座間コミニティー

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

◆この人々は歌うたいであって……

2013年07月31日 15時51分13秒 | 聖書

昼となく夜となく彼らはその仕事に携わった……。(Ⅰ歴代九・三三)

宮の中において、聖なる歌が決して絶えないように定められていたのはよいことであった。歌うたいたちは、常に、とこしえにあわれみに富まれる主を賛美していたのである。主のあわれみが昼も夜も絶えなかったように、音楽もその聖なる務めをやめなかった。
私の心よ。このシオンの宮の絶えない歌は、おまえに快い教訓を与える。おまえもまた不断の債務者であり、主の愛が絶えないのと同じように、おまえの感謝を決して絶やしてはならない。おまえの最後の住まいである天国において、神への賛美は絶えることなく続いている。おまえもまた、とこしえにハレルヤと賛美することを学べ。太陽が地上に光をまき散らすように、神の光も感謝に満ちた信者を目覚めさせて朝の賛美を歌わせ、聖徒のもつ祭司としての職務によって、不断の賛美をささげさせる。彼らは、私たちの地球を感謝の衣で包み、賛美の黄金の帯で取り巻く。
主こそ、不断の賛美を受けるにふさわしい方であられる。そのご人格のゆえに。その創造のみわざと摂理、被造物に対するいつくしみのゆえに。ことに贖いのすばらしいみわざのゆえに。そしてそれから流れ出る驚くべき祝福のゆえに。
主を賛美することはいつも有益である。それは昼を楽しくし、夜を輝かせ、労苦を軽くし、悲しみを和らげ、地上の喜びに聖なる光を投じて、私たちの目が、地上の喜びによってくらまされることのないようにする。私たちは、今何か歌うべきことをもっていないのか。私たちの現在の喜び、過去の救い、あるいは未来の希望について歌い出すことができないであろうか。地は夏の果実を生じ、干し草は納屋に納められ、黄金の穀物は鎌を入れられるのを待っている。太陽はこの実り多い地上をゆっくりと照らす。夜も短くなった。しかし、私たちの心からの礼拝の時は長くありたい。
イエスの愛によって励まされて、今日の日を聖い喜びの歌をもって終えようではないか。

 


ヨシュア記11章6-9節

2013年07月31日 09時00分08秒 | 聖書

11:6 主はヨシュアに仰せられた。「彼らを恐れてはならない。あすの今ごろ、わたしは彼らをことごとくイスラエルの前で、刺し殺された者とするからだ。あなたは、彼らの馬の足の筋を切り、彼らの戦車を火で焼かなければならない。」


イスラエルの民にとりましては、彼らは闘いに困難を憶える相手でした。

しかし、主は彼らと共にいて必ず勝利をもたらすので、恐れないで戦いなさいと言われました。

その言葉を聞いたヨシュアは、すぐ戦いに出ました。

そして、彼らを奇襲するという方法をとりました。

その結果、そこにいた多くの民を打ち破ることができました。

 ところで主は、戦いに勝った時には、敵の持っていた馬の足の筋を切り、戦車を焼きなさいと言われました。

なぜでしょう。

馬も戦車もとっておけば、後の戦いで役に立つはずです。

しかし、それをすべて益にならないようにしなさいと言うのです。

これは、イスラエルの民が戦う時に、誰に依存するのかということにあります。

この世の人が依存する馬や戦車ではなく、ただ神様のみにより頼みなさいと言われるのです。

これが理由です。


◆人の計画・神の計画

2013年07月31日 08時43分25秒 | 聖書

人の心には多くの計画がある。
しかし主のはかりごとだけが成る。(箴言一九21)

ナポレオンは、実にちみつな計画を立てた人だったそうです。ワーテルローの戦いに臨んだ時も、一点の非の打ち所もないプランを立てていました。しかし、その日に朝から降った大雨のために、十二分に立てられたそのはかりごとは、ついえ去りました。ナポレオンとその軍隊は敗れ、ついに、その敗北から立ちあがれなくなったそうです。人が、人の力によって人のために立てる計画とは、そんなものではないでしょうか。むなしいものです。
しかし、「人は心に自分の道を思い巡らす。しかし、その人の歩みを確かなものにするのは主である」(箴言一六9)と聖書は言います。どうせなるようにしかならないんだ、そんなやけのやんぱちからは、何の祝福もよいことも出てきません。どうすれば、主から祝福を受けることができるでしょうか。
第一に、自分の考え・願い・計画を祈りの中で神の前に持ち出し、神に相談してみることです。神に正し、力づけていただくのです。
第二に、「だれでも、思うべき限度を越えて思い上がってはいけません。……信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい」(ローマ一二3)とパウロが述べたすすめに従うことです。
第三に、「神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださるのです」(ピリピ二13)とあるように、神に与えられた志を働かせそれを実践していくことです。神は私たちに、その時々にその力をも与えてくださいます。いいえ、成し遂げてもくださるというのです(ヘブル一三21参照)。
これが、祝福を受ける理想的な姿ではないでしょうか。

 


◆わたしは彼らにおり……。

2013年07月31日 08時40分35秒 | 聖書

(ヨハネ一七・二三)

このみことばのように、私たちのたましいと主のご人格が結合しているならば、私たちの霊の交わりの水路はなんと深く広いことであろう。これは糸のような流れが曲がりくねって通る狭い鉄管ではない。驚くほどの深さと幅をもつ水路であり、それに沿って豊かな水がとうとうと流れている。
見よ。私たちの前に主は門を開いてくださる。ためらうことなく入ろうではないか。この霊の交わりの都にはたくさんの真珠の門がある。それはそれぞれ一つの真珠によって造られ、各々の門は私たちを歓迎し、私たちが入ることができるように最大限に開かれている。仮に、ただ一つののぞき穴があり、それを通してイエスと会話をもつことができるとしても身に余る光栄であるのに、まして、このような大きな門から大手を振って入れるとは、なんという祝福であろう。仮に、イエスが私たちをはるかに離れ、あらしの海がその間に横たわっていたとしても、私たちは使いを送って自分たちの愛を主に伝えたいと願い、御父の家からの便りを得ようとするであろう。
しかし、主の心づくしを見よ。主は私たちの隣に家を建てられた。否、主は私たちと同居し、あわれな、卑しい心とともに宿ってくださり、私たちと永遠に親しく語ろうとしておられる。
ああ、もし私たちが不断に主と親しくお交わりしようとしないならば、なんと私たちは愚かであろうか。友人同士が遠く離れており、しかも道が危うく困難であれば、互いに会うことの少ないのは当然である。しかし同じ屋根の下に住んでいて、ヨナタンがダビデを忘れることがあろうか。
主にある友よ。なぜ主のぶどう酒のうたげにつらならないのか。あなたの主を求めよ。主はあなたの近くにおられるから。主を抱きしめよ。主はあなたの兄であられるから。主にすがれ。主はあなたの夫であられるから。主をあなたの心に押しつけよ。主はあなたの骨肉であられるから。

 


◆わたしのところに来る者を、

2013年07月30日 17時17分20秒 | 聖書

わたしは決して捨てません。(ヨハネ六・三七)

この御約束には期限がない。単に「罪人が初めてわたしのところに来る時、これを捨てない」とあるのでなく、「決して捨てない」とある。このことばの原語は「わたしはしない、捨てはしない」、「わたしは決して捨てない」との意である。この聖句は、主が最初に信者を拒まれないことを意味し、最初にされないことを最後までなさらないことを言っている。
しかし、信者がキリストのみもとに来て後に罪を犯すならば、どうなるのか。「もしだれかが罪を犯したなら、私たちには、御父の御前で弁護してくださる方があります。それは、義なるイエス・キリストです。」信者の信仰が後退すればどうなるのか。「わたしは彼らの背信をいやし、喜んでこれを愛する。わたしの怒りは彼らを離れ去ったからだ。」信者は誘惑に陥るかもしれない。「神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。」
だが信者は、ダビデのように罪に陥るかもしれない。しかし主は、「ヒソプをもって私の罪を除いてきよめてください。そうすれば、私はきよくなりましょう。私を洗ってください。そうすれば、私は雪よりも白くなりましょう」との祈りに答えてくださる。「わたしは……わたしにそむいたすべての咎を赦す。」
主は言われた。「わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。」おお、震えるか弱き者たちよ。あなたはこのみことばに対して何と言うか。これは尊いあわれみではないか。キリストに来た者は、しばらくの間大切にされ、その後顧みられなくなるのではない。主はあなたを受け入れ、花嫁とされ、あなたは永遠に主のものとなる。では、もう恐れを抱く奴隷の霊ではなく、「アバ、父」と呼ぶ子としての霊を受けよ。おお、「決して捨てません」というみことばの中にある深き恵みよ。

 


ヨシュア記11章1-5節

2013年07月30日 08時54分54秒 | 聖書

11:4 それで彼らは、その全陣営を率いて出て来た。その人数は海辺の砂のように多く、馬や戦車も非常に多かった。
11:5 これらの王たちはみな、相集まり、進んで来て、イスラエルと戦うために、メロムの水のあたりに一つになって陣を敷いた。


次に控えていたのは、カナンの地の北方の王達との戦いです。

ここでは、ヤビンという王が他の都市の王達、すなわち、多くの都市の王達と民達を集めて、その全軍を率いてイスラエルと戦うためにでてきたことが語られています。

その連合軍には兵士だけではなく、馬や戦車も非常に多かった、と告げられています。

彼らはその軍隊をととのえて、メロムの水のあたりで陣を敷きました。

メロムの水というのは、「高いところの水」という意味です。

ガリラヤの高原にあるところで、雨量が多いためにこう言われておりました。

そこは彼らがよく知っていた地であり、また備えのための水がありますので、そこに陣を引いて、イスラエルの民との戦いの備えをしたのです。

彼らは馬と戦車を持っていたと語っています。

イスラエルには、苦戦を強いられる戦いです。



◆自分の子をこらしめよ

2013年07月30日 06時36分17秒 | 聖書

望みのあるうちに、自分の子を懲らしめよ。
しかし、殺す気を起こしてはならない。(箴言一九18)

「殺す気を起こしてはならない」とは、とんでもないとお感じになるかもしれません。八つ当たり・憎しみ・やけっぱちなどのヒステリー的感情で子どもをこらしめるなといわれているのでしょう。
とにかく、「むちを控える者はその子を憎む者である」(箴言一三24)とも記されているように、子どもは、望みのある幼いうちにこらしめるべきだというのが、一貫した聖書の教えです。ところがこのごろは、子どもをこらしめられない親が、大部分なのではないでしょうか。ある女性が、しみじみとこう言われました。「私の娘は、離婚して帰ってきて、もう口もきかずにふさぎこんでいます。私が甘やかしたのが悪かったと、今になると分かるのです。」
どうして甘やかしてしまい、こらしめられないのかを考えてみました。
第一に、子どもに対する責任を自覚していないことです。神は、資格もない私たちを愛し生かし、親にしてくださいました。親として任命し、こんな資格もない者に、子どもを愛する愛を与えていてくださるのではありませんか。あなたほど、あなたの子どもを叱る責任を負わされている人は、ほかにはいないのです。
第二に、子どもの前でよく思われたいという助平根性があることです。だから、きらわれると思うと、こらしめることができません。
第三に、子どもじみた「かわいそう」という気持ちに押されていることです。そこには、猫かわいがりな自己中心の愛しかありません。手術をしなければ死ぬ時、かわいそうだからやめてと言うでしょうか。センチメンタルなことでは追いつかないのです。
第四に、根本的に何が価値あり、永遠のことかが分かっていないことです。神とか絶対とかが分からないのです。

 


◆それに思い当たったとき、

2013年07月30日 06時33分49秒 | 聖書

彼は泣き出した。(マルコ一四・七二)

ある人々は、ペテロは一生、主を拒んだことを思うたびに涙が流れて止まらなかった、と考える。そうかもしれない。彼の罪は非常に大きなものであったが、後には恵みが彼の中に完全なわざをなした。この経験は程度の差こそあれ、聖霊によって生まれつきのままの石のような心を取り去られた、すべての贖われた者に共通の経験である。
私はペテロのように、「たとい全部の者がつまずいても、私はつまずきません」と言った尊大な約束を思い起こす。私たちは苦い後悔の思いをもって、自分のことばを追憶する。どのような誓いをなし、それがどうなったかを考える時、私たちは悲しみの涙にくれる。
ペテロは主を拒んだことを思った。自分がそれをした所、そのような極悪な罪を犯させた小さな理由、彼が偽りを証拠立てようとして激しく誓ったこと、彼をこのような罪に追いやったその心の恐るべきかたくなさについて考えた。私たちも自分の罪を思い起こし、その極悪さを考える時、無神経な、かたくなな態度をとり続けられないだろう。私たちは自分の家をボキム(泣く所)とし、主に向かって、罪に対する新たな愛の赦しが与えられるように叫び求めないであろうか。私たちが涙を浮かべずに罪を見ることが決してないように。そのようなことがあるなら、遠からず私たちの舌は地獄の火に焦がされてしまう。
ペテロはまた主の愛に満ちたまなざしを思った。鶏の鳴き声の後に、主は悲しみと愛のまなざしを与えられた。このまなざしは、ペテロにとって一生忘れることのできないものとなった。それは聖霊の注がれない千万の説教よりもはるかに力があった。深く罪を悔いたこの使徒は、自分をもとの位置に回復された救い主の完全な赦しを思い出した時、きっと涙を流したに違いない。しかし私たちは、この上なく愛と善に富んでおられる主のみこころをお痛めしたことを思う時、いくら泣いても泣ききれない気持ちなのである。
主よ。岩のような私の心を打って、水をほとばしらせてください。

 


◆父がわたしにお与えになる者はみな、

2013年07月29日 15時51分33秒 | 聖書

わたしのところに来ます。(ヨハネ六・三七)

この宣言のみことばは、選びの教理を含む。父なる神がある人々をキリストに与えられるのである。それは、「有効召命」の教理を含む。与えられた人々は必ず来なければならず、また事実来るのである。彼らがいかに頑強に抵抗しても、暗やみの中から神の驚くべき光の中に導かれる。それは私たちに、信仰が欠くことのできないものであることを教える。キリストに与えられた人といっても、イエスに来るのでなければ救われないからである。キリスト・イエスという門を通る以外に、天国への道はない。父なる神が私たちの贖い主に与えられた者は、すべてそのみもとに来なければならない。したがって、キリストに来なければ、だれも天国に入ることはできない。
おお、この「来ます」ということばの含む力と尊厳よ。主は、彼らが来る力をもっているとも、来ることを欲するなら来ることができるとも言っておられない。「来ます」と言われる。主イエスはそのための使者であられる。みことばと御霊により、人々を穏やかに優しく、来ないではおられないようにさせて、婚礼の晩餐を食べさせてくださる。そしてこのことを、主は人間の自由意志を妨げることなく、恵みの力によってなさる。ある人の意志を私が支配しても、その人の意志は完全に自由であることがある。その時は強制が人間の心の法則に従って働くからである。イエスはこのことをご存じで、反抗できない議論をもって理解力に訴え、力強い理由をもって情に訴え、たましいのすべての力と情の上に不思議な聖霊の力を及ばせて、人を全く征服される。かつて反抗していた人も、愛によって征服されて、喜んで主のご支配に従うようになる。
しかし、神に選ばれた人であることをどのようにして知ることができよう。それは結果によって知ることができる。彼らが喜んでキリストを受け入れ、単純な偽りのない信仰をもってみもとに来て、救いのすべて、願いのすべてとして、主に憩うことによって。友よ。あなたはこのようにイエスのみもとに来た。

 


ヨシュア記10章40-43節

2013年07月29日 07時19分14秒 | 聖書

10:40 こうして、ヨシュアはその全土、すなわち山地、ネゲブ、低地、傾斜地、そのすべての王たちを打ち、ひとりも生き残る者がないようにし、息のあるものはみな聖絶した。イスラエルの神、主が命じられたとおりであった。


ヨシュアは主の命令によってモ-セの後を継いで、カナンの地に入っていきました。

そして、主が約束してくださったとおりに、主が共にいてくださったために、様々な戦いに勝利をすることができました。

こうして、カナンの地の南の大部分を占領しました。

それは山地といって、後のユダヤの地方、そしてネゲブという南の地方、さらには低地といって地中海側の地方、さらに傾斜地といって、死海の方に下っていく傾斜地でした。

また、その捕らえたところの人々は皆、聖絶しました。

もちろん逃げて残っていた人々もいますが、大多数に対して彼は、自分の民の手によって勝利を得ることができたのです。

彼が持った思いは2つのことです。

主が約束されたことを信じて信頼をし、また主が命じられたことに対して、心を尽くして戦った、ということでした。