座間コミニティー

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◆エリヤを通して言われた主のことばのとおり、

2017年02月28日 17時46分02秒 | 聖書
かめの粉は尽きず、つぼの油はなくならなかった。(Ⅰ列王一七・一六)
神の愛の真実を見よ。この婦人は日ごとの糧を得た。彼女は飢きんの時、自分自身と子どもを養わなければならなかった。そのうえ預言者エリヤが加わったのである。こうして必要は三倍になった。しかし食物はなくならなかった。絶えず供給があったからである。彼女は、毎日粉を入れるかめを見た。そこには、いつでも同じ量の粉が残っていた。
愛する友よ。あなたには日ごとに必要なものがある。それが豊かに与えられるので、いつかかめの粉がなくなるのではないか、つぼの油は尽きるのではないかと心配してはならない。神のみことばである聖書によれば、そんなことは決してないとある。日々、さまざまな困難とともに助けが与えられる。あなたがメトシェラよりも長く生き、あなたの必要が浜辺の砂よりも多くても、神の恵みとあわれみはあなたの必要の一切を満たす。あなたは決して欠乏を覚えることはない。
このやもめの時代には、三年もの間空には一片の雲もなく、天の星は、よこしまなこの地上に一滴のきよい涙も注がなかった。飢きんと荒廃と死が、この世を寂しい荒野と変えた。しかしこの婦人は、決して飢えることなく、豊かな供給を絶えず喜んでいた。
あなたも同じである。あなたは罪人の望みがむなしくなるのを見るであろう。罪人は自分の生来の力に頼っているからである。あなたは高慢なパリサイ人の確信の揺らぐのを見るであろう。パリサイ人がその望みを砂の上に置いているからである。あなたは、あなた自身の計画すら損なわれ、しおれてしまうのを見るであろう。しかし、あなた自身は堅い岩のとりでに囲まれ、守られていることを見いだすであろう。
「そのかめの粉は尽きず、そのつぼの油はなくならない。」イングランド銀行を所有するよりも、神をあなたの導き手としてもつほうが、はるかによい。あなたは、インドの富を使い尽くすことができるかもしれない。しかし、神の無限の富を用い尽くすことは、決してできない。
 
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「イエスは彼が伏せっているのを見、

2017年02月28日 17時44分52秒 | 聖書

それがもう長い間のことなのを知って、彼に言われた。『よくなりたいか』」(ヨハネ5:6)

人は、余りに長期に悪い状態が続くと、気力が失せて、諦めてしまうものだ。
何度やってもダメだった。これからもダメだろう。ダメに違いない。
段々とほとんど確信になって来る。

そんな状態の人に、主は「よくなりたいか」と問われた。
「出来るか」ではなく、「そうしたいか」だ。「なれるか」でなく「なりたいか」。

周囲が幾ら助けようとしても、自分自身が、本人が意志しない限り、どうにもならない。
彼は答えた。自分には介助者がいない。
最初の一人だけが癒されるその池に、いつも他の人が先に入って行く。

それは介助者がいるからだ。自分にはいないから、絶対に先を越されてしまう。
どうしようもないではないか。彼は38年間この思いでいたのだろう。
自分には助けてくれる人がいない。だから不幸なのだ。

人や、環境をうらめしく思い、心に思いを溜め込んだ人生だったろう。
人依存、環境依存でしかなかった人生を、主は自分の足で立って、歩む人生に導かれた。
私達はどうだろう。

諦めてしまい、甘んじてしまっている現状があるだろうか。
まず願いすら、主に向ける事に萎えてしまっている。何度やってもダメだった。
気力が無くなり、求めさえも失せてしまっているだろうか。

そんな状態から「よくなりたいか」と問われている。
介助者の問題でなく、自分自身の問題だ。あなたはどう応答するだろう。
人依存、環境依存から、神依存への転換が真の自立だ。
それが自由で解放だ。主はそれを成し遂げて下さる。
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良くなりたいのかどうかを主は問われている。私達は主に求めているだろうか。
いつか良くなるだろうではなく、今、立ち上がる意志を主に向け、ただ主に期待して歩もう。

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おはようございます。

2017年02月28日 06時45分35秒 | 日記

今日1日感謝の一日をありがとうございます。

合掌  大西

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今日の聖人の記念日

2017年02月28日 06時45分03秒 | キリスト教

聖レミジオ司教

437年-535年ごろ

 レミジオは、フランス、ランスの貴族の家に生まれ、信仰深く育てられた。ランスで教育を受け、豊かな学識と優れた人格の持ち主であったレミジオは、多くの人々から慕われ、458年にわずか21歳で司教に選ばれた。自分には厳しく人々には慈悲深く、当時ガリア地方に広まっていた異端アリウス派と戰い正当信仰を擁護し、多くの人々を信仰に導いた。

 フランク王国クロヴィスもその1人であり、熱心なカトリック信徒であった妻のクロティルジス皇后(6月3日 参照)の影響もあって496年にレミジオから洗礼を受けた。王はレミジオの指導を受けながら、熱心に信仰を守り国を治め教会や修道院の建設を援助した。

 その後、レミジオは教皇使節として宣教に力を尽くし、生涯を神と人々のためにささげた。「フランク人の使徒」と呼ばれている。

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◆目 を さ ま せ

2017年02月28日 06時43分30秒 | 聖書

なまけ者よ。いつまで寝ているのか。
いつ目をさまして起きるのか。
しばらく眠り、しばらくまどろみ、
しばらく手をこまねいて、また休む。
だから、あなたの貧しさは浮浪者のように、
あなたの乏しさは横着者のようにやって来る。(箴言六9―11)
いつか駅の職員が寝坊して、駅のシャッターをおろしたままで一番電車を通らせてしまい、お客さんが電車に乗れなかったという事件がありました。しかし、これはニュースになるほど特別なことでした。日本人は勤勉で清潔です。
ところが、その私たち日本人の怠惰でだらしがない点は、「神」とか「愛」「永遠」「きよさ」についてです。
ある時ホテルにとまって、朝早く出発しなければならないことがありました。フロントに行ってみると、ボーイさんがフロントの向こうで横になって寝ています。声をかけると起きあがったのですが、寝ぼけまなこで、こちらが何を言っても要領を得なかったことがあります。
人生も、寝ぼけているとそのとおりです。絶対にきよく正しい神の前に立つと、どうしていいか分かりません。愛とか永遠とかの前におどおどしてしまうのです。
いつも一生懸命働き、勤勉に商売しているように見えても、神の愛が分からず、神のきよさ・永遠も分からず、死とさばきも何のことかと目をこすっているようでは困ります。やがてすべてを神が分からせられる「死」を待っているのではおそいのです。私はまっすぐ歩いている、一生懸命やっていると思っても、愛がなければ曲がっています。きよくなければ、よろめいているのです。神の愛と神のきよさに目ざめましょう。
「目をさまして、正しい生活を送り、罪をやめなさい。神についての正しい知識を持っていない人たちがいます」(Ⅰコリント一五34)。
 
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◆私の望みは神から来るからだ。

2017年02月28日 06時42分37秒 | 聖書
(詩篇六二・五)
このことばを用いることは信者の特権である。彼がこの世からなんらかの望みを期待しているとすれば、それはまことにつまらない望みである。しかし、この地上の祝福であると霊的な祝福であるとを問わず、神によって欠乏を満たされたいと望むなら、その望みは決してむだになることはない。彼は信仰の銀行から常に資金を引き出し、神の恵みによってその必要を満たされる。私がこのことを心得ているならば、大金持ちのロスチャイルドに金を預けるよりも、神と取り引きしたいと思う。私の主は、決して約束を破られることはない。約束を御座に携えて行くならば、神は決してそれを無視されることはない。だから、私は神の戸口に立って、豊かな恵みの御手をもって戸を開かれるまで待とう。その時に約束の真偽ははっきりする。
さらに、私たちは、この世以上の望みをもっている。やがて、私たちは死ぬだろう。そうすれば「私の望みは神から来る」。私たちが病の床にある時、神が御前の使いを遣わして神のふところに運ばれることを期待しないだろうか。脈が衰え、呼吸が乱れた時に、天使は私たちの枕もとに立ち、あわれみの目を注いで、「私の愛するたましいよ。私とともに来なさい」とささやく時のあることを私たちは知っている。私たちが天の都の門に近づく時、「さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい」という歓迎の声を聞くことを期待する。さらに、私たちは黄金の琴と栄光の冠を期待し、まもなく御座の前の輝く群衆の中に入ることを望む。私たちは栄光の主に似せられる時の来ることを心待ちにしている。なぜなら「私たちはキリストのありのままの姿を見る」と書かれてあるからである。
私のたましいよ。もし以上のことがおまえの望みであるならば、ただ神のためにのみ生きよ。おまえの必要をすべて満たし、その恵みによっておまえを召し、贖い、救われた神の栄光を現すことを願い、かつ決意して生きよ。これがおまえのもつべき、来るべき栄光の望みである。
 
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詩篇19篇1-3節

2017年02月28日 06時41分03秒 | 聖書


19:1 天は神の栄光を語り告げ、大空は御手のわざを告げ知らせる。
19:2 昼は昼へ、話を伝え、夜は夜へ、知識を示す。
19:3 話もなく、ことばもなく、その声も聞かれない。



神様は通常、御自分から預言者を通して人に語りかけたり、御自分のご計画や思いなどを話されました。

つまり、言葉を通して、御自分の意志を伝えられました。

今は、聖書を通し、その言葉によって、私たちにその御心を知らせてくださっています。

ところが、言葉によらない神様の啓示があります。

それは自然による啓示です。

ここでは、天といいまた大空といい、人が全く手をつけることができない領域を通して、神様は御自分の力と知恵を示してくださっています。

言葉がなくても、わかるようにしてくださっているのです。

それにもかかわらず、人は、この自然を通しては、なかなか主のことを知り得ません。

その理由は、人が罪を犯した結果、神様との断絶があるためです。

人の心が曇らされてしまっているからなのです。

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サムエル記第二23章8~12節(サムエル記第二24章)

2017年02月28日 06時38分15秒 | 聖書


★『ダビデの勇士たちの名は次のとおりであった。補佐官のかしら、ハクモニの子ヤショブアム。彼は槍をふるって一度に八百人を刺し殺した。
彼の次は、アホアハ人ドドの子エルアザル。ダビデにつく三勇士のひとりであった。彼がペリシテ人の間でそしったとき、ペリシテ人は戦うためにそこに集まった。そこで、イスラエル人は攻め上った。
彼は立ち上がり、自分の手が疲れて、手が剣について離れなくなるまでペリシテ人を打ち殺した。主はその日、大勝利をもたらされ、兵士たちが彼のところに引き返して来たのは、ただ、はぎ取るためであった。
 彼の次はハラル人アゲの子シャマ。ペリシテ人が隊をなして集まったとき、そこにはレンズ豆の密生した一つの畑があり、民はペリシテ人の前から逃げたが、
彼はその畑の真ん中に踏みとどまって、これを救い、ペリシテ人を打ち殺した。こうして、主は大勝利をもたらされた。』

■O:今日のコラム
ダビデの時代にイスラエル王国は黄金期を迎えます。そこでの有名な三人衆というと、ダビデの幕屋で仕えた三人、アサフ、へマン、エドトンです。しかし、ここに戦いの最前線で活躍した三人衆が出て来ます。それがヤショブアム、エルアザル、シャマです。
  このような戦いの最前線で勝利する者が、分捕り物をもって王国に富と誉れをもたらしました。祈りの家、ダビデの幕屋が回復する時に、このような勇士達がますます立ち上がる事が出来るのです。マーケットプレイスで昇進し、神の知恵とへりくだりと力をもって、活躍し、サタンの手に奪われていた富や誉れを神に捧げる勇士が立ち上がる事を祝福します!
  彼らの活躍は、彼らだけの力によったのではなく、祈りがあってこそです。モーセの時代にもヨシュアという希代の勇士が立ち上がりましたが、ヨシュア達がアマレクと戦いに出て行った時に、モーセ達が山で祈っている間しか勝利はなかったのです。モーセの手が降りるとアマレクが優勢になってしまうので、アロンとフルが祈りを支えました。祈りも戦いも、その全体がチームプレイで働く時に民族的な勝利が与えられるのです。個人の祈りは、個人的な領域を越える事ができません。地域が祈るなら、地域に変革がもたらされます。多くの者が祈るなら、それだけ大きな領域に影響していくのです。
  この三勇士もダビデの幕屋での祈り、とりなしがあってこその活躍だったのです。祈りと宣教は共に働くと言われますが、祈りとマーケットプレイスでの勝利も共にあるのです。この三勇士から、マーケットプレイスで活躍する勇士の特徴を見てみたいと思います。
  ヤショブアムは、実は(1歴代11:11)を参考にして、ヤショブアムと書かれていますが、ここではヘブル語でヨセブ・バッセベテという名前です。 これは、安息に住む、という意味です。彼は、主の平安の中にとどまりながら戦う者であったのです。それは、神に徹底的に聞き従う者である事を暗示しています。勇士は、徹底的に聞き従う者、それ故に平安に満ちているのです。

『わが子よ。私のおしえを忘れるな。私の命令を心に留めよ。
そうすれば、あなたに長い日と、いのちの年と平安が増し加えられる。』(箴言3:1~2)

  次にエルアザルは、手に剣がついて離れなくなるほど戦い続けました。勇士は、御言葉の剣を固く握って離さない者です。御言葉の宣言、信仰の告白をもって闇に打ち勝っていく戦士なのです。イエス様は、その口から両刃の剣が出ていました。
  次にシャマは、敵が数多く襲いかかり、見た目には劣勢であったとしても、堅く立ち続けました。勇士は、見た目が不利であっても、語られた御言葉の岩の上に堅く立ち続け者なのです。

■A:考えてみよう
語られた御言葉を握り、宣言し、とどまり、従順する、勇士として戦う。

■P:祈り
この三勇士のように、御言葉の剣を持ち、真理に堅く立ち、成し遂げる勇士として祝福してください。分捕り物をもって神の国を富ませる者であらせてください。

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2月27日(月)のつぶやき

2017年02月28日 01時28分39秒 | キリスト教
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◆その出ることは、

2017年02月27日 15時45分25秒 | 聖書
昔から、永遠の昔からの定めである。(ミカ五・二)
主イエスは民の代表として御座の前に進んで出られた。それは民が時の舞台に現れるより、はるか以前のことであった。民のために主が父なる神と契約を結ばれ、血を流さなければならない者のために自ら血を流し、苦しむ者、死すべき者に代わって苦しんで死なれることは、「永遠の昔からの定め」であった。主が頭の先から足の先まで血のしたたりにおおわれ、つばきをかけられ、四肢を釘で貫かれ、あざけられ、引き裂かれて死の苦痛の中で砕かれることは、「永遠の昔からの定め」であった。私たちの保証人として出られたのは、「永遠の昔からの定め」であった。
私のたましいよ。立ち止まれ。驚け。おまえはイエスにおいて「永遠の昔から」出ることが定められていた。この世に生まれ出た時にキリストが愛されただけでなく、人が地上に一人もいなかった時から、キリストは私たちを喜ばれた。人の子たちを絶えず心にかけ、永遠の昔から永遠の未来に至るまで、愛を注がれる。
私のたましいよ。主が永遠の昔からおまえの救いのために心を砕かれているのに、その救いを完成されないことがあろうか。私を救うために永遠の昔から出て行かれたのに、今私を見捨てられることがあろうか。山々が生まれる前から、海がまだ造られなかったころから私を選ばれたのに、今になって拒まれるだろうか。否、そのようなことは決してあり得ない。
私は堅く信じる。もし主が変わることのない愛に満ちたお方でないなら、決してそのように長く愛を注がれるはずはないということを。もし主が私を見限られるとすれば、永遠の昔からそれをなさったであろう。もし主が、地獄のように深く、死のように強い愛をもって愛しておられなかったなら、はるか以前に私に背を向けられたことであろう。なんという喜びであろう。私が、主の永遠の譲渡されることのない相続地であり、地の造られる永遠の昔に、父なる神によって主に与えられたことを知るのは。今夜、この永遠の愛を枕として眠りにつきたい。
 
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「私たちも、いっさいの重荷とまとわりつく罪とを捨てて・・

2017年02月27日 15時44分36秒 | 聖書

競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか」(ヘブル12:1)

競走をするのに、邪魔になるものがある。重荷とまとわりつく罪だ。
ずっしり重い荷物を背負って、競技するならどうだろう。
あり得ない。又、足もとにまとわりつく物があれば、からみついて、走れない。

信仰人生に、一人一人色々な重荷がある事だろう。
ある人々には常に信仰に反対する家族、又、職場で学校でのけ者にされ、嫌がらせをしてくる人々かも知れない。

そんな場合は、御言葉の通りに、重荷としては捨て去る事だ。
そしてをれを改めて自分に与えられたくびきとして、受け取り直すのだ。

その時、嫌々でなく、渋々でなく、その訓練の中で、練られ聖められる。
又、自
分の力という重荷がある。自分の思い、自分の力で走ろうとする。
辛くて、苦しくて、しんどくて息切れして、あえぎあえぎとなり、走れなくなってしまう。

又、罪はきっぱりと、捨て去らなければならない。
それは欲望を標的に、執拗にからみついて来る。

若い役人は、主のもとに来たのに、からみつく偶像を捨てる事ができず、主のもとを去った。
ダビデは異性の誘惑がまとわりついた。

あなたにからみつく罪は何だろう。足を前に踏み出そうとすると、まとわりついて来るものだ。
思いあたるかも知れない。走れないので転んでしまう。

罪が取り返しのつかないものになる前に、きっぱり捨て去ろう。
主は、信仰の走りを助けて下さる。

----------------
きっぱり捨てるべきものは何だろう。又、くびきとして、しっかり受け取り直すものは何だろう。
くびきは逃げたり、嫌々、渋々だと余計に首を絞め、辛くて苦しいばかりだ。
しっかり受け入れ、負うと軽くて、平安をもたらし、心地良いものとされる。

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おはようございます。

2017年02月27日 06時50分02秒 | 日記

今日1日感謝の一日をありがとうございます。

合掌  大西

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今日の聖人の記念日

2017年02月27日 06時49分26秒 | キリスト教

聖ガブリエル・ポセンティ

1838年-1862年

 ガブリエルは、イタリア、アッシジの裕福な信仰深い家庭に生まれ育った。才能に恵まれていた彼は、上流社会の仲間入りをし、名誉と富を求める生活に甘んじていた。しかし重い病にかかったことで今までの人生を振り返り、より超越的なものを求める生活として修道生活をしたいと誓った。

 病が全快したガブリエルは18歳で御受難会に入り、「悲しみの聖母のガブリエル」という修道名を与えられた。以後6年間、祈りと苦行によって十字架につけられたイエス・キリストの苦難を味わい、黙想した。また悲しみの聖母に対する優れた信心を表した。彼はどんな小さなことでも神に対して忠実であることをモットーに自己の聖化に励んだ。

 彼の遺体は、イタリアのグラン・サッソの修道院に眠っており、現在では有名な巡礼地となっている。

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◆蟻  を  見  よ

2017年02月27日 06時48分17秒 | 聖書

なまけ者よ。蟻のところへ行き、
そのやり方を見て、知恵を得よ。
蟻には首領もつかさも支配者もいないが、
夏のうちに食物を確保し、
刈り入れ時に食糧を集める。    (箴言六6―8)
日本人は蟻のように働きます。それが現在の富を築いたわけです。勤勉でよく働く日本人はほめられもしますが、「働きすぎだ」とねたまれてもいます。
ねたまれて悪口をいわれても、やはり、勤勉で働くことが好きな日本人であり続けたいと思います。健康で、やるべき仕事・働きがあって精いっぱい働けるなら、これはすばらしいことです。
イソップ物語のキリギリスのように歌ってばかりいて働かず、備えをしないでなまけていると大変です。
ところが日本人には、キリギリスよりももっと仕方のないなまけ者で、いざという時の蓄えをせず、だらしがない点があります。それは「永遠」「永遠のいのち」という点についてです。
死が一人一人に迫ってきます。人生の冬が近づいています。ところが、だれも用意していません。雪の降るきびしい冬の夜もたきぎがあり暖炉があるなら、「雪の降る夜は楽しいペチカ」です。しかし、備えがなかったらどうでしょう。
私たちは勤勉な蟻から学ばねばなりません。いま見えないからといって冬は「ない」と思ってはならないのです。蟻に冬は見えませんが、冬のために備えています。永遠の世界が見えないから「ない」といってはなりません。死のかなたに永遠のいのちが、または永遠の滅びが待っているのです。
死のかなたは、完全に神のみが支配する世界です。神の愛の中で永遠の喜びを味わうか、神の怒りの中で永遠に孤独で過ごすかの選択を、冬になる前にしなければなりません。「あなたはあなたの神に会う備えをせよ」(アモス四12)と、聖書はすすめます。
 
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◆それはあなたが私の避け所である主を、

2017年02月27日 06時47分00秒 | 聖書
いと高き方を、あなたの住まいとしたからである。(詩篇九一・九)
荒野におけるイスラエル人は絶えず変化にさらされていた。雲の柱が止まるたびに天幕が広げられた。しかし翌朝、太陽が上らないうちにラッパが鳴り、契約の箱が前進を始め、燃えている雲の柱に導かれて山の狭い道を通り、丘を越え、あるいは無人の荒野を旅するのであった。少し休んだかと思うと、すぐに命令が下って「前進せよ。あなたはここに休んでいてはならない。あなたがたはカナンに向かって旅を続けなけれはならない」と促されるのであった。
彼らは決して一つの場所に長くとどまってはいなかった。泉があっても、なつめやしの木があっても、彼らはとどまることができなかった。それでも彼らは神を彼らの家とし、雲の柱をその棟木と思い、夜になって燃えるその柱を家庭の炉の火と思っていた。
彼らは一つの場所から次の場所へと前進しなければならなかった。彼らは絶えず変化を経験し、落ち着く暇もなく、「今こそ私たちは安全である。この場所に定住しよう」と言うことはなかった。モーセは、「主よ。私たちは絶えず変わりますが、あなたは代々にわたって私たちの住まいです」と言った。
クリスチャンは、神は少しも変わらない方であると知っている。人は今日富んでいても、明日は貧しいかもしれない。今日は病み、明日は健康になることもあろう。今日は幸福でも、明日は患難に会うかもしれない。しかし私たちにとって、神との関係は少しも変わらない。昨日私を愛された神は今日も愛してくださる。私の、動くことのない憩いの家は恵み深い主である。前途は曇り、希望は吹き散らされ、喜びは失われ、かびがすべてのものをだいなしにしてしまっても、私が神のうちにもっているものは何も失われない。
神は「私の住まいの岩……強いとりで」である。世にあっては私は寄留者である。しかし神にあって安住している。地にあっては私は放浪者である。しかし神のうちに静かな住まいをもっている。
 
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