座間コミニティー

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◆弟子たちといっしょに過越の食事をする、

2016年11月08日 16時39分49秒 | 聖書
わたしの客間はどこか、と先生が言っておられる。(マルコ一四・一四)
過越になると、エルサレムは一大宿泊所となった。どの家の主人も友を招いたが、救い主をお招きする者は一人もいなかった。しかも、主にはご自分の住居がなかった。そこで主は過越を守るために、超自然的な力によって、自ら二階座敷を見いだされた。
今日でも同様なことが言える。――イエスは、ご自分の超自然的な力と恵みにより、心を新たにされた人々のみによって受け入れられる。暗黒の君のためには、あらゆる家庭が開放されている。しかしイエスは、ご自分のため自ら道を開かれるか、さもなければ路上で眠られなければならない。
家の主人は一言も質問せず、喜んでただちに客間を開放した。これは主が現された不思議な力のゆえである。その人がだれであるか、身分や名前は不明であるが、彼は贖い主が提供された名誉を喜んで受けた。同様に、現在においても、主に選ばれた人とそうでない人とがある。ある者に福音が届けられると、逆らって受け入れまいとする。しかし一部の人は喜んで迎え入れる。これは彼らのたましいの中にひそかにわざがなされており、したがって彼らが神によって永遠のいのちに選ばれていることの明らかなしるしである。
愛する読者よ。あなたは、キリストを受け入れることを心から望むか。それなら、キリストはあなたの客となられるだろう。主の御力があなたと共に働き、あなたを、喜んで主を迎えるように導くであろう。
ああ、神の御子をもてなす光栄よ! 天の天も主をお入れできないのに、主は下って来られて私たちの心に住まいをお求めになる。私たちは、主を屋根の下にお迎えする資格はないのに、主のほうで身を低くしておいでになる。これは言語に絶する特権ではないか。なぜなら、主は宴を設け、私たちに主とともに王室の食卓から食事することを得させてくださるからである。その宴は不死であり、それにあずかる者は不死となる。天使たちの主をもてなす者は、アダムの子らのうちのまことに祝福された者である。
 

「真夜中ごろ、パウロとシラスが神に祈りつつ賛美の歌を歌っていると、

2016年11月08日 16時38分49秒 | 聖書

ほかの囚人たちも聞き入っていた」(使徒16:25)

パウロは御霊の示しにより、マケドニヤに渡り、宣教のためにピリピの町へやって来た。
そして、川岸の祈り場へ行き祈った。
それから宣教し、悪霊を追い出したが、訴えられて捕らえられ、投獄されてしまった。

むち打たれ、暗い奥の牢へ監禁されてしまった。
「祈ったのに、何で?」「御霊の示しに従い、確信もって前進したのに、どうして?」

御心を行なっているのに、問題が来て、苦しみがやって来た。
「なぜ?どうして?」ましてや、宣教のために来たのに、投獄だ。

あの祈りは何だったのか?投獄されてしまって、身動きもとれない。
これでは、どうにもならないではないか。

しかし、神の計画は着々と前進していた。
パウロとシラスは、神の主権とご計画を信じ、牢獄の中で祈りをし、賛美した。
結果的に、その投獄を通して、看守が救われた。
そして、何と全家族も救われたのだ。ピリピの教会の核となって行った。

神に間違いは無い。一つ一つの事柄が、パズルのピースだ。
つながった時に、神のみわざが見えて来る。
「あんなに祈ったのに、どうしてこのように?」との状況にあるだろうか。

神はご自身のご計画を着々と進めておられる。
紆余曲折により、神のみ思いの通りに、みわざが進行中だ。
神に間違いはない。
思い煩いと不安、恐れを「すべてのことについて感謝しなさい」感謝に変えよう。
恐れが平安に変えられる。

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主に間違いはない。「なぜ?どうして?」という事態が起きて、その場ではよく
わからないが、パズルが埋まるようにみわざへと展開して行く。投獄が看守と全
家族の救いに繋がったように。目の前の事態も素晴らしいご計画がある。


今日の聖人の記念日

2016年11月08日 08時28分35秒 | キリスト教

聖ジダコ

?-1463年

 ジダコは、スペイン南部に生まれ、信仰深い両親に育てられた。少年時代に、ある司祭のもとで生活し、フランシスコ会の修道院に入った。ジダコはどんな仕事も快く行い、徹底した清貧と禁欲を実践し、キリストの受難、聖母マリアへの信心を深め、また広めることに務めた。彼は多くの人を癒し、また信仰に導いたといわれる。

 1414年、ジダコは宣教師としてカナリア諸島に派遣され、修道院長を務めたのちに、晩年をスペインの修道院で祈りと黙想のうちに送った。


◆鉄は鉄によって研がれる

2016年11月08日 08時27分20秒 | 聖書

鉄は鉄によってとがれ、
人はその友によってとがれる。    (箴言二七14)
鉄のグラインダーから火花が飛び、シャープな刃物が研ぎすまされていく姿。のこぎりの歯の一つ一つに鉄のやすりが入りこんで、切れ味をよみがえらせていく姿を思います。まさしく切磋琢磨です。
ライバル意識の高い友人同士が互いに切磋琢磨することも考えられます。しかし私は、こんな張り合う緊張関係よりもむしろ、心と心の通い合う友情関係や交わりが、真の人格形成に大きな力があると思っています。顔見知りは多くても、心安い親しい人となると、ずっと減ります。さらに、心と心の通い合う友は、ほんとうに少ないのではないでしょうか。あなたは、まことの友を得ていますか。
私は十六歳の時、そんな友人を一人見いだしました。国粋主義・ナショナリズムが台頭していた時代に、私の通っていた学校で、ある朝、一人の教官が言いました。「ヤソは国賊じゃ。お前たちのうちでヤソがおるか。手をあげい。おれがどうにかしてやる。」その時立ちあがって「先生、私はクリスチャンです」と言った青年が、その人でした。夕方ボールが見えなくなるまで、その男とテニスもしました。夏は重いリュックを背負って、いっしょに野山を歩きました。よく夜中の二時三時まで、語り明かしました。彼の研ぎすまされた価値観・はっきりした使命感・抵抗することのできない清さ・そして愛の深さ、その一つ一つが、私の人生を研ぎ、けずり、ふるいにかけてくれたような気がします。あれから四十数年、いまだに私たちは親友です。そして今でも、私は研がれています。
今こそ、そのような若い魂と魂の結びつきをどんなに必要とするでしょうか。パウロは若いテモテに向かってこう言いました。「あなたは、若い時の情欲を避け、きよい心で主を呼び求める人たちとともに、義と信仰と愛と平和を追い求めなさい」(Ⅱテモテ二22)。
 

◆このように主キリスト・イエスを受け入れたのですから……。

2016年11月08日 08時26分24秒 | 聖書
(コロサイ二・六)
信仰の生涯は、「受け入れる」ということばで代表される。それはいさおしとは全く相反する意味である。それは単純に賜物を受け入れることである。大地が雨を吸収し、海が川の流れを受け入れるように、私たちは何らの代価を払うことなく神の恵みを受け入れる。
そもそも聖徒は、泉でもなく川でもない。ただ、いのちの水が流れ込む水槽にすぎない。彼らは、神がその中に救いを注ぎ込まれる空の器なのである。
受けるという概念は実現を意味する。すなわち、あるものを現実とすることであって、私たちは影を受け入れることはできない。実質のあるものを受け入れるのである。信仰をもたないうちは、イエスは私たちにとって単なる名前にすぎない。主ははるか昔に生きていた人物であり、その生涯も歴史上の物語にとどまる。しかし、それが信仰の働きによる時、イエスは私たちの意識において現実の人格となられるのである。
また、受けることは所有をも意味する。私は、与えられたものを自分のものにすることができる。私がイエスを受け入れる時、主は私の救い主となられた。私のものとなったからには、生も死も私を主から引き離すことはできない。キリストを受け入れるとは、主を神よりの無代価の賜物として受け入れ、私の心の中で現実のものとし、私自身のものとすることである。
救いは、目の不自由な人が視力を得、耳の不自由な人が聴力を得、死者がいのちを得ることにたとえられる。しかし私たちは、これらの祝福だけでなく、キリスト・イエスご自身をも受けるのである。なるほど主は私たち死んだ者にいのちを与え、罪の赦しを与え、主の義をまとわせてくださった。これらはみな尊い。だが私たちはこれだけで満足するものではない。私たちはキリストご自身を受けたのである。神の御子が私たちの内に注がれたゆえに、私たちは主を受け入れて自分のものとしたのである。イエスはなんと私たちの心に満ちあふれておられることであろう。天も主を包むことはできないからである。
 

ヨブ記27章8-12節

2016年11月08日 08時24分43秒 | 聖書


27:11 「私は神の御手についてあなたがたに教えよう。全能者のもとにあるものを私は隠すまい。
27:12 ああ、あなたがたはみな、それを見たのに、なぜ、あなたがたは全くむなしいことを言うのか。」



 神が人に苦しみを与える時、人がその苦しみを喜びとするだろうか。

いかなる時にも、神を呼び求めるような心を持つであろうか。

いや、その人はそこで苦しみもだえるのではないか。

 私も同じだ。

私は今、私が実際に受けている苦しみについて、あなた方に包み隠さず述べよう。

神が、この私についてどのように扱っておられるのか。

そのお方のみ手が、この私の上にどのように臨んだのか。

それを包み隠さず述べよう。

この私があなた方に臨むことは、この私に降りかかっている現実に、そのまま目を留めてくれることであって、その事実から目を背けないで見てほしいということだ。

そうすれば、この私がなぜ神に対して叫び、神に対して語り、神に対して激しく問いかけているのかがわかるのであろう。

事実に目を留めてほしいというのです




ヨハネの手紙第一4章6節(詩篇84篇)

2016年11月08日 08時21分59秒 | 聖書


★私たちは神から出た者です。神を知っている者は、私たちの言うことに耳を傾け、神から出ていない者は、私たちの言うことに耳を貸しません。私たちはこれで真理の霊と偽りの霊とを見分けます。


■O:今日のコラム
私たちには、神によって新しく生まれた部分と、古い生まれながらの部分があります。神によってまず、中心である霊が生まれ変わりました!ハレルヤ!
  日々私たちが古い、生まれながらの性質に死んで、神にあってよみがえっていく事。これこそが重要な事です。私たちがどれだけ、自分を戒めても、神の命令に従い切れないのです。しかし、神によって生まれ変わった部分は、神に喜んで従い、神を愛することができるのです。

『イエスは言われた。「神がもしあなたがたの父であるなら、あなたがたはわたしを愛するはずです。』(ヨハネ8:42a)

新しく神の似姿によみがえっていく事は、私たちを本質的に変えていきます。これはつまり、血潮の贖いを告白しての悔い改めです。毎日新しい私たちに生まれ変わりましょう!神を待ち望む者は、日々鷲のように新しくされていくのです。

  そして、私たちの中にある、古い自分の性質(偽り)と新しく生まれ変わった性質(真理)をどう判別するか?が今日の御言葉に書かれています。私たちは御言葉の光に自分を照らして、その御言葉に反対している部分を見出す時、十字架にその罪を打ち付け、キリストの血の力で赦される事を宣言するのです。先祖3、4代に至る先祖が必ずその罪を犯していると思われます。
その罪も告白しましょう。そして、その事で足がかりを作っていた悪霊を叱りつけ、血の力を、自分という幕屋の門に、家庭の門に、教会の門に宣言して、悪霊が入ってこられないようにしましょう!そして、その御言葉の通りに贖われる事をキリストの血潮によって宣言して、本来注がれるはずだった祝福を倍にして取り返すのです!
  内側に、御言葉を通して、血潮と御霊の力により、新しい創造のわざがなされるなら、私たちの行いはその御言葉の通りになる事ができるのです。


■A:考えてみよう
悔い改めて、私たちの生活が変わるという毎日を味わおう!



■P:祈り
誰でもキリストの内にあるなら、その者は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ。全てが新しい!


11月7日(月)のつぶやき

2016年11月08日 01時33分14秒 | キリスト教