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●「人員削減の必要性」とは●

2012年09月30日 09時37分35秒 | 労働法

 整理解雇の有効性を判断する4つの要件のうち、一つ目の要件は、人員削減の必要性があるのか、ですが、これについては、人員削減をしなければ会社が倒産してしまうといった高度な必要性までは求められておらず、経営合理化や競争力の強化のために、ある事業部門の廃止や縮小に伴うものも、必要性ありとして認められます。
 このように人員削減の必要性は、会社の裁量判断が広く認められる傾向があります。従ってこの必要性が問題となることは、かなり限定された場合でしょう。
 例えば、整理解雇後にそれと矛盾する行動(新規採用を増やしたり、賃金の増加をするなど)を取るようなケースは、典型的です。
 また黒字経営で、財政状態も余裕があるような状況では、人員削減の必要を認めない裁判例もあります。
 事業部門の縮小や廃止に伴う人員削減であったとしても、その規模が問題となるケースもあります。例えば、人員削減が必要である人員は数名程度であるはずなのに、それよりはるかに多い整理解雇を行ったような場合です。支店の事業部門の廃止によって支店従業員の全員を解雇した後で、新規採用や配転によって支店窓口だけは存続させたケースで、人員削減の必要性が否定されています。
 また、削減が必要な人員は6名なのに、対象部門の全員10名を一律に解雇をしたケースでは、6名の解雇のみを有効とするのではなく、6名の人選を行っていないことを理由に、10名全員の解雇を無効とするものもあります。
 もっとも経営合理化は、会社経営は黒字であったり、財務上の問題も特に発生していない場合でも、競争力強化を目的に行われることもあるわけです。ただしこの人員削減の必要性に関しては、会社の経営上の判断が広く認められるとしても、事業部門の統廃合のような経営合理化すら行われていないような状況の下での人員削減は認められないと考えるべきでしょう。


民数記22章31-35節

2012年09月30日 07時49分24秒 | 聖書

22:35主の使いはバラムに言った。「この人たちといっしょに行け。だが、わたしがあなたに告げることばだけを告げよ。」そこでバラムはバラクのつかさたちといっしょに行った。


主がバラムの目のおおいを取り除かれたので、バラムは、ロバがなぜ自分をこのように扱ったのかという理由を知ることができました。

それは、自分が主の本来の御心をまじめに考えないで、自分の思いを心の内で優先したからだということを知らされたのです。

それは主の御心にかなっていることではないと、彼は知らされたのです。

そこで彼は、自分が罪を犯したこと、従ってそのことに気がついた今、元の道に戻りましょうかと願い出ました。

 その時、すなわち彼が自分のしてきたことが間違っているということを悟った時に、主の使いは、彼にバラクの下に行くことを許しました。

彼は改めて、主がすべてのことを知り、導いておられることを知らされたのです。

 そこで主の使いはバラクに、主の命じられたことのみを伝えるように、改めて命じました。


民数記22章21-30節

2012年09月30日 07時47分26秒 | 聖書

22:23 ろばは主の使いが抜き身の剣を手に持って道に立ちふさがっているのを見たので、ろばは道からそれて畑の中に行った。そこでバラムはろばを打って道に戻そうとした。


主の言葉に、心から喜んで従っていこうとしないバラムに、主は行くことを許されました。

しかし、主の怒りは彼の上に臨みました。

主の使いが彼に対して、その行く道に立ちふさがったのです。

それは、彼がバラクの所でも、徹底的に主の言葉に従うことを、学ばせるためでした。

 彼はロバに乗っていたのですが、そのロバが、剣を持って道をふさいでいる主の使いを見たので、道をそらしました。

また、石垣のある狭い所に来た時、ロバは主の使いを見たので、バラムの身を石垣に押しつけました。

さらに、左右によけることもできない狭い所に来た時、ロバはうずくまってしまいました。

その度に、バラムはロバを杖で打ちました。

ロバが自分を馬鹿にしていると思ったからです。

しかし主は、ロバの口を開いて、自分が今までバラムに不都合なことをしたことがあったかと言わせました。

原因があることを悟らせたのです。


◆食 欲 の 問 題

2012年09月30日 07時38分32秒 | 聖書

わが子よ。蜜を食べよ。それはおいしい。
蜂の巣の蜜はあなたの口に甘い。
知恵もあなたのたましいにとっては、
そうだと知れ。
それを見つけると、良い終わりがあり、
あなたの望みは断たれることがない。(箴言二四13―14)

聖書の中に、蜂蜜が何回も出てきます。甘いものの少なかった時代に、蜂蜜がどんなに貴重であったかが想像できます。信州育ちの友人から、子どものころ、蜂をつかまえて細いひもを結んで放し、蜂の行方を追って、それこそ野越え山越えして、蜂の巣を捜し当てたという経験を聞いたことがあります。イスラエルの昔の人たちも、一生懸命蜂の巣を捜し、したたる蜜を求めたことでしょう。
蜜を恋い慕うと同じように、神の知識を恋い慕いなさいと、聖書は言っているのです。ペテロも、「生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい」(Ⅰペテロ二2)とすすめ、ダビデも、「あなたのみことばは、私の上あごに、なんと甘いことでしょう。蜜よりも私の口に甘いのです」(詩篇一一九103)と告白しました。
しかし、あなたにとってどうでしょうか。「良薬口に苦し」ということばがありますが、聖書のことばとか、神とか永遠とかの話には食欲を感じない。苦いとは感じても、とても蜜とは思えない。――これが、私たち多くの人間の問題となっています。きよいこと・永遠のこと・神・神の知識に対して飢え渇きや食欲がないのは、なぜでしょうか。おいしいごちそうを前にしても、ほかのものでおなかがいっぱいで入らなかった経験はありませんか。卑しいもので、腹を満たしている時、貴いものへの食欲がわいてきません。そこで、ペテロは、「すべてのごまかし、いろいろな偽善やねたみ、すべての悪口を捨てて」(Ⅰペテロ二1)みことばを慕い求めなさいと言ったのです。

 


◆全地よ。神に向かって喜び叫べ。

2012年09月30日 07時37分11秒 | 聖書

御名の栄光をほめ歌い、神への賛美を栄光に輝かせよ。(詩篇六六・一、二)

神を賛美するかしないかは、私たちの勝手ではない。神は賛美を受けるべき方であられ、すべてのクリスチャンは、神の恵みを受けた者として、日々神を賛美すべきである。私たちは、日ごとに神を賛美するようにとの高圧的な命令は受けず、ある一定の時に歌い、感謝をささげるようにとも言われていない。しかし、私たちの心に記された律法は、神を賛美するのが正しいことだと教える。この不文律は、石の板に記されたような、あるいは雷鳴とどろくシナイ山頂から直接私たちに渡されたような力をもって迫ってくる。
そうだ。神を賛美することはクリスチャンの義務である。これは単なる楽しい行事であるだけではなく、クリスチャンの生涯の絶対的義務である。絶えず嘆き悲しむ者よ。この点に関して自分に罪がないと思ってはいけない。また賛美の歌なしにあなたの神に対する義務を果たすことができると考えるな。あなたは生きる限り、主の御名をほめたたえるために、愛のひもをもってつながれている。そして、主に対する賛美が常にあなたの口になければならない。神を祝福するために、あなたは祝福を受けているのである。「わたしのために造ったこの民はわたしの栄誉を宣べ伝えよう。」
もしあなたが神を賛美しないならば、あなたは、農夫である神があなたに期待される実を、まだ結んでいないのである。だからあなたのたてごとを柳にかけたままにせず、それを下ろし、感謝の心をこめて高らかにかき鳴らせ。立って、神への賛美を歌え。夜明けのたびに感謝の叫びを上げ、夕日の沈むごとにあなたの賛美の歌を歌え。あなたの賛美をもって地をおおい、美しい調べによって地を包め。そうすれば神は天から聞いてくださって、あなたの音楽を受け入れてくださるだろう。
 私はあなたを愛し、心より愛し続け
 あなたに、賛美の歌をささげる
 あなたは私の愛する神であられ
 私の贖い主であられるからだ

 


民数記22章18-20節

2012年09月29日 09時12分31秒 | 聖書

22:20 その夜、神はバラムのところに来て、彼に言われた。「この者たちがあなたを招きに来たのなら、立って彼らとともに行け。だが、あなたはただ、わたしがあなたに告げることだけを行え。」


バラムの心は、先には行かないと言ったことでありまして、如何に銀や金で満ちた家をくれたとしても行かないと言いました。

しかし、彼の心の内は違っていたようでした。

そして、もしこのような神の言葉がなかったならば、自分は行きたいと思っていたようでした。

そうすれば、こうした金銀を手に入れることができると思ったからです。

バラクの言ったことに、魅力を感じていたのです。

 その心を見抜いておられた主は、彼に、彼等が招きに来たのであれば一緒に行けと、言われました。

しかしその時にも、語るべきことは、主が命じたことのみを語れと言われたのです。

主は人の心の内にある思いを見抜かれて、その人の思いに従っていくことを、時に許されることがあります。

しかしそれよって、結果的には、多くの時、その人にとってはつらい経験となることを見るのです。


民数記22章15-17節

2012年09月29日 09時10分29秒 | 聖書

22:17 「私はあなたを手厚くもてなします。また、あなたが私に言いつけられることは何でもします。どうぞ来て、私のためにこの民をのろってください。」


バラムは主の言葉と命令を受けて、バラクから遣わされた人々に事情を語って、彼等を帰しました。

ところが、あきらめきれないバラクは、今度はさらに多くの人を使いに出しました。

その人々は、身分の高い人々でした。

そして彼に告げたことは、もしあなたがイスラエルの民を呪ってくれたならば、望み通りの報酬を与えるということでした。

彼にとっては魅力的なことでした。

しかし、彼には、神ご自身が彼に語りかけられたという事情がありました。

ですから、その主が呪ってはならないというのですから、そのようなことはいくら報酬を高く積んでくれたからといって行うわけにはいかないと、告げました。

彼にとっては、人よりも主の方が真に力のある方ですので、恐れを持ってその言葉に従わざるを得ないことを告げていたのです。

神の現臨が彼をして、人や人の報酬よりも、神と神の御心に従うということの方を選ばざるを得ないようにさせたのです。

神の力が、彼を恐れさせたのです。


◆見 た も う 神

2012年09月29日 08時59分33秒 | 聖書

もしあなたが、
「私たちはそのことを知らなかった。」と言っても、
人の心を評価する方は、
それを見抜いておられないだろうか。
あなたのたましいを見守る方は、
それを知らないだろうか。
この方は
おのおの、人の行ないに応じて報いないだろうか。(箴言二四12)

神が見ていらっしゃる。――これは、何という単純で明快な真理でしょう。ある男が子どもを見張りに立てて、スイカ畑に盗みに入りました。「だれかが来たら、すぐ知らせるんだぞ。」しばらくすると、「お父さん、見ているよ」と子どもが呼びました。「だれが見てる。」「神さまが見てるよ。」すると父親が、「ばか。神さまに見えるもんか」と言ったという話があります。「天網恢々疎にしてもらさず」「天知る地知る我知る」とも言われます。この単純な真理ほど、実際の生活で無視されている真理はないでしょう。
私の尊敬するマックスエル博士が話してくださったことです。「子どものころ母に教えられた『ご覧になる神』(創世一六13欄外注)という聖書のことばは、初めは恐ろしかった。しかし年月がたち、この真理の深みが分かるにつれ、この真理が平安で喜びにあふれた私の人生をつくりあげたのだと思う」というのでした。
神に背いて、自分勝手で、いんちきで、言いわけばかり言う二枚舌の偽り者にとって、神は恐ろしいお方でしょう。しかし、落ちこぼれた者・悩んでいる者・弱く失望している者であっても、正直に自分の弱さやみにくさを認めて神に目をあげる者にとって、神は何と優しく、慰め・ゆるし・励ましに富んだお方でいらっしゃいましょうか。
神は、何でも見抜き、何でも正しく評価なさいます。しかし神に身を寄せるあなたにとって、神は、見守ってくださるお方、その愛と恵みを傾けて報いてくださるお方なのです。神を敵として勝ち目はありません。神をあなたの心の父としてごらんなさい。

 


◆もし吹き出物が彼のからだ全体をおおっているなら、

2012年09月29日 08時57分51秒 | 聖書

祭司はその患者をきよいと宣言する。(レビ一三・一三)

この規則は一見奇妙だが、その中には深い知恵が隠されている。なぜなら病毒を外に出すことは、からだが健全な証拠だからである。今朝、この奇妙な規則の象徴的な教えを学ぶことは、私たちに有益であろう。
私たちもまた病者である。そしてこの病に関する律法は、私たちにも適用できる。人が自分を全く失われた破滅した者と見、全身がことごとく罪におおわれ、義であるものが一つもないことを知って、主なる神の前に罪があると告白するならば、イエスの血と神の恵みによってきよめられるのである。心中に隠れていて感じることのない告白されない罪が、真の病である。しかし罪があばかれ、罪が感じられた時には、すでに罪は致命的打撃を受けており、主はあわれみの目をもって罪に苦しむたましいをご覧になるのである。
自己を義とすることほど致命的なものはなく、悔恨よりも望みのあるものはない。私たちは罪以外の何ものでもないことを告白しなければならない。これ以下の告白は真実のものと言うことができないからである。もし聖霊が私たちに働かれて、罪を自覚させられれば、前述のことを認めるのに何の困難もない。
引用の聖句は、深い罪の意識のもとにある人に、なんという慰めを与えることだろう。どれほど黒く汚れていても、嘆き悲しんで告白された罪は、決して人をイエスから閉め出すことはない。主イエスのもとに来る者を、だれであろうと神は決して拒まれることはない。犯罪人のように不正直であり、罪を犯した女のように不貞であり、タルソのサウロのように凶悪であり、マナセのように残忍で、放蕩息子のように反抗的であっても、自分によいものが全くないことを感じる人々には、神の愛が注がれる。そして彼が十字架につけられたイエスを信じた時、きよい者という宣告が与えられる。それゆえに、主のみもとに来れ。
「来れ。乏しき者。来れ。罪ある者。そして忌まわしき裸なる者よ。おまえは決して汚れすぎてはいない。あるがままの姿で来れ。」

 


民数記22章7-14節

2012年09月28日 10時42分45秒 | 聖書

22:12 神はバラムに言われた。「あなたは彼らといっしょに行ってはならない。またその民をのろってもいけない。その民は祝福されているからだ。」


すべてのことをご存じの主は、バラムに声をかけました。

そこでバラムは、自分が頼まれたことの内容と事情を、主に語りました。

すると主は、彼にイスラエルの民を呪ってはならないと命じられました。

イスラエルの民は、主が祝福された民であるからというのです。

 呪うということは、神の怒りがその民の上にあるようにと願うことです。

通常は、多くの民は神の御心に背いて歩いていますので、神の怒りと呪いを受けるにふさわしいものです。

しかし、イスラエルの民は違っていました。

神様ご自身が、ご自分の民として、多くの民の中から選んでくださった人々です。

従って、神様が祝福をされているのですから、その民を呪うということは、神の怒りをその人に及ぼすことです。

ですから彼に、このイスラエルの民を呪うなと命じたのです。

呪いどころか、祝福こそが彼等にふさわしいからです。

キリスト者もそうです。

自らは罪人ですが、イエス様によって祝福された者とされているのです。


民数記22章1-6節

2012年09月28日 10時40分42秒 | 聖書

22:6 「どうかいま来て、私のためにこの民をのろってもらいたい。この民は私より強い。そうしてくれれば、たぶん私は彼らを打って、この地から追い出すことができよう。私は、あなたが祝福する者は祝福され、あなたがのろう者はのろわれることを知っている。」


イスラエルの民は、エドムとモアブの国境の所を通って東に行き、そこから北上してアルノン川の所で、モアブとエモリ人の国境の所を、再び西にきました。

従って、その通路はモアブの国をぐるっと迂回するようなあり方で進んできたことです。

ところが、イスラエルの民が隣国のエモリ人の国を崩壊に至らせたことを見たモアブの王バラクは、大変心配になりまして、自分たちの国を守る方策を考えたことです。

それは、北の方から自分たちの民族に関係する占い師を招いて、イスラエルの民を呪わせることでした。

そうすれば神の呪いを受けて、イスラエルの民を追い出すことができるであろうと思ったからです。

自分たちを守るのは神だと、思ったことです。

しかし、真に守ることができるのは、唯一の誠の神のみです。


◆助  け  出  せ

2012年09月28日 10時33分23秒 | 聖書

捕えられて殺されようとする者を救い出し、
虐殺されようとする貧困者を助け出せ。(箴言二四11)

ベイリー・モアさんというカナダの伝道者から聞いた話です。あらしの晩に、イギリスのある海岸で近くの暗礁に乗りあげて、船が沈没しました。村人は総出で小舟を出し、海に浮かぶ一人一人を助けました。女たちや年寄りや子どもは、砂浜にたき火をどんどんたいて待っていました。さて、最後の舟がもどってきました。聞いてみると切り立った岩の上に一人の男が声のかぎり助けを求めていたのですが、波がすさまじく、どうしても舟を近づけることができません。そこで、ひとまず浜に帰ってきたのです。
若者たちは額を集めて、見捨てるか、助けに行くかを相談しました。いのちがけで助けに行こうと話が決まって、舟を出そうとしました。すると一人の婦人が髪をふりみだしてかけ寄り、一人の青年に抱きつきました。「行かないでおくれ、息子や。お父さんも海で死んで、お前の兄さんも海で行方不明じゃないか。行かないで――。」しかしその青年は、優しく言いました。「お母さん、大丈夫だよ。あの人を見殺しにゃできない。」出かけていった舟は、長いことしてから浜を指して帰ってきました。「助かったかぁ。」「ああ、助かったぞー。」浜に着いて母親が駆け寄ってみると、何と助けられた男は、行方不明になっていた兄息子だったというのです。
この実話を聞いて、心が締めつけられる思いがしました。イエス・キリストは、体を張って十字架の上で血を流し、私たちを滅びから助け出してくださいました。ヨハネは、このように言っています。「キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです」(Ⅰヨハネ三16)。人を見殺しにする心が私の中にもあることを感じて、恐れおののきます。

 


◆主は天から目を注ぎ、人の子らを残らずご覧になる。

2012年09月28日 10時31分04秒 | 聖書

(詩篇三三・一三)

恵み深い神を表すことばのうち、神が天の御座を降りて人類の欠けを助け、わざわいを免れさせるために親しくおいでになるという表現ほど、それにふさわしいものはないだろう。ソドムとゴモラが悪に満ちている時にも、親しくその地を訪れて検分するまでは、それを滅ぼされなかった神を私たちは愛する。臨終の床にある罪人が神との和解を求める時、栄光の御座より耳を傾け、その耳を罪人のくちびるにつけて聞いてくださる神に、私たちは心からの愛情を感じる。
神が私たちの髪の毛をも数えきり、行く手を指し示して導いてくださることを知る時、どうして私たちは神を愛さないでおられるだろうか。神がその被造物の物質的要求だけでなく、霊的要求に対してどれほどの配慮をなさるかを思う時、この偉大な真理はさらに近く私たちに迫る。
有限な被造物と無限な造り主との間には、大きな隔たりがあるが、なおこの二つを結ぶ鎖の輪が存在する。あなたが涙を流すとき、神がそれを見ておられないと思うのか。否、「父がその子をあわれむように、主は、ご自分を恐れる者をあわれまれる」。あなたの嘆息は、主の御心を動かし、あなたのささやく声は主の耳を傾けさせ、あなたの祈りは主の御手をとどめ、あなたの信仰は主の御腕を動かすことができる。
神が高い御座におられて、あなたのことなどかまっておられないなどと思ってはならない。あなたがどれほど貧しくても、主はあなたを御心にかけてくださることを覚えよ。なぜなら、主の目は、全地をあまねく見そなわして、ご自身に向かって心を注ぐ者に御力を現してくださるからである。
 おお、疲れることを知らない真理を反復せよ
 私のたましいの慕う神のような神は
  ほかにおられない
 主の御声に、天も震えおののく
 主は大いなる方
 しかし私のために身をかがめることを
  ご存じの方だ

 


●整理解雇の4要件について●

2012年09月28日 10時17分51秒 | 原発

 解雇には3つの種類(普通解雇、懲戒解雇、整理解雇)があり、そのうち整理解雇は唯一会社に原因があるものです。労働者には全く非がないにも関わらず、会社の経営上の理由から解雇されるものですから、解雇の有効性に関しては、もっとも厳格な判断がなされます。つまりリストラだといって無条件に認められるものではないのです。
 整理解雇の4要件は、こうした厳格な判断の考え方で、判例法理によるものです。労働契約法には明文化されませんでした。おそらくその4要件に対する考え方が流動的であることが理由と思われます。それは、4「要件」なのか、4「要素」なのかというものです。
 4要件であれば、その4つの要件を一つでも満たさなければ整理解雇は無効と考えるものであるのに対して、4要素であれば、それらの要素を総合的に判断して整理解雇の有効性を考える、というものです。このように、この2つの考え方には大きな違いがあります。
 その4つの要件(要素)ですが、それは「経営上の必要性」「人員削減の必要性」「人選の合理性」「手続の妥当性」というものです。
 特に二つ目の「人員削減の必要性」については、本当に解雇の必要があるのか、を問うものです。つまり解雇を回避するような措置をしっかりととったのか、という点が重要になります。
 三つ目の「人選の合理性」は、解雇する従業員を恣意的に選んでいないか、を問うものです。客観的合理的な基準に従って選定されたのかどうかが問題となります。
 最後の「手続の妥当性」とは、きちんと説明を尽くしたのか、納得が得られる努力をしたのか、を問うものです。誠意ある説明もなく、いきなりリストラ解雇とした場合には、この妥当性は認められません。
 経営上の理由は広く認められる傾向にありますが、経営が逼迫しているとしても、一方でリストラを叫びながら、一方で一部役員の報酬を増額したり、新規採用を増やすなどの矛盾する事実があれば、当然否定されることになります。
 こうした4要件を、要素と捉えるのかについては、裁判例でも統一していません。ただ、要素と考える傾向があることは事実で、これは整理解雇が認められやすくなっているとも解釈できますが、要素と考えた場合でも、その要素をどう取り扱うかによって、判断が異なってくることになります。


民数記21章31-35節

2012年09月27日 14時45分06秒 | 聖書

21:33 さらに彼らは進んでバシャンへの道を上って行ったが、バシャンの王オグはそのすべての民とともに出て来た。彼らを迎え撃ち、エデレイで戦うためであった。


イスラエルの民は主の助けによって、彼等の通過を遮るエモリ人の王シホンを撃破しました。

そして、さらに北へと向かいました。

ところが、そのことに気がついた、エモリ人の北方に位置していたバシャンの王オグが、このイスラエルの民の侵入を食い止めるために、攻撃を仕掛けて参りました。

イスラエルの民に取りましては、戦いになれている民ではありませんから、多くの不安があったことです。

しかし主は、民に向かって戦えと言われました。

主が共にいて勝利を賜るからだと言われるのです。

彼等はそれを信じて戦いました。

その結果、ついにその民をも滅ぼして、その地を征服しました。

エモリ人との戦いといい、またバシャンの民との戦いといい、彼等には思いもかけない戦いであったでしょう。

しかし、主が助けてくださったのです。

信仰の戦いも同じです。

時には、多くの困難を目の前にします。

しかし、主の約束を信じて、戦うのです。