座間コミニティー

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

●パート労働者の正社員への転換措置●

2012年12月31日 14時29分25秒 | 労働法

 パート労働法では、パート労働者の待遇に関して、特に正社員との格差改善を事業主に求める内容の、労働契約法の特別法的な役割を担っています。そのため努力義務規定が多くなっていますが、中でも重要なものは、「通常の労働者と同視すべき短時間労働者に対する差別的取扱いの禁止」規定です。
 このパート労働者の中で通常の労働者≒正社員と同視できる状態とは、業務の内容や責任の程度などが、労働時間が短いこと以外に、代わりが無い状態ですから、例えばパート社員の積極活用の一環として、パート社員に一定の管理的な役割を与えるようなケースで該当する可能性が出てくるでしょう。
 この正社員と業務内容や責任の程度において、同視できると判断されれば、賃金や賞与、退職金などについて、差別的な取扱は禁止されますので、同様の処遇をする義務が会社に生じることになります。
 しかし一方で、正社員と同視でできるかどうかは、ケースバイケースであって、実際には業務の内容や責任の程度が全く同じとは微妙にいえないことも多く、この問題は、パート社員の積極活用の具体的な場面で、処遇の改善を検討すべきか、などの形で生じてくるでしょう。
 もう一つ重要な規定は、12条の正社員への転換措置の義務規定です。会社はパート労働者に対して、次のいずれかの正社員への転換措置を設けなければなりません。それは、正社員の募集をする場合にはパート社員にもそれを知らせて応募の機会を与えること、ある業務に新たに正社員を配置する場合には、パート社員に正社員として配置するよう申し出る機会を与えること、正社員への転換試験制度を設けること、の三つです。
 ただしこれらは、正社員へ転換する「機会」を与えることを会社に義務付けたものであって、正社員に転換させることを義務付けるものではありません。ですから実際に正社員に応募したとしても、採用されないことも考えられるわけです。ただ正社員への応募を受理しないなどの取扱は認められません。
 ただ実際の問題として、正社員募集にパート社員が応募したにもかかわらず、外部から新たな正社員が採用され、応募したパート社員が採用されなかった場合、このパート社員と採用された正社員の業務内容や責任権限が全く異なる場合はともかく、同じ職場で業務に従事するようなときには、問題が生じる余地も多分にあるでしょう。とくに感情的には難しい面があるからです。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

●希望退職の募集と退職金の割増●

2012年12月31日 14時26分46秒 | 労働法

 整理解雇を有効と判断するための4つの要件の一つに、解雇回避努力義務の履行があります。解雇を回避するための措置として代表的なものは、希望退職者の募集です。それは、この希望退職者の募集をすることで、自発的な退職者があれば、会社からの一方的な労働契約の解除である「解雇」をしなくて済むからです。
 この希望退職者の募集の措置の実効性を上げるためには、何らかのインセンティブが必要です。その一つが退職金の割増しです。希望退職に応じた場合には、通常の退職金よりも有利な、つまり高額な退職金を支払うというものです。
 このときに退職金の上乗せがあるためには、希望退職に応じる場合の条件であって、希望退職者募集の条件に合致しない退職の場合には退職金の上乗せは無いことになります。ここでトラブルの可能性が出てきます。
 例えば希望退職者の募集人員に対して、それを越える希望退職の応募があった場合です。希望退職は募集人員をあらかじめ決めていて、その人員を超える応募があった場合の対象者の選定については、客観的な判断基準が無いと、トラブルの原因になります。
 また、特定部門の閉鎖に伴う希望退職者募集の場合に、その特定部門に所属していた従業員に対してだけ希望退職者の募集をしていたときに、他の部門で退職者には退職金の上乗せは無いことになりますが、これは公正な取扱といえるのかどうか、という問題もあります。
 これに関しては、希望退職者募集の範囲が適切かどうか、という点が問題になります。例えば、対象となった特定部門の従業員の、他の部門への配置転換が可能である場合には、他の業務部門での希望退職者募集についても解雇回避措置として実施すべきという考え方もありますが、希望退職者の募集を広く行うことによる人材流出などの問題もあり、一概に全社規模での希望退職者募集が必要かどうかの判断は困難です。
 ちなみに希望退職者の募集対象ではない従業員からの退職に対しては、裁判例でも退職金の上乗せ部分の請求は認められないと考えられています。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

申命記8章11-18節

2012年12月31日 14時20分44秒 | 聖書

8:18 「あなたの神、主を心に据えなさい。主があなたに富を築き上げる力を与えられるのは、あなたの先祖たちに誓った契約を今日のとおりに果たされるためである。」


 荒れ野で放浪をしている時の民は、貧しさと苦しみの連続でした。

しかし、この約束の地に入っていった時、後になると豊かな生活を迎えるようになるであろうと告げられました。

そこでは、安定した生活を営むことができるようになるからです。

 しかし、その時に忘れてはならないことは、自分や自分の手がこの豊かさを築いたのだというようにならないことだ、と言われるのです。

なぜ彼らが、この約束の地に入ることができるようになったのか。

それは、主が先祖に対して約束してくださった、その約束を実現してくださったからでした。

ですから、これから迎えるその豊かさは、一切が主の恵みとその約束に対する主の誠実さによっていることを見るのです。

 人は豊かになってきますと、神のことを忘れ、神に感謝をすることを忘れてしまいがちです。

しかし、一切が主と主の恵みによることを、決して忘れてはならないのです。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

◆祭りの終わりの大いなる日に、

2012年12月31日 14時14分34秒 | 聖書

イエスは立って、大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。」(ヨハネ七・三七)

主イエスは全き忍耐を保ち、祭りの終わりの日に至るまでユダヤ人の心に訴えられた。同じようにこの一年の最後の日においても、主は私たちの心に訴えられ、私たちに恵みを与えようとして待っておられるのである。主が年々私たちのある者に対してなされる忍耐は、まことに驚くほかない。主は、私たちの挑戦、反逆、そして聖霊に対する反抗さえ耐え忍ばれる。私たちが、なおあわれみの国にいるということは、実に驚異中の驚異である。
あわれみはきわめて明白に表された。なぜなら、イエスは叫ばれたからである。主は単に声を大にされたというのではなく、優しく語りかけられたのである。主は私たちに和解を訴えておられる。パウロは「神が私たちを通して懇願しておられるようです。私たちは、キリストに代わって、あなたがたに願います」と言っている。なんという熱烈な、心に迫ることばであろう。主は罪人たちのために泣き、母親がその子どもを愛するように私たちを御胸に抱き寄せられる。主の愛のなんと深いことか。このような呼びかけに対し、心を動かさないでいられるだろうか。
備えは十二分になされている。人がたましいの渇きをいやすのに必要なものはすべて備えられている。贖いは私たちの良心に平安をもたらし、福音は私たちの悟性に豊かな教訓をもたらす。またイエスのご人格は、私たちの心に最も気高い愛の対象を刻み、イエスにある真理は、私たちの全人格に最も純粋な栄養を供給する。渇きは激しい。しかし、イエスはそれを取り去ることができる。イエスはたましいが全く飢えていても、それを満ち足らせてくださる。
この宣言は最も自由なものである。すなわち、渇いている者はだれでも歓迎するというのである。そこには渇いているという以外に、何の差別も設けられていない。それが貪欲、野心、快楽、知識、安楽などの渇きであろうと、渇いている者はすべて招かれているのである。渇きそのものは、悪いものであるかもしれない。そこには、恵みのしるしはいささかもなく、肉欲をさらに満足させようとする罪のしるしのみが見られるかもしれない。しかし、主イエスが招かれるのは、人のうちに美徳があるからではない。主は自由に、だれかれの区別なく招かれるのである。
また、イエスご自身のみもとに来るということが、ここにおいて明白に宣言されている。罪人はイエスのもとに来なければならない。善行や、儀式や、教理に来るのではなく、十字架上で自らのからだの上に私たちの罪を負ってくださった贖い主のみもとに来なければならない。血を流して死に、かつよみがえられた救い主は、罪人にとって唯一の希望の星である。ああ、一年の最後の日において、太陽が沈む前に今、イエスのみもとに行って、主から飲む恵みを得たい。
ここには待つことも準備することも言われていない。飲むことのためには、何らの資格も要求されていない。だれが飲んでもよいのである。品性が罪に汚れているということは、イエスを信じる上でいささかも妨げとなりはしない。私たちはこの水を飲んで渇きをいやすために、金の杯も、宝石を散りばめた杯も必要としない。貧しい者も、ただかがんで口を流れにつけさえすればよいのである。どんなに汚れたくちびるであっても、神の愛の流れに触れることができる。そのくちびるは流れを汚さないばかりか、かえってその水によって清められるのである。
イエスは希望の泉である。愛する読者よ。優しい贖い主が、私たち一人一人に向かって叫ばれる愛の御声を聞け。
「だれでも渇いているなら、
わたしのもとに来て
飲みなさい。」

 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

申命記8章1-10節

2012年12月30日 14時06分47秒 | 聖書

8:3 「それで主は、あなたを苦しめ、飢えさせて、あなたも知らず、あなたの先祖たちも知らなかったマナを食べさせられた。それは、人はパンだけで生きるのではない、人は主の口から出るすべてのもので生きる、ということを、あなたにわからせるためであった。」


 不信仰のために約束の地に入ろうとしなかった民は、荒野での40年の生活へと入れられました。

そして、民のうち20才以上の男子は、二人を除いて皆、その荒野で死んでいきました。

ある人は、それは神による裁きであって、永遠の死だという人がいます。

他の人は、それは主の民に対する訓練だという人がいます。

どうなのでしょう。

 ここではそのことに答えて、それは主の民の訓練であったと語っています。

何の訓練であったかというと、不信仰に陥った民が、改めて、人はパンによってのみ生きるのではなく、主のみ言葉によって生きるのだということを学ぶためであった、というのです。

つまり、彼らが信仰を取り戻し、主にあって生きることを喜びとするように主が導かれた、主の恵みによる、信仰の訓練の場であったというのです。

大事なことを教えられたのです。


コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

◆事の終わりは、その初めにまさり……。

2012年12月30日 13時57分40秒 | 聖書

(伝道者七・八)

ダビデの主を仰ぎ見よ。その初めがどうであったかを思え。「彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。」あなたはその終わりを見るか。主は父なる神の右に座し、その敵を足台にしようとしておられる。「私たちもこの世にあってキリストと同じような者である」なら、当然十字架を負わなければならない。そうしなければ、決して冠を得ることはできない。あなたが泥の中をはって進むのでなければ、決して黄金の大通りを歩むことはできない。それゆえ、クリスチャンよ。雄々しかれ。「事の終わりは、その初めにまさり……」とある。
うごめく毛虫を見よ。なんと卑しい姿だろう。それが事の初めである。しかし、あの目の覚めるような羽をもち、日光の中にたわむれ、花の杯より蜜を吸い、幸福といのちに満たされている蝶を見るがよい。それが事の終わりである。あなたは死のさなぎになるまでは毛虫なのである。しかし、キリストが現れたなら、キリストのありのままの姿を見るので、キリストに似た者となる。主に似た者となることを覚えて心を安んぜよ。あなたが目を覚ますその時には、主のようになっていることを見いだして満ち足りるであろう。
天然のダイヤモンドは、研磨機にかけられてその全面を削り取られ、一見貴重と思われる部分までも失わなければならない。王の戴冠の際には、喜びのラッパとともに王冠が王の頭上に置かれ、その冠からはまばゆいばかりの光が輝く。しかしその光は、直前まで研磨機によって悩まされ痛めつけられていたあのダイヤモンドから出ている。このダイヤモンドに、あなた自身をなぞらえてみるがよい。あなたは神の民の一人であり、今は玉を磨く時なのである。信仰と忍耐をもって待て。王冠が永遠不朽の王の頭上に置かれるとき、一条の栄光の光があなたからも流れ出るであろう。
「彼らは、わたしのものとなる。――万軍の主は仰せられる。――わたしが事を行なう日に、わたしの宝となる。」まことに「事の終わりは、その初めにまさる」のである。

 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

申命記7章17-26節

2012年12月29日 13時27分56秒 | 聖書

7:22 「あなたの神、主は、これらの国々を徐々にあなたの前から追い払われる。あなたは彼らをすぐに絶ち滅ぼすことはできない。野の獣が増してあなたを襲うことがないためである。」


主が与えてくださる国々に主の民が入る時、「この国の民が多いからといっておののいてはならない」と主は言われました。

主が共にいて戦い、勝利を与えてくださるからです。

そのことを覚えて、戦い抜けと言われるのです。

 同時に語っていることは、主がその完全な勝利をすぐに与えてくださるわけではないということです。

主は、徐々に与えてくださると言っているのです。

それは、彼らに報復する野の獣が突然増えることがないためだと言われます。

つまり、敵が団結してあなた方を苦しめることがないためだというのです。

ですから、その主の思いを覚えて、忍耐を持って戦い続けなさいと言われるのです。

 伝道でも同じです。

相手の人を恐れることは、必要ありません。

主が勝利を与えてくださるからです。

ですから、心すべきことは、忍耐を持って伝道をし続けるということだ、と知らされるのです。


コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

◆ここまで主が私たちを助けてくださった。

2012年12月29日 13時21分27秒 | 聖書

(Ⅰサムエル七・一二)

「ここまで」とのことばは、過去のすべてを指すように思われる。二十年あるいは七十年の間、それぞれ「ここまで主が私たちを助けてくださった」のである。貧しい時、富める時、病気の時、健康の時、国内で、外国で、陸上、または海上において、名誉の時、不名誉の時、当惑の時、喜びの時、試練の時、勝利の時、祈りの時、誘惑の時において「ここまで主が私たちを助けてくださった」のである。
並木道の端から端までの長い景色をながめるのは楽しい。それは、枝の柱、葉のアーチでできた緑の宮である。あなたも過去の長い年月を振り返り、その頭上をおおうあわれみの緑の大枝、あなたの喜びを支えるいつくしみと誠実の強い幹を見よ。かなたの枝には多くの小鳥がいて、みな「ここまで」受けたあわれみについて歌っているに相違ない。
しかし、このことばはまた前方をも指し示している。なぜなら人がある目標まで来て、「ここまで」と書く時、まだ終点まで来ているのではなく、なお進むべき道のりをもっているからである。なお多くの試練と喜び、誘惑と勝利、祈りと応答、労苦と支え、戦いと凱歌を経験してから、病気、老衰、そして死が訪れる。
それで終わりであろうか。否、まだ先がある。イエスに似た者になって目を覚まし、御座に着き、たてごとをとり、賛美し、白い衣をまとい、イエスの御顔を拝し、聖徒と交わり、神の栄光を受け、永遠の満たしを与えられ、無限の祝福にあずかる。
おお、信者よ。勇気を出せ。そして感謝に満たされ、確信をもって「エベン・エゼル」と呼べ。なぜなら、
 これまであなたを助けられた方は
 あなたが旅を終えるまで伴ってくださる
からである。
天国の光に照らして見る時、あなたの「ここまで」はなんと輝かしく、またなんと驚くべき前途の眺望を、あなたの感謝に満ちた目の前に展開することであろう。

 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

●特定部門の閉鎖に対する解雇回避努力義務●

2012年12月28日 08時16分40秒 | 労働法

 整理解雇は会社の一方的な都合による解雇であることから、普通解雇と比べて有効性判断が厳格になっています。具体的には、整理解雇の4要件(業務上の必要性、解雇回避努力義務、被解雇者選定の合理性、協議・説明責任)を満たしていることが必要になります。この4要件のうち、解雇回避努力について、会社はどの程度の措置をとるべきかが課題です。
 例えば、会社に複数の事業部門がある場合に、そのうちのある特定の部門を閉鎖するとしたとき、その対象となった部門に属する従業員に対しては、配置転換の検討や希望退職を募集するなどの措置が必要になります。
 このときの配置転換については、これまで人事異動などでの配置転換がどのように行われてきたのかが重要になります。例えば、人事異動によって配置転換が活発に行われてきたのであれば、配置転換ができる可能性が高いと判断できます。しかし配転先で余剰人員が発生している場合など、状況に応じて判断しなければならないでしょう。
 またこれまで配置転換が無かったとしても、業務の内容から配置転換が容易と判断できる場合には、やはり配置転換によって解雇を回避することが強く求められることになります。
 またこの場合の希望退職者の募集については、対象となった部門に属する従業員に対してだけ行えばいいのか、あるいは全社規模で行う必要があるのかが課題です。これについても配置転換と同様、対象部門と他の部門との関連性が問題となります。他部門での希望退職募集による欠員に、対象部門の従業員を配置転換させることができなければ意味が無いからです。
 しかしこの希望退職者の募集に関しては、会社として必要な人材が流出する可能性などの別の問題もあり、どこまで希望退職者の募集をすべきかは、対象部門との関連性や、リストラの緊急性の程度などが考慮されることになります。つまりリストラに経営危機などの緊急性が低い場合には、解雇回避努力義務もより強く求められることになるからです。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

申命記7章12-16節

2012年12月28日 08時14分16秒 | 聖書

7:16 「あなたは、あなたの神、主があなたに与えるすべての国々の民を滅ぼし尽くす。彼らをあわれんではならない。また、彼らの神々に仕えてはならない。それがあなたへのわなとなるからだ。」


主は、イスラエルの民に、豊かな恵みを施してくださることを約束されました。

それは、この地において、平安と豊かさに満ちた歩みができるようにしてくださるということでした。

 そのような恵みを与えられるのであるから、彼らにはなすべきことがあると言われました。

それは、彼らが主の嫌われる偶像礼拝をしないということでした。

また同時に、その偶像礼拝をしている民を滅ぼすことを求められました。

その命令は、あなた方が彼らを生かしておくことによって、あなた方への罠となってはならないからだと言われるのです。

つまり、それが偶像礼拝者への誘いとなってはならないからだというのです。

相手の人をおもんぱかって、偶像であることを知りつつ、それを軽視するならば、それは罠となりますよと、主は警告しています。

人よりも神を、見るべきなのです。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

◆勤勉な家庭のマネージャー  Ⅱ

2012年12月28日 08時01分44秒 | 聖書

(箴言三一13―19)

すばらしい妻の第二点、忠実で勤勉な家庭の管理者について、もう一度学びましょう。ここでまず気がつくことは、よい妻が、自分の欲望の満足とか名誉のために損得で働いているのではないことです。
私たちが持っているもので、受けなかったもの、神から与えられなかったものは何一つありません。ところが私たちは、できるだけ自分のものだと主張し、自分のために用いようとします。自分が、自分のために、自分によってが、私たちの哲学のようです。戦争のような大きな罪も、人殺しのような残忍な罪も、また、そんなはっきりした形をとらない、私たちの間のもやもや・不調和・争い・不作法・ねたみ・そねみ・さいぎ心・疑い・裏切り・悪口も、みなこのエゴイズムが原因となっています。
よい妻は、家庭の中でエゴイズムの自分を主張しません。自分の夫も子どもたちも使用人も、家畜も畑も家屋も、全部神から預けられたものとして、忠実に守り、育て、あるいは使います。みなの平和と幸福と成長という目的に従い、自分は家庭の管理者として、ただ、勤勉な仕える人となろうとしています。
ですから、人に仕えられようとせず、自分から率先して働きます。朝早く起き、夜おそくまで勤勉に働きます。夫や子どもはもちろん、使用人の一人一人や家畜にも気を配ります。冬が来る前に冬の準備をし、破れてだめになる前に、家族の着物を整えておきます。子どもたちが、やはり同じように、神からいただいた人生のよい管理者になるように、助け育てていくのです。
「こういうわけで、私たちを、キリストのしもべ、また神の奥義の管理者だと考えなさい。このばあい、管理者には、忠実であることが要求されます」(Ⅰコリント四1―2)。

 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

◆いま私が、この世に生きているのは、

2012年12月28日 08時00分02秒 | 聖書

私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。(ガラテヤ二・二〇)

かつてあわれみに富む主が通られた時、倒れて死に瀕している私たちをご覧になって、まず第一に「生きなさい」と言われた。なぜなら、いのちは霊の世界において絶対に欠くことのできないものの一つであって、いのちが与えられていなければ、人は神の国のもろもろの祝福にあずかることができないからである。
聖徒たちが生かされる瞬間に、恵みによって与えられるいのちは、キリストのいのちにほかならない。それは幹から流れる樹液のように、枝である私たちに流れ込み、私たちのたましいとイエスとの間に生きた結合をもたらす。信仰はこの結合を実現する恵みであって、恵みの初穂として出たものである。それは、教会のからだを栄光のかしらに結ぶ首に当たる。
 信仰よ。あなたは私たちを主に結ぶきずな
 それがあなたの務めだ
 あなたにふさわしい名は教会の首
 意志とその働きにおいて
 教会を、天に上られた主と同じにする
信仰とは、主イエスをはっきりと知り、主にふみとどまることである。教会は主のすばらしさや価値を知り、どんな誘惑に会っても、心を移そうとしない。キリスト・イエスはこの天来の恵みを喜ばれ、愛の抱擁と永遠の御腕をもって常に教会を強め、支えてくださるのである。ここに、活気にあふれた、明確に感知することのできる喜びに満たされた結合が確立され、そこから愛と、信頼と、同情と、満足と、喜びの流れがわきいで、新郎と新婦は喜びつつ、これを飲むのである。
たましいが明確に自己とキリストとの一致を見ることができる時、両者の脈は共にうち、同一の血液がそれぞれの血管を流れるのを感じる。その時、心は地上にありながら、あたかも天国にあるようであり、最も崇高な、霊的な交わりに入るために備えられるのである。

 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

申命記7章9-11節

2012年12月27日 14時21分58秒 | 聖書

7:9 「あなたは知っているのだ。あなたの神、主だけが神であり、誠実な神である。主を愛し、主の命令を守る者には恵みの契約を千代までも守られるが、
7:10 主を憎む者には、これに報いて、主はたちどころに彼らを滅ぼされる。主を憎む者には猶予はされない。たちどころに報いられる。」


「あなたは知っている。」と語って、このイスラエルの民が知らされていることがあると言っています。

そこには、2つのことがありました。

1つは、生きておられる誠の神はどなたであるかということを知ったことです。

天と地を造られた、主なる神を知ったというのです。

もう1つのことは、主に従って生きる時には、大きな祝福があり、拒む時には滅びしかないということです。

イスラエルの民はこのことを、その歴史の中で具体的に経験しました。

ですから「知っている」というのです。

 私たちもこれらの2つのことを、同じように知ることができます。

それは、神の言葉である聖書を読むことによって知らされるのです。

そして、その知らされたことに、私たちは、主の豊かな恵みを知るのです。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

◆勤勉な家庭のマネージャー  

2012年12月27日 14時13分23秒 | 聖書

彼女は羊毛や亜麻を手に入れ、
喜んで自分の手でそれを仕上げる。
彼女は商人の船のように、
遠い所から食糧を運んで来る。
彼女は夜明け前に起き、
家の者に食事を整え、
召使の女たちに用事を言いつける。
彼女は畑をよく調べて、それを手に入れ、
自分がかせいで、ぶどう畑を作り、
腰に帯を強く引き締め、
勇ましく腕をふるう。
彼女は収入がよいのを味わい、
そのともしびは夜になっても消えない。
彼女は糸取り棒に手を差し伸べ、
手に糸巻きをつかむ。      (箴言三一13―19)

きょうは、すばらしい妻の第二点です。一三―一九節までは、すばらしい妻の理想像ではなく、ドキュメンタリー映画を見ているような現実的描写がなされています。しかも、羊・ぶどう畑・食糧の輸入などに、中近東のそれもイスラエルの文化や風土がよく表れています。そこは分化された現代社会でなく、自給自足の農業牧畜社会の家庭生活です。私も、昔の母のことを思い出します。父をはじめ、家族の一人一人に、四季それぞれの着物を洗い張りし縫い直して着せていました。冬に備えてどっさり漬物を清けこんだり、大掃除や障子の張り替えもきちんきちんとしていたのです。いにしえのよい時代のことです。
ここに示されているすばらしい妻の姿は、ひとことでいうなら、「よい、勤勉なマネージャー」ではないでしょうか。マネージャーというと、響きが悪いかもしれません。管理者といっても、あまりニュアンスがぴったりしません。しかし、すばらしいよい妻が「忠実に勤勉に家庭を管理する者」であることは、注目すべきです。
「神のさまざまな恵みの良い管理者として、その賜物を用いて、互いに仕え合いなさい」(Ⅰペテロ四10)。

 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

◆葦は水がなくても伸びるだろうか。

2012年12月27日 14時10分13秒 | 聖書

 (ヨブ八・一一)

葦は弱々しく、中が空虚なので、実質も安定性もない偽善者に似ている。葦はあらゆる風に揺り動かされ、形式主義者はあらゆる勢力に屈服する。それゆえ、葦はあらしによっても折られないし、偽善者も迫害によって悩まされることがない。
私は人を欺くことを望まないし、また人から欺かれることも欲しない。今日の聖句は、自分が偽善者であるかどうかを試すのに役立つであろう。
葦は水の中に生える植物であって、泥と湿気の中に根を下ろして成長する。泥が乾くならば、葦はすぐに枯れ果てる。今青々としているのは全く環境のためであり、豊かな水のゆえに繁茂しているのである。しかし一度かんばつにでもなれば、たちまち枯死する。私の場合もそうではないだろうか。私はよい仲間があり、信仰生活が利益となり、体裁のよい時にのみ神に仕えているのではないだろうか。私はこの世的な慰めが主の御手から得られる時にのみ、主を愛しているのではなかろうか。もしそうなら、私は卑しい偽善者であって、葦が枯れるように、死が私から外面的な慰めを奪い去る時には滅びてしまうであろう。逆に私は、肉体的な慰めがほとんどなく、周囲が私に恵みを与えるよりむしろ私に逆らうような時にも、なお信仰を堅く保つと、正直に告白することができるだろうか。もしそうであるならば、私のうちには真の生きた信仰があるのである。
葦は泥がなければ成長することができない。しかし、主の右手が植えられた植物は、かんばつの年にも繁茂する。信仰深い人のたましいは、しばしばこの世的な環境が朽ち果てる時に最もよく成長する。お金を目当てにキリストに従う者はユダである。パンと魚のために従う者は悪魔の子である。しかし、主を愛するゆえに主に従う者は、真に主の弟子である。
主よ。私のいのちをこの世の好意と利益の泥の中に見いだすのではなく、ただ、あなたのうちにのみ見いだすことができますように。

 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする