座間コミニティー

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

◆ミカエルと彼の使いたちは、竜と戦った。

2016年11月30日 17時37分22秒 | 聖書
それで、竜とその使いたちは応戦したが……。(黙示録一二・七)
二つの大いなる主権の間には絶えず戦いがあり、どちらかが打ち滅ぼされるまでこの戦いは続く。善と悪との間には平和はあり得ない。平和が来たように見えるならば、それは実際には、やみの力が勝利しているのである。ミカエルは常に戦う。彼の聖なる霊は罪を憤り、罪を許さない。
イエスは常に竜の敵であられる。イエスは静的な意味においてではなく、積極的に力強く、悪を根絶しようとする決意に満ちておられる。
すべての主のしもべは、天にある御使いでも、地にある使者でも、戦うのであり、また戦わなければならない。被らは戦士として生まれてきた。――十字架の下で、彼らは決して悪と休戦しないことを誓った。彼らは勇敢な仲間である。守る時は堅固であり、攻める時は勇敢である。主の軍隊のすべての兵士の任務は、日ごとに、全心全霊全力を傾けて竜と戦うことである。
竜とその使いたちは戦いをやめない。彼らは絶えず猛襲をくり返し、武器も手段も選ばない。私たちがもし何の反対も受けずに神に仕えることを期待しているとするならば、それは愚かである。私たちが熱心であればあるほど、必然的に地獄の軍勢の攻撃にさらされる。教会は怠慢になるかもしれない。しかし、教会の大敵サタンはそうではない。彼の気持ちは落ち着かず、決して戦いをやめない。彼は女のすえを憎み、教会をむさばり食うことを願っている。サタンの手下どもは、常に活動的である。戦いは至る所でなされ、平和を夢見ることは危険であり、無益である。
しかし、栄光神にあれ。私たちは戦いの結末を知っている。巨大な竜は投げ落とされ、永遠に滅ぼされる。主と主に伴う者は冠を受ける。
今夜、私たちの剣をとぎ、戦いのために腕を強くされるように聖霊に祈ろうではないか。この戦いほど重要な戦いはなく、この冠ほど栄光に満ちた冠はない。十字架の戦士よ。部署につけ。遠くないうちに、主がサタンを足下に踏みにじってくださいますように。
 
コメント

「何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、

2016年11月30日 17時36分31秒 | 聖書

神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です」(Ⅰヨハネ5:14)

祈りは聞かれるが、聞かれない時は、「ノー」の答えか、あるいは尚も祈り続けよということだ。
ノーの答えの一つに、「動機」が間違っていることがある。

動機は非常に大切だ。動機が間違っていたなら、決して聞かれる事はない。
ある婦人が赤ちゃんが欲しいと神に願い祈っていた。
ところが、祈り続けるものの、幾ら祈っても祈っても答えがない。

与えられないと、ますます願望と執着は強くなり、委ねて行く事とは逆に向かい、どんな事をしても絶対に与えられなきゃ嫌だと思った。
しかし、余りの気持ちの強さに、このまま行けば、仮に与えてくれるなら、偶像でも何でもよいとまで行き着く事になると、愕然とした。

自分が神の上に立って、指図しようとしてる態度、何がなんでも、神から恵みをもぎ取ろうとしている、欲望のために神を利用する、恐るべき自分の姿に気づかされた。
号泣の中で心から悔い改めた。

何もかも神に明け渡し、心すっきりし、平安にされた。
もう子供はいいと思えた。
そう思えるほど、心が喜びと平安で満たされていた。

その後、御心のままにと委ねていたら、数年して、医師からは妊娠できない身体と言われていたのに、神は赤ちゃんを与えて下さった。

喜びであり感謝であったが、何よりも、いかに自我が強く、自己中心であるかを示され、気づけたこと、間違った心が正され、平安と喜びに満たされたこと、その事が感謝でならなかった。
神が取り扱って下さり、隔てが除かれ、神ご自身との交わりが何よりも喜びとされた、その事が嬉しかった。

-----------------
もし、祈りが聞かれなかったら、祈りの動機もよく探ってみよう。動機が間違っているなら、御霊が気づきを与え、祈りの軌道修正をして下さる。
そして、願い通りでなくとも、思いを越えた更に良きものを与えて下さる。

コメント

今日の聖人の記念日

2016年11月30日 07時16分53秒 | キリスト教

聖アンデレ使徒

1世紀

 アンデレは、ガリラヤのベツサイダの漁師であった。初め洗礼者ヨハネの弟子であった彼は、イエスが通りかかったとき、ヨハネが「見よ、神の子羊を」(ヨハネ1.36)と言ったのを聞き、その晩はイエスと過ごした。翌日、兄弟シモン・ペトロ(聖ペトロ)をイエスのところに連れていった。その後、ペトロと網を打っていると、イエスに呼びかけられ、2人は従った(参照 マタイ4.18-20、マルコ1.16-18)。

 イエスは、その後12人の弟子を選び、アンデレもその中に入った。聖書の中でアンデレが登場するのは、イエスが行なったパンを増やす奇跡の場面(ヨハネ6.8-10)などで、地味ではあるが、思慮深い性格が現われている。

 伝承によれば、イエスの昇天後ギリシャのパトモスで宣教し、そこでX型の十字架にかけられて殉教したといわれている。

 彼は漁師の保護者、またスコットランドの保護者とされている。特に東方教会では、特別な保護者として敬われている。

コメント

◆思  い  や  り

2016年11月30日 07時15分48秒 | 聖書

正しい人は
寄るべのない者を正しくさばくことを
知っている。
しかし悪者はそのような知識をわきまえない。(箴言二九7)
上に立つ人・人を治める人に欠くことのできない資格の一つは、人への思いやりです。
自分に反対する敵に対してさえ、王は、思いやりがなければならないと聖書は言うようです。イエス・キリストは、こう言われました。「わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです」(マタイ五44―45)。
私たちは、目に見える区別にばかり気をとられます。金持ち・教養のある人・知恵のある人・力のある人、こんな人ばかりに注目します。そして、年寄り・女子ども・貧しい人・力のない人・知恵のない人を、見くだしたり無視したり忘れたりしやすいのです。
養わなければならない子どもを、やっかいがってはなりません。次の世代を構成する人たちです。老人――それは、何年か後のあなたなのです。
発想を換えてみてください。
死を前にして、神のさばきの前に立って考える時、私たち一人一人は何とむなしく弱くけがれた者でしょう。金や肩書きや免状などは、何でもありません。すべてが平等です。死よりも強い神の愛・神の力の前に、自分を置いてごらんなさい。一羽の雀すら野の一本の花すら、神のみこころによって歌い、美しく咲いています。まして、神に愛されていない人は一人もいないのです。上に立つ者は、すべての人に公平な思いやりがなくてはなりません。
 
コメント

◆アマツヤは神の人に言った。

2016年11月30日 07時15分03秒 | 聖書
「では、イスラエルの軍勢に与えた百タラントはどうしたらよいのか。」神の人は答えた。「主はそれよりも多くのものをあなたに与えることがおできになります。」(Ⅱ歴代二五・九)
この質問は、ユダの王にとって非常に重要なものと思われる。また試練に会い、誘惑にさらされているクリスチャンにとっても、おそらく、さらに重要なものであろう。金銭において損することは、どのような場合でも快いものではない。正しい目的の場合でも、肉はその犠牲をいつも喜んでささげるわけではない。「有効に使用できるものをなぜ失うのか。真理の価はあまりにも高すぎるのではないか。あの金を失えば、私たちはどうすればよいか。子どもたちや、少ない収入のことを考えたらどうだ」と。このようなことがクリスチャンを誘惑して、正しくないことに手を出させるのだろう。あるいは、重大な損失をもたらすことが明らかな時、良心的な行動をちゅうちょさせるのだろう。この問題を信仰の光に照らして見ることは難しい。イエスに従う人々にとってさえ、「私は生きなければならない」という原則が大きな比重をもっている。
「主はそれよりも多くのものをあなたに与えることがおできになります。」これは私たちの心配への完全な解答である。私たちの父は全世界の財宝の管理権をもっておられる。そして私たちが主のために失うものを、千倍にもして返される。主のみこころに従うのが私たちのなすべき分であり、従う時、主は必ず私たちのために備えられるのである。主は何びとに対しても債務者の地位には立たれない。
聖徒たちは、一粒の平安が一トンの黄金よりも尊いことを知っている。真実な心は、たとえ牢獄であろうと、神のほほえみさえあれば満足する。祝福に満ちたたましいは、宮殿にあっても神の不興にあえば地獄にいるように感じる。最悪の事態がやってこようと、すべての金銭を失おうと、私たちは自分の宝を失うことはない。神の右に座するキリストのもとにあるからである。現在においても、主は柔和な者に地を相続させ、正しく歩む者に良いものを拒まれることはない。
 
コメント

ヨブ記34章16-30節

2016年11月30日 07時13分34秒 | 聖書


34:24 「神は力ある者を取り調べることなく打ち滅ぼし、これに代えて他の者を立てられる。
34:25 神は彼らのしたことを知っておられるので、夜、彼らをくつがえされ
る。こうして彼らは砕かれる。」



 エリフは、ヨブが神の裁きにあっているのだと判断しています。

そして、神による裁きは、人がそのすべてを知り得ることではないので、人は自分の義をそこで立てることはできないと告げます。

神は人を取り調べなくても、そのすべてを知っておられるので、その人を討ち滅ぼして他の人を立てられる。

たとえ人はその人が正しいと思っても、神はそうは見ておられない。

だから、その扱いに人は驚くであろう。

しかし、神は人のすべてを知っておられるお方であるのだ。

そのすべてを知っておられる神があなたを裁き、あなたを苦しめておられるのだ。

そこには、神の側に不正があるのではない。

人は知らず、またヨブも語ろうとしないけれども、しかし神はすべてを知っておられるので、そのヨブの悪しきことを知られて、ヨブを裁いて苦しめておられるのだ、というのです。

コメント

ヨハネの福音書14章26節

2016年11月30日 07時11分40秒 | 聖書


★ しかし、助け主、すなわち、父がわてしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。

詩篇92篇4~6節
★ 主よ。あなたは、あなたのなさったことで、私を喜ばせてくださいましたから、私は、あなたの御手のわざを、喜び歌います。主よ。あなたのみわざはなんと大きいことでしょう。あなたの見計らいは、いとも深いのです。まぬけ者は知らず、愚か者にはこれがわかりません。


■O:今日のコラム
しゃろーむ!11月29日の朝です。今日一日も、天のお父さん、イエス様、聖霊様を歓迎していきましょう。そして、主に感謝のほめ歌を歌い、言い表していきましょう。聖霊様が僕らに、天のお父さんとイエス様についての奥深すぎる御技を教えてくださるからです。

「主に感謝するのは、良いことです。いと高き方よ。あなたの御名にほめ歌を歌うことは。朝に、あなたの恵みを、夜ごとに、あなたの真実を言い表すことは。十弦の琴や六弦の琴、それに立琴によるたえなる調べに合わせて。」(詩篇92篇1~3節)


主のなさることは、人間には思いつくことのできない本当に不思議なことをなされていきます。その一つ一つには、ハッキリとした主の理由があります。目的があります。しかし、僕らには、その目的がわからず、なぜ、どうして、とつぶやいてしまうかもしれません。だから、聖霊様が必要です。

イエス様が十字架に架かられ、僕らの全てのマイナスを背負ってくださいました。そして、地に下られてから、3日目に復活されました。復活されたイエス様は、今も生きています。生きているイエス様が天に戻られたことで、今、僕らの内側には、助け主なる聖霊様が住んでくださっています。驚くべきことです。聖霊様は、「あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。」のです。この御技は、人間的に考えると理解できない内容です。しかし、聖霊様は、イエス様を信じる信仰を僕らに与えてくださいます。すべてのことを思い起こさせてくださいます。

だから、聖霊様を歓迎していきましょう。聖霊様が自由に働いてくださるように、聖霊様の宮である僕らの内側を、イエス様の十字架による血潮できよめていきましょう。悔い改めへと導いていただきましょう。御言葉を朗読していきましょう。絶えず賛美を口ずさんでいきましょう。イエス様の御言葉を愛し、とどまっていきましょう。


■A:考えてみよう
主はあなたを喜ばせてくださいましたか?
主を喜び歌いましょう。
聖霊様を歓迎していきましょう。
聖霊様によって、御言葉を朗読していきましょう。


■P:祈り



イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。

コメント

11月29日(火)のつぶやき

2016年11月30日 01時36分58秒 | キリスト教
コメント

◆そそぎの油とかおりの高い香のための香料……。

2016年11月29日 17時09分23秒 | 聖書
(出エジプト三五・八)
この注ぎの油は律法の下で多くの用途をもち、福音の下でも最も重要なものを代表している。もし私たちが受け入れられる奉仕をしようとするならば、すべての聖い奉仕のために油を注がれる聖霊は、私たちにとって欠くことができない。聖霊の助けがなければ、私たちの信仰上の奉仕はむなしい儀式にすきず、私たちの内なる経験は死んだものである。聖霊の油を注がれない時、私たちの伝道はなんとみじめなものになることだろう!
私たちの祈り、賛美、黙想、クリスチャンとしての個人的努力においても同様である。聖い油を注がれることは、敬虔への道のたましいであり、いのちである。それを欠くことは、すべての不幸のうち最大の不幸である。油注ぎを受けないで主の御前に出るのは、あたかも普通のレビ人が祭司の務めをするようであり、それは奉仕というよりむしろ罪である。どうか、私たちが聖なる油注ぎを受けずに、あえて神聖なるわざに携わることのないように。油は私たちの栄光のかしらなるお方から、私たちの上にしたたる。主に油が注がれることにより、主の衣のすそである私たちも、その豊かな油注ぎにあずかる。
精選された香料は、薬剤師の巧妙な技術によって調合されて注ぎの油となり、私たちに聖霊の感化の豊かさを示す。すべてのよいものは、神である慰め主の中に見いだされる。たぐいない慰め、誤りない教え、不滅のいのち、霊の力、神の聖潔、これらのすべてが、他の高貴なものと結合されて、聖霊の天来の注ぎの油の中に見いだされる。これを注がれる人は、その品性の上に快い香りを受ける。富む者の財宝の中にも賢者の知恵の中にも、これに比すべきものは見いだされない。それは模倣できるものではない。それは神のみから来て、イエス・キリストを通して、すべての待ち望むたましいに無代価で与えられる。
私たちは、それを求めようではないか。なぜなら私たちはそれをもつことができるからである。今夜でも、おお主よ。あなたのしもべに油を注いでください。
 
コメント

「悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、

2016年11月29日 17時08分36秒 | 聖書

神のすべての武具を身に着けなさい」(エペソ6:11)

エステル記で、ハマンは王に重んじられ、家来は皆、ハマンにひれ伏した。
しかし、モルデカイがそうしないので、ハマンは憤りに満たされた。

そこでモルデカイの民族を根絶やしにする事を画策した。
王にうまく取り入り、動かし、ユダヤ民族皆殺しの、王の命令を取り付けた。

サタンが、この邪悪なハマンを通して、神の計画をつぶし、阻止しようと働いた。
ユダヤ民族皆殺しの勅令が出された。

モルデカイは祈り、王妃エステルに、王にあわれみを求めるよう伝えた。
エステルは、召されないで王のもとへ行く者は死刑、そして、自分はこの30日間王に召されていない。
しかし、命をかけるので、自分のために、民に断食の祈りを頼んだ。

祈りがなされた。ハマンのまずの標的はモデルカイであり、殺害すべく柱まで用意した。
神は祈りに答え、介入された。

王を不眠にし、年代記を読むようにしむけ、モデルカイの手柄を見つけさせた。
結局、神が、ハマンが裏で仕組んだ邪悪な企みを、明るみに出し、明らかにされた。

モルデカイ殺害のための柱に、ハマン自らがかけられる事になった。
邪悪な企みは自らの身に返った。サタンの陰湿な企みは、神が明るみに出される。
隠れたものは明らかにされる。

祈りがなされ、神はモルデカイに知恵を与え、なすべき事を示し、エステルは命を献げ、行動し、サタンは打ち破られた。
陰での邪悪な行ない、陰口や批判は必ず、神が明るみに出される。
サタンを見破り、真理に、光に、愛に歩もう。

-----------------
サタンは神の計画を壊そうと、攻撃して来るが、神は切なる祈りに答えて、働かれる。
知恵を与え、指針を与え、なすべき事を示される。
争い、分裂、トラブルの背後にサタンが働いている。
真の敵をよく識別できるよう祈ろう。

コメント

今日の聖人の記念日

2016年11月29日 08時17分53秒 | キリスト教

聖セルニン殉教者(トゥールーズ)

3世紀

 セルニンは、ローマで生まれ、245年ころ教皇ファビアノからスペインのパンプローナに派遣された。彼は、そこからフランスのアルスに渡り、司教のもとで宣教に従事した。

 その後トゥールーズの司教に任命され、説教によって多くの人びとを信仰に立ち返らせた。しかし、トゥールーズのキリスト教でない神殿の祭司たちは、人びとがセルニンの建てた教会にお金を寄付することで、彼に反感を持つようになった。そして、ついにセルニンは、祭司たちに殺された。

 今日、トゥールーズの聖セルニン教会は、フランスで最も大きいロマネスク建築の教会である。セルニンの遺骨は、1746年に作られた墓のブロンズの雄牛の上に安置されている。

コメント

◆喜びの三条件

2016年11月29日 08時16分50秒 | 聖書

悪人はそむきの罪を犯して自分のわなをかける。
しかし正しい人は喜びの声をあげ、楽しむ。(箴言二九6)
世の中のあらゆる罪は、背きの罪です。神はあなたを愛し、あなたのために最善の計画を立て、あなたに最善のことをしてくださろうというのに、それを踏みにじり、自分勝手な恥ずかしいつまらないことをしてしまうエゴイズム。――それが罪であり、背きです。また、罪の大部分は神の愛への背きであるばかりか、人の愛・信頼・期待への裏切りなのです。罪こそは、人間関係を壊すナンバーワンの元凶です。
ところが、神に対しても隣人に対しても正しい関係にある人、つまり正しい人は、「喜びの声をあげ、楽しむ」といわれます。「喜び」は、楽しみとか幸せとかいう以上に、生き生きした健全な生き方のシンボルみたいなことばです。幸せは、めぐり合わせのよい時のもの、楽しみは、楽しいことをしている時のものです。しかし、貧しい時・病む時・苦しい時も、そして楽しくない時にもわきあがってくるものこそ、「喜び」です。
人生の最も深い喜びの土台に、三つのものがあると思います。
・ 愛し愛されている、受け入れられ受け入れているという確信。
・ 進んで喜んで語り合うコミュニケーションの道が、まっすぐ開けていること。
・ 自分のためでなく、相手のために仕えるという心の姿勢があること。
この三拍子がそろえば、「喜びの声をあげて楽しむ」ことのできる人間関係に太鼓判が押されます。まずキリスト・イエスを通して、私たちに対して三つの条件を整えてくださった神は、私たちを待ち構えていらっしゃいます。私たちがその愛に応答していくところに、何ものにも侵されない「喜び」の人生の出発があるのです。
 
コメント

◆人々の間を歩き回って、人を中傷してはならない。……

2016年11月29日 08時16分07秒 | 聖書
あなたの隣人をねんごろに戒めなければならない。そうすれば、彼のために罪を負うことはない。(レビ一九・一六、一七)
人の悪口を言う者は三重の毒を流す。悪口を言う者と、聞く者、話題に上っている者を害するからである。その悪口が真実であるかどうかにかかわりなく、私たちはみことばによって、それを禁じられている。
主の民の名声は非常に尊いものである。私たちは悪魔を助けて教会を辱しめ、主の御名を汚さないように心しなければならない。ある人々の舌には、拍車よりもむしろくつわが必要である。多くの人々が、兄弟を引きずり下ろすことによって、あたかも自分の地位が高められたかのように思って得意になっている。
ノアの賢い息子たちは、裸の父に着物をかけた。そして、父の裸を暴露した子どもは恐ろしいのろいを受けた。私たち自身この暗黒の時代に住んで、自分たちの兄弟が寛容であり、沈黙を守ってくれることを望んでいる。私たちも喜んで、今それを必要とする者に同様の態度をとろうではないか。人の悪を語るな。これを私たちの家憲とし、誓いとしよう。
しかし聖霊は、私たちが罪をとがめ、それに対して適当な処置をとることを許しておられる。だが、それは陰で兄弟をあざ笑うのではなく、相対して戒めることによってなされなければならない。これは雄々しく、兄弟愛に満ちた行いであり、キリストと同じ方法である。これは神の祝福を受け、効果を上げるであろう。
肉はそれを恐れるか。それなら私たちはさらに良心を励まし、ぜひともそれを実行しなければならない。それは友人の罪を見過ごすことにより、私たちが共犯者とならないためである。誠実な牧師や主にある兄弟たちの時宜を得た、賢明な、愛のある警告によって、幾百という人々が重大な罪から救われている。私たちの主イエスはペテロに警告を与え、またそれに先立って祈り、彼が高慢にもそれを無用だとして拒んだのに、優しく耐え忍ばれた。そして、罪を犯した友をどう扱うべきかという、いつくしみ深い模範を示されたのである。
 
コメント

ヨブ記34章10-15節

2016年11月29日 08時14分14秒 | 聖書


34:10 「だから、あなたがた分別のある人々よ。私に聞け。神が悪を行うなど、全能者が不正をするなど、絶対にそういうことはない。
34:11 神は、人の行いをその身に報い、人に、それぞれ自分の道を見つけるようにされる。
34:12 神は決して悪を行わない。全能者は公義を曲げない。」



 ヨブが「自分に誤りがあるのではない、神が私に敵対しているから私に苦しみが到来し、神が私を痛めつけるので苦しみがくるのだ。」と言っていると、エリフは言います。

そして、エリフは語ります。

それではまるで、神が悪を行う方のようではないか。

また、不正を行う方のようではないか、と。

もし神が不正を行い、また悪を行うのであれば最早、神は神ではあり得ない。

だから、あなたを苦しめているのは決して神ではない。

その苦しみは、人が悪を行っているので、その悪の結果としての苦しみが、その人にもたらされるのだ。

だから、今、ヨブが苦しんでいるのは、ヨブ自身の悪しき行いのためであって、その結果として苦しみが到来しているのだ、というのです。



コメント

詩篇91篇7~9節(ヨハネ13章)

2016年11月29日 08時12分15秒 | 聖書


★『千人が、あなたのかたわらに、万人が、あなたの右手に倒れても、それはあなたには、近づかない。
あなたはただ、それを目にし、悪者への報いを見るだけである。
それはあなたが私の避け所である主を、いと高き方を、あなたの住まいとしたからである。』


■O:今日のコラム
私たちは、安定した歩み、心、生活を求めたいと思うものです。それならば、困った時に主に願い、避けどころとなっていただくだけでは不十分です。主と共に住まう事を求める時です。
  安定した生活とは、目の前に困難や問題がやってこないという事ではないのです。この聖句でも、霊的な戦いの中にいて、その最前線に立たされているからこそ、私たちの『かたわら』や『右手』に敵が倒れるのをながめているのです。血潮の宣言で用いている申命記28章にもこうあります。

『主は、あなたに立ち向かって来る敵を、あなたの前で敗走させる。彼らは、一つの道からあなたを攻撃し、あなたの前から七つの道に逃げ去ろう。』(申命記28:7)

  敵は目の前までやってきます。私たちは、自分からはるか遠くで敵が滅んでくれたら良いと感じます。しかし、主は、目前まで敵を引き寄せ、そこで打ち破り、神に対する信頼を学ばせます。私たちの安定した生活というのは、問題がない生活ではないのです。問題があってもそこに勝利がある事を確信している生活なのです。
    私たちが、攻撃されて傷ついて、主に助けていただいて、解決を見て、という歩みも良いものです。しかし、それはまるで士師記の時代の生き方です。傷ついて癒されて、というパターンよりも、攻撃がまるで効かない状態に入っていることが理想です。治療より、予防が優れているのと同じです。私たちが主を住まいとするならば、敵の武器は役に立たなくなるのです。
    この住まうという語は、(へ)マオーンですが、その類義語に(へ)オナーがあります。オナーとは、婚姻の権利とか、同居という意味です。私たちが、『自分は自分のもの』という生き方から、『私は主の妻』、『私の心も身体も主のもの』という生き方をする時に、主を住まいとするという御言葉が実現するのです。私たちの夫が主であるなる事を認めるでしょうか?『妻は自分のからだに関する権利を持っておらず、それは夫のものです』(1コリ7:4a)とある通りです。
    私たちのワンシングはこれです。

『私は一つのことを主に願った。
私はそれを求めている。
私のいのちの日の限り、主の家に住むことを。
主の麗しさを仰ぎ見、
その宮で、思いにふける、そのために。』(詩篇27:4)

  しかし、主の家に住まう事を求めるとは、祈りの生活をする事(第一の戒め)」と共に、生活の中で主にからだを捧げる事(第二の戒め)でもあるのです。第一の戒めが最優先ですが、第二の戒めも同じように大切なのです。


■A:考えてみよう
自分の全部が主のものである事を認め、肉を手放す事を惜しまない。主を主として生きる。主を夫として生きる。


■P:祈り
心を尽くし、精神を尽くす事に終わらず、力を尽くしてあなたを愛します。私はあなたのものです。私を通してあなたのなさりたい事がなされますように。

コメント