座間コミニティー

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◆エリヤを通して言われた主のことばのとおり、

2015年02月28日 17時28分57秒 | 聖書

かめの粉は尽きず、つぼの油はなくならなかった。(Ⅰ列王一七・一六)

神の愛の真実を見よ。この婦人は日ごとの糧を得た。彼女は飢きんの時、自分自身と子どもを養わなければならなかった。そのうえ預言者エリヤが加わったのである。こうして必要は三倍になった。しかし食物はなくならなかった。絶えず供給があったからである。彼女は、毎日粉を入れるかめを見た。そこには、いつでも同じ量の粉が残っていた。
愛する友よ。あなたには日ごとに必要なものがある。それが豊かに与えられるので、いつかかめの粉がなくなるのではないか、つぼの油は尽きるのではないかと心配してはならない。神のみことばである聖書によれば、そんなことは決してないとある。日々、さまざまな困難とともに助けが与えられる。あなたがメトシェラよりも長く生き、あなたの必要が浜辺の砂よりも多くても、神の恵みとあわれみはあなたの必要の一切を満たす。あなたは決して欠乏を覚えることはない。
このやもめの時代には、三年もの間空には一片の雲もなく、天の星は、よこしまなこの地上に一滴のきよい涙も注がなかった。飢きんと荒廃と死が、この世を寂しい荒野と変えた。しかしこの婦人は、決して飢えることなく、豊かな供給を絶えず喜んでいた。
あなたも同じである。あなたは罪人の望みがむなしくなるのを見るであろう。罪人は自分の生来の力に頼っているからである。あなたは高慢なパリサイ人の確信の揺らぐのを見るであろう。パリサイ人がその望みを砂の上に置いているからである。あなたは、あなた自身の計画すら損なわれ、しおれてしまうのを見るであろう。しかし、あなた自身は堅い岩のとりでに囲まれ、守られていることを見いだすであろう。
「そのかめの粉は尽きず、そのつぼの油はなくならない。」イングランド銀行を所有するよりも、神をあなたの導き手としてもつほうが、はるかによい。あなたは、インドの富を使い尽くすことができるかもしれない。しかし、神の無限の富を用い尽くすことは、決してできない。

 

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「しかし、

2015年02月28日 17時28分05秒 | 聖書

人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです」(Ⅱコリント3:16)

神がよくわからない、何かが足らない、満ちていない。
神を信じているはずなのに、心は虚しい。
もう一つ喜びがない。
心に「おおい」がかかっていると、神がよく見えない。
何か心に薄い幕がかかっていて、神と自分の間をさえぎっているように感じる。
「主に向く」時、おおいが取り除かれる。
「おおい」とは何だろう。エバが蛇の誘惑を受けた時、神を捨て、自分が神となり、自分の力と判断と知恵で生きて行く事を選んだ。
神中心でなく、その「自己中心」がおおいとなって、神が見えない。
自分のために、自分の力で、思い通りに生きて行こうとする時、途端に神が見えなくなる。
又、状況や目に見える所だけを見ている時、見える所がおおいとなって、神が見えない。
主を見るためにも、自らの心のおおいを知るためにも、御霊の助けが必要だ。
自分では出来ない。まず、主に向けるよう、御霊の助けを祈ろう。
御霊は妨げているものを明らかにし、示して下さる。
自分自身が心の王座に座り、自己中心が神を見えなくしているのか、状況に飲み込まれて、神が見えないのか。
あなたも、おおいがかかっているように感じるなら、まず御霊にその事を祈ろう。
主に従おうと思っているその心に、必ず明らかにして下さる。
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自分の内にある御霊の導きに敏感でいよう。
それに勝る思いが妨げとなり、日々の信仰生活をすぐに喜びのない、力ないものにしてしまう。
新しい一日を感謝し、明日も主を仰いで歩もう。

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今日の聖人の記念日

2015年02月28日 07時04分06秒 | キリスト教

 聖レミジオ司教

437年-535年ごろ

 レミジオは、フランス、ランスの貴族の家に生まれ、信仰深く育てられた。ランスで教育を受け、豊かな学識と優れた人格の持ち主であったレミジオは、多くの人々から慕われ、458年にわずか21歳で司教に選ばれた。自分には厳しく人々には慈悲深く、当時ガリア地方に広まっていた異端アリウス派と戰い正当信仰を擁護し、多くの人々を信仰に導いた。

 フランク王国クロヴィスもその1人であり、熱心なカトリック信徒であった妻のクロティルジス皇后(6月3日 参照)の影響もあって496年にレミジオから洗礼を受けた。王はレミジオの指導を受けながら、熱心に信仰を守り国を治め教会や修道院の建設を援助した。

 その後、レミジオは教皇使節として宣教に力を尽くし、生涯を神と人々のためにささげた。「フランク人の使徒」と呼ばれている。

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◆目 を さ ま せ

2015年02月28日 07時03分00秒 | 聖書

なまけ者よ。いつまで寝ているのか。
いつ目をさまして起きるのか。
しばらく眠り、しばらくまどろみ、
しばらく手をこまねいて、また休む。
だから、あなたの貧しさは浮浪者のように、
あなたの乏しさは横着者のようにやって来る。(箴言六9―11)

いつか駅の職員が寝坊して、駅のシャッターをおろしたままで一番電車を通らせてしまい、お客さんが電車に乗れなかったという事件がありました。しかし、これはニュースになるほど特別なことでした。日本人は勤勉で清潔です。
ところが、その私たち日本人の怠惰でだらしがない点は、「神」とか「愛」「永遠」「きよさ」についてです。
ある時ホテルにとまって、朝早く出発しなければならないことがありました。フロントに行ってみると、ボーイさんがフロントの向こうで横になって寝ています。声をかけると起きあがったのですが、寝ぼけまなこで、こちらが何を言っても要領を得なかったことがあります。
人生も、寝ぼけているとそのとおりです。絶対にきよく正しい神の前に立つと、どうしていいか分かりません。愛とか永遠とかの前におどおどしてしまうのです。
いつも一生懸命働き、勤勉に商売しているように見えても、神の愛が分からず、神のきよさ・永遠も分からず、死とさばきも何のことかと目をこすっているようでは困ります。やがてすべてを神が分からせられる「死」を待っているのではおそいのです。私はまっすぐ歩いている、一生懸命やっていると思っても、愛がなければ曲がっています。きよくなければ、よろめいているのです。神の愛と神のきよさに目ざめましょう。
「目をさまして、正しい生活を送り、罪をやめなさい。神についての正しい知識を持っていない人たちがいます」(Ⅰコリント一五34)。

 

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◆私の望みは神から来るからだ。

2015年02月28日 07時02分11秒 | 聖書

(詩篇六二・五)

このことばを用いることは信者の特権である。彼がこの世からなんらかの望みを期待しているとすれば、それはまことにつまらない望みである。しかし、この地上の祝福であると霊的な祝福であるとを問わず、神によって欠乏を満たされたいと望むなら、その望みは決してむだになることはない。彼は信仰の銀行から常に資金を引き出し、神の恵みによってその必要を満たされる。私がこのことを心得ているならば、大金持ちのロスチャイルドに金を預けるよりも、神と取り引きしたいと思う。私の主は、決して約束を破られることはない。約束を御座に携えて行くならば、神は決してそれを無視されることはない。だから、私は神の戸口に立って、豊かな恵みの御手をもって戸を開かれるまで待とう。その時に約束の真偽ははっきりする。
さらに、私たちは、この世以上の望みをもっている。やがて、私たちは死ぬだろう。そうすれば「私の望みは神から来る」。私たちが病の床にある時、神が御前の使いを遣わして神のふところに運ばれることを期待しないだろうか。脈が衰え、呼吸が乱れた時に、天使は私たちの枕もとに立ち、あわれみの目を注いで、「私の愛するたましいよ。私とともに来なさい」とささやく時のあることを私たちは知っている。私たちが天の都の門に近づく時、「さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい」という歓迎の声を聞くことを期待する。さらに、私たちは黄金の琴と栄光の冠を期待し、まもなく御座の前の輝く群衆の中に入ることを望む。私たちは栄光の主に似せられる時の来ることを心待ちにしている。なぜなら「私たちはキリストのありのままの姿を見る」と書かれてあるからである。
私のたましいよ。もし以上のことがおまえの望みであるならば、ただ神のためにのみ生きよ。おまえの必要をすべて満たし、その恵みによっておまえを召し、贖い、救われた神の栄光を現すことを願い、かつ決意して生きよ。これがおまえのもつべき、来るべき栄光の望みである。

 

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第1列王記21章20-26節

2015年02月28日 07時00分58秒 | 聖書

21:21 「今、わたしはあなたにわざわいをもたらす。わたしはあなたの子孫を除き去り、アハブに属する小わっぱも奴隷も、自由の者も、イスラエルで断ち滅ぼし、
21:22 あなたの家をネバテの子ヤロブアムの家のようにし、アヒヤの子バシャの家のようにする。それは、あなたがわたしの怒りを引き起こしたその怒りのため、イスラエルに罪を犯させたためだ。」


 エリヤを通して、主はその裁きをアハブにもたらすと告げました。

その裁きは徹底的で、彼に属するすべての人を滅ぼし尽くす、と語っています。

そこには主の怒りが告げられています。

その怒りは、勝手なものではありません。

何度もアハブを助け、襲い来る敵から彼の身と国を守って下さいました。

それにもかかわらず、彼が偶像礼拝に走る妻の歩みに習い、自らが偶像礼拝者になり、また、主の戒めを知りながらその戒めを無視して、人の命を奪ってまで自分の欲望を満たしました。

そこには、主の下にある王であるというあり方は、全くうかがえません。

主はその罪の責任を問われる方です。

しかも、その裁きは恐ろしい裁きです。

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サムエル記 第二 24章17節

2015年02月28日 06時58分29秒 | 聖書

★ダビデは、民を打っている御使いを見たとき、主に言った。「罪を犯したのは、この私です。私が悪いことをしたのです。この羊の群れがいったい何をしたというのでしょう。どうか、あなたの御手を、私と私の一家に下してください。」

■O:今日のコラム
ダビデが目を上げた時、民を打つために使わされた御使いが見え、ダビデは慌てて祈り、とりなしました。

そして、25節では「主が、この国の祈りに心を動かされたので、神罰はイスラエルに及ばないようになった。」とあります!
これは、私たち、とりなす者、祈る者にとって興奮すべき事実です。
私たちの祈り、私たちのとりなしは、主の心を動かすことが出来るのです。ハレルヤ!

けれども、今日、注目したいのは、今日の御言葉の1節前です。

御使いが、エルサレムに手を伸べて、これを滅ぼそうとしたとき、主はわざわいを下すことを思い直し、民を滅ぼしている御使いに仰せられた。「もう十分だ。あなたの手を引け。」主の使いは、エブス人アラウナの打ち場のかたわらにいた。(第2サムエル24:16)

今日のみことば、17節にはダビデが「民を打っている御使いを見たとき」とありますが、キング・ジェームス・バージョン訳では「民を打った御使い」と過去形で、この時点ではもう御使いは民を打つことを止めていたことが分かります。
つまり、ダビデがとりなす前から、民がとりなし祈る前から、実は主は民へのわざわいを、とどめておられたのです。
そして、ダビデに御使いの姿を見せ、自分の罪を悔い改める猶予を与えられ、また民のために、とりなすチャンスを与えられたのでした。
ここでもし、ダビデが御使いを見ることが無かったら…もし、ダビデが悔い改め、民と共にとりなすことが無かったら…御使いたちによるわざわいが、再開していたかも知れません。

主は、哀れみと恵みに富んだお方です。私たちにわざわいが及ぶ事を望んではおられません。
そのために、主は、ダビデに御使いを見せられたように、私たちに、とりなすべき事を見せて下さいます。
それは、時には、国のためのとりなしであり、また時には誰か個人のための、とりなしであります。

先ほども読んだように、主は私たちの祈りに心を動かして下さる方、怒るのに遅く、寛容な父です。

私たちが国のためにとりなす?人のためにとりなす?
「とりなしの祈り」と聞くと、とても大層なことのように響くかも知れません。私たちが、祈るべきこと、とりなすべきこととは何でしょうか?

イエス様はこう祈りなさい、と主の祈りを教えられました。
「御国が来ますように。みこころが天で行われるように地でも行われますように。」(マタイ6:10)

自分の家庭に御国が来ているでしょうか?
自分の職場に、学校に、今置かれている場所に御国が来ているでしょうか?
私たちの住む街に、御国は来ているでしょうか?
日本の地の上に御国が来ているでしょうか?御父の御心は為されているでしょうか?
もし答えが「いいえ」ならば、それが私たちの第1優先の祈りではないでしょうか。
「神の国とその義とをまず第一に求めなさい」(マタイ6:33)

私たちの周りには、とりなし祈るべきことで溢れています。
もし、御国が来ることを情熱を持って祈ることが出来ない、と思われる方はまず、その情熱と祈るべきことを啓示して(教えて)下さる聖霊様を自分のうちに大歓迎しましょう。

「御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。」(ローマ8:26)

すでに、とりなすべき事が見せられているなら、力の限りとりなし祈りましょう!


■A:考えてみよう
私たちの置かれている所、遣わされている場所(家庭、学校、職場、住んでいる街)に、主の御国が来るように、人々が主を知り、救いを受け入れていくことができるために、またそのために私たち1人ひとりが大胆に福音を語り、御国を解き放つことが出来るように、とりなし祈っていきましょう!


■P:祈り
聖霊様、私のうちに歓迎します!
今日、私の置かれた場所であなたを礼拝し、臨在を求めます。
とりなすべきこと、祈るべき御父の心を、今日も私に教え、神の国を第一に求める情熱を、私に与えて下さい!

イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。

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2月27日(金)のつぶやき

2015年02月28日 01時43分57秒 | キリスト教
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◆その出ることは、

2015年02月27日 17時20分11秒 | 聖書

昔から、永遠の昔からの定めである。(ミカ五・二)

主イエスは民の代表として御座の前に進んで出られた。それは民が時の舞台に現れるより、はるか以前のことであった。民のために主が父なる神と契約を結ばれ、血を流さなければならない者のために自ら血を流し、苦しむ者、死すべき者に代わって苦しんで死なれることは、「永遠の昔からの定め」であった。主が頭の先から足の先まで血のしたたりにおおわれ、つばきをかけられ、四肢を釘で貫かれ、あざけられ、引き裂かれて死の苦痛の中で砕かれることは、「永遠の昔からの定め」であった。私たちの保証人として出られたのは、「永遠の昔からの定め」であった。
私のたましいよ。立ち止まれ。驚け。おまえはイエスにおいて「永遠の昔から」出ることが定められていた。この世に生まれ出た時にキリストが愛されただけでなく、人が地上に一人もいなかった時から、キリストは私たちを喜ばれた。人の子たちを絶えず心にかけ、永遠の昔から永遠の未来に至るまで、愛を注がれる。
私のたましいよ。主が永遠の昔からおまえの救いのために心を砕かれているのに、その救いを完成されないことがあろうか。私を救うために永遠の昔から出て行かれたのに、今私を見捨てられることがあろうか。山々が生まれる前から、海がまだ造られなかったころから私を選ばれたのに、今になって拒まれるだろうか。否、そのようなことは決してあり得ない。
私は堅く信じる。もし主が変わることのない愛に満ちたお方でないなら、決してそのように長く愛を注がれるはずはないということを。もし主が私を見限られるとすれば、永遠の昔からそれをなさったであろう。もし主が、地獄のように深く、死のように強い愛をもって愛しておられなかったなら、はるか以前に私に背を向けられたことであろう。なんという喜びであろう。私が、主の永遠の譲渡されることのない相続地であり、地の造られる永遠の昔に、父なる神によって主に与えられたことを知るのは。今夜、この永遠の愛を枕として眠りにつきたい。

 

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「文字は殺し、

2015年02月27日 17時19分00秒 | 聖書

御霊は生かすからです」(Ⅱコリント3:6)

誰しも、良いクリスチャンになりたいと思っている。
信仰は聞く事から始まり、聞く事はキリストの言葉による。
まず御言葉が大事だと聞くと、何とか御言葉に思いを向け、又、聖句を暗記し、一生懸命に御言葉を行なおうとする。
しかし、幾ら頑張っても、出来ない事を経験し、落胆し落ち込んで行く。
又、仮に出来た事があると、態度には決して出さないが、内心優越感に浸り、必ず自らを誇る。
出来なければひどく落ち込み、出来れば高慢に陥る。
これは御霊によらず、肉によって歩んでいるからだ。
肉の力、自分の力で、御言葉を受け取り、行なっている。
肉の力で幾ら頑張っても、益無く、無駄であり、不毛であり、実を結ばない。
「肉は何の益ももたらしません」の通り、信仰生活が、どんどんしんどく苦痛になって行く。
窮屈で、自分が縛られ、喜びと楽しみどころか、平安なく、疲れ果てて行く。
そうではなく、「いのちを与えるのは御霊」とあるように、御霊が働き、事を成し遂げて行かれる。
自分で頑張る事も、自分の力も全く必要無い。
そこには安堵と安らぎ、喜びがある。
御霊のおられる所には自由がある。
自分で出来ない事を、神の前に認めて、ギブアップ、降伏する時、御霊があなたを支配して下さる。
----------------
御霊に満たされることが、原動力だ。
自分発の働きは、いつか力尽き、人と自分に害を及ぼしてしまう。
神様からの御霊の声を聞き分け示されたなら素直に従おう。
神様からの喜びに満たされる。

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今日の聖人の記念日

2015年02月27日 07時42分42秒 | キリスト教

聖ガブリエル・ポセンティ

1838年-1862年

 ガブリエルは、イタリア、アッシジの裕福な信仰深い家庭に生まれ育った。才能に恵まれていた彼は、上流社会の仲間入りをし、名誉と富を求める生活に甘んじていた。しかし重い病にかかったことで今までの人生を振り返り、より超越的なものを求める生活として修道生活をしたいと誓った。

 病が全快したガブリエルは18歳で御受難会に入り、「悲しみの聖母のガブリエル」という修道名を与えられた。以後6年間、祈りと苦行によって十字架につけられたイエス・キリストの苦難を味わい、黙想した。また悲しみの聖母に対する優れた信心を表した。彼はどんな小さなことでも神に対して忠実であることをモットーに自己の聖化に励んだ。

 彼の遺体は、イタリアのグラン・サッソの修道院に眠っており、現在では有名な巡礼地となっている。

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◆蟻  を  見  よ

2015年02月27日 07時41分39秒 | 聖書

なまけ者よ。蟻のところへ行き、
そのやり方を見て、知恵を得よ。
蟻には首領もつかさも支配者もいないが、
夏のうちに食物を確保し、
刈り入れ時に食糧を集める。    (箴言六6―8)

日本人は蟻のように働きます。それが現在の富を築いたわけです。勤勉でよく働く日本人はほめられもしますが、「働きすぎだ」とねたまれてもいます。
ねたまれて悪口をいわれても、やはり、勤勉で働くことが好きな日本人であり続けたいと思います。健康で、やるべき仕事・働きがあって精いっぱい働けるなら、これはすばらしいことです。
イソップ物語のキリギリスのように歌ってばかりいて働かず、備えをしないでなまけていると大変です。
ところが日本人には、キリギリスよりももっと仕方のないなまけ者で、いざという時の蓄えをせず、だらしがない点があります。それは「永遠」「永遠のいのち」という点についてです。
死が一人一人に迫ってきます。人生の冬が近づいています。ところが、だれも用意していません。雪の降るきびしい冬の夜もたきぎがあり暖炉があるなら、「雪の降る夜は楽しいペチカ」です。しかし、備えがなかったらどうでしょう。
私たちは勤勉な蟻から学ばねばなりません。いま見えないからといって冬は「ない」と思ってはならないのです。蟻に冬は見えませんが、冬のために備えています。永遠の世界が見えないから「ない」といってはなりません。死のかなたに永遠のいのちが、または永遠の滅びが待っているのです。
死のかなたは、完全に神のみが支配する世界です。神の愛の中で永遠の喜びを味わうか、神の怒りの中で永遠に孤独で過ごすかの選択を、冬になる前にしなければなりません。「あなたはあなたの神に会う備えをせよ」(アモス四12)と、聖書はすすめます。

 

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◆それはあなたが私の避け所である主を、

2015年02月27日 07時40分55秒 | 聖書

いと高き方を、あなたの住まいとしたからである。(詩篇九一・九)

荒野におけるイスラエル人は絶えず変化にさらされていた。雲の柱が止まるたびに天幕が広げられた。しかし翌朝、太陽が上らないうちにラッパが鳴り、契約の箱が前進を始め、燃えている雲の柱に導かれて山の狭い道を通り、丘を越え、あるいは無人の荒野を旅するのであった。少し休んだかと思うと、すぐに命令が下って「前進せよ。あなたはここに休んでいてはならない。あなたがたはカナンに向かって旅を続けなけれはならない」と促されるのであった。
彼らは決して一つの場所に長くとどまってはいなかった。泉があっても、なつめやしの木があっても、彼らはとどまることができなかった。それでも彼らは神を彼らの家とし、雲の柱をその棟木と思い、夜になって燃えるその柱を家庭の炉の火と思っていた。
彼らは一つの場所から次の場所へと前進しなければならなかった。彼らは絶えず変化を経験し、落ち着く暇もなく、「今こそ私たちは安全である。この場所に定住しよう」と言うことはなかった。モーセは、「主よ。私たちは絶えず変わりますが、あなたは代々にわたって私たちの住まいです」と言った。
クリスチャンは、神は少しも変わらない方であると知っている。人は今日富んでいても、明日は貧しいかもしれない。今日は病み、明日は健康になることもあろう。今日は幸福でも、明日は患難に会うかもしれない。しかし私たちにとって、神との関係は少しも変わらない。昨日私を愛された神は今日も愛してくださる。私の、動くことのない憩いの家は恵み深い主である。前途は曇り、希望は吹き散らされ、喜びは失われ、かびがすべてのものをだいなしにしてしまっても、私が神のうちにもっているものは何も失われない。
神は「私の住まいの岩……強いとりで」である。世にあっては私は寄留者である。しかし神にあって安住している。地にあっては私は放浪者である。しかし神のうちに静かな住まいをもっている。

 

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第1列王記21章17-19節

2015年02月27日 07時39分41秒 | 聖書

21:19 「彼にこう言え。『主はこう仰せられる。あなたはよくも人殺しをして、取り上げたものだ。』また、彼に言え。『主はこう仰せられる。犬どもがナボテの血をなめたその場所で、その犬どもがまた、あなたの血をなめる。』」



 アハブ王の元に、主の預言者であるエリヤが遣わされました。

そしてアハブに主の言葉を告げました。

「あなたはよく人殺しをして、相手の土地を取り上げたものだ」と告げたのです。

彼は自分がそのようにしたのではない、妻がしたのだというかもしれません。

しかし、そんな詭弁は成り立たないというのです。

あなたが主の律法に背いて人の土地を求め、それが叶わないと、妻のイゼベルが起こした策略に乗ってしまったと語っているのです。

従って、その責任はあなた自身にあるというのです。

 都合の良い時には自分の栄光を求め、都合が悪くなると人の責任にするという詭弁は、主の前には通用しません。

あなたはむしろ、主の戒めに背いてまでよくも人を殺害するような行為に出たものだと語り、その責任を強く問うたのです。

夫婦は一体として、責任を負うのです。

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使徒の働き1章8節 (エレミヤ書1章)

2015年02月27日 07時37分26秒 | 聖書

★しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。

■O:今日のコラム
今日の御言葉は主イエスが天に戻る前の最後の言葉として弟子達に残したものです。つまりとても重要な言葉と言えます。
  第一に聖霊が臨まれる時に力を受けると言う事が宣言されています。使徒の働きを読むと全ての奇跡、しるし、不思議な業による福音宣教は聖霊の力によりなされ、教会は聖霊の導きの中で建てあげられている事を知ります。

どの時代のリバイバルも全ては聖霊の働きの中で起こりました。神の御国をこの地にもたらす為に、主イエスは、私達がどれだけ力があるか?財産を持っているか?才能があるか?学位があるか?有名か?教会のサイズが大きいか?を見ておられるのでは無く、この重要な一点を見ておられます。それは私達が聖霊の力に満たされているかどうか?と言う事です。

私は日々、使徒の働きの御言葉を宣言しながら「主よ。使徒の時代に起こった聖霊の働きが、この終わりの時代にますます栄光に満ちた偉大な領域で起こる事を願い求めます。」と祈っています。日々、聖霊に満たされ続けましょう。

第二に重要なのは、聖霊の力を受ける時、私達は地の果てにまで主イエスの証人となると言う事です。

今、日本においても聖徒達が飢え渇き主を求め、力強く聖霊に満たされ、街の中や職場においても、遣わされて行く様々な場所で主イエスの証し人として福音を宣べ伝え、救われる魂が次々と起こされています。聖霊により私達はどこにおいても証し人となるのです。

またこの証人と言う言葉には「殉教者」と言う意味もあります。私達は聖霊によってこそ自分の肉に日々死に、イエス・キリストの道を歩む生きた殉教者となる事が出来るのです。

「ですから、兄弟たち。私たちは、肉に従って歩む責任を、肉に対して負ってはいません。
もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬのです。しかし、もし御霊によって、からだの行ないを殺すなら、あなたがたは生きるのです。
神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。」(ローマ人への手紙8:12~14)

今日、神のこどもとして主の命に満ち満ちて生きる為に聖霊様を求めましょう。


■A:考えてみよう
使徒の働き1章8節を宣言し、聖霊様を求めて祈りましょう。


■P:祈り


イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。

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