32:5 また彼らは言った。「もし、私たちの願いがかないますなら、どうかこの地をあなたのしもべどもに所有地として与えてください。私たちにヨルダンを渡らせないでください。」
イスラエルの民に与えられる約束の地は、ヨルダン川を渡ってから与えられる、カナンの地でありました。
ところが、ルベンとガドとマナセの半部族は、このカナンの地に入らないで、ヨルダン川の手前のモアブの地に住みました。
それは、彼等の要望に寄ったことでした。
この時の事情が、この章に記されています。
まず、この地を求めた理由です。
それは、彼等がこの占領した地を見た時、家畜を飼うのに大変良い地であったということです。
イスラエルの民は、本来、牧畜を営んで生活をしていました。
先祖の時代からそうです。
ですから、エジプトに移った時にも彼等は街に住まないで、ゴシェンという家畜に適した地に住みました。
エジプトを出る時も、家畜を多く持っていました。
従って、その思いは、家畜を養うことに深い関心がありました。
その結果が、この占領したモアブの地の要求となったのです。
これが事情でした。
31:50 「それで、私たちは、おのおのが手に入れた金の飾り物、すなわち腕飾り、腕輪、指輪、耳輪、首飾りなどを主へのささげ物として持って来て、主の前での私たち自身の贖いとしたいのです。」
軍団の指揮官として働いた千人隊長や百人隊長達は、ミデアン人との戦いで大きな勝利を得たのでした。
ところが、彼等が自分たちの部下の人員の点呼をしたところ、死んだ者は誰もいなかったということに気がつきました。
そこで彼等は、神様への感謝として、自分たちが個人的に手に入れた金の飾り物を、主に献げたいと申し出ました。
主への感謝をしたいと申し出たのです。
そこで、モ-セと祭司のエリアザルは喜んでそれを受け取り、会見の幕屋に持って行って記念としたと語られています。
私たちは、神様への感謝を表すのにどうしたらよいかと思う時があります。
イスラエルの民は皆、こうした時、神に仕える者達の所にそれを持って行き、神に捧げました。
これは私たちも同じです。
教会に献げて、教会の働きを通して、神さまに仕えることをするのです。
穴を掘る者は、自分がその穴に陥り、
石をころがす者は、自分の上にそれをころがす。(箴言二六27)
小さい時、私たちはよく落とし穴を掘って遊びました。原っぱに穴を掘り、その上を木の枝や草でおおって擬装し、人が落ちるのを楽しみにしていたものです。でも次の日に、自分のしかけた落とし穴を忘れて、自分で落ちてしまったということなども、確かあったようです。こんなことは遊びです。しかし、「人をのろわば穴二つ。」――これは、深刻な現実です。
聖書の中に、いくつか顕著な実例があります。ハマンという高官は、憎いユダヤ人のモルデカイを王にざん言し、彼をはりつけにするために、柱を立てておきました。しかし、そのハマンの悪だくみが王妃エステルによってあばかれた時、ハマンは、自分が立てたはりつけ柱にかけられてしまいました。エステル記に出ていることです(五―七章参照)。
ユダヤ人の預言者ダニエルを憎み、彼を落とし入れようとした大臣たちは、ダニエルを投げこもうと計画した獅子の穴に、自分たちが投げこまれる破目になってしまいました。旧約聖書ダニエル書に書かれています(六章参照)。のろいや悪だくみは、必ず、自分自身へののろい・わざわいとなって返ってきます。
そして愛もまた、必ず、勝利と祝福を持って返ってくるのではないでしょうか。聖書は言います。「愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。愛は決して絶えることがありません。……いつまでも残るものは……愛です」(Ⅰコリント一三4―813)。
(詩篇五一・一〇)
信仰後退者が、もしその内にわずかでも残りの火をとどめているならば、回復を求めてうめくであろう。彼が再び新たにされるには、回心と同様の恵みの働きが必要である。私たちは回心の時、悔い改めが必要であった。今もたしかに悔い改めが必要である。私たちは最初キリストのもとに来るため、信仰を求めた。今もこれと同じ恵みのみが私たちをイエスのもとに行かせる。私たちはその時、私たちの恐れに終止符を打つため、いと高き方のみことば、愛する者のくちびるより出るみことばを必要とした。私たちは現在罪の意識の下にある時、なおそれを要することを発見するだろう。だれでも、初めに感じたような聖霊の力の真の顕現がなければ、新たにされることは不可能である。なぜなら、それは難事業であり、血肉は今も変わることなく行く手をふさいでいるからである。
クリスチャンよ。あなたの弱いことを、神に熱心に助けを求める理由とせよ。ダビデが自らの無力を感じた時、手をこまねくことなく、くちびるを閉じることなく、恵みの座に駆けつけて、「神よ。私にきよい心を造り、ゆるがない霊を私のうちに新しくしてください」と祈ったことを覚えよ。あなたが一人では何事もなし得ないという教えを、怠惰の理由とせず、イスラエルの保護者に熱心に駆けつける理由とせよ。あなたが命をかけて「神よ。私にきよい心を造り、ゆるがない霊を私のうちに新しくしてください」と神に嘆願する恵みを得られるように。神に向かって真剣にこのように祈る者は、神の働かれる手段を用いることによって、自分が誠実であることを証明するであろう。
多く祈れ。神のみことばに生きよ。あなたから主を追い出した肉欲を殺せ。罪が再び頭をもたげないように警戒せよ。主はご自身の定められた方法を用意される。道のかたわらに座せ。主がお通りになる時、あなたは備えができていよう。あなたの恵みを養い育てる信仰の務めを続けよ。そして、すべての力が主から来なければならないことを知り、「ゆるがない霊を私のうちに新しくしてください」と叫ぶことをやめるな。
労基法20条では、労働者を解雇する場合には30日前の予告する義務を規定していますが、その予告期間が30日に満たない場合には満たない日数分の賃金が必要です。この30日に満たない日数分の賃金が解雇予告手当です。
ですから即日解雇を通告した場合には、30日分の賃金の支払が、解雇予告手当として必要になることになります。
しかし上司から「明日から来るな」といわれた場合、予告無しの解雇通告ですから解雇予告手当を支払わなければ、労基法20条違反になります。裁判例では、解雇予告手当を支払わずになされた解雇通告は、即日解雇としての効力を有しないが、解雇通知後の30日後に効力を生ずるとするものがあります。
この考え方によれば、もし上司から「明日から来るな」と言われたため、翌日から出社しなかった場合で、解雇予告手当が支払われなかったときには、30日後の解雇通告とみなされるため、30日後に解雇の効力が生じ、就労しなかった30日分の賃金が支払われないだけでなく、解雇予告手当も支払われない、ということになってしまいます。
ですから解雇通告を受けた労働者は、即日解雇かどうかを確認することが重要になってきます。しかし,
ここで労働者が解雇予告手当の支払を求めたときには、労働者自身が解雇について争わない姿勢を示したものとして、解雇は有効と判断する考え方もあります。
これは解雇についての通告や解雇予告手当などの手続要件は、解雇が有効であることを前提とするもので、例えば労働契約法16条の解雇権の濫用に当たるものであれば、そもそも解雇は無効となるものです。そのためには労働者が解雇が無効であることを主張する必要があります。
しかし、このとき労働者が解雇予告手当の支払を求めた場合、解雇を前提して、つまり承諾したうえで、解雇に関する適切な手続きを求めたことになるため、あわせて解雇権の濫用を指摘して解雇の無効を争うことはできない、ということになります。
声を和らげて語りかけても、それを信じるな。
その心には
七つの忌みきらわれるものがあるから。(箴言二六25)
「人を見たらどろぼうと思え」ということばがあります。
人間をそのことばどおり信じるな。人のことばは表面上のもので、「その心の中には七つもの忌まわしい思い・悪い心がひそんでいる」というのです。悲しいことです。しかし、悲しい現実ではないでしょうか。
ソロモンは、ことばがじょうずで、心が悪い人の姿を「銀の上薬を塗った土の器のようだ」(箴言二六23)と言いました。銀むくだと人に思わせますが、中味が違うのです。中国でも、「巧言令色すくなし仁」といって、ことば巧みな人は警戒せよ。真実の人は少ない、必ずといっていいほど裏があると警告しています。私たち人間には裏表がある、口と心の不一致がある。――このことは、人を判断するためによく知っておくべきでしょう。しかし、何よりもこれを自らに当てはめてみて、反省材料にすべきではないかと思います。
いったいどんな、いやな心・みにくい心・神に忌みきらわれる心が、私たちのうちにあるのでしょうか。
イエス・キリストは、こう言われました。「外側から人にはいって、人を汚すことのできる物は何もありません。人から出て来るものが、人を汚すものなのです。……内側から、すなわち、人の心から出て来るものは、悪い考え、不品行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさであり、これらの悪はみな、内側から出て、人を汚すのです」(マルコ七15―23)。
イエス・キリストは、またこう言われました。「わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます」(ヨハネ四14)。忌まわしい、人をけがすものではなく、こんな新しい泉を心の中に持ちたいものです。
(詩篇九・一)
祈りが答えられた時、いつでも感謝がなされなければならない。それはちょうど天上の愛の太陽が地を暖める時、地の感謝の霧が立ち上るようである。主はあなたにあわれみ深く、あなたの訴えに耳を傾けられたか。それならあなたは生きている限り主に感謝せよ。熟した果物を、それにいのちを与えた源である肥えた地の上に落とせ。あなたの祈りに答え、あなたの心の願いをかなえられた方に歌をささげることを拒んではならない。神のあわれみに対して沈黙を守ることは、忘恩の罪を犯すことになる。それは、病をいやされたのに、いやし主に感謝をしに帰らなかった九人と同様、卑しいことである。
神に対する感謝を忘れるのは、私たち自身を益することを拒むことである。なぜなら感謝は、祈りと同様、私たちの霊的生活の成長を促進する有力な手段だからである。感謝は私たちの重荷を去り、希望を盛んにし、信仰を増進させることを助ける。それは、信者の活力を盛んにし、主の御用のため新しいことを企てる勇気を与える、健全な、また活気ある活動である。
神に対し、受けた恵みを感謝することは、私たちの友をも益する道である。「貧しい者はそれを聞いて喜ぶ。」もし私たちが「私とともに主をほめよ、共に、御名をあがめよう。私が主を求めると、主は答えてくださった」と言うことができれば、私たちと同様な事情の下にある者は慰められるであろう。私たちの「救いの歌」を聞いて、心の弱い者は強められ、うなだれた聖徒は力づけられるだろう。私たちが詩と賛美と霊の歌とにより、互いに教え、互いに戒めるならば、彼らの疑いや恐れは消え去るであろう。私たちが、主の聖なる御名をあがめるのを彼らが聞く時、彼らもまた「主の道について歌う」であろう。
クリスチャンの義務の中で最もすばらしいのは感謝である。天使は祈ることはしないが、昼も夜も感謝をやめない。贖われた者は白い衣を着、しゅろの枝を手に、うむことなく「小羊はふさわしい」とたたえる新しい歌を歌う。
まず「解雇」とは、労働契約の会社らの一方的な解約であるので、民法627条によれば、2週間という期間を置けば、いつでも解約することができると定めているので、解雇は自由であることになります。これは労働者にしても同様で、2週間の置けばいつでも自由に会社を辞めることができることになります。
ちなみに労働者からの一方的な契約解除は「辞職」といいますが、一般的に提出される退職届は、辞職なのか、合意退職の申出なのか、明確ではありません。こうした場合、会社は通常合意退職の申出と会社して、一旦留保したりします。しかしこれが辞職の意思表示であれば、2週間後には契約解除、つまり適法に辞めることができることになります。
労働契約法16条では、解雇には合理的な理由と社会通念上の相当性がなければ無効であるとしています。これは解雇についてのみの話なので、労働者からの一方的な労働契約の解除である「辞職」には理由はいらないことになります。とはいっても、民法628条では、期間契約である場合には、期間の途中での契約解除は、「やむを得ない事由があるとき」でなければ、解約できないことを規定しています。つまり契約社員の場合には、期間の途中での辞職は認められないことになります。
労働契約法16条を逆に読めば、合理的な理由と社会通念上の相当性があれば、解雇は有効であることになります。
こうした解雇が有効か無効かという判断は、法的なトラブルとなった場合の話であって、会社からの解雇通告に対して、労働者が何ら異議の唱えなければ、それがどのような理由による解雇であっても、適法に労働契約は解除されます。この前提となるのは、契約自由の原則です。そういう意味では、解雇は自由であるということができます。
しかし、契約自由とはいっても、法律上解雇が禁止されているものもあります。こうした法律違反の解雇に対しては、労働契約法16条の合理的理由云々を判断するまでも無く、解雇は無効となります。
31:30 「イスラエル人が受ける分のうちから、人や牛やろばや羊、これらすべての家畜を、それぞれ五十に対して一つ、取り出しておき、それらを主の幕屋の任務を果たすレビ人に与えなければならない。」
彼等がミデアン人との戦いに出て、勝利を収めてきました。
ミデアン人は、本来、遊牧民ですので、たくさんの家畜を持っていました。
それを戦利品として持ち帰ってきました。
主は、その戦利品の扱い方を指示されたのです。
まず、すべきことは、その戦利品を2つに分けることでした。
戦いに出た者にその半分を与え、彼等には、自分たちが受け取ったものから500分の1を主への貢ぎ物として献げることが命じられました。
それは、具体的には、主に仕える祭司に与えられました。
民に対しては、残された半分が分配されました。
そして、彼等にはその与えられた物の中から、50分の1をレビ人に渡すように命じました。
戦った兵士とは、割合が異なっていました。
このレビ人とは、幕屋や神殿で主に仕える者達のことです。
こうして主は、主に奉仕をする者達を養い、主の民が主の民として歩むことが出来るように、導かれたのです。
31:24 「あなたがたは七日目に自分の衣服を洗うなら、きよくなる。その後、宿営に入ることができる。」
彼等がミデアン人を殺害したのは、ミデアン人の女性がイスラエルの民を誘惑して偶像礼拝者にし、姦淫という不品行を行わせて、滅びの子としてしまったからです。
それは、聖なる神の怒りと命令に基づいたことでした。
しかし、この人を殺すということ自体は、喜ばしいことではありません。
従って、そこでは神の前に置ける清めを必要としたのです。
その清めの具体的方法を、ここで祭司から告げられました。
人は、3日目と7日目に汚れを清める水で体を洗うこと、また金銀などの鉱物は火を通すこと、その他は水の中を通すことでした。
そうしたことは、主が命じたことであって、主がそれによって清めを受け入れてくださったのです。
今、私たちも同じように、主の御心に背いて多くの罪を犯してしまっている者ですが、この私たちの罪を赦し、清めを与えてくださるお方は、私たちの救い主イエス・キリストのみです。
このお方の流された血潮によって、私たちの罪と汚れが洗い清められるのです。
たきぎがなければ火が消えるように、
陰口をたたく者がなければ争いはやむ。(箴言二六20)
確かに「陰口」は、争いの火にたきぎをくべるようなものです。それなのに私たちは、よく陰口をたたきます。どうしてでしょうか。
第一に、人のよしあしを言う品定めにはこたえられない楽しみがあります。
第二に、人間には、面前にいる人を喜ばそうという気持ちが働きます。そして、いない人の悪口を言うと、人は一番喜びます。「陰口をたたく者のことばは、おいしい食べ物のようだ」と、箴言二六章二二節は言います。
第三に、これは一番強力な陰口の動機です。人はうらみにかられて陰口をたたきます。憎い、うらめしい、怒りでいっぱいだ、怨念を晴らしたい。――そこで、あることないこと陰口をたたきます。
私自身が体験している「陰口のストップ法」を二つ紹介しましょう。第一は、陰口を言いたい時、ことにうらみの気持ちから言いたい時は、待てよ、本人に面と向かって言うとしたら、私は何と言うだろうかと考えます。必要なら、本人に面と向かえばこう言うという文章を実際に書いてみます。そして、本人の面前で言えないことは言わないと、ストップをかけるのです。こんなやり方をして、しばしばよく分かったのは、陰口の槍玉にあがる相手よりも、私自身の高ぶり・怒り・うらみ・憎しみこそ問題だということでした。
第二は、人が陰口を話すのを面白がって聞かず、ストップをかけてしまうことです。ピョートル大帝のところへある貴婦人が来て、自分の主人の悪口を言い始めました。ピョートル大帝は、「私の知ったことではない」と言いました。すると、その女は「でもピョートル大帝、私の主人は陛下の悪口も言いますの」とさそいをかけました。すかさずピョートル大帝は、「それはあなたの知ったことではない」と言ったそうです。
(マタイ六・九)
真の祈りは、主のすべての祈りのように、子が父に呼びかける心、すなわち「私たちの父よ」で始められなければならない。私たちが「立って、父のところに行って……」と言い得るまでは、神に受け入れられる祈りは出てこない。子どものように単純な心はすぐに、「天にいます」父の荘厳さを見させ、「御名があがめられますように」という真心のこもる崇敬を上らせる。「アバ、父」という子どもの片言が成長して、「聖なる、聖なる、聖なる」というセラフィムの叫びとなる。
全心全霊をもってする礼拝から、燃えるような宣教精神までの距離は、わずか一歩にすぎない。この宣教精神は、神への愛と、「御国が来ますように。みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように」と敬虔に主をあがめることの必然の結果である。
次に心からの神に対する信頼が続く。「私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。」
彼は主に依存しているだけでなく、さらに聖霊の光に照らされる時、自分の罪深さを発見するので、次のようにあわれみを願う。「私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。」
そして、罪赦され、キリストの義を着せられ、神に受け入れられたことを知り、彼は常に聖くあることをへりくだりつつ懇願して、「私たちを試みに会わせないで……」と言う。真に罪赦された者は、再び罪を犯すのではないかと恐れる。義とされた者は聖くなろうとする。「私たちの負いめをお赦しください。」これは義認である。「私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。」これは消極積極両面の聖潔である。
以上の結果として次の賛美のことばが続く。「国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン。」私たちは、私たちの王が摂理の中に支配されること、やがて、恵みによって地の果てに至るまで統べ治められ、その統治の尽きないことを喜ぶ。
31:19 「あなたがたは七日間、宿営の外にとどまれ。あなたがたでも、あなたがたの捕虜でも、人を殺した者、あるいは刺し殺された者に触れた者はだれでも、三日目と七日目に罪の身をきよめなければならない。」
モーセは、戦いから帰ってきた軍勢の長達が、バラムによって教え込まれて、偶像礼拝や不品行へとイスラエルの民を導いた女性達を、生かしておいたことを怒りました。
そして、その姦淫に携わった女性達と男子の子供達も、殺害するように命じました。
さてその後、彼等は人を殺害したということと、その死体に触れた人物であるということで、「死体に触れたものは汚れる。」との戒めの下で、7日間宿営の外にとどまり、罪の清めをするように求められました。
その時には、衣服なども含めて、すべてを清めることが求められました。
彼等は、神が求められたことを行った者であるのですが、しかし、そのことによって汚れを帯びる者となったのであれば、その汚れが取り除かれることが、主の前で必要であったことを語っているのです。
主にある者はいつも、主にある聖さを求められたのです。
(分別を失った者)は、燃え木を
死の矢として投げるが、
隣人を欺きながら、
「ただ、戯れただけではないか。」
と言う者も、それと同じだ。 (箴言二六18―19)
ユーモアは、人生の潤滑油です。私の友人で、こんな電話を知り合いの人にかけた人がありました。「もしもし、こちらは電話局ですが、きょう午後一時ごろお宅の電話回線の大掃除をしますので、ごみが出るかもしれません。お宅の電話の受話器に、ビニールのカバーをしておいてください。」「はいはい、そうします。ありがとうございました」と、相手は大まじめで答えました。しばらくしてから、かつがれたと分かって大笑いとなりました。
少しぐらい人をかつぐところがあっても、よいユーモアは人生を楽しくします。自分自身が全くの善意に立ち、また人の善意を素直に信頼し、自分をふくめて、人間の弱さや愚かさを客観的にながめるところに、ユーモアがあります。
しかし、まるで、火薬庫の中に火のついたたいまつを投げこむような悪い冗談もあります。ある会社のサラリーマンは、エイプリルフールだといって、「あのなあ、新宿のラブホテルからA君とBさんが出てくるところを、きのう見ちゃった」とやってしまい、AさんBさんは二人共、会社をやめなければならないような破目になりました。まことに悪い冗談です。「なに、ちょっとからかっただけさ」と、しらばくれてすむ問題ではありません。
善意がなく、人の徳を建てる気持ちがなく、自分ばかり賢そうに立ちまわり、自分が一番愚かで弱い者だと認める勇気がない偽善者には、冗談を言う資格がないのではありませんか。ほんとうのユーモアが流れ出る人は、思いやりのある人に違いないと思います。
(ヨハネ一五・一九)
ここに区別する恵み、選び出す愛について記されている。なぜなら、ある者は神の愛が特別にそそがれる対象とされているからである。この選びの崇高な教理を恐れてはならない。あなたの心が最も重苦しく衰える時、これはあなたにとって最高の強心剤となる。
恵みの教理を疑い、それを日陰に投げ捨てる者は、エシュコルの尊いぶどうのふさを口にすることができない。彼らはよくこされたぶどう酒や髄の多いあぶらみを失う。ギルアデの乳香もこれに比することはできない。ヨナタンが、森の中で見いだした蜜を口にするとすぐにその目が輝いたとすれば、この蜜はあなたの心を明らかにし、神の国を愛させ、学ばせるものである。過食を恐れずこれを食べよ。それを味わい、それがおいしすぎるなどと恐れてはならない。王の食卓の食物は、その廷臣の一人でも害することはない。
あなたの心が大きくされ、神の永遠の差別的な愛をさらに深く悟ることができるように願え。あなたが選びの高峰を登りつめたならば、その姉妹峰である恵みの契約の峰で休息せよ。神の契約は、その陰に私たちが身を置く巨大な岩である。神の契約は、キリスト・イエスを保証人としてもち、震えおののくたましいの静かな憩いの場所なのである。
神の誓いと契約と血は
荒れ狂う怒濤の中にも私を支え
地の支柱がすべて洗い去られる時も
なお、わが力またわが支えである
もしイエスが私を栄光の中に伴おうとされ、また父なる神が、御子のたましいの苦しみの報酬の一部として、私を御子に与えることを約束されたならば、たましいよ、神ご自身が不誠実となられ、イエスが不真実となられないかぎり、おまえは安全である。ダビデが主の箱の前で踊った時、彼はミカルに、神の選びがそうさせたのだと語った。
私のたましいよ。恵みの神の御前に歓喜せよ。そして心の喜びに踊り上がれ。