2:5 「彼らに争いをしかけてはならない。わたしは彼らの地を、足の裏で踏むほども、あなたがたには与えない。わたしはエサウにセイル山を彼の所有地として与えたからである。」
ヤコブとエサウは兄弟でした。
しかし神様は、ヤコブを民の相続人として選んで、彼が父イサクの家系を継ぐ者とされました。
それは神様の一方的な選びによったことでした。
ヤコブに何かしらの価値があったわけはありません。
それはただ、一方的な神の恵みによったのです。
これは私たちも同じです。
私たちはイエス様を信じてその救いに預かったのですが、それは私たちが賢かったからでも、あるいは判断力があったからでもありません。
神が憐れみをもって、召してくださったからです。
神様は相続に預からなかったエサウに対して、別の意味で恵みを施しておられます。
セイル山を彼から奪い取ってはならないというのです。
主が与えられたからです。
今、信仰を持たないでイエス様の救いを知らない人々も、この世界では主の豊かな恵みに預かっています。
生活における楽しみや喜び、それらは、主の恵みなのです。
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1:42 それで主は私に言われた。「彼らに言え。『上ってはならない。戦ってはならない。わたしがあなたがたのうちにはいないからだ。あなたがたは敵に打ち負かされてはならない。』」
主は、主を信じないで、あの約束の地に入ろうとしない民に対して、怒りを発せられました。
そして彼等を約束の地への道ではなく、荒れ野への道を進むように命じられました。
このことを聞いた民の一部の人は恐れて、自分たちは主の言葉に従いますと言って、約束の地に入っていこうとしました。
その時モーセは彼等に対して、上ってはならないと言ったのです。
それは、主がもう共におられないからだというのです。
その言葉に逆らって上っていった人々は皆、敵に殺されてしまいました。
彼等が主の言葉に、この時も、聞き従わなかったからです。
信仰とは、自分たちが勝手にそうだと思ったことを信じることではありません。
信仰は、主が語られ告げられた言葉に聞き、その言葉に信頼して従うということにあります。
主が求めもしないし、約束もしなかったことを行っても、それは信仰的に全く意味を持たないのです。
正しい人は
寄るべのない者を正しくさばくことを
知っている。
しかし悪者はそのような知識をわきまえない。(箴言二九7)
上に立つ人・人を治める人に欠くことのできない資格の一つは、人への思いやりです。
自分に反対する敵に対してさえ、王は、思いやりがなければならないと聖書は言うようです。イエス・キリストは、こう言われました。「わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです」(マタイ五44―45)。
私たちは、目に見える区別にばかり気をとられます。金持ち・教養のある人・知恵のある人・力のある人、こんな人ばかりに注目します。そして、年寄り・女子ども・貧しい人・力のない人・知恵のない人を、見くだしたり無視したり忘れたりしやすいのです。
養わなければならない子どもを、やっかいがってはなりません。次の世代を構成する人たちです。老人――それは、何年か後のあなたなのです。
発想を換えてみてください。
死を前にして、神のさばきの前に立って考える時、私たち一人一人は何とむなしく弱くけがれた者でしょう。金や肩書きや免状などは、何でもありません。すべてが平等です。死よりも強い神の愛・神の力の前に、自分を置いてごらんなさい。一羽の雀すら野の一本の花すら、神のみこころによって歌い、美しく咲いています。まして、神に愛されていない人は一人もいないのです。上に立つ者は、すべての人に公平な思いやりがなくてはなりません。
「では、イスラエルの軍勢に与えた百タラントはどうしたらよいのか。」神の人は答えた。「主はそれよりも多くのものをあなたに与えることがおできになります。」(Ⅱ歴代二五・九)
この質問は、ユダの王にとって非常に重要なものと思われる。また試練に会い、誘惑にさらされているクリスチャンにとっても、おそらく、さらに重要なものであろう。金銭において損することは、どのような場合でも快いものではない。正しい目的の場合でも、肉はその犠牲をいつも喜んでささげるわけではない。「有効に使用できるものをなぜ失うのか。真理の価はあまりにも高すぎるのではないか。あの金を失えば、私たちはどうすればよいか。子どもたちや、少ない収入のことを考えたらどうだ」と。このようなことがクリスチャンを誘惑して、正しくないことに手を出させるのだろう。あるいは、重大な損失をもたらすことが明らかな時、良心的な行動をちゅうちょさせるのだろう。この問題を信仰の光に照らして見ることは難しい。イエスに従う人々にとってさえ、「私は生きなければならない」という原則が大きな比重をもっている。
「主はそれよりも多くのものをあなたに与えることがおできになります。」これは私たちの心配への完全な解答である。私たちの父は全世界の財宝の管理権をもっておられる。そして私たちが主のために失うものを、千倍にもして返される。主のみこころに従うのが私たちのなすべき分であり、従う時、主は必ず私たちのために備えられるのである。主は何びとに対しても債務者の地位には立たれない。
聖徒たちは、一粒の平安が一トンの黄金よりも尊いことを知っている。真実な心は、たとえ牢獄であろうと、神のほほえみさえあれば満足する。祝福に満ちたたましいは、宮殿にあっても神の不興にあえば地獄にいるように感じる。最悪の事態がやってこようと、すべての金銭を失おうと、私たちは自分の宝を失うことはない。神の右に座するキリストのもとにあるからである。現在においても、主は柔和な者に地を相続させ、正しく歩む者に良いものを拒まれることはない。
悪人はそむきの罪を犯して自分のわなをかける。
しかし正しい人は喜びの声をあげ、楽しむ。(箴言二九6)
世の中のあらゆる罪は、背きの罪です。神はあなたを愛し、あなたのために最善の計画を立て、あなたに最善のことをしてくださろうというのに、それを踏みにじり、自分勝手な恥ずかしいつまらないことをしてしまうエゴイズム。――それが罪であり、背きです。また、罪の大部分は神の愛への背きであるばかりか、人の愛・信頼・期待への裏切りなのです。罪こそは、人間関係を壊すナンバーワンの元凶です。
ところが、神に対しても隣人に対しても正しい関係にある人、つまり正しい人は、「喜びの声をあげ、楽しむ」といわれます。「喜び」は、楽しみとか幸せとかいう以上に、生き生きした健全な生き方のシンボルみたいなことばです。幸せは、めぐり合わせのよい時のもの、楽しみは、楽しいことをしている時のものです。しかし、貧しい時・病む時・苦しい時も、そして楽しくない時にもわきあがってくるものこそ、「喜び」です。
人生の最も深い喜びの土台に、三つのものがあると思います。
・ 愛し愛されている、受け入れられ受け入れているという確信。
・ 進んで喜んで語り合うコミュニケーションの道が、まっすぐ開けていること。
・ 自分のためでなく、相手のために仕えるという心の姿勢があること。
この三拍子がそろえば、「喜びの声をあげて楽しむ」ことのできる人間関係に太鼓判が押されます。まずキリスト・イエスを通して、私たちに対して三つの条件を整えてくださった神は、私たちを待ち構えていらっしゃいます。私たちがその愛に応答していくところに、何ものにも侵されない「喜び」の人生の出発があるのです。
あなたの隣人をねんごろに戒めなければならない。そうすれば、彼のために罪を負うことはない。(レビ一九・一六、一七)
人の悪口を言う者は三重の毒を流す。悪口を言う者と、聞く者、話題に上っている者を害するからである。その悪口が真実であるかどうかにかかわりなく、私たちはみことばによって、それを禁じられている。
主の民の名声は非常に尊いものである。私たちは悪魔を助けて教会を辱しめ、主の御名を汚さないように心しなければならない。ある人々の舌には、拍車よりもむしろくつわが必要である。多くの人々が、兄弟を引きずり下ろすことによって、あたかも自分の地位が高められたかのように思って得意になっている。
ノアの賢い息子たちは、裸の父に着物をかけた。そして、父の裸を暴露した子どもは恐ろしいのろいを受けた。私たち自身この暗黒の時代に住んで、自分たちの兄弟が寛容であり、沈黙を守ってくれることを望んでいる。私たちも喜んで、今それを必要とする者に同様の態度をとろうではないか。人の悪を語るな。これを私たちの家憲とし、誓いとしよう。
しかし聖霊は、私たちが罪をとがめ、それに対して適当な処置をとることを許しておられる。だが、それは陰で兄弟をあざ笑うのではなく、相対して戒めることによってなされなければならない。これは雄々しく、兄弟愛に満ちた行いであり、キリストと同じ方法である。これは神の祝福を受け、効果を上げるであろう。
肉はそれを恐れるか。それなら私たちはさらに良心を励まし、ぜひともそれを実行しなければならない。それは友人の罪を見過ごすことにより、私たちが共犯者とならないためである。誠実な牧師や主にある兄弟たちの時宜を得た、賢明な、愛のある警告によって、幾百という人々が重大な罪から救われている。私たちの主イエスはペテロに警告を与え、またそれに先立って祈り、彼が高慢にもそれを無用だとして拒んだのに、優しく耐え忍ばれた。そして、罪を犯した友をどう扱うべきかという、いつくしみ深い模範を示されたのである。
1:39 「あなたがたが、略奪されるだろうと言ったあなたがたの幼子たち、今はまだ善悪のわきまえのないあなたがたの子どもたちが、そこに、入る。わたしは彼らにそこを与えよう。彼らはそれを所有するようになる。」
かつてイスラエルの民は、約束の地を目の前にしながら、そこに横たわる恐怖の故に、主の約束を信じようとはしませんでした。
主の約束を信じる信仰を持たなかったのです。
そこで主は彼等のことを怒られて、彼等がその地にもやは入ることが出来ないと告げられました。
荒れ野を放浪する身となると語られたのです。
では、約束の地に入ることが出来る者は誰か。
それは、彼等の後に生まれる人々であると言われたのです。
その人々はどのような人々なのでしょう。
主に喜ばれたのは、信仰をしっかり持ったヨシュアとカレブでした。
同じように、後に約束の地に入ること出来る人々は、信仰が与えられ、主と主の約束とを信じて歩むところの、新しい世代の人々であると言われたのです。
主と主の約束の言葉を信じる信仰がなくては、主に喜ばれることはないのです。
自分の友人にへつらう者は、
自分の足もとに網を張る。 (箴言二九5)
「よい人間関係をつくるために、お世辞を言いましょう」という講習会が開かれたことがありました。確かに、「きたねえガキだ」と言うより、「お元気そうなおぼっちゃんですね」とちょっぴりお世辞を言ったほうが、隣の人とうまくいくでしょう。
私の友人は、汽車の中で隣のおじいさんに、イエス・キリストのお話をしたくてたまりませんでした。ところが、話しかける前に「一杯どうですか」と、ウイスキーをさし出されました。その時、「お宅は、気前がいいんですね。ところで、私はクリスチャンで無調法なのですが……」と応対して、うまく会話ができたというのです。「昼間っからお酒ですか」と言うよりも、確かによかったと思います。お世辞というより、人のあら捜しをせずに美点や長所を見ていく日常の態度が、人間関係をよくしていきます。へつらいは、そんな態度とは全く違います。へつらいを言う人の心の動機や心の姿は、この三つに要約されます。
・ 真実がない。平気でうそをつき、ただ自分のために生きる。
・ 自分をよく思われたい一心で、人の顔色をうかがっている。
・ 相手を手玉にとり、できるなら利用しようとする。
へつらいを言う人ののどは「開いた墓」(詩篇五9)だと、ダビデは言いました。また、その舌は「鋭い刃物のよう」(五二2)で、人をわなにかけて破滅させるというのです。
しかし「へつらう者」は、実は、自分の足もとに自分で網を張っています。それは、「人をのろわば穴二つ」ということばのとおりです。そのような人は、他人からもだまされ、おだてられ利用されるだけで、いつまでたっても真実の友が得られないのです。
あなたが真理に歩んでいるその真実を証言してくれるので、私は非常に喜んでいます。(Ⅲヨハネ三節)
真理はガイオのうちにあり、ガイオは真理のうちを歩んだ。もし前半が真実でなければ、後半の事実は決して起こり得なかったであろう。もし第二のことがガイオに当てはまらないとすれば、初めのことは単なる見せかけにすぎなかったであろう。
真理はたましいの中に入り、しみこまなければならない。そうでなければ無価値である。信条としての教理は、手に持っているパンのようなもので、からだの栄養にはならない。だが、心で受け入れられた教理は、消化された食物と同じで、吸収されてからだを強くする。真理は私たちの中で、生ける力、活動する力、内住の現実、存在の経験とならなければならない。
もしそれが私たちの中に入るなら、その時から私たちはそれと別れられなくなる。人は衣を失い、また手足を失うかもしれない。しかし、彼の内なる部分が生きており、いのちの存在している限り、これは彼から奪い去ることのできないものである。クリスチャンも死ぬだろう。しかし、彼は真理を否むことはできない。
明かりの中心から出る光がガラスを通って外に輝き出るように、内にあるものが外のものに影響を与えるのは自然の法則である。真理が内に燃える時、その光はすぐことばとなって外なる生活に輝き出るのである。
ある種の虫は、その食べる食物によって、まゆの色が異なるという。これと同様に、人の内なる性質を育てる養分が、その外に出るあらゆることば、行為に色づけをする。真理にあって歩めば、誠実、聖潔、忠実、単純な生活をもたらす。これは福音の教える真理の原則が自然に生み出すものであり、聖霊が私たちに受けることを得させるものである。外に現れる会話によってその人の内なるたましいの秘密を知ることができる。
いつくしみ深い御霊なる主よ。どうか今日、私たちを神の権威の支配下に置いてください。そして偽りと罪とが私たちの心を支配し、日々の歩みにおいて悪い感化を人々に及ぼすことのないようにしてください。
1:30 「あなたがたに先立って行かれるあなたがたの神、主が、エジプトにおいて、あなたがたの目の前で、あなたがたのためにしてくださったそのとおりに、あなたがたのために戦われるのだ。」
イスラエルの民はカデシュ・バルネアから、約束の地を目の前にした時に、彼等は偵察に出て、住民とその地を探りました。
偵察隊が帰ってきて報告したことは、その地は非常に良い地であるけれども、住んでいる人々は巨人であるということでした。
ですから自分たちが侵入しても、すぐに滅ぼされてしまうということでした。
そこで、人々は入ることを恐れました。
その時にモ-セは、主が共にいて、その地を与えてくださると言っておられるので、戦えと言いました。
そこには、勝利をもたらしてくださる保証がありました。
しかもそこには、今まで彼等が経験した事による保証がありました。
つまり、エジプトから出ることが出来たのは、何に寄ったのかと問うたのです。
主が自ら力を持って、民を愛して導き出してくださったのではないかというのです。
その経験をしっかりと握って、この信仰の戦いに出よと告げたのです。
王は正義によって国を建てる。
しかし重税を取り立てる者は国を滅ぼす。(箴言二九4)
「正義は国を高め、罪は国民をはずかしめる」(箴言一四34)と聖書にありますが、それは、世界の歴史が裏書きしていることだと思います。
「重税を取り立てる者」=「貪欲な王」(D・W・トマス)、「金で動く王」(リビングバイブル)。つまり、自分の欲望の満足のためにのみ治める王は、国を滅ぼします。何億円わいろを受けとっても、「記憶にございません」「私を育てるための献金」などと平気で言える政治家のことを思い出します。こんな人は「国を滅ぼす」と、聖書は言います。
「王は正義によって国を建てる。」……そんな理想的な支配者の姿が、イザヤ書一一章に記されています。「エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ。その上に、主の霊がとどまる。それは知恵と悟りの霊、はかりごとと能力の霊、主を知る知識と主を恐れる霊である。この方は主を恐れることを喜び、その目の見るところによってさばかず、その耳の聞くところによって判決を下さず、正義をもって寄るべのない者をさばき、公正をもって国の貧しい者のために判決を下し、口のむちで国を打ち、くちびるの息で悪者を殺す。正義はその腰の帯となり、真実はその胴の帯となる」(1―5節)。
これは、じっくりと勉強するなら、最高の帝王学です。神に立てられて王となったという深い自覚のもとに、神を恐れる精神。神に従って、正しく真実に生きる人格と生活。何が人民のために正しく幸福なことかを悟る知恵。将来を見通して計画を立てる能力。物事の表面でなく、深いところにある真実を見極めてさばく政治。貧しい者・寄るべのない者への行き届いた思いやりのある政治。信賞必罰のはっきりした政治。……ここには、実は、メシヤとして来られるイエス・キリストご自身のイメージが預言されているのです。
(ゼカリヤ三・一)
「大祭司」ヨシュアの中に、神の子らの絵を見る。彼はキリストの血によって近づけられ、聖務に携わることを教えられ、幕の中に入る。イエスは私たちを神の前に祭司とし、王とされた。私たちは、地上においても、聖い生活と尊い奉仕によって祭司の務めをなす。
この大祭司は「主の使いの前に立っている」と言われているが、これは奉仕のためであった。これはすべての真の信者がとるべき態度である。すべての場所が今や神の宮であり、神の民は彼らの日々の仕事において、神の家におけるように真実に神に仕えることができる。彼らは常に祈りと賛美の霊の犠牲をささげて仕え、彼ら自身を、「生きた供え物」としてささげなければならない。
しかしヨシュアが仕えるために、どこに立っていたかに注意せよ。それは「主の使いの前」であった。私たちのように、あわれな汚れた者が神の前に祭司となることができるのは、ただ仲保者を通してのみである。
私は自分のもっているものを、使者であり契約の使いであられる主イエスの前にさし出す。私の祈りは主の祈りに包まれて受け入れられる。私の賛美は、キリストご自身の花園から取り出された没薬、アロエ、肉桂の袋に包まれて、尊い香りを放つ。もし私が涙のほかに何も主の前にもち出すことができないとすれば、主はそれをご自分の涙とともにその皮袋に蓄えられる。かつて主は涙を流されたからである。もし私がうめきと嘆息のほかは何も主の前にもち出すことができないとすれば、主はそれをみこころにかなう犠牲として受け入れてくださる。主はかつて断腸の思いをし、たましいの苦悩を経験されたからである。
私自身も主にあって立ち、愛する者によって受け入れられている。私のなすすべての汚れたわざは、それ自体は神の憎まれるものであるが、神はそれを受け入れ、それに良い香りさえつけてくださる。主は満足され、私は祝福される。それゆえ、「主の使いの前に立っている大祭司」であるクリスチャンの立場を考えよ。
1:21 「見よ。あなたの神、主は、この地をあなたの手に渡されている。上れ。占領せよ。あなたの父祖の神、主があなたに告げられたとおりに。恐れてはならない。おののいてはならない。」
恐れやおののきというのは、誰にもあります。
特に信仰的な意味で争わなければならない時、相手の人が強い人や有力な人であると聞きますと、自分たちよりも勝った人ですので、恐れが沸いてきます。
イスラエルの民が、与えられた約束の地が目前に迫った時、彼等は1つの励ましの言葉を与えられました。
それは、その地は主が与えると約束してくださった地であるので、約束をしてくださった主とその主の言葉を信じて戦って、その地を獲得しなさいということでした。
人はいつでも平安な歩みが出来るわけではありません。
病になったり問題が起こったりして、不安と恐れに満たされることがあります。
その時に誰を信じ、また何を信じて歩むのでしょう。
それは、私たちを愛して守ってくださっている主と、主の約束の言葉です。
私たちがそこに信頼を置く時、心に真の平安が与えられるのです。
責められても、なお、うなじのこわい者は、
たちまち滅ぼされて、いやされることはない。(箴言二九1)
ある時、私が大切にしていたつぼを娘が落として、粉々に割ってしまいました。娘は粉々になった破片を拾って、こうでもない、ああでもないと、くっつけていました。妻が「もうどうにもなりゃしないわ。早く掃いて、燃えないごみの中に捨てなさい」と、いとも簡単に言いました。私は、いささか未練がましくまだながめていたのですが、妻のことばにはっとしました。うなじのこわい魂の滅びの様に、思い当たったからです。
聖書中に、「陶器師の器が砕かれると、二度と直すことができない」(エレミヤ一九11)ということばがあります。いつまでもがんこに我を張りとおし、「ごめんなさい」とか「私が悪かった」と言えない魂。自己主張・自己満足でこりかたまった魂。――そんな魂が、何かのことでハンマーでがんとやられると、粉々に壊れて収拾がつかなくなってしまいます(もちろん、神のさばきの座の前では最後的な結末となるのです)。
しかし、神の細い声を聞き入れ、良心の責めることばで心を柔らかくする人は、柔らかく練られた粘土のように、神の愛の手の中で新しく造りかえられることができます。
ですから、ダビデは旧約聖書の中でこう歌いました。「神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません」(詩篇五一17)。
新約聖書の中で、パウロも言いました。「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました」(Ⅱコリント五17)。
(伝道者九・一〇)
「なすべきことはみな」というのは、私たちにとって可能な仕事を意味している。私たちは心で思いながら、決して実行しないものを多くもっている。心でしたいと思うことは結構である。しかし、もしさらに役立つ者になろうとするなら、心で計画したり、口で語ったりすることだけで満足してはならない。実際に、「なすべきことはみな」行わなければならない。
私たちは新しい機会を待ったり、他の仕事を求めたりせず、ただ日々私たちのなし得る仕事をしようではないか。私たちは今、ただ一つの時の中を生きている。過去は過ぎ去り、未来はまだ来ていない。私たちは現在以外のいかなる時ももつことはできない。だから、あなたの経験が熟するのを待ってから、神に仕えようなどと考えてはならない。今、実を結ぶように努めよ。今、神に仕えよ。しかし、あなたの手のなし得ることをする方法については、注意深くあれ。「自分の力でしなさい。」
あなたのわざを速やかになせ。明日の仕事を思い煩って、人生をむだに費やすな。今日の怠慢を明日の仕事で償おうなどと考えてはならない。翌日事を行って神に仕えた者は一人もいない。もし私たちがキリストに祝福されて御名をあがめるとするならば、それは今日私たちがなすことによってである。
キリストのためにどのようなことをするにしても、あなたのたましいのすべてをもってそれに打ち込め。気まぐれになされた小さな粗末な仕事をキリストにささげてはならない。あなたが主に仕える時、あなたの心とたましいと力のすべてをそれに傾けよ。
とはいえ、クリスチャンの力はどこにあるだろう。彼の中にはない。なぜなら彼は全く弱いからである。彼の力は万軍の主にある。だから主の御力を求めようではないか。祈りと信仰をもって前進し、自分の「なすべきことはみな」なして、主の祝福を待ち望もうではないか。このようにする時、私たちのなすことは失敗に終わることがない。