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◆アヒマアツは低地への道を走って行き、

2015年01月31日 16時56分04秒 | 聖書

クシュ人を追い越した。(Ⅱサムエル一八・二三)

どこでも走りさえすれば、早く目的地に着くというのではない。私たちが選ぶ道の上には多くの障害がある。丘を登り谷を下る迅速な足は、平地をゆっくり歩く旅人に及ばない。私の霊の旅はどうだろう。労苦を重ねて自らの行いという丘に登り、屈辱と自己の決断の谷に下ってはいないだろうか。それとも私は、「信じて、生きよ」との平坦な道を走っているだろうか。
信仰によって主にお仕えすることは、なんと幸いなことか。たましいは信仰の道を疲れることなく走り、くじけることなく歩むのである。キリスト・イエスはいのちの道であられる。主は平坦な道であり、楽しい道であり、罪におののく人々のよろめく足や弱いひざにもふさわしい道である。私はこの道を見いだしているであろうか。それとも、宗教家や学者が約束するような他の小道を捜し回っているのであろうか。聖なる大道は、そこを通る人がたとえ愚かであっても、迷うことのない道だと記されているのを私は読んだ。私は学問の高慢から救われているだろうか。そして、幼児のようにイエスの愛と血潮の中に憩う者とされているだろうか。それなら、他の道を選んでいる最も強い走り手をも神の恵みによって追い抜くであろう。この真理を覚えて、日ごとの関心や必要において益としたい。
友の間を駆け回るよりも、すぐに神のみもとに行くのが、私にとって最も賢明な道である。主は私の乏しさを知り、そこから私を助け出すことができるお方である。私は率直な祈りをもって神に嘆願し、神の明白な約束に基づいて求める。「まっすぐ走るのが最高の走り手である。」私はしもべたちと口論しないで、まっすぐに主人のもとに行く。
この箇所を読んで気づくことは、もし人が些細な問題で争っているならば、他の者に追い越されるということである。私は真剣に走らなければならない。
主よ。私が心を引き締め、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走ることができるよう助けてください。

 

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「そして、

2015年01月31日 16時55分15秒 | 聖書

あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします」(ヨハネ8:32)

この世のいう「自由」は、自由なのでなく、放縦でありわがままであり、自己中心だ。
放蕩息子は自由を求めて父親のもとを去った。
自分の好き放題をする事が自由だと、はき違えたが、まさに放蕩であり、そこには罪がある。
人が不倫をする時に言う。
自分に正直に自由に生きるのだと。
責任の伴わない自由はあり得ない。
自由には責任が伴う。
肉欲に誘惑されて行き着く先は死だ。肉で生き、肉を発散させる事は決して自由なのではなく実際は罪の奴隷だ。
大事な事は御言葉が真理であり、御言葉に従うところから自由は来る。
自由は御言葉に基づく。
嫌な相手がいて、肉は憎んでいたい、憎む事が心地良い。
しかし新しい自分は異なる。憎むなら平安が失せ苦しみは増すばかりだ。
悶々状態に陥る。真理に従って、主に心を明け渡し、御霊の支配に委ねて行く時、憎む方ではなく愛する方を選び取る。
実は愛する事が自由なのだ。憎む時、心はがんじがらめであり、愛する時、解き放たれ、平安が満ちる。
真理に従えば従うほど私達は自由にされ、解き放たれて行く。
今、心が苦しく悶々状態なら、御霊の導きに従おう。
苦しみから解き放たれる。
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何度も自由にされて来た。御霊に従い、自分を明け渡す事によってだ。
自我は自分の欲に固執し放さない。
しかし、放す時解放され、主と一つである実感が来て喜び溢れる。

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今日の聖人の記念日

2015年01月31日 07時11分28秒 | キリスト教

聖ヨハネ・ボスコ司祭

1815年-1888年

 ヨハネは、イタリア、トリノの貧しい農家に生まれた。幼いとき父親に先立たれたが、信仰深い母の影響で司祭になることを志し、神学校に進み、1841年に司祭に叙階された。トリノの貧しい青少年の教育のために、骨身を惜しまず活動した。彼は、愛と優しさをもって子どもたちに接し、「虫を取るためには、酸っぱい酢よりも、1滴の蜜のほうが効果がある」という聖フランシスコ・サレジオ(1月24日 参照)の言葉を心に刻み、実行した。1859年に「サレジオ会」という男子修道会を創立し、1872年にはマリア・マザレロを指導して「扶助者聖母会」(今日では、サレジアン・シスターズと呼ばれている)という女子修道会を創立した。

 ヨハネのモットーは、「愛なくして信頼なく、信頼なくして教育なし」ということであった。両会は急速に発展し、世界中に学校や施設を運営し、多くの子どもたちの教育にあたっている。日本でも、青少年のための学校教育を始め、出版活動などをとおして大きな貢献をしている。

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◆うるわしい首飾り

2015年01月31日 07時10分27秒 | 聖書

わが子よ。すぐれた知性と思慮とをよく見張り、
これらを見失うな。
それらは、あなたのたましいのいのちとなり、
あなたの首の麗しさとなる。         (箴言三21―22)

あなたの魂にいのちがみなぎり、あなたの首には美しい首飾りが輝いていますか。――つまり、あなたは美しく魅力的でしょうか。
私の妻は、少女時代に、妹のほうが美人で自分はそうではないという劣等感に悩まされたそうです。この世には自分の容貌もさることながら、生き方にも仕事にも人間関係にも、自信が持てないで悩んでいる人が実に多いのです。
私と結婚してからというのでもないでしょうが、今の妻には劣等感のかけらもありません。私も、妻を不美人と思ったことがないのです。
神に愛されていると知ること、これこそすぐれた知性・すばらしい思慮です。心に神の愛が満たされると、もう小手先細工をしなくてもよくなります。神が心をいのちで満たすばかりか、首には美しい首飾りまでしてくださいます。そこに、何ともいえない自分だけの持ち味・魅力がただよいます。
ですから、神の愛を知る知恵を見失わないように見張れと聖書は言うのです。
「わが子よ。あなたの父の訓戒に聞き従え。あなたの母の教えを捨ててはならない。それらは、あなたの頭の麗しい花輪、あなたの首飾りである」(箴言一8―9)。

 

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◆主は私たちの正義。

2015年01月31日 07時09分37秒 | 聖書

(エレミヤ二三・六)

クリスチャンがキリストの完全な義を考える時、いつも深い落ち着きと、静けさと、安心と、平安をいただく。神の聖徒たちも、しばしば気落ちしたり、悲しんだりすることがあるが、それではいけないと思う。もし彼らが、キリストにある自己の完全を常に見ることができるなら、そうはならないであろう。
ある人々は、常に自分の心の腐敗堕落や、たましいの生来の悪い性質を口にする。それは真理ではあるが、なぜ一歩進んで、私たちが「キリストにあって完全な者」であることを考えないのか。自分の腐敗のみを見つめている人に元気がないのは当然である。しかし、もし私たちが「キリストは、私たちにとって……義となられた」ことを思い起こすなら励まされる。困難が私を悩まし、サタンが私を攻撃し、天国に到達するまでには多くの経験が必要だとしても、それらは神の恵みの契約によって私のためになされている。
私の主には欠けたところが一つもない。キリストはすべてを成就された。もしすべてが成就されているなら、私は主にあって完全であり、「ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどって」いる。「律法による自分の義ではなくて、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基づいて、神から与えられる義を持つことができる」のである。
あなたは、この地上の天国において、キリストの義の奥義を心に受けた人々よりも聖なる者を見いだすことはないであろう。信者が「私はキリストの中にのみ生き、その救いにより頼み、自らは価値のない者であるが、イエスによって救われていることを信じる」と告白する時、感謝に満たされて次のような思いが起きてくる。「私たちはキリストのために生きるべきではないか。キリストにのみ仕えるべきではないか。」「キリストの愛が私たちを取り囲んでいる。」「生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。」
もし転嫁された義によって救われたのなら、この与えられた義を高く評価すべきである。

 

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第1列王記17章17-24節

2015年01月31日 07時08分28秒 | 聖書

17:17 これらのことがあって後、この家の主婦の息子が病気になった。その子の病気は非常に重くなり、ついに息を引き取った。
17:18 彼女はエリヤに言った。「神の人よ。あなたはいったい私にどうしようとなさるのですか。あなたは私の罪を思い知らせ、私の息子を死なせるために来られたのですか。」



 エリヤが来る前、彼女は最後の食事をして、息子と共に死のうとしていました。

ところが、そこにエリヤが来ることによって命が長らえ、また希望が与えられました。

ところが、その唯一の希望である一人息子が、病で死んでしまいました。

それによって彼女は改めて、心の苦しみをもたらした自分の罪を思わざるを得ませんでした。

しかし同時に、彼女にとって、せっかくの命が長らえられたのは何のためであったのかという、複雑な思いに満たされたのです。

そのことをエリヤに問いました。

人の人生はいつでも良いことのみが続くわけではありません。

時に悲しいことも起こります。

その時、なぜと人は問います。

しかし主は、「わたしを信じなさい」と言われます。

最も益になるように、主はして下さるのです。

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マタイ13章すべて(※下記の「O」の中で順次出てきます)(詩篇135篇)

2015年01月31日 07時03分50秒 | 聖書

■O:今日のコラム

※今日のマナメールは非常に、非常に長文になってしまいました。知恵と啓示の御霊が注がれ、霊的な啓示が開かれていくようお祈りします。
もし、携帯電話の文字制限などで最後までご覧いただけない場合は、新宿シャローム教会のホームページ http://shinjuku-shalom.com/ からご覧ください。

先日、新宿シャローム教会では黙示録セミナーが開催されました。私個人的にはとても目が開かれ、みことばに対する飢え乾きがますます激しくなりました。その中で私が教えられたことは、聖書の読み方です。先生は直接聖書の読み方を講義されていませんでしたが、4日間のセミナーの中で、聖霊様が私に教えてくださったのは聖書の読み方でした。その大きな視点は、聖書全体を十字架を通して終末を見据えながら読むということでした。

皆さんは聖書を読むことができるでしょうか。もちろん、できると思います。しかし、本当に「読んで」いるでしょうか。今日の聖書箇所、マタイの福音書13章からイエス様が教えて下さった聖書の読み方を共に見て行きたいと思います。

<マタイ13:1-2>
その日、 イエスは家を出て、 湖のほとりにすわっておられた。
すると、 大ぜいの群衆がみもとに集まったので、 イエスは舟に移って腰をおろされた。 それで群衆はみな浜に立っていた。

この箇所を終末を見据えながら読んだ時、黙示録の下記のところが思い起こされました。

<黙示録4:6>
御座の前は、 水晶に似たガラスの海のようであった。 御座の中央と御座の回りに、 前もうしろも目で満ちた四つの生き物がいた。

●なぜたとえを用いて話されるのか

イエス様はいつも終末を視野に入れながら、たとえを話されたのではないかと思います。イエス様は福音書の中で多くのたとえを用いて話されました。それはなぜでしょうか。答えは次のとおりです。

<マタイ13:10-11>
すると、 弟子たちが近寄って来て、 イエスに言った。 「なぜ、 彼らにたとえでお話しになったのですか。 」
イエスは答えて言われた。 「あなたがたには、 天の御国の奥義を知ることが許されているが、 彼らには許されていません。

イエス様の愛と配慮、そして弟子たちへの警告が同時に含まれているみことばです。ここから教えられることは、イエス様が誰に対して話しているかを注目する必要があるということです。イエス様の事をまだよく知らない群衆に対して、いきなり真理を直接語るのは、生まれたばかりの赤ちゃんにステーキを食べさせるようなものです。イエス様は群衆に対しては真理を含んだ内容をオブラートに包んでやさしく伝えられました。
同時に、同じ内容を持って弟子たちには厳しい要求をつきつけられました。イエス様を信じている私たちはこちらに分類されるでしょう。ですので、この事を注意深く見る必要があると思います。

イエス様は弟子たちの「なぜたとえで話されるか」という問いに対して、「弟子たちは奥義を知ることがゆるされているから」と答えられます。これこそ、私たちが目指す聖書の読み方です。たとえの中から奥義を悟るのです。

モーセの幕屋では、中に入るために門を通らなければなりませんでした。それはイエス様を象徴しています。そして、大庭ではまずいけにえが捧げられ、次に洗盤によって清めが行われました。みことばを読むときにも私たちはイエス様を通って賛美のいけにえ、また悔い改めをもって行くことが大切です。そして聖所の中に入ります。そこには3つの器具がありました。燭台とパンの台と香の壇でした。
パンの台はみことばを象徴します。ロゴスのみことば、真理です。その正面にあったのは燭台です。真っ暗の幕屋の中での唯一の光はこの燭台の明かりです。燭台は聖霊様を象徴しています。その明かりは正面にあるパンの台のみを照らすように出来ていました。これは、ロゴス(真理)に光(聖霊様)が
当てられることにより、レーマとなることを象徴しています。つまり、みことばを読むときにはいつも聖霊様の助けが必要なのです。
むつかしいみことばでも、聖霊様の光だけを求めて真理を探求し続けるのであれば、優しい聖霊様はかならずみことばの扉を定められた時に開けてくださいます。諦めずに求め続けましょう!
それに加えて香の壇は祈りを意味しています。真理が光に照らされる中で捧げられる祈りは、かぐわしい香りとして主の御前に立ち上っていきます。

まとめると、なぜたとえで話されるかというと、群衆に対しては優しく語り、弟子に対してはその中から真理を探しだしてほしいというイエス様の愛と配慮からだと思います。
もし、私たちがそのような読み方をしていくなら、みことばの扉はどんどん開かれていくでしょう。

●みことばの扉が開かれるために

<マタイ13:12-13>
わたしが彼らにたとえで話すのは、 彼らは見てはいるが見ず、 聞いてはいるが聞かず、 また、 悟ることもしないからです。
というのは、 持っている者はさらに与えられて豊かになり、 持たない者は持っているものまでも取り上げられてしまうからです。

聖書は、なんとなく読んでもなかなか真理が開かれません。メッセージを習慣として聞いても悟れません。聖書は難しいかもしれません。しかし、親切にできています。必ずどこかに難しいみことばを紐解く鍵が散りばめられています。その鍵を見つけたときの喜びは何にも代えがたいものです。
つまり、聖書を読むときには本当に飢え渇いた心で真理を求める姿勢が大切なのです。もし、みことばを開く鍵がひとつ与えられたなら、その鍵を用いて扉が開かれ、その先にある更に深い領域まで進み、更に多くの鍵を見つけることができるでしょう。イエス様の言われた「持っている者はさらに与えられて豊かになり、 持たない者は持っているものまでも取り上げられる」とは、そのようなことを意味しているのではないかと思います。
みことばをわからないからといってすぐにあきらめてしまうなら、持たない者になってしまいます。飢え乾きをもって、ますます多くを持つものへと変えられていきましょう。
それでは具体的にどのように鍵をみつけ、開いていくかを共に見て行きたいと思います。

●イエス様が教えて下さるみことばの読み方

<マタイ13:3-9>
イエスは多くのことを、 彼らにたとえで話して聞かされた。  「種を蒔く人が種蒔きに出かけた。
蒔いているとき、 道ばたに落ちた種があった。 すると鳥が来て食べてしまった。
また、 別の種が土の薄い岩地に落ちた。 土が深くなかったので、 すぐに芽を出した。
しかし、 日が上ると、 焼けて、 根がないために枯れてしまった。
また、 別の種はいばらの中に落ちたが、 いばらが伸びて、 ふさいでしまった。
別の種は良い地に落ちて、 あるものは百倍、 あるものは六十倍、 あるものは三十倍の実を結んだ。 9 耳のある者は聞きなさい。 」

このみことばは群衆に対して勝たれていることですので、真理はオブラートに包まれています。何度も目にし、聞いてきたこのたとえだと思いますが、このみことばの真理は何でしょうか。もちろん、みことばは神のことばなので、様々な適応があると思いますが、一番確実なのはみことばをもってみことばを紐解くという方法です。そのためには、この後に語ったイエス様のみことばが鍵になります。

<マタイ13:18-24>
ですから、 種蒔きのたとえを聞きなさい。
御国のことばを聞いても悟らないと、 悪い者が来て、 その人の心に蒔かれたものを奪って行きます。 道ばたに蒔かれるとは、 このような人のことです。
また岩地に蒔かれるとは、 みことばを聞くと、 すぐに喜んで受け入れる人のことです。
しかし、 自分のうちに根がないため、 しばらくの間そうするだけで、 みことばのために困難や迫害が起こると、 すぐにつまずいてしまいます。
また、 いばらの中に蒔かれるとは、 みことばを聞くが、 この世の心づかいと富の惑わしとがみことばをふさぐため、 実を結ばない人のことです。
ところが、 良い地に蒔かれるとは、 みことばを聞いてそれを悟る人のことで、 その人はほんとうに実を結び、 あるものは百倍、 あるものは六十倍、 あるものは三十倍の実を結びます。 」

このみことばは、弟子に対して語られているので、真理がそのまま書かれています。ここから分かることは、
・道ばたに落ちた種=みことばを聞いても悟らない
・岩地に落ちた種=みことばを受け入れるがそこにとどまり続けない
・いばらの中に落ちた種=みことばを聞いてもその他の者で心を満たしてしまう
・良い地に蒔かれた種=みことばを聞いて悟る
ということです。できたら、聖書を読むときにノートを用意して、このようにみことばを分解して整理しながら書いていくとより深い真理に気付かされることがあります。

もう少し深く見て行きましょう。

<マタイ13:24-30>
イエスは、 また別のたとえを彼らに示して言われた。  「天の御国は、 こういう人にたとえることができます。 ある人が自分の畑に良い種を蒔いた。
ところが、 人々の眠っている間に、 彼の敵が来て麦の中に毒麦を蒔いて行った。
麦が芽ばえ、 やがて実ったとき、 毒麦も現れた。
それで、 その家の主人のしもべたちが来て言った。  『ご主人。 畑には良い麦を蒔かれたのではありませんか。 どうして毒麦が出たのでしょう。 』
主人は言った。 『敵のやったことです。 』すると、 しもべたちは言った。 『では、 私たちが行ってそれを抜き集めましょうか。 』
だが、 主人は言った。 『いやいや。 毒麦を抜き集めるうちに、 麦もいっしょに抜き取るかもしれない。
だから、 収穫まで、 両方とも育つままにしておきなさい。 収穫の時期になったら、 私は刈る人たちに、 まず、 毒麦を集め、 焼くために束にしなさい。 麦のほうは、 集めて私の倉に納めなさい、 と言いましょう。 』」

これも群衆に対して勝たれているので、やはり真理はオブラートに包まれています。この事に対してもより明確にイエス様は教えて下さいます。聖書は難しいですが、親切な書物です。

<マタイ13:36-43>
それから、 イエスは群衆と別れて家に入られた。 すると、 弟子たちがみもとに来て、 「畑の毒麦のたとえを説明してください」と言った。
イエスは答えてこう言われた。 「良い種を蒔く者は人の子です。
畑はこの世界のことで、 良い種とは御国の子どもたち、 毒麦とは悪い者の子どもたちのことです。
毒麦を蒔いた敵は悪魔であり、 収穫とはこの世の終わりのことです。 そして、 刈り手とは御使いたちのことです。
ですから、 毒麦が集められて火で焼かれるように、 この世の終わりにもそのようになります。
人の子はその御使いたちを遣わします。 彼らは、 つまずきを与える者や不法を行う者たちをみな、 御国から取り集めて、
火の燃える炉に投げ込みます。 彼らはそこで泣いて歯ぎしりするのです。
そのとき、 正しい者たちは、 彼らの父の御国で太陽のように輝きます。 耳のある者は聞きなさい。

これは弟子に対して書かれています。しかも、家に入って語られたものです。祈りの家でみことばの真理を求める時、このようにはっきりとみことばの真理を教えられることがあります。ぜひ、祈りの家にいき、みことばを深く聞く時を持ってください。

ここには明確に解き明かしが書かれています。
・畑=この世界
・良い種=御国の子どもたち
・毒麦=悪いものの子どもたち
・毒麦を蒔いた敵=悪魔
・収穫=この世の終わり
・刈り手=御使い
この解き明かしを当てはめながら、先の群衆に語られたみことばを読む時、また違った角度からみことばを見ることができるのではないでしょうか。みことばの解を他のみことばに代入して方程式を解く感覚です。どうでしょうか。さらに深い領域に導き入れられたのではないかと思います。
これは明らかに終末の事を語っています。時間を取って黙示録1-22章を全部読んでみてください。このイエス様のたとえがより深く見えてくると思います。

この鍵を持って他の箇所を読むなら、「畑」と出てきた時には「この世界」と読み替えることができます。もちろん、翻訳の関係もあるので、厳密には言語レベルで見ていく必要もあると思いますし、100%この事が適応されるわけではありませんが、多くはこの方法で見えてくるものがあると思います。このように、イエス様が語られたたとえの中から鍵を見出してそれを当てはめながら聖書を読むことも大切だと思います。

それでは、これらを踏まえて練習問題です。

<マタイ13:44>
天の御国は、 畑に隠された宝のようなものです。 人はその宝を見つけると、 それを隠しておいて、 大喜びで帰り、 持ち物を全部売り払ってその畑を買います。

このみことばを紐解いてみましょう。

天の御国は畑(この世界)に隠された宝(隠された魂)のようなものです。人(キリスト)はその宝(魂)を見つけると、それを隠して、大喜びで帰り、持ち物をを全部売り払って(ご自分の命までも捨てて)畑(この世界)を買います。

と言い換えられます。私たちはイエス様に見出され、しばらくの間この世の畑に隠されています。見出された魂を隠しておかれる世界を買い取るため、ご自分の命をも惜しまず十字架にかかり、買い戻して下さいました。何という恵みでしょうか。
続くたとえには真珠の話も出てきますが、これも同じようなことを言われています。

弟子たちに注意深くこの事を教えられたイエス様は、弟子からの返事を待ちます。

<マタイ13:51>
あなたがたは、 これらのことがみなわかりましたか。 」彼らは「はい」とイエスに言った。

私たちが心からみことばを聞く準備ができ、イエス様に「はい」と言うなら、どのようなことが待ち受けているでしょうか。

<マタイ13:52>
そこで、 イエスは言われた。 「だから、 天の御国の弟子となった学者はみな、 自分の倉から新しい物でも古い物でも取り出す一家の主人のようなものです。 」

おどろくべきことです。天の御国の弟子となった学者はみな、自分のうちに蓄えたみことばの約束をいつでも取り出すことができるのです。新しいものでも古いものでもとは、新約聖書、旧約聖書を指しているのでしょう。飢え渇いた心を持ってみことばに聞き入り、みことばの剣を自由自在に使えるようになりたいですね。

最後に、イエス様はこのように言われました。

<マタイ13:58>
そして、 イエスは、 彼らの不信仰のゆえに、 そこでは多くの奇蹟をなさらなかった

何度もみことばを聞いているからといって、みことばを軽く見ないようにしましょう。みことばは神です。一つとして無駄なみことばはありません。主への期待を込めて、信仰の限りをつくしてみことばを受け取りたいという心の態度を持ってみことばを読むなら、必ず開かれていきます。一度読んでわからないならもう一度読みましょう。それでもダメなら分かるまでみことばを読みましょう。ヤコブがしたようにもものつがいを打たれてもみことばとがっぷり四つになって相撲をとりましょう。みなさんにみことばの真理が開かれていくことを祝福します。

もう一度はじめのところに戻りますが、聖書をイエス様を通して終末を視野に入れて読む。そしてイエス様が教えて下さった答えを代入してみことばを読む。そのような読み方をするなら、更に深い領域へと導かれ、主と更に親密な交わりができるようになると思います。

※みことばの適応、また解釈は時として主の望まれない方向へと私たちを導いていってしまう危険性があります。少しでも不安、疑問があるなら、必ず、所属教会の牧師先生に確認を取り、牧師先生のご意見に従ってください。

■A:考えてみよう
手元に聖書を用意しましょう。(スマホではなく、印刷された聖書)ノートを用意しましょう。ペンを用意しましょう。そして、祈り、みことばを読み進めていきましょう。気になったみことばはそのまま抜き出しましょう。そして、自分なりの工夫をして、わからないみことば、教えられたみことば、自分が気づいたことなどをどんどんノートに書き込んでいきましょう。
人は読むだけでは定着しません。みことばを書きながら読むなら、より深い領域に導き入れられていくのを感じることができると思います。もし、これを始めるなら、一つの問題が浮上してきます。時間があまりにも足りないということです(笑)
そうするなら占めたものです。自分の中でテレビやゲーム、その他の削れる時間、は無いかを探し、その時間をみことばにあてましょう。この事を毎日少しでもいいので続けていくなら、揺るがない岩の上に賢く家を建てることになるでしょう。さあ、共にみことばの深みへと導き入れられていきましょう!


■P:祈り
愛する天のお父さん、あなたが与えて下さったみことばをありがとうございます。みことばはあなたご自身です。みことばを知ることはあなたを知ることです。だから、あなたを知るためにもみことばを味わう素晴らしさ、楽しさをもっと教えて下さい。
イエス様も父の心を毎朝求めておられました。その人生をかけて私たちに道を示して下さいました。その道に従って歩む決断をします。そのためにも、今一度、イエス様も受けられた聖霊様の注ぎを私のうちに与えて下さい。知恵と啓示の御霊が私を満たし、真理を教え、解き明かしてくださいますように。
父の心を知り、終末の啓示を開いてください。そして、みことばの真理を解き明かしてくださいますように。
イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします。アーメン。

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1月30日(金)のつぶやき

2015年01月31日 01時36分23秒 | キリスト教

◆バルサム樹の林の上から行進の音が聞こえたら、 goo.gl/iFpof9


「あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。 goo.gl/DxDak2


◆私たちは彼にあって御国を受け継ぐ者ともなったのです。 goo.gl/rmv1LH


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◆私たちは彼にあって御国を受け継ぐ者ともなったのです。

2015年01月30日 18時14分55秒 | 聖書

(エペソ一・一一)

イエスがご自身を私たちに与えられた時、ご自身に属するすべての権利と特権をも下さった。今主は、永遠の神として、どんな被造物もあえて要求することのできない至上の権利をもっておられるが、一方イエスとして、仲保者として、恵みの契約のかしらとして、主は私たちを離れては相続権をもっておられない。主が死に至るまで従い続けられたことの輝かしい結果のすべては、主にあるすべての者の共同の財産である。主は彼らのために神のみこころを成し遂げられた。
主は栄光の中に入られる。主ご自身だけのためではない。「私たちの先駆けとしてそこにはいられた」とあるからだ。神の御前に主は立たれる。「今、私たちのために神の御前に現われてくださるのです」とある。
信者よ。このことを考えよ。あなたは、自分自身としては天上に何の権利もない。あなたの権利はキリストのうちにある。もしあなたが罪の赦しを受けるならば、それは主の御血によるのである。もしあなたが義とされるならば、それは主の義による。もしあなたがきよめられるならば、それは神が主をあなたの聖となされたからである。もしあなたが堕落から守られるならば、キリスト・イエスの中にあなたが保持されているゆえである。そしてもし最後の時に完全なものとされるならば、それはあなたが主にあって全うされるゆえである。このようにイエスはあがめられる。すべては主の中にあり、すべては主によるのである。こうして相続権は私たちにとって確かなものとされる。それは主にあって得られるものだからである。そのようにして祝福の一つ一つは、さらにすばらしいものとなり、天国すらもさらに輝かしいものとなる。私たちは愛するイエス「にあって」すべてを得たからである。
私たちが神から受け継いだものを見積もる人がどこにいるだろう。キリストの富を量り、その財宝を量り、聖徒に属する財産を量ることを考えてみよ。キリストの喜びの海の底にもぐり、神がキリストを愛する者たちのために備えられた祝福を理解するよう努めよ。

 

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「あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。

2015年01月30日 18時14分09秒 | 聖書

それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です」(ローマ12:1)

カインは地の作物から主へのささげ物を、アベルは羊の最良の初子を持って来た。
神はアベルのささげ物を受け入れ、カインの物には目を留められなかった。
なぜ、アベルのささげ物は受け入れられ、カインのものは拒まれたのか。
「信仰によってアベルはカインよりすぐれたいけにえを神にささげ」とあるように、「いけにえ」としてのささげ物をささげた。
いけにえは、ほふられて血が流されたものだ。
アベルのささげ物には血の犠牲が伴っていた。
「すべてのものは血によってきよめられる」「血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはない」「イエスの血によって、大胆にまことの聖所にはいることができる」。
これは後の、キリストの十字架を示すものだ。
エデンの園で罪が入った時から「彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく」とキリストが示されている。
神に受け入れられるささげ物は、アベルのささげ物によって表され、イエス・キリストによって成就された。
十字架上で神の小羊キリストが裂かれて血が流された。
神はそれを受け入れられた。
キリストにより、私たちは完全に神に受け入れられている。
そして、受け入れられている私たちは、自分自身を献げて行くことが、神への真の礼拝となる。
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信じて救われただけのクリスチャンではなく、罪赦された喜びと主の愛によって変えられていきたい。
そして感謝をもって喜んで自分自身を献げて生きていこう。

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今日の聖人の記念日

2015年01月30日 07時58分58秒 | キリスト教

 聖バルドヒルド

?-680年ごろ

 バルドヒルドは、イギリスに生まれたが、641年に海賊に捕えられ、奴隷としてフランク王国の宮廷に売られた。

 彼女は非常に美しく才知ある女性であったので、国王クローヴィス2世に望まれて王妃となった。3人の子どもに恵まれ、国王が亡くなって後、657年に長男が即位すると、彼女が摂政を行った。貧しい人々のために病院を建て、奴隷制度を廃止し、多くの修道院に寄進するなど、人々のために尽くした。665年に、反対派の貴族によって修道院に幽閉され、そこで亡くなった。修道院では、謙遜に神の望みを行ない、院長に仕えた。

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◆神の造られた世界

2015年01月30日 07時57分51秒 | 聖書

主は知恵をもって地の基を定め、
英知をもって天を堅く立てられた。       (箴言三19)

私の家の八十二歳のおばあちゃんのところへ、数年前、七十七歳のおばあちゃんが訪ねてこられました。駅に着いたら車でお迎えに行きますからということだったのに、重い小豆島そうめんのおみやげをぶらさげて歩いてこられたのです。汗びっしょりでした。「まあまあ、どうして電話をかけてくださらなかったのです。」「石油ショックで、ガソリンを節約しなけりゃならないでしょう。」真剣な顔で言われたのには、びっくりするやら笑うやらでした。
たくさんの人が、この世界について不安を覚えています。世界中の学者も技術者も、「この地球はどうなるのだろう」と考えています。しかし聖書は、「神が知恵をもって地の基を定め、英知をもって天を堅く立てられた」と書いています。
旧約の詩人は、「天は神の栄光を語り告げ、大空は御手のわざを告げ知らせる」(詩篇一九1)と歌いました。広大な宇宙にも神の英知が見られます。しかし、小さな野の花にも、一ひねりでつぶれる小さな羽虫の生き方にも、確かな神の英知が見られます。実に巧妙に世界は造られ、すべてに調和があります。神の英知という法則に従って、花は咲き鳥はさえずっているのです。岩陰の岩ダヌキも一羽の雀も一匹の蟻も、保たれ養われています。
ところが、人間の社会を見ると問題ばかりです。これは神にすばらしく造られた私たち人間が神を拒否し、神の英知に逆らっているからです。神の英知と愛を知り、これと合わせて生き始める時、神は全天地を支える力をもって私たちを守ってくださいます。すべての思想の及びもつかない神の平安で守られます。信仰と従順こそ、神の知恵を知る方法なのです。

 

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◆バルサム樹の林の上から行進の音が聞こえたら、

2015年01月30日 07時57分02秒 | 聖書

そのとき、あなたは攻め上れ。(Ⅱサムエル五・二四)

キリストのからだである教会に加わる者は、祈り深く、常に聖霊の油がその心に注がれ、キリストの王国が実現されて、「みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように」と求めなければならない。しかしまた、神が特別にシオンに幸いを与えられる時がある。そのような時期が、ここに言う「バルサム樹の林の上から行進の音が聞こえる」時である。この時には私たちはこれまで以上に祈り深くなり、熱心になり、さらに御座の前で祈りをもって争わなければならない。活動は迅速で活発であるべきである。潮は満ちてきた。私たちは元気よく、岸辺に向かってこいで行こうではないか。ああ、ペンテコステの日の御霊の傾注と、その目覚ましい働きよ。
主にある友よ。あなたにも、「バルサム樹の林の上から行進の音が聞こえる」時がある。祈りに特別の力を感じ、神の御霊が喜びと楽しみを与え、聖書があなたに開かれ、約束が実現され、神の御顔の光の中を歩み、個人礼拝において特別の自由を感じ、キリストとの交わりがこれまでになく密接な時がある。このように、あなたの「バルサム樹の林の上から行進の音が聞こえる」ような喜びの時こそ、あなたが攻め上る時である。この時こそ聖霊があなたの弱さを助け、すべての悪い習慣に勝たせられる時である。あなたの帆を広げよ。しかし次の歌を覚えておけ。
 私は帆を広げることができるだけです
 神よ。追い風を送ってください
あなたは帆を上げることを怠ってはならない。準備のないために、追い風を見逃すことのないように。あなたが信仰的に強くなった時には、義務においてもいっそう熱心になることができるように。御座に近づくことができる恵みが加えられれば加えられるほど、ますます祈ることができるように。あなたがキリストに近く生活をすればするほど、ますますその語るところも神聖になり得るように。あなたはこのような助けを神に求めよ。

 

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第1列王記17章8-16節

2015年01月30日 07時55分44秒 | 聖書


17:13 エリヤは彼女に言った。「恐れてはいけません。行って、あなたが言ったようにしなさい。しかし、まず、私のためにそれで小さなパン菓子を作り、私のところに持って来なさい。それから後に、あなたとあなたの子どものために作りなさい。
17:14 イスラエルの神、主が、こう仰せられるからです。『主が地の上に雨を降らせる日までは、そのかめの粉は尽きず、そのつぼの油はなくならない。』」



 逃れるようにと言われた、ヨルダン川の東にあるケリテ川のほとりに隠れていたエリヤでしたが、そのケリテ川の水が涸れてしまいました。

そこで主はエリヤに、今度は地中海地方の町シドンのツァレファテに行き、そこに住みなさいと言われました。

一人のやもめに命じて、彼女にエリヤを養うようにすると言われたのです。

 ところが、その言葉に従ってやもめの所に行ってみると、彼女には食料がなく、パンを作る少しの材料しかありませんでした。

エリヤは、主が必ず養って下さるのでその材料でパンを作って、私の所に持ってきなさいと言いました。

エリヤも、やもめも、主の言葉を信じたのです。

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マタイの福音書12章31~32節

2015年01月30日 07時51分37秒 | 聖書

★だから、わたしはあなたがたに言います。人はどんな罪も冒涜も赦していただけます。しかし、聖霊に逆らう冒涜は赦されません。
また、人の子に逆らうことばを口にする者でも、赦されます。しかし、聖霊に逆らうことを言う者は、だれであっても、この世であろうと次に来る世であろうと、赦されません。

■O:今日のコラム
パリサイ人たちは、イエス様が御霊の力によって悪霊を追い出したということを薄々(もしくは、はっきりと)感じつつも、イエス様を疎ましい存在とするがゆえに、その奇跡を「悪霊ベルゼブルの仕業だ」と断言しました。

妬みとは、恐ろしい感情です。
妬みや批判は御霊を冒涜します。
どこかの教会、どこかのミニストリー、教会の中での誰か、自分よりも恵みを受けているように見えたり、自分よりも油注ぎが多いように感じる相手に対して、妬みを覚えてしまう時、私たちはその教会、その働き、その人を批判します。
たとえ、それが御霊のゆえになされていることであると、感じていても、分かっていても、妬みや批判が生じる時に、人間は、その人(教会、ミニストリー)のどこか気に入らない所、どこか足りない所、どこか弱い所、どこか…etcを吊るし上げ、批判します。
けれども実は、それは御霊に逆らうことに繋がるのです。御霊の働きを否定することに繋がるのです。

では、今日のもう一つの箇所にはなんと書いてあるでしょう。

★詩篇133篇1節~3節
見よ。兄弟たちが一つになって共に住むことは、なんというしあわせ、なんという楽しさであろう。
それは頭の上にそそがれたとうとい油のようだ。それはひげに、アロンのひげに流れてその衣のえりにまで流れしたたる。
それはまたシオンの山々におりるヘルモンの露にも似ている。主がそこにとこしえのいのちの祝福を命じられたからである。

・「頭に注がれた尊い油」とは、聖別を意味します。祭司アロン、また宮の器具を聖別しきよめるための油です。
一致する者はさらに主の栄光のために用いられる尊い器として油注がれ、聖別されます。

・「ヘルモンの露」
昨年、初めてイスラエルに行きました。イスラエルはとても空気が乾燥している上に、私たちが2週間ほど滞在している間に雨を1度くらいしか経験しませんでした。
けれども毎朝、早くにバルコニーに出ると「夜のうちに雨が降ったのかな?」と思うほどに、床がいつも濡れていました。
それはなんと、朝露のゆえでした。
雨があまり降らないイスラエルの土地を、朝露が潤すのでした。
それを通して、乾いたイスラエルにとって、朝露はなんとも貴重であることを感じました。

・「祝福を命じられた」
主の命令は絶対です。
主が祝福を命じられたのなら、絶対に祝福されるのです。

私たち、神の家族が互いを批判することや互いに対する妬みを捨て、御霊の働きを尊び、一つとなることを努める時、その教会、そのミニストリー、その人は主の栄光のために聖別され、油注がれ用いられます。
そして、そこをいつも主が潤して下さり、絶対に祝福されるのです!ハレルヤ??
そして、詩篇はそのことを「なんというしあわせ、なんという楽しさであろう」と歌っています!アーメンです。

教会内での互いに対する妬みや批判を捨て、また教会と教会同士の妬みを捨てていきましょう!そして主にある祝福を共に受け取ってゆきましょう!


■A:考えてみよう
自分自身で、御霊に助けて頂きながら、以下のことを心に問うてみましょう。
自分が批判している人(ミニストリー、教会)はいるだろうか?
その背後に妬みがあるのではないだろうか…?


■P:祈り
主よ、理由が何にせよ、批判することを捨てます。正しいのは主よ、あなただけですから。
私の心のうちの妬み、裁く思いをどうぞ許して下さい。聖霊様、あなたを悲しませる私の性質を、どうかきよめ、新しく造り変えて下さい。
キリストの御体として、兄弟と共に一つになって住むことを喜びとし、選択します。聖霊様、どうか、このしもべに力を与えて下さい。

イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。

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