太陽を見たいと思う時、あなたは家の中で照明器具を寄せ集めて、それで太陽の輝きを知ることができると思うだろうか。知恵のある者は、太陽が姿を現して強烈な輝きを放たなければ、その大きな明かりを見ることはできないことを知っている。キリストについても同様である。主は、ペテロに「バルヨナ・シモン。あなたは幸いです。このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく……」と言われた。最高の教育をもって人間を教え、最高度に知能を高めても、キリストを現すことはできない。神の御霊が力をもって臨み、御霊をもって私たちをおおわれる時、そこに生じた神秘的な至聖所の中で、主イエスは、きよめられた目にご自身を現される。
キリストはご自身の鏡となられる必要もある。目のかすんでいるこの世の大衆は、言語に絶するインヌマエルの栄光の一筋すら見ることはできない。主は彼らの前に麗しい姿がなく、乾いている土から出た木株として立たれ、虚栄心の高い者には退けられ、高ぶる者にはさげすまれる。聖霊が目薬を塗り、神のいのちをもって心を溶かし、天上のものをもってたましいを教育される時にのみ、私たちは主を理解することができる。主は「より頼んでいるあなたがたには尊い」のである。あなたがたにとって礎の石であり、救いの岩であり、すべてのすべてであられる。しかし他の者にとっては、主は「つまずきの石、妨げの岩」である。主がご自身を現される人は幸いである。主はそのような人に、住まいを共にすると約束されたからである。
主イエス様、開かれた私の心に来て、とこしえに住んでください。今ご自身を示し、すべてに打ち勝つあなたの魅力をわずかでも見る恵みを与えてください。