座間コミニティー

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◆生きている犬は死んだ獅子にまさるからである。

2015年09月30日 17時13分01秒 | 聖書
(伝道者九・四)
 
いのちは尊い。それがどんなに卑しい形のものでも死よりはまさる。これは、霊的なことにおいてたしかに真理である。天国で最も小さい者となることは、天国の外で最大な者となるよりもまさる。恵みの最低の段階は、生まれ変わらない性質の最高の発展段階よりすぐれている。聖霊が神のいのちをたましいの中に植えつけられたところには、洗練された教育も匹敵できない尊いものがある。十字架上の犯罪人は、王座にいるカエサルにまさり、犬に囲まれるラザロは、元老院議員の中にいるキケロにまさり、さらに最も無学なクリスチャンは、神の目から見ればプラトンよりもまさっている。いのちは霊の領域において高貴さのしるしである。それをもっていない人々は、質の良い悪いにかかわらず、いずれもいのちのないものの実例であり、いのちを与えられる必要がある。彼らは咎と罪の中に死んでいるのだから。
生き生きとして愛に満ちている福音の説教は、無学で形式が整わなくても、聖霊の油と力のない最高に洗練された大講演にはるかにまさる。生きている犬は見張りをし、主人にとっては死んだ獅子よりも役に立つ。そのように最も貧弱な霊的説教者も、大雄弁家の、ことばがあっても知恵がなく、響きがあっても活力のないのに比べれば、どんなにすぐれているかわからない。私たちの祈りや礼拝についても同様である。もし私たちが、それらの中で聖霊によって力づけられているならば、神は、それをイエス・キリストによって受け入れてくださる。しかし、私たちの心のこもらない壮大な儀式は、死んだ獅子のようであり、生ける神の目から見れば、腐敗したしかばねにすぎない。
おお、いのちのない歌や、死んだ安静よりも、むしろ生きたうめき、生きた嘆息、生きた失望を得たい。どのようなものでも死よりはまさる。地獄の犬のうなり声は、少なくとも私たちの目を覚まさせる効果はもつ。しかし、人のもつことのできるのろいの中で、死んだ信仰と死んだ告白より大いなるものがあろうか。
おお、主よ。私たちを生かしてください。
 
 
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「患難さえも喜んでいます。

2015年09月30日 17時11分59秒 | 聖書

それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです」(ローマ5:3)

何となく信仰生活を誤解していたりする。
信仰を持つと良い事づくめであり、又、人生、肯定的に、スムーズに行く事が神の祝福と思っている。
受験は合格、畑は豊作、商売繁盛、無病息災、都合良く行く事が祝福で、不合格、不作、倒産や病気は祝福が無いと思ってしまう。
強いては順境の時は神に愛されていて、逆境の時は愛されていないと思う。
順境は善で、逆境は悪との価値観があるからだ。
それで、逆境が来ると「なぜ?なぜ?」と落ち込む。
世はまさにそれなので、周囲からは、信仰の意味がないという目で見られる。
しかし、聖書はそんな事は言っていない。
信仰者の目的は平穏無事、幸せ、安楽ではない。
聖くされる事、御子のかたちに変えられる事だ。
そのため、神の子となった途端に、神はどんどん取り扱われ、鍛えられる。
「ご自分の聖さにあずからせ」るために試練が臨む。
逆境は悪ではなく、それを通して私達の品格が練られ、弱い者が強くされて行く。
ここをわきまえているなら不必要なつまずきから守られる。
ある人は、近所からの事実無根の誹謗中傷に苦しみノイローゼ状態だった。
しかし、試練と受け止め、苦しみの中で祈りつつ委ねて対応した。
すると事態の収束と共にある事を発見した。
人が気になる性質がどうにもならなかったのが、人が気にならなくされていた。
試練を通して主が変えて下さった。
御名を崇め、感謝に溢れた。
------------------
順境に感謝するのはよいが、試練に打たれて、本当の自分に向き合い、信仰を働かせることを学ぶ。
はるかに感謝な事だ。試練を避けず神様からの品格を身につけたい。

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今日の聖人の記念日

2015年09月30日 07時18分17秒 | キリスト教

聖ヒエロニモ司祭教会博士

347年-420年

 古代教会の重要なラテン教父であるヒエロニモは、ダルマチア(現オーストリア)の裕福なキリスト信者の家に生まれた。恵まれた環境と豊かな才能によって、短期間でギリシャ語とラテン語を習得し、ローマに留学して8年間修辞学を勉強した。

 そのころ、修道生活に入ることを望み、アクィレアで隠修士の仲間に入り、その後東シリアの荒野に行き、聖書を研究しヘブライ語を学んだ。そしてアンチオキアに戻ってから司祭に叙階され、380年ころ司教とともにコンスタンチノープルに行って、ニッサのグレゴリオなどと親交をもった。

 382年から385年まで教皇ダマソ1世に仕え、聖書をヘブライ語からラテン語に翻訳したブルガタ聖書を完成し、聖書の注釈書も著わした。教皇の死後、ヒエロニモの反対者によってローマを追われ、仲間とともにベトレヘムに行き、男子と女子の修道院を創立し、また聖地巡礼者のための宿泊所も建てた。晩年は、民族大移動時代と重なり、多くの困難に見舞われたが、修道院を守り抜き、著作活動に励んだ。

 現在もカトリック教会で使われているラテン語訳聖書は、彼によるものである。ヒエロニモは、大学、神学科の守護の聖人とされている。

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◆食 欲 の 問 題

2015年09月30日 07時16分56秒 | 聖書

わが子よ。蜜を食べよ。それはおいしい。
蜂の巣の蜜はあなたの口に甘い。
知恵もあなたのたましいにとっては、
そうだと知れ。
それを見つけると、良い終わりがあり、
あなたの望みは断たれることがない。(箴言二四13―14)
 
聖書の中に、蜂蜜が何回も出てきます。甘いものの少なかった時代に、蜂蜜がどんなに貴重であったかが想像できます。信州育ちの友人から、子どものころ、蜂をつかまえて細いひもを結んで放し、蜂の行方を追って、それこそ野越え山越えして、蜂の巣を捜し当てたという経験を聞いたことがあります。イスラエルの昔の人たちも、一生懸命蜂の巣を捜し、したたる蜜を求めたことでしょう。
蜜を恋い慕うと同じように、神の知識を恋い慕いなさいと、聖書は言っているのです。ペテロも、「生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい」(Ⅰペテロ二2)とすすめ、ダビデも、「あなたのみことばは、私の上あごに、なんと甘いことでしょう。蜜よりも私の口に甘いのです」(詩篇一一九103)と告白しました。
しかし、あなたにとってどうでしょうか。「良薬口に苦し」ということばがありますが、聖書のことばとか、神とか永遠とかの話には食欲を感じない。苦いとは感じても、とても蜜とは思えない。――これが、私たち多くの人間の問題となっています。きよいこと・永遠のこと・神・神の知識に対して飢え渇きや食欲がないのは、なぜでしょうか。おいしいごちそうを前にしても、ほかのものでおなかがいっぱいで入らなかった経験はありませんか。卑しいもので、腹を満たしている時、貴いものへの食欲がわいてきません。そこで、ペテロは、「すべてのごまかし、いろいろな偽善やねたみ、すべての悪口を捨てて」(Ⅰペテロ二1)みことばを慕い求めなさいと言ったのです。
 
 
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◆全地よ。神に向かって喜び叫べ。

2015年09月30日 07時16分06秒 | 聖書
御名の栄光をほめ歌い、神への賛美を栄光に輝かせよ。(詩篇六六・一、二)
 
神を賛美するかしないかは、私たちの勝手ではない。神は賛美を受けるべき方であられ、すべてのクリスチャンは、神の恵みを受けた者として、日々神を賛美すべきである。私たちは、日ごとに神を賛美するようにとの高圧的な命令は受けず、ある一定の時に歌い、感謝をささげるようにとも言われていない。しかし、私たちの心に記された律法は、神を賛美するのが正しいことだと教える。この不文律は、石の板に記されたような、あるいは雷鳴とどろくシナイ山頂から直接私たちに渡されたような力をもって迫ってくる。
そうだ。神を賛美することはクリスチャンの義務である。これは単なる楽しい行事であるだけではなく、クリスチャンの生涯の絶対的義務である。絶えず嘆き悲しむ者よ。この点に関して自分に罪がないと思ってはいけない。また賛美の歌なしにあなたの神に対する義務を果たすことができると考えるな。あなたは生きる限り、主の御名をほめたたえるために、愛のひもをもってつながれている。そして、主に対する賛美が常にあなたの口になければならない。神を祝福するために、あなたは祝福を受けているのである。「わたしのために造ったこの民はわたしの栄誉を宣べ伝えよう。」
もしあなたが神を賛美しないならば、あなたは、農夫である神があなたに期待される実を、まだ結んでいないのである。だからあなたのたてごとを柳にかけたままにせず、それを下ろし、感謝の心をこめて高らかにかき鳴らせ。立って、神への賛美を歌え。夜明けのたびに感謝の叫びを上げ、夕日の沈むごとにあなたの賛美の歌を歌え。あなたの賛美をもって地をおおい、美しい調べによって地を包め。そうすれば神は天から聞いてくださって、あなたの音楽を受け入れてくださるだろう。
 私はあなたを愛し、心より愛し続け
 あなたに、賛美の歌をささげる
 あなたは私の愛する神であられ
 私の贖い主であられるからだ
 
 
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第1歴代誌19章16-19節

2015年09月30日 07時14分44秒 | 聖書


19:18 アラムがイスラエルの前から逃げたので、ダビデはアラムの戦車兵七千と歩兵四万をほふり、将軍ショファクを殺した。
19:19 ハダデエゼルのしもべたちは、彼らがイスラエルに打ち負かされたのを見て、ダビデと和を講じ、彼のしもべとなった。アラムはそれからはもう、アモン人を救おうと思わなかった。



 アモン人はダビデと戦うために、アラム人の戦車や騎兵を雇って戦いに臨みました。

ダビデは、将軍ヨアブとその兄弟アビシャイによって戦わせました。

アラム人は、初めの戦いでイスラエルの軍に敗れました。

そこで、同じ民でヨルダン川の東の側に備えていた軍も呼び寄せました。

しかし、その軍隊も打ち破られてしまいました。

その結果、アラム人は戦う意欲を失い、ダビデと和を講じて戦いをやめました。

そして、もうアモン人を助けることをしませんでした。

こうした、アモン人が助けを求めたアラムの軍隊の支援は、効果を持たなかったのです。

彼らがより頼んだ軍は、先にダビデが打ち破ったことのあるハダデエゼルでした。

勝つはずがなかったのです。

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伝道者の書 3章10-12節、ピリピ3章1節

2015年09月30日 07時12分30秒 | 聖書


★私は神が人の子らに与えて労苦させる仕事を見た。神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠を与えられた。しかし人は、神が行われるみわざを、初めから終わりまで見きわめることができない。私は知った。人は生きている間に喜び楽しむほか何も良いことがないのを。

最後に、私の兄弟たち。主にあって喜びなさい。前と同じことを書きますが、これは、私には煩わしいことではなく、あなたがたの安全のためにもなることです。

■O:今日のコラム
日々の生活の中でつらいとこを通る時、また苦しい時、私たちはよく神様に不平不満を口にしてしまいます。また、神様に疑問を抱くでしょう。神様は、恵み深い愛に満ちた天のお父さんなのに、なぜ、こんな苦しみを通らせるのかと。愛の神なら、こんな苦しみなんかを通らせないと思いがちです。

しかし、今日の箇所にはっきりと書いてあるように、主は私たちに労苦させる仕事を与えるとあります。

苦しみを通る、労苦は、自分の罪の結果の時もあれば、そういう時でない時もあります。その違いは聖霊様によって吟味をしなければなりませんが、罪からきた労苦であれば、主は憐れみ深い方なので、その罪から背を向け、主に立ち返ると、多くの場合、その労苦から解放されます。

しかし、今日の箇所を読んで分かるように、主が与えられる労苦というのがあります。そして、これに続き、主のなさることは、すべて時にかなって美しいとあります。ということは、労苦も時にかなって美しいのです。

私たちは、主がなさることを見きわめることは不可能です。なので、なぜ、労苦をある時に与えるのか分かりません。時々、どうみても、タイミングが悪いのに、そういうときに労苦が増して、「どうしてーーー!」って叫び泣きたくなる時もあるかもしれませんが、神様から見たら、すべて時にかなっているのです。

だから、ソロモンは悟ったのです。そして、パウロも、労苦に対する秘訣を得ていました。それは、主にあって、どんな時も喜ぶということです。

労苦を避けることができない。であれば、その中で、喜び楽しむことを学ぼうではありませんか。


■A:考えてみよう
労苦の中にいますか?苦しい時期を通っていますか?主にあって、喜びを見出していきましょう!それが私たちの力となり、前に前に歩み続けることができます。そして、主に信頼しましょう。この時もすべて、主にあっては美しいものであることを。だから、いつも喜び楽しみましょう!

■P:祈り



イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。

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9月29日(火)のつぶやき

2015年09月30日 01時46分49秒 | キリスト教
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◆私の愛している人を私は見つけました。

2015年09月29日 16時53分42秒 | 聖書
この方をしっかりつかまえて、放さず……。(雅歌三・四)
 
キリストは、私たちがみもとに行く時、過去の罪がどうであろうと、受け入れてくださるだろうか。私たちは、他のあらゆる避け所を試してみたが、そのために主が私たちをお叱りになることはないであろうか。この地上に、主のようなお方がほかにあるだろうか。すべての善の中で主は最善であられ、すべての美の中で最上の美ではないだろうか。
おお、それなら主をほめたたえよう。エルサレムの娘たちよ。タンバリンとたてごとをもって主をたたえよ。あなたの偶像を打ち倒して、主イエスをあがめよ。誇りと傲慢の旗を足下に踏みにじり、この世がまゆをひそめ、あざける十字架を高く掲げよ。主をとこしえにあがめ、私の霊を主の足台の下に座らせ、主の御足に口づけし、私の涙をもって御足を洗おう。
ああ、キリストの尊さよ! なぜ私は、主のことをわずかしか考えていなかったのか。主がこれほどに私を満たし、富ませ、満足を与えられたのに、なぜ主以外のものに喜びや慰めを求めたりするのか。主にある友よ。決して主を離れないという誓いを自分の心と結び、主の批准を求めよ。主に願い求めよ。あなた自身を主の指のしるしとし、主の腕の腕輪としてくださるようにと。花嫁がその身を美しく飾り、花婿が宝石をつけるように、主があなたをご自身につけられるように求めよ。私はキリストの心の中に生きたい。
すずめがすみかを見つけ、つばめがひなを入れる巣を得るように、万軍の主、私の王、私の神様、あなたの祭壇のかたわらに住まいを得させてください。私もまたあなたの中に、私の巣、私の家を造り、あなたの鳩のたましいである私が、決してあなたから飛び出すことなく、おお、イエス様、私の唯一の安息所であるあなたに、よりそっていたいのです。
 尊い主にお会いした時
 私の愛のすべてが燃え上がり
 愛のきずなで主を縛った
 私は主を引き止めて行かせない
 
 
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「神の力強い御手の下にへりくだりなさい。

2015年09月29日 16時52分50秒 | 聖書

神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです」(Ⅰペテロ5:6)

招かれた人々が上座を選んでいるのを、主が見られた。
もし身分の高い人が来たら、座を譲らねばならず、恥をかくので、末席に着くように言われた。
自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからと。
まさか宴会で、自ら上座に着く事は誰もしない。
誰しも一見謙遜に、下の方でうろうろし、譲り合うだろう。
しかし、もし自ら進んで上座に座る人がいたらどうか。
内心批判し、何と高慢なと、さばく事だろう。
それをさばくという事は、自分にも上座に座りたい、人の上に立ちたい、人から認められ、評価されたいとの思いがあるからだ。
ストレートに上座を選ぶのは、まだ自他共にわかりやすい。
自分もよく認識できる。しかし、外側に決して表れない隠れた思いは、自分でも気づかない。
一見、謙遜の裏に隠れた高ぶりがあったりする。
パリサイ人と取税人の宮での祈りの箇所で、パリサイ的祈りが露呈されている。
それゆえ、私は取税人のようではない事を感謝しますと、祈る人はいない。
皆、パリサイ人は何と高慢な、と思っている。
しかし、今度は、私はこのパリサイ人のようでない事を感謝しますと、心密かに思っている。
それなら、パリサイ人と全く同じだ。
高ぶる者である事を、認めることがへりくだる事だ。
自分の内側に潜んだものを、認めて、悔い改めて、悔い改めて歩もう。
へりくだる者を、主が高くして下さる。
祝福が溢れ臨む。
-------------------------
人にはすぐわかるのに、自分で気づかないのが高ぶりだ。
すぐに傲慢になる者だと、いつも自分の心の状態を吟味して、内側に潜んだへりくだれない心を認めて行こう。

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今日の聖人の記念日

2015年09月29日 07時42分29秒 | キリスト教

聖ミカエル 聖ガブリエル 聖ラファエル大天使

 

 ミカエルは、「神と似た者」という意味で、ダニエル書(10.13)に、イスラエルを助ける天使として描かれ、ヨハネ黙示録(12.7)でも悪魔に対して戦ったと記されている。聖フランシスコ・ザビエルによって日本にキリスト教が伝えられたのは1549年であるが、キリスト教宣教の許可が出たのは同年の9月29日であったことから、ザビエルは聖ミカエルを日本の守護者と定めた。

 ガブリエルは、「神の力」という意味で、ダニエル書では神のメッセージを預言者に伝えている。新約聖書の中では特別な役割をもち、ザカリアに洗者ヨハネの誕生を、聖母マリアに救い主イエスの誕生を伝えている。通信・報道の保護者といわれる。

 ラファエルは、「神はいやされた」という意味で、神のみ前にいる7位の天使の1位である。トビト書では、人びとの祈りを聞き入れて神にとりなし、エノク書では、堕落した天使たちに汚された地を清らかにする天使として描かれている。旅人、薬関係の仕事に携わる人、パイロットの保護者といわれている。

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今日の聖人の記念日

2015年09月29日 07時42分29秒 | キリスト教

聖ミカエル 聖ガブリエル 聖ラファエル大天使

 

 ミカエルは、「神と似た者」という意味で、ダニエル書(10.13)に、イスラエルを助ける天使として描かれ、ヨハネ黙示録(12.7)でも悪魔に対して戦ったと記されている。聖フランシスコ・ザビエルによって日本にキリスト教が伝えられたのは1549年であるが、キリスト教宣教の許可が出たのは同年の9月29日であったことから、ザビエルは聖ミカエルを日本の守護者と定めた。

 ガブリエルは、「神の力」という意味で、ダニエル書では神のメッセージを預言者に伝えている。新約聖書の中では特別な役割をもち、ザカリアに洗者ヨハネの誕生を、聖母マリアに救い主イエスの誕生を伝えている。通信・報道の保護者といわれる。

 ラファエルは、「神はいやされた」という意味で、神のみ前にいる7位の天使の1位である。トビト書では、人びとの祈りを聞き入れて神にとりなし、エノク書では、堕落した天使たちに汚された地を清らかにする天使として描かれている。旅人、薬関係の仕事に携わる人、パイロットの保護者といわれている。

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◆見 た も う 神

2015年09月29日 07時40分43秒 | 聖書

もしあなたが、
「私たちはそのことを知らなかった。」と言っても、
人の心を評価する方は、
それを見抜いておられないだろうか。
あなたのたましいを見守る方は、
それを知らないだろうか。
この方は
おのおの、人の行ないに応じて報いないだろうか。(箴言二四12)
 
神が見ていらっしゃる。――これは、何という単純で明快な真理でしょう。ある男が子どもを見張りに立てて、スイカ畑に盗みに入りました。「だれかが来たら、すぐ知らせるんだぞ。」しばらくすると、「お父さん、見ているよ」と子どもが呼びました。「だれが見てる。」「神さまが見てるよ。」すると父親が、「ばか。神さまに見えるもんか」と言ったという話があります。「天網恢々疎にしてもらさず」「天知る地知る我知る」とも言われます。この単純な真理ほど、実際の生活で無視されている真理はないでしょう。
私の尊敬するマックスエル博士が話してくださったことです。「子どものころ母に教えられた『ご覧になる神』(創世一六13欄外注)という聖書のことばは、初めは恐ろしかった。しかし年月がたち、この真理の深みが分かるにつれ、この真理が平安で喜びにあふれた私の人生をつくりあげたのだと思う」というのでした。
神に背いて、自分勝手で、いんちきで、言いわけばかり言う二枚舌の偽り者にとって、神は恐ろしいお方でしょう。しかし、落ちこぼれた者・悩んでいる者・弱く失望している者であっても、正直に自分の弱さやみにくさを認めて神に目をあげる者にとって、神は何と優しく、慰め・ゆるし・励ましに富んだお方でいらっしゃいましょうか。
神は、何でも見抜き、何でも正しく評価なさいます。しかし神に身を寄せるあなたにとって、神は、見守ってくださるお方、その愛と恵みを傾けて報いてくださるお方なのです。神を敵として勝ち目はありません。神をあなたの心の父としてごらんなさい。
 
 
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◆見 た も う 神

2015年09月29日 07時40分43秒 | 聖書

もしあなたが、
「私たちはそのことを知らなかった。」と言っても、
人の心を評価する方は、
それを見抜いておられないだろうか。
あなたのたましいを見守る方は、
それを知らないだろうか。
この方は
おのおの、人の行ないに応じて報いないだろうか。(箴言二四12)
 
神が見ていらっしゃる。――これは、何という単純で明快な真理でしょう。ある男が子どもを見張りに立てて、スイカ畑に盗みに入りました。「だれかが来たら、すぐ知らせるんだぞ。」しばらくすると、「お父さん、見ているよ」と子どもが呼びました。「だれが見てる。」「神さまが見てるよ。」すると父親が、「ばか。神さまに見えるもんか」と言ったという話があります。「天網恢々疎にしてもらさず」「天知る地知る我知る」とも言われます。この単純な真理ほど、実際の生活で無視されている真理はないでしょう。
私の尊敬するマックスエル博士が話してくださったことです。「子どものころ母に教えられた『ご覧になる神』(創世一六13欄外注)という聖書のことばは、初めは恐ろしかった。しかし年月がたち、この真理の深みが分かるにつれ、この真理が平安で喜びにあふれた私の人生をつくりあげたのだと思う」というのでした。
神に背いて、自分勝手で、いんちきで、言いわけばかり言う二枚舌の偽り者にとって、神は恐ろしいお方でしょう。しかし、落ちこぼれた者・悩んでいる者・弱く失望している者であっても、正直に自分の弱さやみにくさを認めて神に目をあげる者にとって、神は何と優しく、慰め・ゆるし・励ましに富んだお方でいらっしゃいましょうか。
神は、何でも見抜き、何でも正しく評価なさいます。しかし神に身を寄せるあなたにとって、神は、見守ってくださるお方、その愛と恵みを傾けて報いてくださるお方なのです。神を敵として勝ち目はありません。神をあなたの心の父としてごらんなさい。
 
 
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◆もし吹き出物が彼のからだ全体をおおっているなら、

2015年09月29日 07時39分28秒 | 聖書
祭司はその患者をきよいと宣言する。(レビ一三・一三)
 
この規則は一見奇妙だが、その中には深い知恵が隠されている。なぜなら病毒を外に出すことは、からだが健全な証拠だからである。今朝、この奇妙な規則の象徴的な教えを学ぶことは、私たちに有益であろう。
私たちもまた病者である。そしてこの病に関する律法は、私たちにも適用できる。人が自分を全く失われた破滅した者と見、全身がことごとく罪におおわれ、義であるものが一つもないことを知って、主なる神の前に罪があると告白するならば、イエスの血と神の恵みによってきよめられるのである。心中に隠れていて感じることのない告白されない罪が、真の病である。しかし罪があばかれ、罪が感じられた時には、すでに罪は致命的打撃を受けており、主はあわれみの目をもって罪に苦しむたましいをご覧になるのである。
自己を義とすることほど致命的なものはなく、悔恨よりも望みのあるものはない。私たちは罪以外の何ものでもないことを告白しなければならない。これ以下の告白は真実のものと言うことができないからである。もし聖霊が私たちに働かれて、罪を自覚させられれば、前述のことを認めるのに何の困難もない。
引用の聖句は、深い罪の意識のもとにある人に、なんという慰めを与えることだろう。どれほど黒く汚れていても、嘆き悲しんで告白された罪は、決して人をイエスから閉め出すことはない。主イエスのもとに来る者を、だれであろうと神は決して拒まれることはない。犯罪人のように不正直であり、罪を犯した女のように不貞であり、タルソのサウロのように凶悪であり、マナセのように残忍で、放蕩息子のように反抗的であっても、自分によいものが全くないことを感じる人々には、神の愛が注がれる。そして彼が十字架につけられたイエスを信じた時、きよい者という宣告が与えられる。それゆえに、主のみもとに来れ。
「来れ。乏しき者。来れ。罪ある者。そして忌まわしき裸なる者よ。おまえは決して汚れすぎてはいない。あるがままの姿で来れ。」
 
 
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