座間コミニティー

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◆洪水が来てすべての物をさらってしまうまで、

2016年11月01日 16時54分39秒 | 聖書
彼らはわからなかったのです。人の子が来るのも、そのとおりです。(マタイ二四・三九)
破滅はすべての人に及び、富んだ者も貧しい者も免れることはできなかった。みな等しく滅びにのまれた。ある者はノアをあざけったであろう。しかし今、彼らの嘲笑はどこにあるのか。ある者は、ノアの熱心が全くばかげているとおどしたであろう。しかし今、彼らの高言としんらつなことばはどこにあるだろう。この老人の働きを非難した批評家は、共に冷笑した仲間と同様に海中にⅥれた。この善人の確信を忠実だと励ましながら、行動を共にしなかった者もみな沈んで、再び浮かばなかった。また、雇われて巨大な箱舟を造るのを手伝った者たちも、同様に滅んだ。洪水は彼らのすべてを一掃し、一人ももらさなかった。これと同じように、もしキリストの外にいるならば、最後の滅亡は必ずすべての肉より生まれた者をおおい尽くす。階級、財産、人格に関係なく、主イエスを信じない者は一人も救われない。私のたましいよ。この大規模の審判を見て、恐れおののけ。
人々の無関心は驚くほどである。彼らはみな、恐ろしい朝を迎えるまでは、飲んだり、食べたり、めとったり、とついだりしていた。箱舟の外にいる者に知者は一人もいなかった。愚かさが全人類を惑わしていた。ことに最大の愚劣ともいうべき自己保存に関する愚かさが、彼らを支配していた。最も真実な神を疑う――これこそ最も悪質な愚かさである。
すべての人は恵みによって思考力が与えられるまでは、たましいのことを忘れている。恵みによって教えられて初めて、愚かな行為を離れて、理性ある人間らしく行動するが、それまでは決して目覚めない。
神をほめよ。箱舟の中の者はすべて安全で、一人も滅びなかった。巨象から小ねずみに至るまで、無事だった。臆病な野うさぎも勇猛なライオンと等しく、か弱いうさぎも力強い雄牛も等しく安全であった。同様に、イエスにある者はすべて安全なのである。
私のたましいよ。おまえはイエスの中にいるか。
 

「悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、

2016年11月01日 16時53分31秒 | 聖書

神のすべての武具を身に着けなさい」(エペソ6:11)

サタンの特質は偽りであり、偽るので、有ることないこと、自由自在に思いの内に吹き込む。
ない事も吹き込むので、これを受け入れて行くと、妄想がどんどん膨らむ事になる。

被害妄想しかりだ。黒を白に白を黒にする。罠にはまると、翻弄されていく。
「策略」というからには、はっきり欺こうとの意図があるわけだ。

思いに浮かぶ何もかもを信じてはならない。
否定的な思い、自分が落ち込んで行く思い、建て上げるのものでなく、破壊させて行くものを。

又、映画の映像のように思いに映して来る。
次々頭に浮かんで来るものを、何もかもを受け入れてはならない。
サタンが吹き込むのであり、自分が思っていると思わせるサタンの欺きがある。

私達の思いに、次々と映像を送り込む。そして、自分が思っているとしか思えなくする。
そう思わせれば、サタンは大成功だ。サタンが朝起きた時から、次々思いという火矢を飛ばしている。
朝起きた瞬間から気づけるように。どんな思いが来ているだろう。

デボーションを奪われてしまう。
先に食事、洗濯、掃除、あの事、この事、次々と「思い」が来る。
その「思い」に従って行くと、1日が終わり、デボーションが持てなかった事に気づく。

恐れ、非常な怒り、激しい批判、急かすもの、自己憐憫、疑心暗鬼、極度に自分を責めるもの、又誇るもの、それらの思いは神からではない。

逆に、喜び、平安、安堵、落ち着き、明るさ、信仰的、肯定的、前向き、将来的それらは御霊からの思いだ。
「御霊による思いは、いのちと平安です」

思いをよく見張っていよう。御霊から罪の指摘があれば、きちんと悔い改めるべきだ。
しかし、暗所に引きずり込むような思い、答えの出ない堂々巡りの議論、そんな思いに引きずられることを拒み、余りにしつこい時は、さっさと次の行動に移る事だ。
そうすれば思いが消える。サタン退散だ。

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外部からのもの~テレビ、本、新聞等は、一応警戒するが、自分の内から湧く思いには無警戒、無防備だ。
神からの思いとサタンからの思いが混線している事をわきまえよう。
常に「神様」と呼ばわり、御言葉、賛美、祈りで心満たしていよう。


今日の聖人の記念日

2016年11月01日 07時42分06秒 | キリスト教

諸聖人の日

 

 4世紀、コンスタンティヌス皇帝によってキリスト教がローマの国教となると、教会は各地の殉教者たちを悼み記念するようになった。609年、教皇ボニファティウス4世はローマのパンテオン(神殿)をキリスト教聖堂に建て直し、カタコンベ(殉教者たちの墓)の多くの遺骨をそこに移し、聖なる殉教者たちを記念した。教皇はこの日11月1日を「諸聖人の日」と定めた。

 「諸聖人」は、天国にいるすべての聖なる人の霊魂をさしており、神のもとで人びとのために取りなしており、敬われている。


◆お世辞は憎しみか

2016年11月01日 07時40分46秒 | 聖書

偽りの舌は、真理を憎み、
へつらう口は滅びを招く。     (箴言二六28)
聖書を一語一語原文に忠実に翻訳するのではなく、分かりやすく大胆に現代語にパラフレーズした書物があります。そのリビングバイブルでは、このところをこう言っています。「お世辞は憎しみが形を変えただけで、人をひどく傷つけます。」あなたがお世辞をよく言うほうか、そうでないかは分かりません。しかし、お世辞を言うことは、ことに、日本人とは切っても切れないもののように思います。はたして、お世辞は憎しみの変形でしょうか。
お世辞(へつらい)が偽りだということは、すぐ分かります。それは、二重に偽りです。第一に、その人が美しくないのに美しいなどと言うのですから、うそです。第二に、美しくないと思っているのに美しいと言うのですから、自分をごまかしているという意味でも、うそです。
そんなうそ・へつらい・お世辞を、なぜ私たちは言うのでしょうか。人に取り入ろうとか人の歓心を買おうとかして、お世辞を言うのです。
しかし深く考えてみると、ほかの方法では自分が優位に立つことのできないその人を、偽りのお世辞によって手玉にとって支配し、利用し、相手より優越した立場をとろうとしている。――こう考えると、お世辞と憎しみとはイコールです。お世辞ほど鋭い皮肉はありません。お世辞は、青酸カリのようにすぐ効きめが現れる毒薬ではありませんが、スモン病の原因となったキノホルムのようなものだといえないでしょうか。
キリストは、十字架の上から愛をもって、私たちに真実を語ってくださいました。その十字架のことばこそ、救いのことばでした。
 

◆あなたの家にある教会へ。

2016年11月01日 07時39分48秒 | 聖書
(ピレモン二節)
私たちの家に教会があるだろうか。両親や子ども、友人はすべて、そのメンバーになっているだろうか。なお回心していない者がいるだろうか。自分自身はどうであるか、ここで考えてみよう。もし家庭の最年長者から最年少者に至るまでことごとく救われているならば、父の心は大きな喜びに躍り、母の目は聖い涙で満たされるだろう。この大いなる恵みを求め、主がそれを私たちに与えてくださるまで祈ろうではないか。
ピレモンにとっても、家の者全部が救われることが心からの願いであったに違いない。しかし、最初は、思いどおりにはならなかった。彼には悪いしもべオネシモがいた。彼は主人に不義理なことをして逃げたが、主人ピレモンの祈りはこの悪いしもべの後に追いすがって離れなかった。ついに彼は、神のみこころによりパウロの説教を聞くように導かれ、その結果深く心を刺されてピレモンの家に帰ったのである。それは忠実なしもべとしてというだけでなく、愛する兄弟、またピレモンの家の教会の一員として帰ったのであった。
今朝、回心していない人、または子どもが欠席しているか。彼らが家に帰る時には、恵みによって変えられ、家の者すべてを喜ばせるように、特別な祈りをささげようではないか。
もし私たちの家にそうした教会があるなら、私たちはそれを整え、すべての者が神の見ておられるところで行動するようにしよう。教会には普通の家庭以上のことが期待されている。家庭の礼拝は、敬虔な心からのものであり、また愛は温かくとだえないものでなければならず、外に現れる行為は、さらに聖潔な、クリスチャンらしいものでなければならない。私たちは、家の教会員の数が少ないために全体教会のリストからはずされることを恐れる必要はない。なぜなら聖霊は、この家庭の教会を覚え書きの中に記しておられるからである。私たちは一個の教会として、全世界の教会のかしらであられる主の御前に近づこうではないか。そして主の御名の栄光のために、人々の前に輝く恵みを求めようではないか。
 

ヨブ記24章1-17節

2016年11月01日 07時38分14秒 | 聖書


24:10 「彼らは着る物もなく、裸で歩き、飢えながら麦束をになう。
24:11 その植え込みの間で油をしぼり、酒ぶねを踏みながら、なお渇く。
24:12 人の住む町からうめき声が起こり、傷ついた者のたましいは助けを求めて叫ぶ。しかし、神はその愚痴に心を留められない。」



 ヨブは、ヨブに対して語る友人達の言葉が、現実を見ない、ただ神は悪を行う者に報復をされるという原理で論議を終わらせてしまう事実を語って、現実を見ろと告げました。

今度はさらなる現実として、貧しい者、また苦しむ者がそのまま助けられないで、放置されている現実を見よというのです。

悪人達が我が物顔で歩き回り、彼らの下に置かれている人々が、そのために大変な苦しみに会っていると語ります。

そして、このようなことに、神様が何もお答えにならないという事実があることから、神様が悪に対してすぐに報復をされるという論議は、事実を見据えてはいない論議であると指摘しています。

 ヨブは神様の御心は更に深いところにあって、人の単なる論議の定式では語り得ないというのです。




ペテロの手紙第一5章6~10節(詩篇77篇)

2016年11月01日 07時35分50秒 | 聖書


★『(6節)ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです。
(7節)あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。
(8節)身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。
(9節)堅く信仰に立って、この悪魔に立ち向かいなさい。ご承知のように、世にあるあなたがたの兄弟である人々は同じ苦しみを通って来たのです。
(10節)あらゆる恵みに満ちた神、すなわち、あなたがたをキリストにあってその永遠の栄光の中に招き入れてくださった神ご自身が、あなたがたをしばらくの苦しみのあとで完全にし、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださいます。』


■O:今日のコラム
ここに霊的な戦いとその勝利の姿が描かれています。
(6~8節)まず主の御前にへりくだる姿勢が求められます。悔い改めて砕かれた心を持つ事から戦いが始まっていきます。霊的な戦いは、派手な悪霊追い出しのミニストリーだけではなく、自分の中から悪霊を追い出す、悔い改めからです。霊的な戦いは自分のたましいの領域から始まっていきます。
  そして、7節にあるように主に、全てを委ねて歩み続ける事が重要です。砕かれた心のまま歩むのです。『主に従ったら間違いがない』と、主に信頼して良い事を熱心に行う、御心を行う事に飢え渇く歩みです。『義のいけにえを捧げ、主により頼め』(詩篇4:5)
  それが(9節)堅く信仰に立つという事にあたります。苦しみの中で、主に信頼し続ける事こそサタンに立ち向かう事です。これが私達が、自分を捨て、自分の十字架を負ってイエス様についていく歩みです。ここに霊的な戦いのクライマックスがあります。
    そして(10節)にあるように完全な勝利、栄光が現されます。パウロが最も大切な事と言った、死と葬りと復活がここにあります。私たちに示された十字架の道、神に近づく道なのです。


■A:考えてみよう
十字架の先にある、『主と一つになる』というゴール目指して、砕かれて歩みましょう!


■P:祈り
日々、自分を捨て、十字架を負い、イエス様について行かせてください。信頼し、全てを委ねて、喜びと愛と恵みの中に、信仰の中に堅く立たせて困難に勝利させてください。


10月31日(月)のつぶやき

2016年11月01日 01時33分11秒 | キリスト教