いものですから、後になりますと、ダビデはこうした祭司達の奉仕についての秩序を定めています。

その必要性があったからです。


◆待ち望め。

2015年08月30日 06時21分37秒 | 教科書
主を。(詩篇二七・一四)
 
待つということはたやすいようであるが、キリストの兵士にとってはきわめて困難なことである。神の戦士には、じっと立ち止まっているよりは、前進や強行軍のほうがほるかにたやすいのである。
熱心に主に仕えようと願うたましいが途方にくれることがある。そのような時にはどうしたらよいか。気落ちしていらだつのか。後ろに逃げ出すのか。単なる推定から、前に突進するのか。否、ただ待つのである。しかし祈りつつ待つのである。神を呼び求め、事の詳細を神の前に広げよ。直面する困難を神に語り、私たちを助けられるとの約束のみことばを握って求めよ。
二つの義務の間にはさまれた時、幼子のように謙遜になり、単純な心で主を待ち望むのは、実に麗しい。私たちが自分の愚かさを知り、みこころのままに導かれることを願うのは、たしかによいことである。
そして信仰をもって待て。あなたの神に対する揺るがない確信を表明せよ。信仰なくして、また信頼なくして待つのは、主を侮ることである。たとえあなたが真夜中まで待って、なお主が来られないとしても、主がよいと思われる時必ず来られることを信ぜよ。ビジョンは来るであろう。決して遅れることはない。
静かに忍耐して待て。苦しみの中にあっても神に逆らうことなく、かえってそのために主をあがめよ。イスラエルの民がモーセにつぶやいたように、決してつぶやいてはならない。古い世界に再び戻ることを願うな。与えられた試練をあるがままの姿で受け入れ、自己中心の思いを退け、単純にしかも全き心をもってそれを神の御手にゆだねよ。そしてこう祈れ。「主よ。私の願いではなく、みこころのとおりにしてください。私は進退に窮し、どうしたらよいのかわかりません。ただあなたが洪水を裂き、敵を散らしてくださるのを待ちます。たとえ待つ日が何日であろうとも、私はあなたを待ちます。なぜなら、神様。私の心はあなただけに向けられているからです。あなたこそ私の喜び、私の救い、私の避け所、また私の強いやぐらであるとの確信をもってあなたを待ち望みます」と。
 
 

8月29日(土)のつぶやき

2015年08月30日 01時45分01秒 | キリスト教

◆彼のナジル人としての聖別の期間には、 goo.gl/qf4IyS


「いのちのことばをしっかり握って、 goo.gl/kgmsyS


◆彼のナジル人としての聖別の期間には、 goo.gl/Lptjjh



◆彼のナジル人としての聖別の期間には、

2015年08月29日 16時17分33秒 | 聖書
ぶどうの木から生じるものはすべて、種も皮も食べてはならない。(民数六・四)
 
ナジル人には数々の誓いがあるが、その一つに、ぶどう酒を飲まないことがある。この義務に違反しないために、彼らはぶどう酒の酢になったもの、濃い酒を飲むことを禁じられていた。そしてこの規則をさらに明確にするために、未発酵のぶどう液にも触れてはならず、なまのものでも干したものでも、ぶどうを食べることさえならなかった。その誓いを完全に守るために、ぶどうにかかわるすべてのものを食べることが禁じられた。それは外見的な悪をも避けるためであった。
たしかにこれは、主に聖別された人々に対して教訓を与える。あらゆる形の悪から遠ざかること、醜悪な形のものを避けるだけでなく、その精神も類似物も避けることを教える。今日、厳正な生活は軽蔑されている。しかし、親愛なる友よ。心を安んぜよ。厳正な生活は、最も安全で最も幸福な生活である。世俗に対して一歩でも譲歩するものは、恐るべき危険の中にある。ソドムのぶどうを食べる者は、すぐにゴモラのぶどう酒を飲むことになる。オランダの防波堤の小さな割れ目が海水を侵入させるなら、それは急速に大きくなり、ついに一州が水でおおわれるようになる。世俗との妥協はどれほど小さなものでも、たましいにとってはわなであり、いよいよ深く罪に陥らせる傾向をもつ。
そのうえ、ぶどう液を飲んだナブル人は、それがある程度まで発酵しているかどうかはっきりせず、そのため心の中で誓いが守られているかどうかわからなくなる。そのように世俗と妥協するクリスチャンは、罪意識のない良心を保つことができず、心の中の戒告者は彼を疑うことになる。疑わしいものについて、疑う必要はない。それは私たちにとって悪である。私たちは誘惑するものに対して手を出してはならない。ただ逃げ去ればよい。偽善者としてさげすまれるよりは、むしろ清教徒として冷笑されるほうがよい。油断なく生活するには、自己否定が必要であろう。しかし、それは楽しいものであり、また何にもまさる報酬である。
 
 

「いのちのことばをしっかり握って、

2015年08月29日 16時16分50秒 | 聖書

彼らの間で世の光として輝くためです」(ピリピ2:16)

神から何か語られている事、示されている事があるだろうか。
御言葉通して語りかけられる将来のビジョン、就くべき仕事、具体的に今、何かをする事、信仰告白やバプテスマの決心や、又は悔い改めかも知れない。
誰かと仲直りする事、誰かに証しをする事、誰かをサポートする事…だろうか。
神が思いを与え、祈り続ける中で、確かに神が語り、導いておられるとの確信が来たなら、行なう事が大切だ。
「すべてのことを、つぶやかず、疑わずに行ないなさい」。
行なう時に、心に来るのが「私に出来るのだろうか?」「難しいのでは?」「私にはとうてい無理」否定的、消極的、尻込みする思いだ。
しかし、「神が」志を立てさせ、「神が」行わせて下さる、主語は「神」だ。
自分ではない。ここで信仰を持って一歩踏み出そう。
そうするなら、神が、「非難されるところのない純真な者」「傷の無い者」として下さり、「世の光として輝か」せて下さる。
あなたが自分で純真な者となり、自分で輝くのでなく、あなたが御言葉に従って行くなら、神が、あなたを、光として輝かせて下さるのだ。
だから、私達のなすべき事は、御言葉に従うことだ。
御言葉に従うことが、御言葉をしっかり握ることであり、従わない事は御言葉を捨てることになる。
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自分で輝くのではない。御言葉に従う時、神が私たちを世の光として輝かせて下さる。
何と嬉しい事だろう。今、目の前に示されている御言葉に従おう。
主の栄光のために用いて、光として輝かせて下さる。