今夜しばらく主について考えよう。主のいやしは迅速である。主を一目見るだけでも力づけられる。主のいやしは完全である。主は病の根源を断たれる。だから主のいやしは確実である。主は決して失敗されることなく、病は決して再発することはない。キリストがいやされるならば、病がぶり返すことは決してない。主は患者に一時的な治療をされず、全く新しい人間に造り変えられるのである。主はまた、人々に新しい心を与え、彼らのうちに正しい霊を置かれる。主はあらゆる病の治療に熟練しておられる。医師にはそれぞれの専門があり、一つの病について、特に詳しく研究している。しかし、イエス・キリストは人間性のすべてに精通しておられる。主はどの罪人についても、その状態をよく知られ、決して治療の困難な例外的な場合に遭遇されることはない。主は、非常に複雑で奇妙な病を扱われなければならなかった。しかし主は一目見ただけで、どのような治療を施せばよいかをお知りになるのである。主は唯一の万能医師であり、主が与えてくださる薬は、すべての病をいやすことのできる唯一のものである。
私たちの霊の持病がどのようなものであっても、私たちはただちにこの医師である神に相談すべきである。イエスがいやすことのできない心の悲しみはない。「御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。」
主がちょっと手を触れられただけで、数えきれないほどの人があらゆる病からいやされた事実を考えてみよう。そうすれば私たちは、喜んで自らを主の御手にゆだねるであろう。私たちが主にゆだねるならば、罪は死ぬ。私たちが主を愛するならば、恵みは生きる。主を待ち望むならば、恵みは強くされる。私たちが主を目のあたりに見るならば、恵みは永遠に全うされる。
わたしはあなたを愛している」(イザヤ43:4)
こんな話がある。アヒルが自分の姿に、歩き方も泳ぎ方も、何もかもに悩んでいた。
大きなコンプレックスの中で、いつも自信がなく、惨めで、暗く沈んでいた。
ところがこのアヒルが、ある日、白鳥になっている自分の姿を発見する。
誰しもコンプレックスがある。苦しむのは、そのコンプレックスを認められない事だ。
自分が受け入れられず、無い振りをしたい、見ないでおきたい、触れたくない。
実際、劣等感で悩んでいるのだが、それを認められないという自己矛盾が起きて、心が混乱する。
そのコンプレックスのある所に、触れられた途端、冷静でおれなくなる。
劣っていないと思いたいのだ。プライドが邪魔をして許さない。
癒されるためには、そのコンプレックスを直視する事だ。
逃げないで、避けないで、ごまかさないで、それを主のもとへ持って行く事だ。
なぜなら主はそれを癒して下さる。
プライドは自分の惨めな姿を見たくないし、絶対に認めたくない。余りにも惨めなのだ。
しかし、そこを認めて、主の前に行く時、そこに主が触れて下さり、癒して下さる。
がんじがらめになっている自分を解放して下さる。
自分が自分を縛りつけ、窮屈にし、そこにプライドが潜む。
プライドが砕かれ、自由にされる時、白鳥である自分を発見する。
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自分はアヒルだと思う事が謙遜だと思い込み、間違えた反省をしてしまう。
神様がそのままの自分を「高価な者、愛している」と言い続けていてくださる。
神様の目から見ると私は、すでに白鳥だ。
ここを自分の誇りとして行きたい。
聖母マリアの訪問
聖母マリアのエリザベト訪問を記念する日。マリアが、天使から受胎告知を受けたころ、彼女の親族であるエリザベトも懐妊した。エリザベトは、長年子どもができず年老いていたので、マリアはエリザベトの懐妊を聞き、神の偉大な力に驚き賛美し、さっそく山里にあるエリザベトの家を訪ねる。マリアの訪問を喜んだエリザベトは「あなたは女の中で祝福された方です。……わたしの主のお母様がわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょう……」と感動した。マリアは、神に感謝して祈った。この祈りが有名な「マニフィカト」である。
「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。
身分の低い、この主のはしためにも 目を留めてくださったからです。……」
(ルカ 1.46~55)
エリザベトを励まし手伝うマリアの行為は、神と隣人に対する愛の業である。
すべての勤労には利益がある。
おしゃべりは欠損を招くだけだ。 (箴言一四23)
ところで三年近く前のこと、ある産油国の様子をテレビで見ました。採掘や精製に使う設備が保全や修理がされないで、ほったらかしになっています。そこで、自分の国で使う灯油にまで事欠いて輸入しなければならない情況になるだろうと、くさったりさびたりした設備の写真が映し出された時には、心を刺されました。産油国であるその国にも、いろいろむずかしい複雑な事情もあることでしょう。しかし、石油でもうけて、なまけていて全く働かなかった結果を見せつけられたような気がしました。
勤労と労働は、人間に神が与えてくださった祝福です。
「働かざる者は食うべからず」(Ⅱテサロニケ三10参照)も、聖書のことばです。働くことをいやがったり憎んだりするのではなく、神からの贈り物とすることは、どんなに大切なことか分かりません。こう考えて、社会が必要とするものを骨身を惜しまずに生み出し、社会が必要とする仕事につく時、人は、自分の値打ちを認識できます。
そこには、働く喜びが伴います。自分のしていることが、教えることであれ生産であれ商売であれ、神の任命によっていることが分かり、生きていく力が与えられます。経済的な収入面ばかりではなく、目に見えないその他の点や目に見える多くの面で、利益・収益を得るのです。勤労と労働を尊ばない時、人生に必ず何かの欠損が生じるでしょう。
愛してくださる神のもとで、神から与えられ預けられた人生を、神から与えられた仕事のために労する勤労は尊いのです。
王の王も楽しい立派な道を歩まれなかった。エルサレムの汚物が流れているキデロンの濁流を渡られたのである。神は罪のない子をただ一人もっておられたが、むちを加えられない子は一人ももたれなかった。イエスがすべての点において私たちのように試みられたことを信じるのは、私たちにとって大きな喜びである。
今朝私たちの渡るべきキデロンは何か。不信の友か。悲しい死別か。中傷か。暗黒の前兆か。私たちの王はこれらのすべてを渡られた。肉体の苦痛、貧困、迫害、侮辱か。私たちの王は先に立ってこれらすべてのキデロンの上を行かれた。私たちの試練が特珠なものであるとの考えは、ただちに、また永遠に捨てなければならない。なぜならすべての聖徒のかしらなるお方が、そのご体験により、私たちが特別なものと考えているその悲しみを知っておられるからである。すべてのシオンの民は、インマヌエルがかしらであり隊長である名誉ある哀悼者の群れに加わらなければならない。
ダビデは一時卑しい身分に下ったが、やがて勝利を得て都に帰り、またダビデの主は勝利を得て墓からよみがえられた。だから私たちも勇気を奮い起こそうではないか。なぜなら、私たちもまたいつの日にか勝利を得るからだ。今しばらくの間は罪と悲しみの汚れた流れを渡らなければならないが、やがて喜びにあふれて救いの井戸から水をくむのである。十字架の兵士よ。勇敢であれ。王ご自身がキデロンを越えて勝利を得られた。あなたもまた同様に勝利を与えられる。
10:16 捕囚から帰って来た人々は、その提案どおりにした。祭司エズラは、彼らの一族のために、一族のかしらのある者たちをみな、名ざしで選び出した。こうして、彼らはこのことを調べるために、第十の月の一日に会議を始め、
10:17 第一の月の一日までに、外国の女をめとった男たちについて、みな調べ終えた。
不信の罪を犯している者たちを調べるために、民の指導者は、人々を集めて調べることにしました。
このことに反対をした人々もいましたが、エズラはそのことを受け入れ、責任者たちを立てて詳しく、その不信の罪を犯した者たちのことを調べさせました。
今でいえば、プライベートの侵害になると思われる行為です。
しかし、なぜエズラがこのようなことに賛同を持って事を行ったかというと、それは自分のことではなかったからです。
神様の清さを汚すという大事な事であった為に、彼はこのことに賛同して事を行ったのです。
つまり、彼は神の前に罪を悔い改めて、自分たちの内から徹底的に罪を取り除きたいという思いがあったからでした。
★「主を恐れる人は、だれか。主はその人に選ぶべき道を教えられる。 」
「主はご自身を恐れる者と親しくされ、ご自身の契約を彼らにお知らせになる。 」
■O:今日のコラム
主を恐れる者とはどういう者でしょうか? 聖書の中にはたくさんの主を恐れる者が登場します。
よく取り上げられる人物としてダビデがいます。 ダビデはいつも主を恐れました。
反対にダビデの前の王様であったサウルはいつも人を恐れました。
(箴言29:25)
「人を恐れるとわなにかかる。しかし主に信頼する者は守られる。 」
この箴言の言葉にある通りサウルは人を恐れてしまった故に間違った行動をして最後には自分の身を滅ぼしてしまいました。 逆にダビデはどんなに難しい状況や環境にあっても主に信頼し続けたので守られることとなりました。
(詩篇33:18)
「見よ。主の目は主を恐れる者に注がれる。その恵みを待ち望む者に。 」
主を恐れる者に主の目は注がれます。
この主を恐れるのヘブル語の言葉は「ヤーレー」という言葉が使われています。
この言葉は恐れる、恐れ畏む、怖がる、敬う、尊敬する。という意味があります。
(箴言8:13)
「主を恐れることは悪を憎むことである。わたしは高ぶりと、おごりと、悪の道と、ねじれたことばを憎む。」
主を愛し尊敬するが故に起こることは悪(罪)を憎むことです。主の言葉におののき主にへりくだる者にこそ、主が目を留めてくださるのです!
(イザヤ66:2)
「これらすべては、わたしの手が造ったもの、これらすべてはわたしのものだ。──主の御告げ──わたしが目を留める者は、へりくだって心砕かれ、わたしのことばにおののく者だ。 」
本当にへりくだった者とは主の御言葉の通りに歩む者です。
私たちのうちにある自己卑下や自己憐憫、間違っている高ぶりを主の御言葉によって洗い清めていただきましょう。
人と比較して自分の評価を決めることを聖書は知恵のないことと言っています。
(第二コリント10:12)
「私たちは、自己推薦をしているような人たちの中のだれかと自分を同列に置いたり、比較したりしようなどとは思いません。しかし、彼らが自分たちの間で自分を量ったり、比較したりしているのは、知恵のないことなのです。 」
主を恐れることは知恵の初めであり、知恵そのものです。主を恐れることを求めていきましょう。
(ヨブ28:28)
「こうして、神は人に仰せられた。「見よ。主を恐れること、これが知恵である。悪から離れることは悟りである。」 」
■A:考えてみよう
主以外のもので何かを恐れてしまっている心があるだろうか。
状況、環境、問題に恐れてしまうことがあるだろうか。
主はどんな時でもわたしがともにいるから恐れるなと言われます。
私たちが主を恐れる時にすべての問題と困難は解決されていきます。
主だけを恐れる力を聖霊様によって与えられることを祝福します。
(イザヤ41:10)
「恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。 」
■P:祈り
イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。
おお、愚かなことはやめよ。罪が一度でもあなたに真の喜びを与えたことがあるか。そこにあなたは真の満足を見いだしたであろうか。もし見いだしたとすれば、再びあなたの古い奴隷のころに帰り、鎖でつながれるがよい。しかし、罪は決してあなたに約束したものを与えずに、虚言で惑わすのみである。だから、こうかつな猟師のわなに再びかかることのないように注意せよ。自由の身になっても、昔の捕われの経験を思い出して、再び網にかかることのないようにせよ。それは永遠の愛のご計画に背く。その計画のすべては、あなたの純潔と聖潔を目的としている。
さらにもう一つの考えが、あなたが罪に走るのをとどめる。クリスチャンは決して安易に罪を犯すことはない。彼らは、自分のした悪に対して大きな代償を支払うことになるからだ。咎は心の平和を破壊し、イエスとの交わりを曇らせ、祈りを妨げ、たましいに暗黒をもたらす。だから罪の奴隷になってはならない。
さらに大きな理由がある。「罪の奴隷となる」たびに、あなたは主を新たに十字架につけてさらしものにしているのである。このような思いに耐えられるか。
おお、もしあなたが今日何かの罪に陥っているならば、ひどくならないうちにあなたを引き止めようと、主が今夜、私を通してあなたに語られたのではないだろうか。イエスに帰れ。主はあなたに愛を注ぐことを忘れられず、その恵みは変わらない。涙と悔い改めをもって、主の足もとに来れ。主は再びあなたを心の中に受け入れ、あなたは千歳の岩の上に置かれ、あなたの行く道が定まるであろう。
救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします」(Ⅱコリント2:10)
ユダとペテロがよく比較される。ユダは「後悔」し、ペテロは「悔い改めた」。
後悔と悔い改めは全く違う。一番異なる点は、後悔は、した事を悔いて心を変えようと「自分で」する事だ。
悔い改めは、方向を変えて、「神に」立ち返る事だ。自分ではどうにも出来ないので、神に向くのが悔い改めだ。
後悔は、神に向くのでなく、あくまでも自分で事態をどうにかしようとする。
だから、後悔には救いがなく、「世の悲しみは死をもたらす」だ。
ユダは、後悔して、主を売った銀貨30枚を祭司長に返して「私は罪を犯した」と言った。
だが祭司長から「知ったことか。自分で始末することだ」と言われ、自ら命を絶った。
非常に後悔したが、自分で結末をつけてしまった。
それが主へと向いたなら、主のもとへ持って行ったなら、「救いに至る悔い改め」となったであろうに。
ペテロは裏切りという取り返しのつかない失敗をしたが、真に悔い改めて、主の赦しを受け取った。
ペテロは赦され、主の愛により回復させられ、主の昇天後の、働きのリーダーという大任に立てられ用いられた。
ペテロは、主に赦され、受け入れられ、愛され、期待されている自分を見い出した。
だから失敗したが再び立ち上がれた。自分でどうにもできないから、神に向こう。
そこに救いがある。
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主が道をまっすぐにして下さる。
失敗し転びながら、また主の十字架のもとで赦しを受けとって立ち上がれることは本当に感謝だ。
失敗を責め立てるサタンの声を聞かず、主に向いていよう。
聖ジャンヌ・ダルクおとめ
1412年-1431年
「オルレアンの少女」と呼ばれたフランスの国民的英雄であるジャンヌは、ドレミという貧しい農家の娘として生まれた。当時、フランスでは英仏百年戦争が始まり、国内は王族が分裂して危機の状態にあった。ジャンヌは、幼いながらも祖国の危機に心を痛め、毎日祈っていた。
ある日、彼女は「フランスを救え」という神からの啓示を受ける。13歳のときだった。しかし、フランス軍の司令官は彼女の言葉を信じなかったので、フランス軍はオルレアンの近くで敗北するだろう、ということを彼女は予言した。そのとおり、フランス軍は敗北。神学者たちは、ジャンヌが神から啓示を受けたことを認め、彼女はフランス軍を率いる許可を得た。彼女は白い軍服を着て馬にまたがり、イギリス軍に包囲されたオルレアンに進撃して、解放した。第2、第3と勝利を得て、皇太子をシャルル7世として王位につかせた。
しかし1430年、対立していた軍に捕えられ、イギリス軍に引き渡された。宗教裁判にかけられたジャンヌは、魔術によって神を冒とくしたという罪をきせられ火刑の宣告を受けた。燃えさかる炎の中でも、彼女はイエスとマリアのみ名を呼び、息絶えたといわれる。その25年後、教皇カリスト3世によって、宗教裁判のやり直しが命じられ、無罪の判決をうけてジャンヌの名誉は回復された。
自分の隣人をさげすむ人は罪人。
貧しい者をあわれむ人は幸いだ。 (箴言一四21)
その報告がのった次の朝、新聞の漫画を見ました。「ルック」とか「ヨーロッパ二週間の旅」の旗をたてて、毎年何十万と出かける日本人旅行団が、旗を塗り替えて、「カンボジア難民を助ける旅」を組織して出かけるところでした。
日本人には、自分の家庭・職場・会社を守り、他人に迷惑をかけなければそれでいいという考えがあるのかもしれません。しかしほんとうの愛は、利害関係を越えて、隣人に助けの手をさし伸べないでしょうか。日本人の親は、関係のない人、いいえ、あなたの兄弟姉妹である世界の、国内の同胞たちに、無条件で愛の手をさし伸べる模範を、子どもたちに示していないのではないかと、私自身も反省しています。
三浦綾子さんは、長い病床の苦しい経験の中から、同じく病床で苦しんでいる病人の方たちに慰めの手紙をせっせと書き始められました。そして、このように言われたのです。「他人を慰めようとすること以上に、自分自身が慰められることはほかにない。」こうして具体的に隣人に愛の手をさし伸ベさせるものは、自然に心からわき出るものです。ほんとうの愛の行為は、ほんとうの愛の心から出てくるのです。そんな愛は、無条件で愛し、すべての人のためにいのちを捨てられた神を知り神に従うへりくだった心に、神から注がれます。そして、そのような人はことばで表せない幸せを経験するのです。
イエスは、その民が身に覚えのあるすべての罪をことごとく捨てなければ、共に歩まれない。主は言われる。「もし、あなたがたがわたしの戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです」と。
あるクリスチャンは、ごくまれに救い主のご臨在を経験するにすぎない。これはなぜか。たしかに弱い幼児が父親から離れているのは苦痛に違いないのに。あなたは神の子でありながら、父の顔を見ないで満足していられるのか。おお、あなたはキリストの花嫁でありながら、一緒でなくても満足していると言うのか。たしかに、あなたは悲しむべき状態に陥っている。なぜならキリストの貞節な花嫁ならば、夫が去ってしまえば、鳩のように嘆き悲しむはずだからである。
それゆえ、なぜキリストが去られてしまうかを考えてみよ。主はあなたの罪の塀の背後に身を隠された。塀は大石でも小石でも作れる。海は一滴の水が集まって、岩は砂の集まりによってできたものである。あなたを主から隔てている海も、あなたの小さな罪が集まったものかもしれない。あなたの船に致命的な大損害を与えた暗礁は、あなたの小さな罪というさんご虫の日ごとの働きによって造られたものかもしれない。
もしあなたがキリストと共に生き、共に歩み、キリストを見、そして交わりたいと願うなら、花盛りのぶどう畑を荒らす小狐に注意せよ。イエスは、共に狐を捕えに行こうと言われる。主はサムソンのように、ただちに狐を捕えられるだろう。主と共に猟に行け。