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ヘルパーの生活援助時間短縮

2011年11月30日 11時14分48秒 | 福祉

計測なく調査ずさん 入手の資料で明らかに

60分未満を45分未満に

 政府・厚生労働省は、介護給付費削減のために、来年度の介護報酬改定でホームヘルパーが行う生活援助(調理、掃除、洗濯、買い物など)の基本的な提供時間(現行30分以上60分未満)を45分未満に短縮しようとしています。しかし、根拠とされた調査は提供時間の実態を調べるのが目的でないうえ、計測もなく、記録にもとづかないずさんなものであることが本紙入手の資料で明らかになりました。

 問題の調査は、株式会社EBP(東京都中央区)が今年度の国庫補助事業でおこなったもの。被災3県を除く44都道府県の各10市区町村において、今年3月に訪問介護を利用した要支援1~要介護5の人を1人ずつ選び、サービス提供事業所が答えることになっています。

 本紙が入手したのは調査の際の「介護予防訪問介護及び訪問介護の利用に関する質問票 記入要領」。「目的」には、訪問介護について「利用者の状態像や同居家族の状況等とサービス提供内容の関連性を明らかにする」ことをあげています。どんな状態の人がどんなサービスを利用しているかを調べるのが目的です。生活援助の提供時間の調査が目的ではありません。

 調査は、訪問介護事業所が今年3月のサービスについて「掃除」「洗濯」などの行為ごとに提供時間や回数を記入することになっています。しかし、調査表が国から都道府県に送られたのは5月16日。回答期限は6月20日です。もともとヘルパーは行為ごとの提供時間を記録することになっていません。1カ月半以上前の行為時間を、記憶を頼りに記入することになります。

 さらに同省によると、洗濯機を回しながら調理や掃除をした場合、洗濯機から離れて別の行為をした時間は洗濯の時間に含めません。実際には同時並行的におこなうことで成り立っている生活援助サービスの実態を無視した調査ともなっています。


解説

生活援助時間短縮 命綱の訪問介護奪う恐れ

 生活援助にどれだけの時間を要するかは利用者の暮らす地域、住居、同居家族の有無などに大きく左右されます。例えば「買い物」一つとっても、徒歩圏内に商店があるような場合と過疎地域とでは所要時間がまったく違ってきます。

 全国社会福祉協議会のホームヘルプサービスの所要時間に関する報告書(2000年)では「家事援助については個別性が大きい」として、標準的な所要時間の検討の対象とされませんでした。ところが厚労省は、そうした個別性を無視して平均化した調査結果を、生活援助の提供時間短縮の根拠にしています。

 調査は洗濯機を回しながら調理や掃除をするという同時並行も少なくない生活援助を行為別に切り分けたうえ、各行為の1回当たりの平均時間を出すというやり方をとっています。そのため洗濯の平均が16・6分などという結果が出され、ヘルパーから「16分で終わる洗濯機などない。実態とかけ離れている」と批判があがっています。

 訪問介護は援助の総体を通し、介護を必要とするお年寄りが「尊厳を保持し、その有する能力に応じ自立した日常生活を営むことができるよう」(介護保険法第1条)支援することが目的です。こうした介護保険法の目的・理念にも反し、生活援助の実態を反映しない不正確な調査を、時間短縮の根拠とするのは許されません。

 政府は介護給付費の削減を狙いこれまでも生活援助の時間短縮を進めてきました。06年の介護報酬改定で30分ごとの報酬加算を廃止し事実上90分までに制限。さらに09年改定では「30分以上60分未満」の報酬を引き上げ、短時間化を促進しました。その結果ヘルパーの業務は会話する余裕もなく、時間内にサービスが終わらないほど多忙となり、06年改定を前後して2万数千人が離職しています。

 さらなる時間短縮がいっそうの多忙化と離職に拍車をかけるのは明らかです。それは在宅のお年寄りの命綱である訪問介護を奪うことにもつながりかねません。生活援助の時間短縮方針は撤回するべきです。 

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製造業派遣 禁止骨抜き

2011年11月30日 11時02分24秒 | 公共・政策

登録型も容認 民自公が合意

 民主、社民、国民新党の3党が国会に提出していた労働者派遣法改定案について、民主党は15日までに、製造業務派遣と登録型派遣の「原則禁止」事項を削除するなど大幅修正することで自民、公明両党と合意しました。

 改定案は、非人間的な違法派遣の横行が社会問題になり、規制を求める世論と運動をうけて2010年4月に国会に提出されました。製造業務派遣と登録型の「原則禁止」、違法派遣があった場合に直接雇用を申し込んだとみなす「みなし雇用」規定などを盛り込みましたが、派遣業界の抵抗、自民、公明両党の反対で審議入りできず、継続審議になっていました。

 同時に、改定案には大きな問題点があり、製造業務と登録型の「原則禁止」というものの、派遣元に常用雇用されているケースや「専門26業務」を除外するもので、短期で反復更新すればいくらでも派遣できる内容です。全労連をはじめ労働組合、弁護士、「派遣切り」とたたかう労働者などは、これでは派遣労働者が救われないとして、「抜け穴」をふさぐ抜本改正を求めて運動していました。

 今回の民主、自民、公明の3党合意は、この抜本改正要求に逆行し、問題点が多い現行改定案をさらに骨抜きにする修正となっており、派遣労働者を保護する法改正をすすめるとしていた民主党の公約にも反しています。

 

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出エジプト記23章14-17節

2011年11月30日 08時52分24秒 | 聖書

23:14 「年に三度、わたしのために祭りを行なわなければならない。」  イスラエルの民は、単なる民ではありません。主によって生き、また、主と共に生かされる民です。従って、その歩みの指針となり、規則となる戒めも、単なる人と人との間を規制する戒めのみでは終わりません。そこでは、主にあって生きる者として、主に対して求められる戒めが与えられています。それは、十戒の初めの4つが、神様に関する戒めであり、残りの6つが、人と人との関係における戒めであることに表されています。  ここには、その神様の御心として、祭りに関わることが求められています。それが、年に3度祭りを行えということです。過ぎ越し、7週の祭り、そして、仮庵の祭りです。これらは皆、イスラエルの民が、主の導きと恵みによって導かれ、養われてきたことを覚えて、感謝して行うところの祭りです。祭りというのは、一人でするのではなくて、民として皆でするものです。個人的に感謝な事も多いですが、皆で感謝を覚える日として、この日を守れというのです。皆で主を称えるのです。

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◆思  い  や  り

2011年11月30日 08時43分22秒 | 聖書

正しい人は
寄るべのない者を正しくさばくことを
知っている。
しかし悪者はそのような知識をわきまえない。(箴言二九7)

上に立つ人・人を治める人に欠くことのできない資格の一つは、人への思いやりです。
自分に反対する敵に対してさえ、王は、思いやりがなければならないと聖書は言うようです。イエス・キリストは、こう言われました。「わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです」(マタイ五44―45)。
私たちは、目に見える区別にばかり気をとられます。金持ち・教養のある人・知恵のある人・力のある人、こんな人ばかりに注目します。そして、年寄り・女子ども・貧しい人・力のない人・知恵のない人を、見くだしたり無視したり忘れたりしやすいのです。
養わなければならない子どもを、やっかいがってはなりません。次の世代を構成する人たちです。老人――それは、何年か後のあなたなのです。
発想を換えてみてください。
死を前にして、神のさばきの前に立って考える時、私たち一人一人は何とむなしく弱くけがれた者でしょう。金や肩書きや免状などは、何でもありません。すべてが平等です。死よりも強い神の愛・神の力の前に、自分を置いてごらんなさい。一羽の雀すら野の一本の花すら、神のみこころによって歌い、美しく咲いています。まして、神に愛されていない人は一人もいないのです。上に立つ者は、すべての人に公平な思いやりがなくてはなりません。

 

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◆アマツヤは神の人に言った。

2011年11月30日 08時41分31秒 | 聖書

「では、イスラエルの軍勢に与えた百タラントはどうしたらよいのか。」神の人は答えた。「主はそれよりも多くのものをあなたに与えることがおできになります。」(Ⅱ歴代二五・九)

この質問は、ユダの王にとって非常に重要なものと思われる。また試練に会い、誘惑にさらされているクリスチャンにとっても、おそらく、さらに重要なものであろう。金銭において損することは、どのような場合でも快いものではない。正しい目的の場合でも、肉はその犠牲をいつも喜んでささげるわけではない。「有効に使用できるものをなぜ失うのか。真理の価はあまりにも高すぎるのではないか。あの金を失えば、私たちはどうすればよいか。子どもたちや、少ない収入のことを考えたらどうだ」と。このようなことがクリスチャンを誘惑して、正しくないことに手を出させるのだろう。あるいは、重大な損失をもたらすことが明らかな時、良心的な行動をちゅうちょさせるのだろう。この問題を信仰の光に照らして見ることは難しい。イエスに従う人々にとってさえ、「私は生きなければならない」という原則が大きな比重をもっている。
「主はそれよりも多くのものをあなたに与えることがおできになります。」これは私たちの心配への完全な解答である。私たちの父は全世界の財宝の管理権をもっておられる。そして私たちが主のために失うものを、千倍にもして返される。主のみこころに従うのが私たちのなすべき分であり、従う時、主は必ず私たちのために備えられるのである。主は何びとに対しても債務者の地位には立たれない。
聖徒たちは、一粒の平安が一トンの黄金よりも尊いことを知っている。真実な心は、たとえ牢獄であろうと、神のほほえみさえあれば満足する。祝福に満ちたたましいは、宮殿にあっても神の不興にあえば地獄にいるように感じる。最悪の事態がやってこようと、すべての金銭を失おうと、私たちは自分の宝を失うことはない。神の右に座するキリストのもとにあるからである。現在においても、主は柔和な者に地を相続させ、正しく歩む者に良いものを拒まれることはない。

 

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出エジプト記23章12-13節

2011年11月29日 07時14分20秒 | 聖書

23:13 「わたしがあなたがたに言ったすべてのことに心を留めなければならない。ほかの神々の名を口にしてはならない。これがあなたの口から聞こえてはならない。」以前、偶像をつくってはいけないし、また礼拝してもいけないと言われていました。ここでは、さらに、他の神々の名を口にしてはいけないと語っています。にしてはいけないというのは、礼拝などの時、その対象として、偶像の名を告げることを意味します。そのような偶像の名をかたって、偶像に対して礼拝をしてはならないと命じているのです。  こうした詳しい戒めが、何故与えられたのでしょう。それは、十戒の教えの内容を、明確にするためです。つまり、国には憲法があり、その憲法に基づいて、民法があり、刑法があり、また商法があり、司法があって、その内容が明確にされるように、十戒を基本として、そこから暴力のこと、商売のこと、裁判のこと、偽証のことなど、さらに詳しく語ることによって、主の御心が何であるかということを、明確にしているのです。この戒めに基づいて、人々が約束の地でどう生きるかの、指針が与えられたのです。

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◆喜びの三条件

2011年11月29日 07時04分50秒 | 聖書

悪人はそむきの罪を犯して自分のわなをかける。
しかし正しい人は喜びの声をあげ、楽しむ。(箴言二九6)

世の中のあらゆる罪は、背きの罪です。神はあなたを愛し、あなたのために最善の計画を立て、あなたに最善のことをしてくださろうというのに、それを踏みにじり、自分勝手な恥ずかしいつまらないことをしてしまうエゴイズム。――それが罪であり、背きです。また、罪の大部分は神の愛への背きであるばかりか、人の愛・信頼・期待への裏切りなのです。罪こそは、人間関係を壊すナンバーワンの元凶です。
ところが、神に対しても隣人に対しても正しい関係にある人、つまり正しい人は、「喜びの声をあげ、楽しむ」といわれます。「喜び」は、楽しみとか幸せとかいう以上に、生き生きした健全な生き方のシンボルみたいなことばです。幸せは、めぐり合わせのよい時のもの、楽しみは、楽しいことをしている時のものです。しかし、貧しい時・病む時・苦しい時も、そして楽しくない時にもわきあがってくるものこそ、「喜び」です。
人生の最も深い喜びの土台に、三つのものがあると思います。
・ 愛し愛されている、受け入れられ受け入れているという確信。
・ 進んで喜んで語り合うコミュニケーションの道が、まっすぐ開けていること。
・ 自分のためでなく、相手のために仕えるという心の姿勢があること。
この三拍子がそろえば、「喜びの声をあげて楽しむ」ことのできる人間関係に太鼓判が押されます。まずキリスト・イエスを通して、私たちに対して三つの条件を整えてくださった神は、私たちを待ち構えていらっしゃいます。私たちがその愛に応答していくところに、何ものにも侵されない「喜び」の人生の出発があるのです。

 

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◆人々の間を歩き回って、人を中傷してはならない。

2011年11月29日 07時02分44秒 | 聖書

……あなたの隣人をねんごろに戒めなければならない。そうすれば、彼のために罪を負うことはない。(レビ一九・一六、一七)

人の悪口を言う者は三重の毒を流す。悪口を言う者と、聞く者、話題に上っている者を害するからである。その悪口が真実であるかどうかにかかわりなく、私たちはみことばによって、それを禁じられている。
主の民の名声は非常に尊いものである。私たちは悪魔を助けて教会を辱しめ、主の御名を汚さないように心しなければならない。ある人々の舌には、拍車よりもむしろくつわが必要である。多くの人々が、兄弟を引きずり下ろすことによって、あたかも自分の地位が高められたかのように思って得意になっている。
ノアの賢い息子たちは、裸の父に着物をかけた。そして、父の裸を暴露した子どもは恐ろしいのろいを受けた。私たち自身この暗黒の時代に住んで、自分たちの兄弟が寛容であり、沈黙を守ってくれることを望んでいる。私たちも喜んで、今それを必要とする者に同様の態度をとろうではないか。人の悪を語るな。これを私たちの家憲とし、誓いとしよう。
しかし聖霊は、私たちが罪をとがめ、それに対して適当な処置をとることを許しておられる。だが、それは陰で兄弟をあざ笑うのではなく、相対して戒めることによってなされなければならない。これは雄々しく、兄弟愛に満ちた行いであり、キリストと同じ方法である。これは神の祝福を受け、効果を上げるであろう。
肉はそれを恐れるか。それなら私たちはさらに良心を励まし、ぜひともそれを実行しなければならない。それは友人の罪を見過ごすことにより、私たちが共犯者とならないためである。誠実な牧師や主にある兄弟たちの時宜を得た、賢明な、愛のある警告によって、幾百という人々が重大な罪から救われている。私たちの主イエスはペテロに警告を与え、またそれに先立って祈り、彼が高慢にもそれを無用だとして拒んだのに、優しく耐え忍ばれた。そして、罪を犯した友をどう扱うべきかという、いつくしみ深い模範を示されたのである。

 

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ドイツ北部

2011年11月28日 17時50分02秒 | 原発

ドイツ北部ゴアレーベンへの放射性廃棄物搬入に反対し、脱原発を訴える集会が26日、同地の西20キロのダネンベルクで開かれ、ドイツ各地から約2万3千人の市民が参加しました。東京電力福島第1原発事故の被災者もあいさつしました。

 2人の子どもと壇上に立った西片(にしかた)嘉奈子さんは、放射能汚染の深刻さを知り、6月までとどまっていた福島市から山形県米沢市に自主避難したことを紹介。「子どもの未来のため、原子力のない世界のために行動したい」と涙声で語りました。

 福島県田村市で有機農家をしていた大河原多津子さんは、「ふたたび農業ができるように、決してあきらめず、原発ゼロに命をかけたい」と訴えました。

 ゴアレーベンは1977年に旧西独の放射性廃棄物の最終処分場の候補地とされ、現在は中間貯蔵施設が置かれています。フランスの再処理工場から放射性廃棄物が列車で搬入されることを受けて、24日から抗議デモが始まり、28日まで行われます。

 26日の集会には、地元農家が約100台の大型トラクターで行進して参加。各地から約300台のバスが連なり、会場となった休耕地を埋めました。

 

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告知

2011年11月28日 17時23分42秒 | 予定・告知

夜間にアップしていた聖書の記事はメールマガジンで配信することになりました。

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出エジプト記23章10-11節

2011年11月28日 07時23分58秒 | 聖書

23:11 「七年目には、その土地をそのままにしておき、休ませなければならない。民の貧しい人々に、食べさせ、その残りを野の獣に食べさせなければならない。ぶどう畑も、オリーブ畑も、同様にしなければならない。」  「安息日を聖としなさい。」というのは、主の命令でした。それは、主が天と地を創造された時に、7日目を休まれたからでありました。ですから、人は7日目を安息日として休んで、神様を礼拝する日として用いました。この安息日の規定は、人に対して与えられたものですが、ここではそれに倣って、土地に対しても安息、即ち、休耕する年を持つように命じています。それは土地が疲弊しないためです。ところで、ぶどうやオリ-ブというのは、たとえ耕作をしなくても実がなります。そうしたものに対してはどうするのかというと、自分で収穫を取らないで、貧しい人々に取らせ、また野の獣が食べたい時には、追い払わないで食べるままにしておきなさいというのです。そのことによって、彼等も益を得るためです。安息日の規定は、それによって神様が、被造物に益をもたらそうとして下さった規定なのです。

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◆へ  つ  ら  い

2011年11月28日 07時16分27秒 | 聖書

自分の友人にへつらう者は、
自分の足もとに網を張る。      (箴言二九5)

「よい人間関係をつくるために、お世辞を言いましょう」という講習会が開かれたことがありました。確かに、「きたねえガキだ」と言うより、「お元気そうなおぼっちゃんですね」とちょっぴりお世辞を言ったほうが、隣の人とうまくいくでしょう。
私の友人は、汽車の中で隣のおじいさんに、イエス・キリストのお話をしたくてたまりませんでした。ところが、話しかける前に「一杯どうですか」と、ウイスキーをさし出されました。その時、「お宅は、気前がいいんですね。ところで、私はクリスチャンで無調法なのですが……」と応対して、うまく会話ができたというのです。「昼間っからお酒ですか」と言うよりも、確かによかったと思います。お世辞というより、人のあら捜しをせずに美点や長所を見ていく日常の態度が、人間関係をよくしていきます。へつらいは、そんな態度とは全く違います。へつらいを言う人の心の動機や心の姿は、この三つに要約されます。
・ 真実がない。平気でうそをつき、ただ自分のために生きる。
・ 自分をよく思われたい一心で、人の顔色をうかがっている。
・ 相手を手玉にとり、できるなら利用しようとする。
へつらいを言う人ののどは「開いた墓」(詩篇五9)だと、ダビデは言いました。また、その舌は「鋭い刃物のよう」(五二2)で、人をわなにかけて破滅させるというのです。
しかし「へつらう者」は、実は、自分の足もとに自分で網を張っています。それは、「人をのろわば穴二つ」ということばのとおりです。そのような人は、他人からもだまされ、おだてられ利用されるだけで、いつまでたっても真実の友が得られないのです。

 

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◆兄弟たちがやって来ては、あなたが真理に歩んでいるその真実を証言してくれるので、

2011年11月28日 07時14分44秒 | 聖書

私は非常に喜んでいます。(Ⅲヨハネ三節)

真理はガイオのうちにあり、ガイオは真理のうちを歩んだ。もし前半が真実でなければ、後半の事実は決して起こり得なかったであろう。もし第二のことがガイオに当てはまらないとすれば、初めのことは単なる見せかけにすぎなかったであろう。
真理はたましいの中に入り、しみこまなければならない。そうでなければ無価値である。信条としての教理は、手に持っているパンのようなもので、からだの栄養にはならない。だが、心で受け入れられた教理は、消化された食物と同じで、吸収されてからだを強くする。真理は私たちの中で、生ける力、活動する力、内住の現実、存在の経験とならなければならない。
もしそれが私たちの中に入るなら、その時から私たちはそれと別れられなくなる。人は衣を失い、また手足を失うかもしれない。しかし、彼の内なる部分が生きており、いのちの存在している限り、これは彼から奪い去ることのできないものである。クリスチャンも死ぬだろう。しかし、彼は真理を否むことはできない。
明かりの中心から出る光がガラスを通って外に輝き出るように、内にあるものが外のものに影響を与えるのは自然の法則である。真理が内に燃える時、その光はすぐことばとなって外なる生活に輝き出るのである。
ある種の虫は、その食べる食物によって、まゆの色が異なるという。これと同様に、人の内なる性質を育てる養分が、その外に出るあらゆることば、行為に色づけをする。真理にあって歩めば、誠実、聖潔、忠実、単純な生活をもたらす。これは福音の教える真理の原則が自然に生み出すものであり、聖霊が私たちに受けることを得させるものである。外に現れる会話によってその人の内なるたましいの秘密を知ることができる。
いつくしみ深い御霊なる主よ。どうか今日、私たちを神の権威の支配下に置いてください。そして偽りと罪とが私たちの心を支配し、日々の歩みにおいて悪い感化を人々に及ぼすことのないようにしてください。

 

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◆私たちは、この御子のうちにあって、御子の血による贖い、

2011年11月27日 18時07分30秒 | 聖書

すなわち罪の赦しを受けているのです。これは神の豊かな恵みによることです。(エペソ一・七)

どの国語でも、「赦し」という語が罪人の耳に響く時ほど、快いものがあろうか。それは、捕われのイスラエル人に対して釈放の喜びを告げる銀鈴のようである。まことに、永遠に賛美すべきは、刑罰の監房の中にさし込む赦しの星明かりである。それは失望の真夜中に、滅びようとしている者に希望の光を与える!
罪、しかも私のような者の罪が赦され、全く永遠に赦されることがあり得るのだろうか。罪人である私にとって、地獄こそ相続分である。罪が私から離れない以上、地獄から逃れ得る可能性はない。罪の重荷を取り除き、深紅のしみを取り去ることができようか。主はあなたもきよめられると、私に告げられる。贖いの愛の啓示こそ、とこしえに賛美すべきものである。それは私に、赦しが可能であることを告げるだけでなく、イエスに憩うすべての者に対してそれが保証されていることを告げる。
私は、神が定められたなだめの供え物、十字架にかかられたイエスを信じた。それゆえ私の罪は、この瞬間にもまた永遠にわたっても、主の身代わりのご苦難と死によって赦されている。これは、なんという喜びであろう! 完全に罪赦されたたましいの幸いよ! 私のたましいは、すべての力を主におささげする。
主は金銭で買えない愛をもって、私の保証人となり、御血によって私を贖われた。この代価の赦しは、なんと豊かな恵みを示していることか! ここに美しくきらめく驚異の集まりがある。さらに私が自分の罪の大きさを思い、それをきよめられた血潮の尊さを思い、赦しが確保された方法がどんなにあわれみに満ちているかを思う時、私は驚嘆し、崇拝の思いに自らを忘れる。
私は、自分を赦された主の御座の前にひれ伏し、私を解放した十字架を抱き、この後の生涯をささげて、受肉された神にお仕えしたい。今夜、私は主によって赦されたたましいである。

 

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出エジプト記23章9節

2011年11月27日 08時39分27秒 | 聖書

23:9 「あなたは在留異国人をしいたげてはならない。あなたがたは、かつてエジプトの国で在留異国人であったので、在留異国人の心をあなたがた自身がよく知っているからである。」  イスラエルの民が約束の地であるカナンの地に入って行く時に、そこに住んでいる人々を皆滅ぼしなさいと命じました。は、その地における偶像礼拝に、イスラエルの民が染まらないためでした。しかし、そこに定住するようになりますと、そこには商売のためとか旅行のために、色々な国の人が入ってきます。そのような人々を、異邦人と呼んでいます。そして、その人々をどのように扱うのかというのが、ここでの命令の内容です。ここでは、その人々に対して、つらく当たったり、不利益な扱いをしてはならないと命じているのです。というのは、イスラエルの民自身も、今まで、エジプトで長い間過ごしてきた異邦人であったからです。そして、数百年に渡って生活をしてきたという事実があるのです。そうした神の恵みを受けているので、あなた方は、そうしたあり方を持ちなさいというのです。

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