座間コミニティー

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◆ラバンは答えた。

2016年11月14日 17時05分12秒 | 聖書
「われわれのところでは、長女より先に下の娘をとつがせるようなことはしないのです。」(創世二九・二六)
私たちはラバンの不誠実を許すことはできないが、彼が口実のために引き合いに出した慣習からは、ためらうことなく学ぶことができる。ものには順序があり、第二のものを得るには、まず第一のものを手に入れなければならない。第二のもののほうが、私たちの目に麗しく見えるかもしれない。しかし、天国の法則は破棄すべきものではなく、まず年長者が結婚しなければならないのである。
たとえば、多くの人は、信仰による喜びと平安というラケルを慕う。しかし彼らはまず、悔い改めという目の弱いレアと結婚しなければならない。だれでも幸福と恋愛関係を結び、多くの者はそれを自分のものにする。七年の二倍を、喜んで奉仕に当てる。しかし主の王国の規則によれば、真の幸福というラケルを得る前に、真の聖潔というレアが私たちのたましいに愛されなければならない。天国は第一の場所ではなく、第二の場所にある。私たちは、終わりまで耐え忍ぶことにより、そこにある相続地を入手することができる。冠を受ける前に、まず十字架を負わなければならない。へりくだりの主に従わなければ、栄光の主とともに安息を楽しむことは決してできない。
私のたましいよ。おまえは天の規則を破りたいと願うほどに愚かなのか。おまえは労せずに報いを求め、苦しみなしに栄誉を望むのか。怠惰な思いを捨て、イエスのすばらしい愛のゆえに、不快と思われるもので満足せよ。そうすればすべてが償われるであろう。その心をもって労働と苦難を迎えるならば、苦いものが甘く、困難は容易になることを知るであろう。おまえはヤコブのように、長年の奉仕も、イエスへの愛のゆえに、数日のように思えるだろう。待ちこがれた婚姻の時が来たら、おまえのすべての労苦は、あたかも存在しなかったかのようになるであろう。イエスとの一時問は、幾十年もの苦痛と労働を償って余りあることを深く覚えよ。
 

「何事でも自己中心や虚栄からすることなく、

2016年11月14日 17時04分14秒 | 聖書

へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい」(ピリピ2:3)

ピリピの教会で、ユオデヤとスントケは、共に主のために歩んでいたが、二人の間はうまく行っていなかった。

それで主に在って一致するようにと、パウロは言っている。
一致を妨げるものが「自己中心」と「虚栄」だ。

交わりの中で、色々な出来事が生じるが、自分に関係の無い事は、おおらかに、フェアで寛容でおれるが、いざ自分と自分の利害に直接関わって来るや、おおごとだ。

神経過敏になり、自分を守る態勢に入り、がっちりガードし、相手を責め、攻撃的になってしまう。
これは「自己中心」によるものだ。

又、誰かの言葉が、自分のプライドや虚栄心、めんつに触れたりするなら、大変だ。
プライドでも傷つこうものなら、激怒して反撃に出るか、内向して執念深く恨み、憎しみと敵対心を持つ。

あなたの心にざらつく思いやイラ立ち、苦い思いが出て来たら、自己中心、虚栄、プライドでないか、御霊によって心探って頂き、よく吟味しよう。

苦い根をそのままにしてはならない。その根は心に巣くって、どんどんはびこってしまう。
すぐに十字架の血潮できよめて頂こう。罪の苦い根を、小さい内に、次々と根本から引き抜いて行こう。

心に平安が失せた時には、すぐ御霊に照らして頂こう。赦されて、平安が戻る。
苦い根をはびこらせてはならない。命取りになる。
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苦い根をそのままにしているなら、御霊の促しすら聞き分けられなくなる。
私達は、放っておけばすぐに自分中心、自分、自分におちいる者だと、覚えていよう。
謙遜になれますように。


今日の聖人の記念日

2016年11月14日 07時51分08秒 | キリスト教

聖ヨセフ・ピニャテリ

1737年-1811年

 ピニャテリは、スペイン、サラゴサの貴族の家に生まれ、幼いころに両親を亡くし、姉のもとで育てられた。15歳でイエズス会に入り、1762年に司祭となって幼児教育や、慈善事業に携わった。特に、死刑を宣告された人びとを慰め、回心に導くなど「犯罪人の父」と呼ばれた。

 当時、ヨーロッパでは啓蒙主義が盛んであった。それに基づいて社会を改革しようとした国王カルロス3世は、カトリック教会を破壊することを企て、今まで教育などを指導してきたイエズス会を国外追放処分にした。ピニャテリは同僚とともに船に乗り、飢餓、病気などの苦しみに遭いながら、なんとか教皇の領土に着いた。そこでも苦しい生活を強いられたが、ピニャテリは、皆を励まし会員をまとめる人物となっていった。彼は、その間イエズス会の歴史を研究し、収集した文献は3000点にも及んだ。

 しかし、6年後教皇はブルボン王家の権力に屈し、やむなくイエズス会に解散を命じた。その日から25年間ピニャテリは、イエズス会会員を物質的にも精神的にも支え保護した。その後、教皇の許可がおりてイタリアの地にイエズス会が復興すると、彼はイタリアの管区長を勤めた。ナポレオン時代になると、ピニャテリは、ナポリに移ったが、教皇が追放されるとともに彼も同地を追われ、ローマで亡くなった。彼は、イエズス会の復興の父として尊敬されている。


◆き よ い 良 心

2016年11月14日 07時50分04秒 | 聖書

悪者は追う者もないのに逃げる。
しかし、正しい人は若獅子のように頼もしい。(箴言二八1)
国会に引き出された疑惑の証人たちが「さあ、忘れました。記憶にございません」と、のらりくらり答弁する苦渋に満ちた顔を、私たちはテレビで見ました。しかしペテロとヨハネは、七十人議会に引き出されても堂々としていました。悪びれた様子もなく、臆することもありませんでした。無学のガリラヤの漁師にすぎないのに、なぜかとみながあやしみました。そして、ああ、やはりイエス・キリストといっしょにいた人たちだったと言ったと、聖書にあります。
宗教改革者マルティン・ルターも、大勢の告発者の前でウォルムスの会議の真ん中に立ち、「私と私の良心がここに立っています。神よ、助けたまえ。アーメン」と言ったといいます。若獅子のように雄々しい姿です。
良心に責めを持つ人・ゆるされていない、きよめられないままの人はどうでしょう。
第一に、いつも不安で、人の顔を恐れ、神の顔を恐れて逃げまわります。ねたみから弟アベルを殺したカインは事業には成功しましたが、一生恐れに満ちたさすらいの人生を送りました。第二に、けがれた良心からは、人生の力は少しもわいてきません。第三に、けがれた良心のままでは、人生は破船します。罪は、必ず最後に、あなたを見つけ出すのです。
どうしたらきよい良心を持つことができますか。イエス・キリストを銀貨三十枚で敵の手に売り渡したイスカリオテ・ユダは、その金を返そうとしました。受けとってもらえないと知ると、金を捨てました。きよめられずに不安な彼は、首つりして死んだのです。良心のきよめは、どんな努力やささげ物でも買えません。イエス・キリストの血潮の中に、悔いたくだけた心を投げ出すほかに道はありません。「御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます」(Ⅰヨハネ一7)。
 

◆(わたしは)主に誓いを立てて礼拝しながら、

2016年11月14日 07時49分19秒 | 聖書
ミルコムに誓いを立てる者ども……を断ち滅ぼす。(ゼパニヤ一・五、六)
この種の人々は、二つの道を兼ねているから安全だと思っている。彼らは主に従う者と行動を共にし、また同時にミルコムにも頭を下げている。しかし、神は二心の者をいとい、偽善を憎まれる。偽りの神に傾倒している偶像崇拝者は一つの罪を犯すだけである。しかし、汚れた忌まわしい犠牲を主の宮に携えてきながら、他方では世と世の罪に心を傾けている二心の者は、二つの罪を犯している。だから、彼らよりもさらに罪深いのである。日常生活においても、二心の者は軽蔑される。そして信仰においては、これは極度に嫌悪されるべきものである。
今朝の聖句に宣言されている罰は恐ろしいものであるが、それは当然の報いである。なぜなら、正しいと認めてそれに従うことを公言しながら、他方において悪を愛してそれに心をゆだねている罪人を、神の義が赦すはずがないからである。
私のたましいよ。今朝おまえ自身を探り、おまえが二心の罪を犯しているかどうかを見よ。おまえはイエスに従うことを公言しているが、真に主を愛しているか。おまえの心は、神と正しい関係にあるか。おまえはあの『天路歴程』の中の「正直氏」の家族か。または「二心氏」の家族か。血筋や家系も、もし私が咎と罪に死んでいたならば、何にもならない。片足を真理の地に置き、他の足を偽りの海に置けば、恐ろしい倒壊と破滅の危険を招くことは間違いない。キリストは私たちにとって、すべてか無かのどちらかである。
神は全宇宙を満たしておられる。だから他の神を入れる余地はない。もし神が私の心を支配しておられるなら、他の支配力を入れる余地は全くない。
私は十字架にかかられたイエスのみに憩い、主のためにだけ生きているか。そうしたいと願っているか。そう決意しているか。もしそうであるとすれば、私を救いに導いた力強い恵みはほむべきかな。しかし、もしそうでないなら、主よ、私の悲しむべき罪を赦し、私の心をしてあなたの御名を恐れる者としてください。
 

ヨブ記29章21-25節

2016年11月14日 07時47分57秒 | 聖書


29:21 「人々は、私に聞き入って待ち、私の意見にも黙っていた。
29:22 私が言ったあとでも言い返さず、私の話は彼らの上に降り注いだ。
29:23 彼らは雨を待つように私を待ち、後の雨を待つように彼らは口を大きくあけて待った。」



 かつてのヨブは、心優しい人として貧しい人を助け、苦しむ者をいたわり、助けを必要としている人々に手を差しのばして、多くの人々に感謝をされた人でした。

 人々は彼が共にいることを喜び、彼が不在の時には、彼が再び自分たちの所に来ることを待ち望みました。

それほど彼は慕われ、彼の働きは人々に喜ばれ受け入れられたのでした。

人々は彼を心から受け入れたのです。

 そのことは、彼自身に取りましても大きな喜びでした。

彼は人のために働き、人の益のために時間を使い、苦しみを持つ人々が彼の助けによって帰っていくのを見て喜びました。

彼は本当に心の優しい人でした。

それらのことが、彼にとって生きがいでもありました。

人のために生きることに、彼は心を尽くしたのです。




士師記10章6節

2016年11月14日 07時45分50秒 | 聖書


★またイスラエル人は、主の目の前に重ねて悪を行ない、バアルや、アシュタロテ、アラムの神々、シドンの神々、モアブの神々、アモン人の神々、ペリシテ人の神々に仕えた。こうして彼らは主を捨て、主に仕えなかった。

■O:今日のコラム
士師記全体を通して一つのことに気づかされます。士師と呼ばれる人々(さばきつかさ)が立てられ、イスラエルを救うのですが、さばきつかさが死ぬとイスラエルの民は逆戻りし、堕落し、他の神々に仕える…そして、また、苦難の中からさばきつかさが立てられ、イスラエルは救われる…このパターンが繰り返されます。

なぜ、同じパターンが何度も繰り返されてしまうのでしょうか。士師記2章2~3節に、その根源が書かれています。

「あなたがたはこの地の住民と契約を結んではならない。彼らの祭壇を取りこわさなければならない。』ところが、あなたがたはわたしの声に聞き従わなかった。なぜこのようなことをしたのか。
それゆえわたしは言う。『わたしはあなたがたの前から彼らを追い出さない。彼らはあなたがたの敵となり、彼らの神々はあなたがたにとってわなとなる。』」

イスラエルの民らは、主の声に聞き従わず、各地に点在している住民を追い払わず、彼らの祭壇を取り壊しませんでした。「主の声に聞き従わなかった」ゆえに、悪のパターンが繰り返されてしまったのです。

皆さんも、何度も同じ失敗を繰り返してしまったことはありませんか?実は、自分では気づいていなくても、私たちの人生を影響している人がいるのです。それは、私たちの父母、祖父母…先祖3、4代です。

「私は絶対に親のようにならない。親と同じ失敗はしない」と誓ったのに、大人になって結局親と同じ道を辿ってしまった…そのような経験があるでしょうか。例えば、ギャンブル、お酒、タバコ、借金、離婚、病気、偶像礼拝…何度も何度も繰り返されるトラブルが自分や家族、親戚の中にもしあるならば、先祖3、4代が悪との契約をしているかもしれません。それらを断ち切らなければ、イスラエルの民のように何度も同じ失敗を繰り返すこととなってしまいます。

士師記の最後は、「そのころ、イスラエルには王がなく、めいめいが自分の目に正しいと見えることを行なっていた。」と締めくくられています。イスラエルの民は最後までこのパターンから抜け出せませんでした。

しかし、これらから完全に解放される方法があります。それは、イエスキリストの十字架です。イエス様は悪のパターンを完全に止めるために来られました。

「キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、「木にかけられる者はすべてのろわれたものである。」と書いてあるからです。」(ガラテヤ3:13)

ハレルヤ!イエス様の十字架の血潮は、全ての呪いから私と私の家族を贖って下さいました。イエス様の十字架の血潮に、全ての答え、全ての解決があります。

■A:考えてみよう
家族の中に繰り返し起こる、悪のパターンがあるでしょうか。もしあるなら、そのことについて悔い改め、イエス様の血潮の力を宣言しよう。
のろいではなく祝福を、世代から世代へと流していけますように。


■P:祈り



イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。


11月13日(日)のつぶやき

2016年11月14日 01時36分24秒 | キリスト教