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5月25日(金)のつぶやき

2018年05月26日 02時30分45秒 | 仏教
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5月22日(火)のつぶやき

2018年05月23日 02時31分40秒 | 仏教
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◆私の愛する方。

2018年05月22日 16時47分42秒 | 聖書
あなたはなんと美しく、慕わしい方でしょう。(雅歌一・一六)
あらゆる点から見て、私たちの愛する方は最も美しい方である。私たちのいろいろな経験で、天の父が新たな立場から、イエスが愛すべきお方であることを見させようとされるためである。試練が私たちを高い所に携えていき、平たんな生涯では見られない明らかなイエスを見させるとは、なんと快いことであろう。私たちは、イエスをアマナの頂から眺め、セニルから、またへルモンの頂から眺めてきた。そして主は、堂々たる太陽のような輝きをもって私たちを照らされた。
私たちは主を「獅子のほら穴、ひょうの山」から見てきたが、主はその美しさを失われなかった。病の床から、墓のそばから、私たちのたましいの花婿に目を注いだが、主は「すべてがいとしい」以外の何ものでもなかった。多くの聖徒は、牢獄の中から、火あぶりの炎の中から主を仰いだが、決して主を非難することなく、その無比の美しさをたたえながら死んだ。
救い主の任務の一つ一つを見、そのすべてが比類ないことを発見するのは、言語に絶する喜びではないだろうか。それはあたかも万華鏡を回して、新しい無比の恵みの組み合わせを見るようではないだろうか。飼葉おけの中において、そして永遠において、十字架において、そして御座において、園において、そして御国において、犯罪人の中で、あるいはケルビムの中で、主は至るところで「すべてがいとしい」。
主のご生涯の一つ一つのちょっとした行動、またそのご品性の一つ一つの特色を注意深く調べてみよ。主は王者の威厳をもたれるとともに、細部においても麗しいことがわかるであろう。あなたの心のままに主を判断せよ。主を非難することはできないであろう。主をはかりにかけて量れ。重さに不足されることはないであろう。永遠も私たちの愛するお方に、一点の影も見いださないであろう。否、むしろ、歳月とともに、主の隠れた栄光はますます輝きを加え、言い尽くすことのできない美しさが、天国を慕う人々の心にさらに注がれるのである。
 
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「五タラント預かった者は、

2018年05月22日 16時46分40秒 | 聖書

すぐに行って、それで商売をして、さらに五タラントもうけた」(マタイ25:16)

主人から5タラント、2タラント、1タラントと与えられた。
それぞれが、与えられるものが違い、分量が違い、大きさが異なる。
一人一人が境遇も能力も異なり、すべてが神の主権のもとにあり、神から来ている。神から与えられたものだ。

神から来ているゆえ、不満もつぶやきもない。
5タラントと2タラントの者は、もうけた額が異なっていた。
しかし、儲けた割合は一緒だった。
二人のもうけた額には差があるが、それぞれが2倍になった事には差がない。
そして、賞賛の言葉が全く同じだ。
「よくやった忠実なしもべだ。あなたはわずかな物に忠実だったから・・」
5タラント儲けた者も、2タラント儲けた者も同一の賞め言葉だ。

つまり、神は「忠実」を見られて、額は異なっても、同じ評価を与えられる。
人間と見るところが異なる。
人が見るのは、10タラントと4タラントという額ではないだろうか。
神は、成功、失敗ではなく、「忠実」を見て賞賛して下さる。

1タラントの者は、主人の心に、主人を喜ばせることに何の関心も無かった。
ただ考えていたのは、自分のことだけであった。自分のためにだけ生きていた。
「主人の喜びをともに喜んでくれ」5タラントと2タラントの者は、主人を喜ばせようとした。
そして、それが自分にも返って来た。
---------------
結果だけが全てなら失敗するより何もせずに1タラント残すやり方が一番楽だ。
失敗を恐れず、神様のために何かをしようとする心を大切にしよう。
それを何よりも喜んで下さるお方のために、与えられた賜物を素直に使って行こう。


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おはようございます。

2018年05月22日 07時23分02秒 | 日記

今日1日感謝の一日をありがとうございます。

合掌

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今日の聖人の記念日

2018年05月22日 07時22分20秒 | キリスト教

聖リタ(カシァ)修道女

1381年-1457年

 リタは、イタリアのウンブリアの小さな村に生まれた。両親が高齢になってから生まれたので、神からいただいた賜物として、両親は大切に育てた。リタは、カシアにあったアウグスチノ会の修道院に入ることを夢見ていたが、両親が決めた青年に嫁いだ。2人の間に双子が生まれたが、夫の激しい性格に苦しみ、リタは祈りによって家庭生活を支えた。ある日、町を二分する政党の争いに巻き込まれた夫が、暴力を受けて亡くなった。リタは、息子たちが復讐をするのではないかと恐れたが、2人はまもなく病気で亡くなった。

 一人になったリタは、若いときに希望していたアウグスチノ会に入会しようとしたが、夫の事件の関係で拒否された。しかし、神からの招きを確信して祈り続けたリタは、政党間に和平が実現したことにより入会を許された。リタは妻として、母として、未亡人として、修道者として、愛に根ざした平和を人々にもたらした。
 夫との長く苦かった生活は、リタに不和をおさめる方法を学ばせた。家庭内に問題のあるところでは彼女の忠告が喜ばれ、そのとおりにすると必ず幸福が帰ってきた。60歳のある日、リタが十字架像の前で祈っているときに、キリストの茨の冠から額に一本のとげを受けた。またリタは、「望みのないときの助け手」と言われている。

 生涯の最後の4年間は寝たきりとなったが、忍耐と明るい性格によって、姉妹たちと訪れる人々を支え、1457年5月22日、76年の生涯を閉じた。

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◆子どもを愛するとはどういうことか

2018年05月22日 07時20分56秒 | 聖書

むちを控える者はその子を憎む者である。
子を愛する者はつとめてこれを懲らしめる。(箴言一三24)
ほんとうに子どもを愛する親は、正しいことは正しい、悪いことは悪いとはっきりけじめをつけ、ぴしぴしとしつけるでしょう。権威をもって、教え導いていくと思います。
昔の親には、それがあったように感じます。食べる物も乏しく、着る物も粗末、情報・知識・教養も、今ほどありませんでした。しかし昔の親は、子どもはこうあってほしい、こうあるべきだというものを、ちゃんと知っていました。権威をもって子どもを叱り、しつけられる親だったように思います。
ところが、今の親はどうでしょうか。食べ物は余るほどあります。着る物もぜいたくです。自動車・冷蔵庫・ピアノなど何でもそろっていて、知識・教養も豊かです。しかし、子どもが叱れません。子どもの顔色をうかがい、子どもに追従していきます。権威がなくて子どもになめられ、軽蔑されている親が多いのではないでしょうか。
どうしたら、ほんものの権威をもって、子どもをしっかり育てられるような親になれるのでしょうか。
第一に、子どもを私物化しないことです。子どもをつくるなんてよくいいますが、子どもは神からの大切な預かり物だと、徹底的に分からなければなりません。エゴのない私心のない心から、権威は生まれるのです。どんなに知識や情報に通じていても、神を知らず神を恐れないで、ただ子どもを私物化する親には、権威が備わるはずがありません。
第二に、自分のエゴイズム・見え・都合でなしに、真実の愛を心の底に持つことです。神から預かった子どもを心から尊ぶことができ、おろそかにしない愛は、やはり神から出るのです。
 
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◆(主は)彼らをまっすぐな道に導き……。

2018年05月22日 07時19分48秒 | 聖書
(詩篇一〇七・七)
あまりに身の上の変化が激しいと、苦労性の信者は「なぜ私だけがこうなのだろう」と言う。光を求めたのに、見よ、暗やみがやって来た。平和を求めたのに、困難がやって来た。私は心の中で言った。「私の山は堅く立って、決して動かされることはない」と。しかし「主よ。……あなたが御顔を隠され、私はおじ惑っていました。」昨日、私は神の子どもであると堅く信じることができた。しかし今日になってみると、その確信は弱まり、その希望はかすんできた。昨日、ピスガの頂に登って前途を展望し、受け継ぐ御国を確信して喜ぶことができた。ところが今日は、たましいに望みなく、喜びなく、恐れは多く、悩みはひどくなった。
これは私に対する神のご計画の一部だろうか。神が私を天国に導かれる道だろうか。たしかにそうである。あなたの信仰が光を失い、心が暗くなり希望がかすむのは、すべて神が、将来あなたの受け継ぐべき大いなる資産を備えられるためである。これらの試練は、あなたの信仰を試み、強めるためである。これらは、あなたを岩の上に運んで行く波であり、またあなたの船を早く目ざす港に吹き送る順風である。ダビデのことばを借りれば、あなたについても「主は、彼らをその望む港に導かれた」と言い得るのである。
名誉、恥辱、賞賛、ひぼう、富、貧困、それらはすべてあなたのたましいのいのちを支え、あなたの前進を助ける手段である。おお、主にある友よ。あなたの悲哀が神のご計画の外にあるものと思ってはならない。それはご計画の重要な部分である。「私たちが神の国にはいるには、多くの苦しみを経なければならない。」だから、「さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思う」ことを学ぶべきである。
 ああ、私の動揺するたましいを静めてください
 あなたのさとく聖いみこころを
 待ち望ませてください
 主よ。あなたの目的を知ることはできませんが
 あなたは万物の支配者であられるゆえに
 すべてがよいのです
 
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詩篇104篇19-23節

2018年05月22日 07時17分55秒 | 聖書

104:19 主は季節のために月を造られました。太陽はその沈む所を知っています。
104:20 あなたがやみを定められると、夜になります。夜には、あらゆる森の獣が動きます。


私たちの生活には、秩序があります。

この秩序を守ることによって平和が保たれ、また安全が保証されます。

これは、人の身体や自然においても同じです。

人の身体の中に違った働きが入ってくると、病になることがあります。

自然も、突然に荒れた力が起こってきますと、変動が起こってしまいます。

神は、それぞれの自然の存在に、その目的を与え、秩序を与えて下さいました。

そしてその通りに働きますと、それは人への益となって作動します。

ここに主の「定め」があるのです。

 ところが、人は主の定めを破って、罪を犯してしまいました。

その結果、人の内に、自然の内に、また動植物の内にも思わぬ在り方が生まれてしまい、今は苦しみの中に置かれています。

主は、罪の全くない新天新地において、すべてのことの秩序と回復をもたらして下さるのです。

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創世記38章29節

2018年05月22日 07時14分38秒 | 聖書

★しかし、その子が手を引っ込めたとき、もうひとりの兄弟のほうが出て来た。それで彼女は、「あなたは何であなたのために割りこむのです」と言った。それでその名はペレツと呼ばれた。

■O:今日のコラム
創世記37章の中でユダは自分の弟ヨセフに対して悪を企み、無慈悲にも彼をエジプトに売りました。その自分勝手で、あわれみの心の無いユダが試練を経験し、とりなす者へと造り変えられていく歩みが38章には記されています。

弟を売った後ユダは他の兄弟からも離れてヒラという地で生活をするようになりました。彼はその地で三人の息子をもうけます。その息子たちはユダの自己中心的な性格を反映して育ち、上の二人の息子エルとオナンは神の怒りを受けて死にました。

ユダは彼らが死んだ理由を、彼らがめとった妻タマルのせいと思ったのでしょう。二人の息子が死んだ後、ユダはタマルを自分の家庭から遠ざけました。

かなりの日が経ち、タマルは自分が顧みられないことを悟り、策略をめぐらしユダと性的な関係を持ちます。当時、嫁いだ妻がその家に子どもを残すことは当然の義務でしたのでこれは罪ではなく、タマルが知恵を用いた賢明な行動でした。

その結果、タマルはユダによって双子をもうけ、ペレツとゼラフという息子が生まれました。ユダ、タマル、ペレツ(パレス)はマタイの福音書1章にも登場していますが、その子孫から後にダビデと数々の王たちが誕生し、そして私たちの王の王であられるイエス様がこの家系の元に誕生されました。

このペレツとは「割り込む」または「破れ口」という様な意味があります。その後に真っ赤な糸をつけた「輝く」という意味の弟ゼラフが生まれます。これは預言的な姿です。神の長子であられる主イエスが、天の父と私たちの間に割り込み、十字架を通して罪による全ての破れ口を修復してくださいました。その十字架によって罪赦され、私たちは主イエスの真っ赤な血潮を受けた輝く神の子として新たに生まれることが出来るのです。

ユダはタマルによる息子たちの出産を通して、自分自身が破れ口に立つ者となり、後にヨセフの前に立った時に、末の弟ベニヤミンをかばい、自分を差し出し、破れ口に立ってとりなす者にまで成長しました。

主イエスに属する私たちも信仰においてはユダから流れてくる王の家系に組み込まれており、破れ口に立つという重要な使命を受けています。すなわちそれが王であり祭司のつとめです。

今日一日もとりなしをもって神の和解を運ぶ者として歩みましょう。


■A:考えてみよう
家庭、学校、職場、乗る電車や車を運転する道など、自分が実際に関わる領域に神の平安を宣言してとりなし祈りましょう。


■P:祈り



イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。

【 しんご 】

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5月21日(月)のつぶやき

2018年05月22日 02時31分20秒 | 仏教
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◆……エジプトに穀物がある……。

2018年05月21日 17時11分23秒 | 聖書
(創世四二・二)
飢きんが国中の民を苦しめた。そしてヤコブとその家族も、非常な窮乏に陥ることは避けがたいように思われた。しかし、愛による選びの対象を決して忘れることのない摂理の神は、あらかじめエジプトに飢きんが来るとの警告を与え、豊年の時の穀物を貯蔵するように導いて、神の民の食物を豊かに備えられた。ヤコブは、エジプトによって救われることをほとんど期待していなかったが、彼のための穀物は備えられていた。
信者よ。たとえすべてがあなたの思いどおりにいかなくても、神はあなたのために備えてくださることを覚えて安心せよ。あなたの悲しみの巻き物には救いの計画が記されている。神はなんとかしてあなたを救われるのであり、どこかにおいてあなたのために備えをしておられる。あなたの救いは全く予期しないところから来るかもしれない。しかし、あなたがせっぱつまった時、必ず助けは来る。そしてあなたは、主の御名をあがめるであろう。もし人があなたを養わないならば、烏があなたを養う。そして、地が小麦を産み出さないならば、天がマナを降らせる。神は、もし望まれるならば、太陽を西から上らせ、悩みの源を喜びの水路に変えることもおできになる。
エジプトの穀物はすべて、愛するヨセフの手中にあった。神はみこころのままに穀倉を開くことも閉じることもできた。同様に、摂理の富は、すべて私たち主イエスの絶対的な力のうちにあり、主は惜しげもなくそれをご自分の民に与えられる。ヨセフは、家族を養うために豊かな準備をした。イエスもそのように兄弟たちのために絶えず忠実に心を砕かれる。私たちのなすべきことは、私たちのために備えられている助けを請い求めることである。祈りはただちに、私たちを王である兄のもとに連れて行く。主の御座の前に出て求め、そして受ければよい。主の蓄えは無尽蔵である。そこには穀物がある。
主よ。私たちの不信仰を赦し、今夜あなたの満ちあふれる中より豊かに受けさせ、恵みに恵みを加えてくださいますように。
 
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「父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、

2018年05月21日 17時10分21秒 | 聖書

走り寄って彼を抱き、口づけした」(ルカ15:20)

父親に、生前分与してもらった財産を持ち、弟息子は遠国に去った。
放蕩三昧で、湯水のように浪費した。遊女におぼれ、身代を食い尽くした。
身勝手、好き放題して、のこのこ帰り、その挙げ句、豪勢な宴会とは何事か。

日々辛い仕事を怠けずに、しんどい目をして働いた自分は一体何なのか、兄息子は受け入れられない。
納得が行かない。怒りで身体を震わせた。長い間、行方不明になっていた弟が、生きて無事戻って来たのだが、「あなたの息子」と、もはや弟ではない。

しかし、弟は、無一文になるや、金の切れ目は縁の切れ目で、取り巻き連中は皆去り、見捨てられた。
誰一人気遣ってくれる者もおらず、崖っ淵の困窮の中で、深い孤独、寂寥感、虚無感に呑まれた事だろう。

豚の番人、豚の餌、ユダヤ人が忌み嫌う動物だ。
そこまで落ちぶれプライドも何もかもグチャグチャだったろう。
餓死という死線を通り、心身どん底だった。
父親は、弟息子が通ったこの限界ギリギリの苦しみ、辛さ、痛みをわかっていたので、心は慈しみとあわれみで一杯だった。

「だが、お前の弟は、死んでいたのが生き返って来たのだ」弟は死を通ったのだと。
父は兄への愛も溢れ、兄を叱らず、とがめず、なだめ、「私のものは全部お前のものだ」と深い愛情を示す。
この神の愛にあなたはどう答えるだろう。

・・・・・・・・・・・・・・
弟にも兄にも、同じように注がれている、父の深い慈しみと愛。
心は父を離れ、父の愛がわからず、心屈折させる兄をも、全く責めず、「私のものは全部お前のものだ」とは何という愛だろう。
この愛で愛され、包まれている事を今朝も覚えよう。

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おはようございます。

2018年05月21日 08時29分18秒 | 日記

今日1日感謝の一日をありがとうございます。

合掌

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今日の聖人の記念日

2018年05月21日 08時28分04秒 | キリスト教

聖パスカリス・バイロン司祭

1540年-1592年

 スペインのトレエルモサの貧しい家に生まれたパスカリスは、幼いころから羊飼いをしていた。そのため学校に行くことができなかったが、自分で読み書きを勉強した。彼は早くから修道院に入りたいという望みを抱き、24歳でフランシスコ会に入った。修道院では規則をよく守り、毎日厳しい苦行をし、貧しい人々や病人に対しての愛において優れていた。毎日、聖体(ミサによってキリストの体に変えられたパン)の前で祈り、彼の聖体に対する信心の模範は後世まで伝わった。パスカリスは、国際聖体大会と聖体に関係ある保護の聖人とされている。

聖クリストバル・マガヤネス司祭と同志殉教者

1920年代後半

 クリストバル・マガヤネス司祭と24人の殉教者は、主に1920年代後半、カトリック教会に対する弾圧が激しかったメキシコで殉教した人びとである。彼らのうち、3人の信徒、デヴィッド・ロルダン・ララ、マニュエル・モラレス、サルヴァトール・ララ・プンテ以外は教区司祭である。彼らが殉教した場所はハリスコ州とサカテカス州など、8ヵ所にわたる。

 1917年、メキシコでは新しい憲法が発布されたが、内容は聖職者たちに対する弾圧をはじめとした教会にとっては厳しいものだった。その後、教会、学校、神学校は閉鎖され、外国の司祭たちは追放された。司教団がこれに反対するなか、一部の信徒たちが反乱を起こし、「クリステロ戦争」(1926年-1929年)がはじまった。

 この信徒たちの暴動に対し、司教団はあくまでも平和的な解決を求めた。司祭であったクリストバル・マガヤネス(1869年-1927年)も、暴力による反乱に反対した。政府は、これを彼を捕らえるよい機会とし、「クリストバルは、クリステロ戦争を奨励している」と虚偽の報告をした。彼は1927年5月21日、野外ミサを司式していたときに逮捕された。彼は死刑執行者にゆるしのことばを述べ、裁判を受けることなく、聖アグスティン・カロカ司祭(1898年-1927年)とともに、殉教した。クリストバルの最期のことばは、「わたしは無実のうちに死ぬ。わたしのメキシコの兄弟たちが一致するように神に願いつつ、わたしの血をささげよう」だった。

 クリストバルをはじめ、殉教した司祭、信徒たちは、政府の迫害と信徒たちの抵抗運動という混乱のなか、信仰のうちにゆだねられた人びとを守ろうと力を尽くし、その結果、死を持って自らを神と兄弟たちのためにささげた。

 2000年5月21日サン・ピエトロ広場において、教皇ヨハネ・パウロ2世によって、列聖された。

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