聖パスカリス・バイロン司祭
1540年-1592年
スペインのトレエルモサの貧しい家に生まれたパスカリスは、幼いころから羊飼いをしていた。そのため学校に行くことができなかったが、自分で読み書きを勉強した。彼は早くから修道院に入りたいという望みを抱き、24歳でフランシスコ会に入った。修道院では規則をよく守り、毎日厳しい苦行をし、貧しい人々や病人に対しての愛において優れていた。毎日、聖体(ミサによってキリストの体に変えられたパン)の前で祈り、彼の聖体に対する信心の模範は後世まで伝わった。パスカリスは、国際聖体大会と聖体に関係ある保護の聖人とされている。
聖クリストバル・マガヤネス司祭と同志殉教者
1920年代後半
クリストバル・マガヤネス司祭と24人の殉教者は、主に1920年代後半、カトリック教会に対する弾圧が激しかったメキシコで殉教した人びとである。彼らのうち、3人の信徒、デヴィッド・ロルダン・ララ、マニュエル・モラレス、サルヴァトール・ララ・プンテ以外は教区司祭である。彼らが殉教した場所はハリスコ州とサカテカス州など、8ヵ所にわたる。
1917年、メキシコでは新しい憲法が発布されたが、内容は聖職者たちに対する弾圧をはじめとした教会にとっては厳しいものだった。その後、教会、学校、神学校は閉鎖され、外国の司祭たちは追放された。司教団がこれに反対するなか、一部の信徒たちが反乱を起こし、「クリステロ戦争」(1926年-1929年)がはじまった。
この信徒たちの暴動に対し、司教団はあくまでも平和的な解決を求めた。司祭であったクリストバル・マガヤネス(1869年-1927年)も、暴力による反乱に反対した。政府は、これを彼を捕らえるよい機会とし、「クリストバルは、クリステロ戦争を奨励している」と虚偽の報告をした。彼は1927年5月21日、野外ミサを司式していたときに逮捕された。彼は死刑執行者にゆるしのことばを述べ、裁判を受けることなく、聖アグスティン・カロカ司祭(1898年-1927年)とともに、殉教した。クリストバルの最期のことばは、「わたしは無実のうちに死ぬ。わたしのメキシコの兄弟たちが一致するように神に願いつつ、わたしの血をささげよう」だった。
クリストバルをはじめ、殉教した司祭、信徒たちは、政府の迫害と信徒たちの抵抗運動という混乱のなか、信仰のうちにゆだねられた人びとを守ろうと力を尽くし、その結果、死を持って自らを神と兄弟たちのためにささげた。
2000年5月21日サン・ピエトロ広場において、教皇ヨハネ・パウロ2世によって、列聖された。