座間コミニティー

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◆アヒマアツは低地への道を走って行き、

2016年01月31日 16時43分26秒 | 聖書
クシュ人を追い越した。(Ⅱサムエル一八・二三)
 
どこでも走りさえすれば、早く目的地に着くというのではない。私たちが選ぶ道の上には多くの障害がある。丘を登り谷を下る迅速な足は、平地をゆっくり歩く旅人に及ばない。私の霊の旅はどうだろう。労苦を重ねて自らの行いという丘に登り、屈辱と自己の決断の谷に下ってはいないだろうか。それとも私は、「信じて、生きよ」との平坦な道を走っているだろうか。
信仰によって主にお仕えすることは、なんと幸いなことか。たましいは信仰の道を疲れることなく走り、くじけることなく歩むのである。キリスト・イエスはいのちの道であられる。主は平坦な道であり、楽しい道であり、罪におののく人々のよろめく足や弱いひざにもふさわしい道である。私はこの道を見いだしているであろうか。それとも、宗教家や学者が約束するような他の小道を捜し回っているのであろうか。聖なる大道は、そこを通る人がたとえ愚かであっても、迷うことのない道だと記されているのを私は読んだ。私は学問の高慢から救われているだろうか。そして、幼児のようにイエスの愛と血潮の中に憩う者とされているだろうか。それなら、他の道を選んでいる最も強い走り手をも神の恵みによって追い抜くであろう。この真理を覚えて、日ごとの関心や必要において益としたい。
友の間を駆け回るよりも、すぐに神のみもとに行くのが、私にとって最も賢明な道である。主は私の乏しさを知り、そこから私を助け出すことができるお方である。私は率直な祈りをもって神に嘆願し、神の明白な約束に基づいて求める。「まっすぐ走るのが最高の走り手である。」私はしもべたちと口論しないで、まっすぐに主人のもとに行く。
この箇所を読んで気づくことは、もし人が些細な問題で争っているならば、他の者に追い越されるということである。私は真剣に走らなければならない。
主よ。私が心を引き締め、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走ることができるよう助けてください。
 
 
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「何事でも自己中心や虚栄からすることなく、

2016年01月31日 16時42分12秒 | 聖書

へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい」(ピリピ2:3)

中世は天動説であった。惑星の軌道が膨大に複雑で理解不能だった。
地動説を打ち立てたのがコペルニクスであった。
天動説は地球を中心にして天体の動きを見ていた。
だから理解出来なかった。
しかし、地動説は、地球は太陽の周囲を回る小さな惑星だ。
地球が宇宙の中心なのではない。
そうすると、すっきりとして説明がついた。
私たちの信仰生活はどうだろう。
自分中心の考え方が、悩みと問題を生み、対人関係ではトラブって、ギクシャクし、あちこちで頭をぶつける。
自らが問題を引き起こしている。
天動説だ。自分中心に周囲が回っていると思い、又、回そうとする。
そこにあつれきが生じる。相手が悪いと信じて疑わない。
そうしか見えない。あの人、この人さえいなければ、人生快適なのに。
しかし、地動説だ。相手はいっさい関係なく、問題は自分だ。
自分中心の思考パタンだ。
相手のせいと信じて疑わないが、実は相手は関係ない。
自分の心の状態の責任は自分にある。
まず自分の問題だと認めよう。相手がどうであれ、反応しているのは自分であるからだ。
キリスト中心に据える時、見方が変わる。
相手しか見えなかったのが、自らの高慢、自己愛、利己心、愛の無さが見えて来る。
そして、そんな自分を愛して下さっている神の愛が見えて来る
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自分の本当の姿を見せるために、神が相手を目の前に置かれている。
神様に焦点を当てると恵みが見えて、愛が見えて来る。
でなければ、環境に文句を言い、人を責めるばかりだ。

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今日の聖人の記念日

2016年01月31日 10時55分10秒 | キリスト教

 聖ヨハネ・ボスコ司祭

1815年-1888年

 ヨハネは、イタリア、トリノの貧しい農家に生まれた。幼いとき父親に先立たれたが、信仰深い母の影響で司祭になることを志し、神学校に進み、1841年に司祭に叙階された。トリノの貧しい青少年の教育のために、骨身を惜しまず活動した。彼は、愛と優しさをもって子どもたちに接し、「虫を取るためには、酸っぱい酢よりも、1滴の蜜のほうが効果がある」という聖フランシスコ・サレジオ(1月24日 参照)の言葉を心に刻み、実行した。1859年に「サレジオ会」という男子修道会を創立し、1872年にはマリア・マザレロを指導して「扶助者聖母会」(今日では、サレジアン・シスターズと呼ばれている)という女子修道会を創立した。

 ヨハネのモットーは、「愛なくして信頼なく、信頼なくして教育なし」ということであった。両会は急速に発展し、世界中に学校や施設を運営し、多くの子どもたちの教育にあたっている。日本でも、青少年のための学校教育を始め、出版活動などをとおして大きな貢献をしている。

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◆うるわしい首飾り

2016年01月31日 10時54分00秒 | 聖書

わが子よ。すぐれた知性と思慮とをよく見張り、
これらを見失うな。
それらは、あなたのたましいのいのちとなり、
あなたの首の麗しさとなる。         (箴言三21―22)
 
あなたの魂にいのちがみなぎり、あなたの首には美しい首飾りが輝いていますか。――つまり、あなたは美しく魅力的でしょうか。
私の妻は、少女時代に、妹のほうが美人で自分はそうではないという劣等感に悩まされたそうです。この世には自分の容貌もさることながら、生き方にも仕事にも人間関係にも、自信が持てないで悩んでいる人が実に多いのです。
私と結婚してからというのでもないでしょうが、今の妻には劣等感のかけらもありません。私も、妻を不美人と思ったことがないのです。
神に愛されていると知ること、これこそすぐれた知性・すばらしい思慮です。心に神の愛が満たされると、もう小手先細工をしなくてもよくなります。神が心をいのちで満たすばかりか、首には美しい首飾りまでしてくださいます。そこに、何ともいえない自分だけの持ち味・魅力がただよいます。
ですから、神の愛を知る知恵を見失わないように見張れと聖書は言うのです。
「わが子よ。あなたの父の訓戒に聞き従え。あなたの母の教えを捨ててはならない。それらは、あなたの頭の麗しい花輪、あなたの首飾りである」(箴言一8―9)。
 
 
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◆主は私たちの正義。

2016年01月31日 10時53分04秒 | 聖書
(エレミヤ二三・六)
 
クリスチャンがキリストの完全な義を考える時、いつも深い落ち着きと、静けさと、安心と、平安をいただく。神の聖徒たちも、しばしば気落ちしたり、悲しんだりすることがあるが、それではいけないと思う。もし彼らが、キリストにある自己の完全を常に見ることができるなら、そうはならないであろう。
ある人々は、常に自分の心の腐敗堕落や、たましいの生来の悪い性質を口にする。それは真理ではあるが、なぜ一歩進んで、私たちが「キリストにあって完全な者」であることを考えないのか。自分の腐敗のみを見つめている人に元気がないのは当然である。しかし、もし私たちが「キリストは、私たちにとって……義となられた」ことを思い起こすなら励まされる。困難が私を悩まし、サタンが私を攻撃し、天国に到達するまでには多くの経験が必要だとしても、それらは神の恵みの契約によって私のためになされている。
私の主には欠けたところが一つもない。キリストはすべてを成就された。もしすべてが成就されているなら、私は主にあって完全であり、「ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどって」いる。「律法による自分の義ではなくて、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基づいて、神から与えられる義を持つことができる」のである。
あなたは、この地上の天国において、キリストの義の奥義を心に受けた人々よりも聖なる者を見いだすことはないであろう。信者が「私はキリストの中にのみ生き、その救いにより頼み、自らは価値のない者であるが、イエスによって救われていることを信じる」と告白する時、感謝に満たされて次のような思いが起きてくる。「私たちはキリストのために生きるべきではないか。キリストにのみ仕えるべきではないか。」「キリストの愛が私たちを取り囲んでいる。」「生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。」
もし転嫁された義によって救われたのなら、この与えられた義を高く評価すべきである。
 
 
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第2歴代誌20章24-30節

2016年01月31日 10時51分35秒 | 聖書


20:24 ユダが荒野に面した物見の塔に上ってその大軍のほうを見渡すと、なんと、死体が野にころがっている。のがれた者はひとりもない。
20:25 ヨシャパテとその民が分捕りをしに行くと、その所に、武具、死体、高価な器具を数多く見つけたので、これを負いきれないほど、はぎ取って、自分のものとした。あまりにも多かったので、彼らはその分捕りに三日かかった。



 主は自ら戦って、勝利を与えて下さることを語っておられました。

しかしその道は、人を用いてご自分の意志を実現されるお方であるのです。

つまり、主の言葉を聞いて、主の民は心勇みました。

そして立ち上がっていきました。

その時に、彼らが与えられた戦いの方法は、伏兵を用いるということでした。

つまり、予期しない兵を敵の陣営の近くに配置させることでした。

その時に、民が大声を上げて讃美をしました。

そこでその声を聞いて驚いた敵が出てきた時に、その人々を打ったのです。

また、その時に驚いた敵は混乱を極めて、お互いがわからずに、味方同士勝手に戦い合うという結果になったのです。

主は、人や人の意志を用いて事を行われる方なのです。

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マタイ5章8節(ヨブ5章)

2016年01月31日 10時49分07秒 | 聖書


★心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るから。

■O:今日のコラム
ヨハネ5:19そこで、イエスは彼らに答えて言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。子は、父がしておられることを見て行う以外には、自分からは何事も行うことができません。父がなさることは何でも、子も同様に行うのです。20それは、父が子を愛して、ご自分のなさることをみな、子にお示しになるからです。また、これよりもさらに大きなわざを子に示されます。それは、あなたがたが驚き怪しむためです。

人となって地上を歩まれたイエス様は、目に見えないはずの天の父なる神様を「見て」おられた、と、御自身で言っておられます。
イエス様は多くの素晴らしいわざを行い、素晴らしい人格をもっておられましたが、それは父を見ていたからだ、と。

先日行われたビル・ジョンソン師の聖会のメッセージの中で、師が、神の国について、使徒について、とても分かりやすく説明して下さいました。

「使徒」12弟子の「弟子」は、英語でapostle(s)ですが、これはギリシャ語でapostolosアポストロスで、派遣された人、メッセンジャー、遣わされた者、命令をもって送りだされた者、という意味です。
ビル・ジョンソン師の説明によると、この単語は、実は当時のローマ帝国で使われていた政治用語をイエス様が用いられたのだそうです。

当時、ローマ帝国は、近隣の諸国に戦争を仕掛け、勝つごとに、その土地をローマの属州とし、領土を拡大していきましたが、その際、ローマ本土からアポストロスと呼ばれるリーダーたちを現地に派遣しては、ローマの文化をその属州に浸透させていたというのです。
アポストロスの中には政治家や教育者、経済の専門家、芸術家や建築家など、あらゆる分野のリーダーたちがいて、現地の文化をローマの文化に変え、ローマ皇帝がその属州を訪れる時には、自分がまさにローマ国内にいるように感じられるように、皇帝より先に遣わされてその地を備えていったと。

私たちは天の御国の弟子=アポストロスであり、天の御国からこの地のそれぞれの領域、地域に遣わされていて、その遣わされている地域、活動分野に、天の御国の文化を浸透させることがその使命だと。

この説明を聞いて、なるほど~!と思いました。
王なるイエス様がこの地に戻って来られる前に、この地が天の御国の文化で覆われているように、この地に主が来られる時に、主が、ああ、ここは私の国だ、私の王国だ、と感じることができるように、この地に御国の文化を浸透させ、この地を御国と勝ち取っていく、これが私たちの使命なのか!と。

天の御国に病気はなく、家庭崩壊も、教会分裂も、麻薬中毒も、自殺も、鬱も、貧困も、争いも殺人も盗難も不品行も、悪口や陰口も、怒りも苛立ちも、孤独も拒絶も恐怖も心配もない。
天の御国には神様から来る義があり、喜びがあり、平安があり、豊かな備えがあり、一致と、いやしと健康があり、回復、和解、楽しみがあり、解放や自由、力がある。知恵があり繁栄がある。感謝と歌声がある。命がある。

私たちは悪魔の王国を滅ぼし、神の王国をこの地にもたらす、神の国のメッセンジャーです。

もし、神の子であるイエス様が、父なる神様を見なければ何もお出来にならなかったと言われるなら、不完全な人間である私たちはなおさら神様を見なければ神の国の働きは何もできないでしょう。

私たちの目を開き、梁を除き、目薬を与えることのできる方に、目を開いてくださいと求めましょう。心を清めてくださいと求めましょう。神様はよい神様ですから、必ずそうしてくださると信じます。

■A:考えてみよう
パリサイ人たち、律法学者たちは、自分の義を握りしめて他の人をさばき、自分は、自分の義のゆえに、正しい行いのゆえに、神様の前に立つことができる、と高ぶっていましたが、イエス様は彼らのことを盲目だと言われました。
私たちの目の中に、梁はないでしょうか。自己義はないでしょうか。
ヨブは立派な人でしたが、一つだけ悔い改めなければいけないことがありました。それは自分の義を握っていた、ということでした。

主の愛の中にとどまりましょう。
誰をも裁くことなく、神様以外の誰からも裁かれず、自分の義の行いによらず、ただ主イエスの十字架の血潮を通って、キリストの肉体の垂れ幕を通って、御前に出ましょう。
神様の御顔を仰ぎ見、御臨在と栄光の中に憩い、御声を聞き、御言葉と知恵を受け取りましょう。
■P:祈り
憐れみ深く情け深い主よ。天地の造り主、万物の支配者なる愛する父なる神様。
イエス様の十字架によって、私たちを子とし、王とし、御国の大使として、御国から遣わしてくださってありがとうごあいます。
与えられた領域、地域に、御国をもたらし、御国の文化をもたらすためにも、お父さんが見えるように目を開いてください。心を聖め、神様の臨在を味わい、栄光を拝することができるように導いてください。
イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン

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1月30日(土)のつぶやき

2016年01月31日 01時48分22秒 | キリスト教
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愁来(しゅうらい)

2016年01月30日 19時24分05秒 | 小説・詩
 
理子(りこ)
声の方向に振り向く
眉間にしわを寄せたトシユキがゆっくり近づく、手の届くところで立ち止まりニコッと微笑む。
「待たせたなぁ」
「今来たところ」理子は利幸の瞳に合わせるように少し頭を上に向ける。
 
理子はトシユキの左腕に右手を絡ませる。
二人は山下公園の船着き場に向かって行った。
ウイング号のチケットを係に渡し乗船していく。
 
今夜は二人の友人知人の30人だけの貸し切りだけである。
 
(2階外デッキ)
「なぁ、花田、もし俺が死んだらこの後に残された者たちはどうなるんだろうか?」
ワイングラスを揺らしながら花田は夜闇の海を睨みながら「お前がいなくなっても何も変わらないさ、どうにでもなって皆暮らしていくさ、ただお前がいない寂しさが残っているだけさ」
「幸さんはどうだ」
「ここ2年アメリカに行ったきりだ、週に何回かスカルプで話している」
「なぁ花田いつも心に風がすきこんでいく感じがする、今の自分が本当の自分ではないような気がするんだ。」
「親父に言われた、そろそろ石川に帰って教会を継げって言うんだよ。まだ何かやり残したことがあるような大きな不安が心を占めているんだ。」
 
高校時代の親友の小林がそばにやってくる。
 
「トシもまだまだ青いな、俺みたいに仲間と子供がいればそんなガキみたいなことは言わね~よ。」
と言いながら戻って行く。
 
利幸は険しい顔からニコッと笑みを浮かべる。
 
花田「今日は理子の誕生日だからガンガン楽しもうぜ、」
 
横浜港の夜景を一回りしてゆく2時間はあっという間に過ぎて行った。
2次会に参加する10名以外は帰途についていった。
 
利幸「今日は港が見える公園の異人館ホテルに部屋とバーを借り切っているからこれから行くぞう~」
タクシー3台に分乗して向かった。
「トシ君久しぶりね~」
と言いながら利幸にハグをする幸子
「5年ぶりですね幸子ママ、今日は理子の誕生日なんだ、仲間と今日はお祝いで朝まで騒ぎます。」
「いいわよ、今日はあなたたちだけの貸し切りですもの」
ボーイが先導して7Fの大広間に案内する。
港を一望する絶景に皆が見入っている。
飲み初めて1時間が経っていた、金田が利幸と花田の側に来て「とし、理子はあとどれぐらいなんだ?」
水割りをグイッと飲みほして「医者の林があと3か月だと」
「そうか」
「あいつは湿った顔は喜ばない、ガンガン騒ごうじゃないか」
 

3か月後金沢の教会で理子のお別れ会が行われた。
理子のお父様が利幸に1通の手紙を渡した。
受け取ってそれを読み始めた。
読み終えて元に折りなおして右ポケットにしまった。
しばらくの間呆然と立ち尽くしていた。
 
 
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◆私たちは彼にあって御国を受け継ぐ者ともなったのです。

2016年01月30日 16時31分30秒 | 聖書
(エペソ一・一一)
 
イエスがご自身を私たちに与えられた時、ご自身に属するすべての権利と特権をも下さった。今主は、永遠の神として、どんな被造物もあえて要求することのできない至上の権利をもっておられるが、一方イエスとして、仲保者として、恵みの契約のかしらとして、主は私たちを離れては相続権をもっておられない。主が死に至るまで従い続けられたことの輝かしい結果のすべては、主にあるすべての者の共同の財産である。主は彼らのために神のみこころを成し遂げられた。
主は栄光の中に入られる。主ご自身だけのためではない。「私たちの先駆けとしてそこにはいられた」とあるからだ。神の御前に主は立たれる。「今、私たちのために神の御前に現われてくださるのです」とある。
信者よ。このことを考えよ。あなたは、自分自身としては天上に何の権利もない。あなたの権利はキリストのうちにある。もしあなたが罪の赦しを受けるならば、それは主の御血によるのである。もしあなたが義とされるならば、それは主の義による。もしあなたがきよめられるならば、それは神が主をあなたの聖となされたからである。もしあなたが堕落から守られるならば、キリスト・イエスの中にあなたが保持されているゆえである。そしてもし最後の時に完全なものとされるならば、それはあなたが主にあって全うされるゆえである。このようにイエスはあがめられる。すべては主の中にあり、すべては主によるのである。こうして相続権は私たちにとって確かなものとされる。それは主にあって得られるものだからである。そのようにして祝福の一つ一つは、さらにすばらしいものとなり、天国すらもさらに輝かしいものとなる。私たちは愛するイエス「にあって」すべてを得たからである。
私たちが神から受け継いだものを見積もる人がどこにいるだろう。キリストの富を量り、その財宝を量り、聖徒に属する財産を量ることを考えてみよ。キリストの喜びの海の底にもぐり、神がキリストを愛する者たちのために備えられた祝福を理解するよう努めよ。
 
 
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「また私たちのためです…

2016年01月30日 16時30分26秒 | 聖書

主イエスを死者の中からよみがえらせた方を信じる私たちも、その信仰を義とみなされるのです」(ローマ4:24)

アブラハムは子孫を与えるとの約束を受けていたが、見えるところはどうだろう。
アブラハムは年寄りになり、100歳になって自分の身体が死んだも同然となった。
ましてや、サラは妊娠不可能な身体になっていた。
常識、自然界の秩序では、あり得ない状況になっていた。
状況的には不可能だ、しかし、アブラハムは神に不可能な事は一つもないと、「神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じ」た。
そして、神はその信仰を義と認められた。
マルタとマリヤは弟ラザロが病気になり、主に使いを送った。
主さえ来て下さればすぐに治る。
しかし主は動かれなかった。
ラザロが死ぬのを待って、死後に、やっと訪ねられた。
「あなたの兄弟はよみがえる」と言われた。
現状はラザロは死んだ上に、もう腐って来ていた。
死の上に更にこれでもかとの、だめ押しだ。
これがどうなるというのか。
「もう臭くなっています。四日にもなるので」と。
しかし、主は「信じるなら栄光を見る」と言われた。
状況を取るのか、主の御言葉を取るのか。
どちらかだ。アブラハムは状況でなく、約束を信じた。
それが彼の義とみなされた。
アブラハムには様々な失敗があった。
しかし、義人とされた。義人とは状況でなく、神の約束を信じる人のことだ。
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目の前の事だけを頼ってはいないが全く神様だけを信じる事もできない。
こんな中途半端な信仰はむなしい。
不安な思いは神様に告げながら、それでも信仰を選んで行こう。

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今日の聖人の記念日

2016年01月30日 10時05分00秒 | キリスト教

聖バルドヒルド

?-680年ごろ

 バルドヒルドは、イギリスに生まれたが、641年に海賊に捕えられ、奴隷としてフランク王国の宮廷に売られた。

 彼女は非常に美しく才知ある女性であったので、国王クローヴィス2世に望まれて王妃となった。3人の子どもに恵まれ、国王が亡くなって後、657年に長男が即位すると、彼女が摂政を行った。貧しい人々のために病院を建て、奴隷制度を廃止し、多くの修道院に寄進するなど、人々のために尽くした。665年に、反対派の貴族によって修道院に幽閉され、そこで亡くなった。修道院では、謙遜に神の望みを行ない、院長に仕えた。

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◆神の造られた世界

2016年01月30日 10時01分37秒 | 聖書

主は知恵をもって地の基を定め、
英知をもって天を堅く立てられた。       (箴言三19)
 
私の家の八十二歳のおばあちゃんのところへ、数年前、七十七歳のおばあちゃんが訪ねてこられました。駅に着いたら車でお迎えに行きますからということだったのに、重い小豆島そうめんのおみやげをぶらさげて歩いてこられたのです。汗びっしょりでした。「まあまあ、どうして電話をかけてくださらなかったのです。」「石油ショックで、ガソリンを節約しなけりゃならないでしょう。」真剣な顔で言われたのには、びっくりするやら笑うやらでした。
たくさんの人が、この世界について不安を覚えています。世界中の学者も技術者も、「この地球はどうなるのだろう」と考えています。しかし聖書は、「神が知恵をもって地の基を定め、英知をもって天を堅く立てられた」と書いています。
旧約の詩人は、「天は神の栄光を語り告げ、大空は御手のわざを告げ知らせる」(詩篇一九1)と歌いました。広大な宇宙にも神の英知が見られます。しかし、小さな野の花にも、一ひねりでつぶれる小さな羽虫の生き方にも、確かな神の英知が見られます。実に巧妙に世界は造られ、すべてに調和があります。神の英知という法則に従って、花は咲き鳥はさえずっているのです。岩陰の岩ダヌキも一羽の雀も一匹の蟻も、保たれ養われています。
ところが、人間の社会を見ると問題ばかりです。これは神にすばらしく造られた私たち人間が神を拒否し、神の英知に逆らっているからです。神の英知と愛を知り、これと合わせて生き始める時、神は全天地を支える力をもって私たちを守ってくださいます。すべての思想の及びもつかない神の平安で守られます。信仰と従順こそ、神の知恵を知る方法なのです。
 
 
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◆バルサム樹の林の上から行進の音が聞こえたら、

2016年01月30日 10時00分51秒 | 聖書
そのとき、あなたは攻め上れ。(Ⅱサムエル五・二四)
 
キリストのからだである教会に加わる者は、祈り深く、常に聖霊の油がその心に注がれ、キリストの王国が実現されて、「みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように」と求めなければならない。しかしまた、神が特別にシオンに幸いを与えられる時がある。そのような時期が、ここに言う「バルサム樹の林の上から行進の音が聞こえる」時である。この時には私たちはこれまで以上に祈り深くなり、熱心になり、さらに御座の前で祈りをもって争わなければならない。活動は迅速で活発であるべきである。潮は満ちてきた。私たちは元気よく、岸辺に向かってこいで行こうではないか。ああ、ペンテコステの日の御霊の傾注と、その目覚ましい働きよ。
主にある友よ。あなたにも、「バルサム樹の林の上から行進の音が聞こえる」時がある。祈りに特別の力を感じ、神の御霊が喜びと楽しみを与え、聖書があなたに開かれ、約束が実現され、神の御顔の光の中を歩み、個人礼拝において特別の自由を感じ、キリストとの交わりがこれまでになく密接な時がある。このように、あなたの「バルサム樹の林の上から行進の音が聞こえる」ような喜びの時こそ、あなたが攻め上る時である。この時こそ聖霊があなたの弱さを助け、すべての悪い習慣に勝たせられる時である。あなたの帆を広げよ。しかし次の歌を覚えておけ。
 私は帆を広げることができるだけです
 神よ。追い風を送ってください
あなたは帆を上げることを怠ってはならない。準備のないために、追い風を見逃すことのないように。あなたが信仰的に強くなった時には、義務においてもいっそう熱心になることができるように。御座に近づくことができる恵みが加えられれば加えられるほど、ますます祈ることができるように。あなたがキリストに近く生活をすればするほど、ますますその語るところも神聖になり得るように。あなたはこのような助けを神に求めよ。
 
 
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第2歴代誌20章18-23節

2016年01月30日 09時59分11秒 | 聖書


20:18 それで、ヨシャパテは地にひれ伏した。ユダのすべての人々とエルサレムの住民も主の前にひれ伏して主を礼拝し、
20:19 ケハテ族、コラ族のレビ人たちが立ち上がり、大声を張り上げてイスラエルの神、主を賛美した。
20:20 こうして、彼らは翌朝早く、テコアの荒野へ出陣した。



 神の人を通して主の御心を聞いた時、またその御心で、これは主の戦いであると言われて、主が戦ってくださるのだということを聞いた時、彼らは主の前にへりくだりました。

このような愚かな自分たちの願いをお聞き下さる主の恵を思って感謝をし、ひれ伏したのです。

 そして、大声を上げて主の御名を讃えて讃美をしました。

主の約束のことばに立ったのです。

ですから彼らは、翌日戦いのために出て行きました。

私たちも時に、これに劣らぬ苦しみの時があります。

しかしその時に、主の言葉が伝達されないと言って、悩む時があります。

しかし、そうではないのです。

主は色々な方法で道を開いて下さいます。

「すべてのことを益にして下さる」という、みことばの約束に信頼をすることです。

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