座間コミニティー

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◆私たちは、あなたの光のうちに光を見るからです。

2016年11月04日 16時32分34秒 | 聖書
(詩篇三六・九)
イエスご自身が、私たちの心に愛をささやかれるまでは、だれも私たちの心にキリストの愛を示すことはできない。どのような説明も、聖霊によっていのちと力を満たされない限りは、精彩を欠き、完全な失敗を招く。インマヌエルが私たちにご自身を啓示されるまでは、私たちのたましいは主を見ることができない。
太陽を見たいと思う時、あなたは家の中で照明器具を寄せ集めて、それで太陽の輝きを知ることができると思うだろうか。知恵のある者は、太陽が姿を現して強烈な輝きを放たなければ、その大きな明かりを見ることはできないことを知っている。キリストについても同様である。主は、ペテロに「バルヨナ・シモン。あなたは幸いです。このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく……」と言われた。最高の教育をもって人間を教え、最高度に知能を高めても、キリストを現すことはできない。神の御霊が力をもって臨み、御霊をもって私たちをおおわれる時、そこに生じた神秘的な至聖所の中で、主イエスは、きよめられた目にご自身を現される。
キリストはご自身の鏡となられる必要もある。目のかすんでいるこの世の大衆は、言語に絶するインヌマエルの栄光の一筋すら見ることはできない。主は彼らの前に麗しい姿がなく、乾いている土から出た木株として立たれ、虚栄心の高い者には退けられ、高ぶる者にはさげすまれる。聖霊が目薬を塗り、神のいのちをもって心を溶かし、天上のものをもってたましいを教育される時にのみ、私たちは主を理解することができる。主は「より頼んでいるあなたがたには尊い」のである。あなたがたにとって礎の石であり、救いの岩であり、すべてのすべてであられる。しかし他の者にとっては、主は「つまずきの石、妨げの岩」である。主がご自身を現される人は幸いである。主はそのような人に、住まいを共にすると約束されたからである。
主イエス様、開かれた私の心に来て、とこしえに住んでください。今ご自身を示し、すべてに打ち勝つあなたの魅力をわずかでも見る恵みを与えてください。
 

「というのは、肉の思いは神に対して反抗するものだからです。

2016年11月04日 16時31分16秒 | 聖書

それは神の律法に服従しません。
いや、服従できないのです」(ローマ8:7)

自分の内に二つの性質があり、新生した時に与えられた新しい性質は、神を喜び、罪を悲しみ、神に従おうとする。
神の栄光を求めて行く。神の性質だ。

一方、古い性質、肉の性質は、真反対で神に反抗する。
罪を愛し、神に敵対し、自分の栄光を求め、自分が崇められたい。
自己主張、自己中心、自己保存、自己貫徹だ。

これは神に反抗し、御言葉に逆らい、逆行する。だから、砕かれる事が重要で大切だ。
よく御言葉がわからない、聖書は難しくてわからないという人々に出会う。

それは自分では無意識なのだが、御言葉と同時に、受け入れようとしない心が、むくむくと湧き起こるのだ。

「こんな御言葉実行できない」「こんな事言われても無理」「私にはできない」
「こんな事誰もできない、していない」肉の思いが湧き上がって来て、御言葉を阻む。

肉の思いに従うと御言葉を拒んでしまう。御言葉がわかるのは、従おうとの心の態度があって聞くからだ。
従おうとしているから、主のお心がわかる。

自らの状態はどうだろう。あくまでも御言葉を自分の思いで量り、捨ててしまっていないか。
又、どこまでも傍観者として聞いていないか。他人事なので、入って来ない。

あなたの聞く態度はどうだろう。御言葉を自分の事として受け取る時、必ず変えられ、成長して行く。
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自分には出来なくても、神様が必ず整えて下さる、必ず変えて下さるからと、御言葉を大切に受け取ろう。
そして、御言葉を取りこぼさずに、答えて行こう。


今日の聖人の記念日

2016年11月04日 07時21分53秒 | キリスト教

聖カロロ・ボロメオ司教

1538年-1584年

 カロロは、イタリア、ロンバルディア地方アローナの貴族の家に生まれた。パヴィアの大学で法学を学んだ後、1560年伯父の教皇ピオ4世からローマに招かれ、22歳で枢機卿、その後ミラノ大司教に選ばれた。当時、教会や修道院は風紀が乱れていたので、カロロはその改革にあたり、司祭たちの教育の向上、貧しい人びとや病人の救済にも力を尽くした。ペストがミラノに流行したときも、カロロ自ら看護にあたった。また、トリエント公会議中にも、教会の教義統一、特にミサ典書、要理の編纂に貢献した。

 カロロは、何か特別のことをするのではなく、自分の義務を賢明に果たすことによってキリストの道に従った。フランシスコ会、カルメル会の守護の聖人とされている。


◆ね た み

2016年11月04日 07時20分51秒 | 聖書

憤りは残忍で、怒りはあふれ出る。
しかし、ねたみの前には
だれが立ちはだかることができよう。(箴言二七4)
憤りや怒りは、一度エネルギーを放出してしまえば、それで収まることがあります。しかし、「ねたみ」は、いつまでもじくじくと燃え続けるのです。ソロモンは、「ねたみはよみのように激しい」(雅歌八6)と言い、「激しい思いは骨をむしばむ」(箴言一四30)とも言いました。
テレビで、花火を水の中に突っこんでもシュルシュルと燃え続けている実験の様子を見てびっくりしました。燃えている物を水の中に入れれば、酸素の供給が断たれて、ふつう火は消えます。ところが花火の火薬の中には、自分から酸素を供給し続ける薬品が入っているというのです。私は、「ねたみ」もそのとおりだと思いました。ねたみは、相手あって起こることと思いますか。いいえ、ねたみを燃やし続けるものは、相手にあるのではなく、自分の中にあるのです。
人類をさすらい人にしてしまったのは、あのアダムとエバの子、カインのねたみでした。カインは、アベルが心から神を認め、神にささげきり、神から恵まれているのを見ました。それを喜ぶこともゆるすこともできず、とうとう野原におびき出して、アベルを殺してしまったのです。原因や理由は、アベルの中にはなく、全くカインの中にありました。ねたみ心は徹底的なエゴイズムである罪の心です。それは、自らの中で自ら燃えて、平安を奪い、愛のエネルギー・ゆるしのエネルギー・祈りの力・奉仕の力を枯れはてさせます。ねたみ心を持つ人は、いつも、責める心・責められる心をいだいて放浪し、最後には、自分で自分を燃やしつくすのです。
こんなにいやしいけがれた弱い私すら愛して、私のためにいのちまで与えてくださったのは、神の愛だけです。この神の愛を悟りきるまで、ねたみにとりつかれた人の救いはないでしょう。
 

◆わたしの力は、

2016年11月04日 07時19分51秒 | 聖書
弱さのうちに完全に現われるからである。(Ⅱコリント一二・九)
神に仕え、その奉仕を勝利のうちに成し遂げるための第一の条件は、私たち自身の弱さを知ることにある。神の戦士が「私は勝利を得る自信がある。私の右の手と征服の剣はそれをもたらすであろう」と豪語し、自分の力により頼んで戦いに出るなら、敗北は遠くないうちに訪れる。神は自分の力を頼む者と共には行かれない。このような方法で勝利を期待するのは誤りである。なぜなら、「権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって」と万軍の主は仰せられるからである。自分の勇気を鼻にかけて戦いに臨む者は、そのはなやかな旗をどろでよごし、武具を恥辱で汚して帰るであろう。
神に仕えようとする者は、神ご自身の方法で、また神ご自身の力によって仕えなければならない。そうでなければ、神は決してその奉仕を受け入れられない。人が神の力の助けなくしてしたことを、神は決して承認されない。地が生み出した果実を神は退けられる。神が収穫されるのは、その種が天から蒔かれ、恵みによって潤され、神の愛の太陽によって熟した果実だけである。神はご自身のものをあなたの中に入れる前に、まずあなたのもっているすべてのものを取り出して空にされる。神は最上の小麦をもってあなたの穀倉を満たす前に、まず穀倉をくまなく掃除される。神の川には水が満ちている。しかし、その中の一滴たりとも地上の泉からわき出たのではない。
神はその戦いにおいて、ご自身が与える以外の力は用いられない。あなたは、自分の弱さを嘆くのか。勇気を出せ。希望を抱け。なぜなら、主があなたに勝利を与えられる前に、あなたは自分の弱さを意識しなければならないからである。あなたが空虚なのは、あなたが満たされる準備である。またあなたが倒されているのは、やがて起こされる用意にすぎない。
 私の弱いときこそ、私は強い
 恵みは私の盾、キリストは私の歌である
 

ヨブ記25章1-5節

2016年11月04日 07時18分30秒 | 聖書


25:4 「人はどうして神の前に正しくありえようか。女から生まれた者が、どうしてきよくありえようか。
25:5 ああ、神の目には月さえも輝きがなく、星もきよくない。
25:6 ましてうじである人間、虫けらの人の子はなおさらである。」




 ビルダデは、ヨブに対して答えます。

あなたは、神の前に自分は正しいと言うが、それは間違っている。

たとえ人の目に輝かしく見える月や星も、神の栄光に比べたら比ではない。

まして輝きが全くないばかりか、うじや虫けらに等しい人間は、神の栄光に比べるならば、どれほどの価値があると思うのか。

 ビルダデは、神の清さと正しさは、人が犯すことが出来ない高貴なものであって、そのお方の前に自分の正しさを主張することなどは、気が違っている人がなすことだというのです。

この判断は、神のご本質を理解する上では、確かなことです。

しかし、彼が見失っていることは、このような清いお方が今、人と接して下さっているという、神のその御心を見ない点にあるのです。



第二ペテロ3章9節(詩篇80篇)

2016年11月04日 07時16分10秒 | 聖書


★主は、 ある人たちがおそいと思っているように、 その約束のことを遅らせておられるのではありません。 かえって、 あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、 ひとりでも滅びることを望まず、 すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。

■O:今日のコラム

少なくとも私のクリスチャンとしての歩みの中で、これほど悔い改めについて開かれ、また語られた時期は無かったように思います。それはまるで、イエス様御自身がマタイの福音書の中で「悔い改めなさい。 天の御国が近づいたから。 」(マタイ4:17)と宣教の初めに語られたように、今、主が日本にそのように呼びかけて下さっているように感じます。


「わたしは悪者の死を喜ぶだろうか。 --神である主の御告げ--彼がその態度を悔い改めて、生きることを喜ばないだろうか。わたしは、 だれが死ぬのも喜ばないからだ。 --神である主の御告げ--だから、 悔い改めて、 生きよ。」(エゼキエル書18:23,32)

「わたしは悔い改める機会を与えたが、 この女は不品行を悔い改めようとしない。」(黙示録2:21)

今日の箇所、また上記の御言葉からも、主の願いはすべての者が悔い改めることであり、また、主が私たちにその悔い改めの機会を与えてくださっていることが分かります。

皆さんが「悔い改め」と聞くと、気持ちが暗くなるでしょうか?辛くなるでしょうか?第一声「また悔い改めか…」でしょうか?もし、そうであるならば、それは悔い改めにこめられている本来の天の父の願いを知らず、また、本当の悔い改めの恵みを体験していないからかも知れません。
不思議に聞こえるかも知れませんが、私は悔い改めが大好きで、悔い改めることが喜びです。
「悔い改め」それは「背負うべきでない重荷を全部おろして、楽になり自由になって、本来、天のお父さんが計画してくれている祝福の場所に帰ること。」であります。また、それは花嫁修行の一つであり、悔い改めを通して、少しずつきよめられ、いつか主と顔と顔を合わせて会う日のための準備、その日を待ち望む過程であります。

悔い改めの初めに絶対に必要なプロセスがあります。それは「神の愛と恵みを知ること」です。

主がどれほど自分を愛してくださっているのか、どれほど恵みを注いでくださっているのか。私たちが主のその計り知れない愛の一部でも垣間見て、体験するならば、主との隔たりになっている罪や汚れを疎ましく思うようになります。その罪と汚れが愛する方を悲しませていることに、心が痛むようになります。これ以上、この罪に悩まされるのがもう嫌になってきます。

なぜなら「神の慈愛があなたを悔い改めに導く」(ローマ2:4)からです。神の愛を知ることなしに、悔い改めようとするなら、それは、父の家に帰ることが出来ない「後悔」や「自己憐憫」で終わってしまうでしょう。それは、まるで単に罰を免れるために「始末書」や「反省文」を書いているような心境ではないでしょうか。

「涙が出ない…」と焦らなくて大丈夫です。神の計り知れない十字架の愛と赦し、また癒やしを体験することを先ず求めて下さい。神の深い深い偉大な愛とその十字架の恵みを、御霊によって悟らせていただきましょう。

パウロがエペソの教会のために祈った祈りを、自分のものとして祈ることをお薦めします。主の愛を知るために、以下の箇所を朗読してから、祈ってみて下さい。
「こういうわけで、私はひざをかがめて、天上と地上で家族と呼ばれるすべてのものの名の元である父の前に祈ります。
どうか父が、その栄光の豊かさに従い、 御霊により、力をもって、あなたがたの内なる人を強くしてくださいますように。
こうしてキリストが、あなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように。 また、 愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、すべての聖徒とともに、 その広さ、 長さ、 高さ、 深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。 こうして、 神ご自身の満ち満ちたさまにまで、 あなたがたが満たされますように。」(エペソ3:14~19)


天の父は毎日、家から遠いところで、私たちの帰りを待っておられます。
「それゆえ、主はあなたがたに恵もうと待っておられ、あなたがたをあわれもうと立ち上がられる。 」(イザヤ30:18a)
悔い改め、御父の家に帰るプロセスは主が来られるまで、毎日続けるものです。御父の暖かい服、温かい食卓、暖かい家のあるところに、毎日帰り続けましょう。


■A:考えてみよう

自分は御父の家に帰りたいだろうか。自分は神の愛と赦しを頭の中だけで理解し、知っているつもりになっていないだろうか。神の愛を体験として知っているだろうか。自分はそこそこクリスチャンとして正しく生きている、何を悔い改めたらいいんだろう、と思われる方。御言葉と自分の歩みや心の態度を照らし合わせ、御言葉に沿っていない歩み、心の態度があるならば、その部分を、捨て去ることが出来るように、主の新しい性質、キリストのご性質を着ることが出来るよう、主に悔い改めていこう。


■P:祈り

聖霊様、あなたを歓迎します。どうか御父の愛を悟ることが出来ますように助けてください。頭ではなく、この心が締め付けられるほどに、主の愛を理解することが出来ますように。主が私の悔い改めるのを待っていて下さることを感謝します。本当の意味で悔い改めの恵みを体験することが出来ますように、御霊よ、私に悟りを与えて下さい。罪の奴隷から解放された者としての歩みをしたいです、自由なものとして歩みたいです。それが、お父さん、あなたの願いであることをありがとうございます。あなたの家に帰ります。今日も一歩、御父の家に近づくことが出来ますように。

イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。


11月3日(木)のつぶやき

2016年11月04日 01時32分58秒 | キリスト教