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◆エリヤを通して言われた主のことばのとおり、

2014年02月28日 16時32分53秒 | 聖書

かめの粉は尽きず、つぼの油はなくならなかった。(Ⅰ列王一七・一六)

神の愛の真実を見よ。この婦人は日ごとの糧を得た。彼女は飢きんの時、自分自身と子どもを養わなければならなかった。そのうえ預言者エリヤが加わったのである。こうして必要は三倍になった。しかし食物はなくならなかった。絶えず供給があったからである。彼女は、毎日粉を入れるかめを見た。そこには、いつでも同じ量の粉が残っていた。
愛する友よ。あなたには日ごとに必要なものがある。それが豊かに与えられるので、いつかかめの粉がなくなるのではないか、つぼの油は尽きるのではないかと心配してはならない。神のみことばである聖書によれば、そんなことは決してないとある。日々、さまざまな困難とともに助けが与えられる。あなたがメトシェラよりも長く生き、あなたの必要が浜辺の砂よりも多くても、神の恵みとあわれみはあなたの必要の一切を満たす。あなたは決して欠乏を覚えることはない。
このやもめの時代には、三年もの間空には一片の雲もなく、天の星は、よこしまなこの地上に一滴のきよい涙も注がなかった。飢きんと荒廃と死が、この世を寂しい荒野と変えた。しかしこの婦人は、決して飢えることなく、豊かな供給を絶えず喜んでいた。
あなたも同じである。あなたは罪人の望みがむなしくなるのを見るであろう。罪人は自分の生来の力に頼っているからである。あなたは高慢なパリサイ人の確信の揺らぐのを見るであろう。パリサイ人がその望みを砂の上に置いているからである。あなたは、あなた自身の計画すら損なわれ、しおれてしまうのを見るであろう。しかし、あなた自身は堅い岩のとりでに囲まれ、守られていることを見いだすであろう。
「そのかめの粉は尽きず、そのつぼの油はなくならない。」イングランド銀行を所有するよりも、神をあなたの導き手としてもつほうが、はるかによい。あなたは、インドの富を使い尽くすことができるかもしれない。しかし、神の無限の富を用い尽くすことは、決してできない。

 


◆目 を さ ま せ

2014年02月28日 07時48分12秒 | 聖書

なまけ者よ。いつまで寝ているのか。
いつ目をさまして起きるのか。
しばらく眠り、しばらくまどろみ、
しばらく手をこまねいて、また休む。
だから、あなたの貧しさは浮浪者のように、
あなたの乏しさは横着者のようにやって来る。(箴言六9―11)

いつか駅の職員が寝坊して、駅のシャッターをおろしたままで一番電車を通らせてしまい、お客さんが電車に乗れなかったという事件がありました。しかし、これはニュースになるほど特別なことでした。日本人は勤勉で清潔です。
ところが、その私たち日本人の怠惰でだらしがない点は、「神」とか「愛」「永遠」「きよさ」についてです。
ある時ホテルにとまって、朝早く出発しなければならないことがありました。フロントに行ってみると、ボーイさんがフロントの向こうで横になって寝ています。声をかけると起きあがったのですが、寝ぼけまなこで、こちらが何を言っても要領を得なかったことがあります。
人生も、寝ぼけているとそのとおりです。絶対にきよく正しい神の前に立つと、どうしていいか分かりません。愛とか永遠とかの前におどおどしてしまうのです。
いつも一生懸命働き、勤勉に商売しているように見えても、神の愛が分からず、神のきよさ・永遠も分からず、死とさばきも何のことかと目をこすっているようでは困ります。やがてすべてを神が分からせられる「死」を待っているのではおそいのです。私はまっすぐ歩いている、一生懸命やっていると思っても、愛がなければ曲がっています。きよくなければ、よろめいているのです。神の愛と神のきよさに目ざめましょう。
「目をさまして、正しい生活を送り、罪をやめなさい。神についての正しい知識を持っていない人たちがいます」(Ⅰコリント一五34)。

 


◆私の望みは神から来るからだ。

2014年02月28日 07時47分10秒 | 聖書

(詩篇六二・五)

このことばを用いることは信者の特権である。彼がこの世からなんらかの望みを期待しているとすれば、それはまことにつまらない望みである。しかし、この地上の祝福であると霊的な祝福であるとを問わず、神によって欠乏を満たされたいと望むなら、その望みは決してむだになることはない。彼は信仰の銀行から常に資金を引き出し、神の恵みによってその必要を満たされる。私がこのことを心得ているならば、大金持ちのロスチャイルドに金を預けるよりも、神と取り引きしたいと思う。私の主は、決して約束を破られることはない。約束を御座に携えて行くならば、神は決してそれを無視されることはない。だから、私は神の戸口に立って、豊かな恵みの御手をもって戸を開かれるまで待とう。その時に約束の真偽ははっきりする。
さらに、私たちは、この世以上の望みをもっている。やがて、私たちは死ぬだろう。そうすれば「私の望みは神から来る」。私たちが病の床にある時、神が御前の使いを遣わして神のふところに運ばれることを期待しないだろうか。脈が衰え、呼吸が乱れた時に、天使は私たちの枕もとに立ち、あわれみの目を注いで、「私の愛するたましいよ。私とともに来なさい」とささやく時のあることを私たちは知っている。私たちが天の都の門に近づく時、「さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい」という歓迎の声を聞くことを期待する。さらに、私たちは黄金の琴と栄光の冠を期待し、まもなく御座の前の輝く群衆の中に入ることを望む。私たちは栄光の主に似せられる時の来ることを心待ちにしている。なぜなら「私たちはキリストのありのままの姿を見る」と書かれてあるからである。
私のたましいよ。もし以上のことがおまえの望みであるならば、ただ神のためにのみ生きよ。おまえの必要をすべて満たし、その恵みによっておまえを召し、贖い、救われた神の栄光を現すことを願い、かつ決意して生きよ。これがおまえのもつべき、来るべき栄光の望みである。

 


第1サムエル記6章19-21節

2014年02月28日 07時45分31秒 | 聖書

6:19 主はベテ・シェメシュの人たちを打たれた。主の箱の中を見たからである。そのとき主は、その民五万七十人を打たれた。主が民を激しく打たれたので、民は喪に服した。


 主の箱がペリシテ人の所から返されてきた時、ユダヤの民の一員であったベテ・シェメシュの人々は、大変喜びました。

自分たちが何もしないのに、彼らが自分たちの所に大事な主の箱を送り返してきたからです。

 ところが、これで1つの問題が解決されたと喜んでいた民の所に、思わぬ苦しみが訪れてきました。

それは、そこの民の内5万70人の人々が、主によって殺されてしまったからです。

彼らにとっては、誠に思わぬ出来事でした。

いったい何が起こったのでしょう。

それは、彼らが運び込まれてきた主の箱の中を、喜びのあまり開いて見たからでした。

このことは、民数記の4章の所を見ますとわかりますが、主の箱を運ぶべき人はレビ人だけであり、またその彼らも箱の中を見てはならないと言われているのです。

主の絶対的な聖さがそこに示されていたからです。



ヨブ記36章22節(同35章)

2014年02月28日 07時43分04秒 | 聖書

 ★  見よ。神は力にすぐれておられる。神のような教師が、だれかいようか。

■O:今日のコラム

先日ボブ・ジョーンズという主の器が天に召されました。
     
彼について説明されている文の中に「こよなく神を愛し、神と過ごす時間を最も大切にした人であると思います。彼は神からのことばを、まるで恋人が話すことを聞き逃すまいといつも耳をそば立てて待っているような人でした。とにかく彼は、神から話を聞くことを熱心に求め、純粋に神のみ声をいつも聞きたかったのです。

ですから神も恋人のように彼を離さず、ひっきりなしに彼に毎日話し掛けられたのです。」と書かれていて感動しました。
     
私も、ただ主を愛し、主に愛される者でありたいと切に願い求めます。
   
「主との個人的な愛の関係を持つ。」という事はヨブ記の重要なテーマです。

ヨブは正しい人ではありましたが、自分の義に立つ人でした。
しかし、苦難の中でヨブが神と顔と顔を合わせて出会った時、「私はあなたのうわさを耳で聞いていました。しかし、今、この目であなたを見ました。」と告白し、自分の罪深さを認識し悔い改めへと導かれる事となります。

聖書全般の一貫したテーマは創造主なる神と私達人間の個人的な愛の関係が回復する事です。
ヨブ記を通してもその重要なテーマを私達は学ぶ事が出来ます。
   
今日の箇所に「神はすぐれた教師」である事が記されていますが、日々御言葉を通して、最高の教師なる主からの語りかけを受け取り続けましょう。

そして、私達が苦難に合う時、ヨブの苦難は励ましや信仰のチャレンジとなりますが、「ヨブのような義人が苦難に遭うのであれば、私も苦難に遭うのは当然だ。」というのは正確な答えではありません。
   
ヨブは苦難の中で「その方が、人のために神にとりなしてくださいますように。人の子がその友のために。」(ヨブ記16章21節)
   
「私は知っている。私を贖う方は生きておられ、後の日に、ちりの上に立たれることを。」(ヨブ記19章25節)と告白していますが、彼が求め続けた答えはイエス・キリストの内に見いだす事が出来ます。
   
この方こそが創造主から私達人類に与えられた唯一の答えであり、この方を通して私達は主との愛の関係を回復する事が出来るのです。それだけではなく、聖霊の満たしを通して毎日主との親密な関係の中を生きる者とされています。この主との交わりの中を共に歩み続けましょう。

■A:考えてみよう

福音の目的は「神との交わりを持つ事」です。
     
ヨハネはイエス様を伝える事をこのように定義しています。
「私たちの見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。」(ヨハネの手紙 第一 1章3節)
   
イエス様にある救いを通して主との交わりを今日も喜び楽しみましょう。

■P:祈り

父よ。ヤハウェイなるあなたの御名をほめたたえます。今日も父なる神様、イエス様、聖霊様との親しき交わりを切に求めています。心から主を愛します。

イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。


◆その出ることは、

2014年02月27日 15時59分10秒 | 聖書

昔から、永遠の昔からの定めである。(ミカ五・二)

主イエスは民の代表として御座の前に進んで出られた。それは民が時の舞台に現れるより、はるか以前のことであった。民のために主が父なる神と契約を結ばれ、血を流さなければならない者のために自ら血を流し、苦しむ者、死すべき者に代わって苦しんで死なれることは、「永遠の昔からの定め」であった。主が頭の先から足の先まで血のしたたりにおおわれ、つばきをかけられ、四肢を釘で貫かれ、あざけられ、引き裂かれて死の苦痛の中で砕かれることは、「永遠の昔からの定め」であった。私たちの保証人として出られたのは、「永遠の昔からの定め」であった。
私のたましいよ。立ち止まれ。驚け。おまえはイエスにおいて「永遠の昔から」出ることが定められていた。この世に生まれ出た時にキリストが愛されただけでなく、人が地上に一人もいなかった時から、キリストは私たちを喜ばれた。人の子たちを絶えず心にかけ、永遠の昔から永遠の未来に至るまで、愛を注がれる。
私のたましいよ。主が永遠の昔からおまえの救いのために心を砕かれているのに、その救いを完成されないことがあろうか。私を救うために永遠の昔から出て行かれたのに、今私を見捨てられることがあろうか。山々が生まれる前から、海がまだ造られなかったころから私を選ばれたのに、今になって拒まれるだろうか。否、そのようなことは決してあり得ない。
私は堅く信じる。もし主が変わることのない愛に満ちたお方でないなら、決してそのように長く愛を注がれるはずはないということを。もし主が私を見限られるとすれば、永遠の昔からそれをなさったであろう。もし主が、地獄のように深く、死のように強い愛をもって愛しておられなかったなら、はるか以前に私に背を向けられたことであろう。なんという喜びであろう。私が、主の永遠の譲渡されることのない相続地であり、地の造られる永遠の昔に、父なる神によって主に与えられたことを知るのは。今夜、この永遠の愛を枕として眠りにつきたい。

 


「『わたしに何をしてほしのか』

2014年02月27日 15時58分09秒 | 聖書

と尋ねられると、彼は『主よ。目が見えるようになることです』と言った」(ルカ18:41)

一人の盲人が、主が通られる時に「私をあわれんで下さい」と大声で叫んだ。
周囲の人々がたしなめたが、決して止むことなく、ますます大声で叫び立てた。
主はその声に立ち止まられ、何をして欲しいのかと聞かれた。
盲人なので、目が見えるようにして欲しい事は、見るとわかるのだが、主はあえて、何をして欲しいのかと尋ねられた。
盲人が主イエスを求めた。盲人の目は開けられた。
たしなめられた時、諦めて黙ってしまったならどうだろう。
主は求めを待っておられる。
諦めないで、叫び続ける事をたしなめるのでなく、喜んで下さる。
主が求めておられるのは、あなたの「求め」だ。
あなたの能力、力でなく、あなたの「求め」を求めておられる。
盲人が癒されたのは、何かしたからではない。
何も出来なかった。
今、問題があるだろうか。ネガティブになって落ち込んでいるか。
相手を責め、環境が悪いと不満を持ち、相手や環境を変えることばかりに悶々としているか。
方向違いである事に気づき、「わたしに何をしてほしいのか」と、目の前におられる主に、「~~ようになることです」と、求めをはっきり告げて行こう。
-----------
「求め」がないと、神はわからない。必要がない時、神が見えない。
自分の問題は求めが無い事、神無しでやって行ける事だろうか。
「わたしに何をしてほしいのか」と、目の前の主に何と答えるだろう。



◆蟻  を  見  よ

2014年02月27日 08時54分41秒 | 聖書

なまけ者よ。蟻のところへ行き、
そのやり方を見て、知恵を得よ。
蟻には首領もつかさも支配者もいないが、
夏のうちに食物を確保し、
刈り入れ時に食糧を集める。    (箴言六6―8)

日本人は蟻のように働きます。それが現在の富を築いたわけです。勤勉でよく働く日本人はほめられもしますが、「働きすぎだ」とねたまれてもいます。
ねたまれて悪口をいわれても、やはり、勤勉で働くことが好きな日本人であり続けたいと思います。健康で、やるべき仕事・働きがあって精いっぱい働けるなら、これはすばらしいことです。
イソップ物語のキリギリスのように歌ってばかりいて働かず、備えをしないでなまけていると大変です。
ところが日本人には、キリギリスよりももっと仕方のないなまけ者で、いざという時の蓄えをせず、だらしがない点があります。それは「永遠」「永遠のいのち」という点についてです。
死が一人一人に迫ってきます。人生の冬が近づいています。ところが、だれも用意していません。雪の降るきびしい冬の夜もたきぎがあり暖炉があるなら、「雪の降る夜は楽しいペチカ」です。しかし、備えがなかったらどうでしょう。
私たちは勤勉な蟻から学ばねばなりません。いま見えないからといって冬は「ない」と思ってはならないのです。蟻に冬は見えませんが、冬のために備えています。永遠の世界が見えないから「ない」といってはなりません。死のかなたに永遠のいのちが、または永遠の滅びが待っているのです。
死のかなたは、完全に神のみが支配する世界です。神の愛の中で永遠の喜びを味わうか、神の怒りの中で永遠に孤独で過ごすかの選択を、冬になる前にしなければなりません。「あなたはあなたの神に会う備えをせよ」(アモス四12)と、聖書はすすめます。

 


◆それはあなたが私の避け所である主を、

2014年02月27日 08時53分48秒 | 聖書

いと高き方を、あなたの住まいとしたからである。(詩篇九一・九)

荒野におけるイスラエル人は絶えず変化にさらされていた。雲の柱が止まるたびに天幕が広げられた。しかし翌朝、太陽が上らないうちにラッパが鳴り、契約の箱が前進を始め、燃えている雲の柱に導かれて山の狭い道を通り、丘を越え、あるいは無人の荒野を旅するのであった。少し休んだかと思うと、すぐに命令が下って「前進せよ。あなたはここに休んでいてはならない。あなたがたはカナンに向かって旅を続けなけれはならない」と促されるのであった。
彼らは決して一つの場所に長くとどまってはいなかった。泉があっても、なつめやしの木があっても、彼らはとどまることができなかった。それでも彼らは神を彼らの家とし、雲の柱をその棟木と思い、夜になって燃えるその柱を家庭の炉の火と思っていた。
彼らは一つの場所から次の場所へと前進しなければならなかった。彼らは絶えず変化を経験し、落ち着く暇もなく、「今こそ私たちは安全である。この場所に定住しよう」と言うことはなかった。モーセは、「主よ。私たちは絶えず変わりますが、あなたは代々にわたって私たちの住まいです」と言った。
クリスチャンは、神は少しも変わらない方であると知っている。人は今日富んでいても、明日は貧しいかもしれない。今日は病み、明日は健康になることもあろう。今日は幸福でも、明日は患難に会うかもしれない。しかし私たちにとって、神との関係は少しも変わらない。昨日私を愛された神は今日も愛してくださる。私の、動くことのない憩いの家は恵み深い主である。前途は曇り、希望は吹き散らされ、喜びは失われ、かびがすべてのものをだいなしにしてしまっても、私が神のうちにもっているものは何も失われない。
神は「私の住まいの岩……強いとりで」である。世にあっては私は寄留者である。しかし神にあって安住している。地にあっては私は放浪者である。しかし神のうちに静かな住まいをもっている。

 


第1サムエル記6章17-18節

2014年02月27日 08時52分31秒 | 聖書

6:17 ペリシテ人が、償いとして【主】に返した金の腫物は、アシュドデのために一つ、ガザのために一つ、アシュケロンのために一つ、ガテのために一つ、エクロンのために一つであった。


 ペリシテ人は、自分たちの上に災いが起こらないよう主の箱を返しました。

その時、彼らはその贖い品として金の像を作り、それを主の箱と共に送り返しました。

これは、いわば賠償金のようなものです。

 そのことを行ったペリシテ人の町の支配者は、次の町の支配者であったと語っています。

すなわち、アシュドデ、ガザ、アシュケロン、ガテ、エクロンでありました。

つまり、この5つの町とその支配者達が、このペリシテ人の地の町であり、またその町の王であったと告げているのです。

 またその金のネズミについては、その5人の王達の支配に属している地域の数に従って作られた、と言われています。

つまり、王も民も皆、主の箱に伴う主なる神の力におびえ、主の民の元へとこの箱を返したのでした。

主こそ誠の神であり、大いなる方であることを知るのです。



ピリピ人への手紙4章5節 (ヨブ記34章)

2014年02月27日 08時50分41秒 | 聖書

★ 「あなたがたの寛容な心を、すべての人に知らせなさい。主は近いのです。」

■O:今日のコラム

この箇所の「主は近いのです」という言葉は、詳訳聖書には次のように記されています。
「主は近づいておられます。<主はすぐにおいでになります>。」

欄外注による コリント人への手紙 第一 16章22節には、「マラナタ」とあります。
これは、みなさんもよく知っているように 「主よ。来て下さい。」 という意味でもあり、また 「われらの主はこられる」 という意味でもあります。

当時、迫害の苦しみに遭う時に、信徒たちは 「屈せずに目を覚ましていよう。もうすぐ主が来られるのだから。」 と互いに激励するかのように、この 「マラナタ」 という言葉をかけ合っていたそうです。

わたしたちは、愛する花婿が来られるのが、いつかは知りません。明日かも知れないし、何年も先かも知れないし…
それがいつであったとしても、最高の状態で花婿主イエスとの結婚式を迎えたいです。

暴飲暴食続き、髪の毛も何年もクシでとかしたこともなく、何ヶ月もお風呂に入っていない時に 「花婿が迎えに来ました。今日、あなたの結婚式ですよ」 と言われたら、ショックです。

私は、数日前に夢で、まったく練習が出来ていないのに、演奏会当日を迎え、控室で冷や汗をかく、というものを見ました。何事も準備が出来ていないことは、取り返しがつきません。

当時の信徒たちは、まさに 「明日、嫁入りしてもいい」 という状態で、信仰、喜びと期待を持ち、主の御前にきよく自分たちを保つことを心がけ、励まし合っていました。

この箇所の引照には、ヤコブへの手紙5章8-9節があり、こう書かれています。

「あなたがたも耐え忍びなさい。心を強くしなさい。主の来られるのが近いからです。兄弟たち。互いにつぶやき合ってはいけません。さばかれないためです。見なさい。さばきの主が、戸口のところに立っておられます。」

初臨のイエス様は救い主として来られましたが、再臨の時に主は裁き主として来られることを信徒たちは知っていました。それも真実です。

私たちには二通りの待ち方が、二つの選択肢があります。

裁き主として来られる方を、「主は恐ろしい、ひどいお方だ」 と思う 「一タラントを渡されたしもべ」 の心で待つか(マタイによる福音書25章14-30節)、もしくは、花婿が来るのを待ち焦がれる、雅歌の乙女のような 「花嫁」 の心で待つかの二通りです。前者には恐れが伴い、後者には喜びが伴います。

主イエス様が来られるまで、あと一日だったとしても、たとえあと何十年先だったとしても、私たちは 「主は恐ろしい方だから、裁かれないようにしよう」 という 「一タラントのしもべ」のように歩むのではなく、「愛する方に早く会いたい! あの方のために自分をきよく保ちたい」 という花嫁の心で歩みたいです。

その花嫁の心をもつのには、どうしても聖霊様の助けが必要です。
御霊に導かれて祈ること、御言葉を読み、御霊によって真理を悟ること、御霊に満たされて賛美することは、主との親しい関係、そして花嫁の心を育ててくれます。

毎日の歩みの中に聖霊様を歓迎し、主の臨在の中にとどまること、主との親しい交わりを第一としていきましょう。そこには日に日に増し加わる、この上ない喜びが待ち受けています! ハレルヤ!

「これらのことをあかしする方がこう言われる。『しかり。わたしはすぐに来る。』 アーメン。主イエスよ、来てください。」 (ヨハネの黙示録22章20節)

■A:考えてみよう

主の再臨に対する自分の心は、「一タラントのしもべ」 だろうか? 「花嫁」 だろうか?

■P:祈り

主よ、あなたの裁きを恐れることのゆえに戒めを守る恐怖心ベースの信仰ではなく、本心からあなたが来られるのを待ちわびる花嫁の心、乙女の信仰で歩むことが出来ますように。

聖霊様、あなたを私の人生の一部分だけではなく、私の人生のすべての中に歓迎します。
わたしの内に満ちてください。主との揺るがない関係へと、温かい愛に満ちた関係の中へと私をさらに導いてください。

イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。


「それゆえ、私の霊は私のうちで衰え果て、

2014年02月26日 17時58分53秒 | 聖書

私の心は私のうちでこわばりました」(詩篇143:4)

誰しも心が衰え果てることがある。
ストレスが続いて許容量オーバーになったり、又、対人関係で傷ついたり、問題に苦しんだりする時だ。
こわばるとは、心の余裕がなくなる事である。
普段ならどうもない事が、心に全く余裕がないので受け入れられなくなる。
心がすさんで、ピリピリし、いらいらし、とげとげしくなる。
人の言葉や態度にネガティブな反応しか出来なくなる。
人に腹が立って仕方がない。
又、それが自己嫌悪になり、ますます落ち込んで行く。
これは霊的補給ができていないので、ゆとりを失っている状態である。
ダビデはこの後、昔の日々を思い出し、神のなさったすべての事に思いを巡らすことにより、再び引き戻され、引き上げられている。
今、あなたがイライラし、余裕が無いなら、同じようにすればよい。
霊的補給が必要だ。今までの沢山の恵みと感謝を思い出してみよう。
今生かされている事、与えられている恵みに目を留めよう。
神に心を向けよう。
-------------
自分の居場所、視点一つで明暗が分かれる。
ネガティブになると全く祝福が見えなくなる。
満ち満ちているのに自分には見えなくなる。
神に焦点が合うと見えて来る。喜びが来る。
あなたの心はどうだろう。霊的補給が必要だろうか。



今日は「二・二六事件」の日だ

2014年02月26日 07時51分31秒 | 平和・基地
今の時期、きちんと歴史を見ておく必要があると思う。

Twitterより
二・二六事件、1936年、日本の陸軍皇道派の影響を受けた青年将校らが1483名の兵を率い、「昭和維新断行・尊皇討奸」を掲げて起こしたクーデター未遂事件で、政治腐敗と考える政財界の様々な現象や、農村の困窮が収束すると考えていたらしいね。

きょうの潮流 2011年2月15日(火)「しんぶん赤旗」 http://www.jcp.or.jp/akahata/aik10/2011-02-15/2011021501_06_0.html
休日にぶらりと立ち寄った古本市で目にとまった本がありました。『二・二六事件と郷土兵』。30年前、埼玉県の県史編さん室が編集したもの。1936年2月26日に発生した陸軍青年将校の反乱事件に巻き込まれた埼玉県出身の下士官、兵士たちの手記です▼序文で畑和知事(当時)が発刊の動機について述べています。将校ではなく、兵士の立場から見た事件を記録に残すことは貴重な資料であり、後世に伝えたいと▼約70人の手記からは、上官命令が絶対の軍隊でいや応無く巻き込まれた姿が浮き彫りに。多くの人が二・二六事件だけでなく、無謀な侵略戦争に突き進んだ軍部や政治家に怒りを向けています。「政治が悪いと全てが狂ってしまうものである。これは現代でも同様のはずだ」(元2等兵)▼最近、二・二六事件を引き合いに出したのが民主党の小沢一郎元代表です。同事件は「生活第一」の政治の任務を果たせなかった結果であり、菅政権にも国民の不満が高まっている、と▼菅政権の体たらくは見ての通りですが、小沢氏に批判する資格があるのかは疑問です。まずは、自身も元秘書も起訴された陸山会事件について国会の場で説明すべきでしょう。「政治とカネ」の問題は、「政治活動の公正と公明を確保」(政治資金規正法)するという民主主義の根幹です▼世論調査でも、小沢氏の態度を批判する声が圧倒的です。政治不信が広がった責任は小沢氏にもあります。痛苦の歴史を我田引水に持ち出している場合ではありません。


2・26事件:憲兵幹部「機密日誌」に戒厳司令部との攻防 毎日新聞 http://mainichi.jp/select/news/20140225k0000m040137000c.html
◇生々しく記録、研究史の空白埋め得る1次史料
 日本近現代史上、最大のクーデター未遂となった1936年の2・26事件で、事態収拾に奔走した憲兵司令部幹部の「機密日誌」が見つかった。反乱将校を自殺させようとする戒厳司令部と、証人として身柄を確保しようとする憲兵側との攻防が生々しく記されている。憲兵幹部が記した史料はほとんど知られておらず、研究史の空白を埋め得る1次史料だ。
 見つかったのは憲兵司令部の総務部長で、司令官代行だった矢野機(はかる)・陸軍少将(1887〜1992年)の「戒厳機密日誌」。陸軍けい紙9枚に、事件が起きた2月26日から、28日を除く3月2日まで記されている。
 事件発生後、陸軍内部では穏便に決着させようとする長老らと、鎮圧を主張する強硬派が対立。矢野は自殺させず逮捕するために、陸軍省と参謀本部高官の間を奔走した。
 29日の記述では、香椎(かしい)浩平・戒厳司令官が「叛徒(はんと)タル将校ノ罪ハ大イニ憎ムヘシ、将校ハ全部之(こ)レヲ斃(たお)スヲ適当トス」などと述べ、逮捕した場合は自殺させるのが適当と主張した。これに対し矢野は「此ノ機会ニ軍ノ明朗化ヲ期ス、該将校ハヨキ証拠人ナリ」などと主張。反乱将校は自殺した1人を除き、逮捕された。
 「日誌」は、ほかの史料などおよそ70件とともに千葉県習志野市の酒屋「張替酒店」で昨年秋に見つかった。同店は1905年創業で、軍人との交流が深かった。矢野は千葉県出身で地元に縁があった。
 加藤陽子・東京大教授(日本近代史)は「戒厳司令部の極論を抑え、反乱将校の逮捕に尽力した憲兵司令部幹部の動きが分かったことで、事件がより立体的にみえてきた」と話している。【栗原俊雄】


◆自分を救い出せ

2014年02月26日 07時47分56秒 | 聖書

あなたの目を眠らせず、
あなたのまぶたをまどろませず、
かもしかが狩人の手からのがれるように、
鳥が鳥を取る者の手からのがれるように
自分を救い出せ。        (箴言六4―5)

勢子たちや犬に狩り出されたイノシシが、鉄砲でねらう猟師たちの待つところにふらふらと追われてきた姿を見たことがあります。また、かすみ網にひっかかって懸命に暴れる小鳥たちの姿も映画で見ました。絶体絶命です。
聖書は、人間の姿を、こんなカモシカや鳥にたとえています。孤独・不安・挫折……、現代人の憂いは濃く、現代人は深く悩んでいるのです。あなたも現代人の一人として、そのような悩みを持っているのではないでしょうか。
現代人はこの悩みから逃れようとして、網にかかった鳥のようにもがいています。レジャーに、酒や女やギャンブルに自分を忘れようとし、趣味・道楽に逃げ道を見いだそうとしたり、勉強や事業をいのちがけでやってみたりします。しかし、それはがんに膏薬をつけているようなものです。どこに救いがあるのでしょう。
現代人のこの悩みの根本原因は何かを、私たちは知らないでいます。ちょうど、自分のすみかから迷い出たカモシカや網の前に迷い出てしまった鳥のようです。
人間の悩みの根本原因は、造り主なる神の愛のふところから離れ、愛深い神のいのちのつながりから迷い出たことです。神に立ち返るところにのみ、ほんとうの解決があります。
「わたしは、あなたのそむきの罪を雲のように、あなたの罪をかすみのようにぬぐい去った。わたしに帰れ。わたしは、あなたを贖ったからだ」(イザヤ四四22)。

 


◆救いは主のものです。

2014年02月26日 07時46分58秒 | 聖書

(ヨナ二・九)

救いは神のみわざである。「罪過と罪との中に死んでいた」たましいを生かし、その霊のいのちを守られるのは神のみである。神は「アルファであり、オメガ」であられる。
もし私が祈り深いなら、それは神が私をそうされたのである。もし私に徳があるなら、それは神の賜物である。もし私が調和のある生活をしているなら、それは神がその御手で支えておられるからである。神が私を守るために先手を打たれたのであって、私が何かの努力をしたためではない。私の犯す罪は私のものだが、私のなす正しい行いはことごとく主から来たのである。
もし私が霊の敵を撃退したとしたら、主が私の腕を力づけられたからである。私が人々の前で聖い生活をしたとしたら、それは私でなく、私のうちに住んでくださるキリストである。私は聖められているか。私を聖としたのは、私自身ではなく聖霊である。私は世的なものから離れているか。私は、私のために配慮される神の懲らしめによってそうされている。知識において成長したか。それは大教師が私を教えられたからである。私の宝石はすべて天の技術によってみがかれたものである。私に欠けているものは、すべて神の中にある。しかし私の中にあるものは罪とわざわいだけである。「神こそ、わが岩。わが救い」である。
私は神のみことばを食べて成長しているか。みことばをたましいの食物として、それを食べるようにしてくださるのは神である。私は天から降るマナによって生きているか。そのマナは受肉されたイエス・キリストであって、私はそのからだを食べ、その血を飲んでいるのではないか。私は不断に新しい力を受けているか。その力はどこから来るか。私の助けは、天地を造られた主から来るのであり、イエスなしに何もすることはできない。枝が幹につながっていなければ、実を結ぶことがないように、私も主につながっていなければ何もできないのである。
ヨナが海底で学んだことを、今朝は私の密室において学びたい。「救いは主のものです」ということを。