座間コミニティー

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◆あなたがたは主キリストに仕えているのです。

2014年12月11日 18時05分11秒 | 聖書

(コロサイ三・二四)

どのような高官に対してこのことばは語られたのであろう。神からの権利を得々と主張する王に対してか。否、彼らはあまりにもしばしば、自己やサタンに仕え、彼らの物まねの威厳をしばし黙って見逃しておられる神を忘れている。では使徒は、「神にあって尊敬される教父たち」「主教たち」あるいは、「尊い大執事たち」に対して語っているのか。否、パウロは人間の考案したこのような階級については、何も知らなかった。このことばは、牧師、教師、信者のうちの富んでいる者、尊敬されている者に対して語られているのでさえない。このことばはしもべに対して、奴隷に対して語られたのである。勤労する多くの人々、職人、日雇い労働者、家事手伝い人、台所のしもべの中に、使徒は、主のお選びになった人々を見いだして――今日私たちも、彼らの中に主が選ばれた人々を見いだしている――こう言う。「何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心からしなさい、あなたがたは、主から報いとして、御国を相続させていただくことを知っています。あなたがたは主キリストに仕えているのです」と。
このことばは、地上の職業の退屈な機会的な流れ作業を尊いものとし、最も卑しい仕事にも光を添える。足を洗うことは卑しいことかもしれない。しかし、主の御足を洗うことは高貴な仕事である。店も、物置きも、食器置き場も、かじ屋の仕事場も、人々がすべてのことを神の栄光のためにするようになれば、神の宮となる。その時「礼拝」は、ある時間にある場所ですることではなく、すべての生活が、主にささげた聖潔の生活となり、すべての場所や物が、幕屋やその中の金の燭台のように聖くなる。
「主よ。すべてのことにおいてあなたを見、またすべてのことをあなたのためにすることを教えてください。あなたのためにする時、どのような仕事も卑しいものとならないからです。あなたのためにする時、単調な仕事も聖なるものとなり、あなたのために部屋を掃く時、それはすばらしい仕事となるからです。」

 


「人がもし、不当な苦しみを受けながらも、

2014年12月11日 18時04分24秒 | 聖書

神の前における良心のゆえに、悲しみをこらえるなら、それは喜ばれることです」(Ⅰペテロ2:19)

ヨセフの物語がある。これでもか、これでもかと不当な苦難が襲い、思い通りにならない環境の連続だった。
兄達の妬みを買い、エジプトへ奴隷に売られた。
突然の苦難が臨んだ。
しかし、王室でヨセフはよく仕えたが、更に次なる苦難が臨み、全くの無実の罪で牢獄へ。
しかし、そこでもヨセフは忍耐に忍耐を重ね、牢獄でよく仕えた。
濡れ衣、理不尽、不当な苦しみ、しかし、ヨセフはこれらすべての背後に神を見、神を信じ、神の計画を見ていた。
ついに最終的には、王に次ぐ総理大臣となり、ヨセフの采配により国民は飢饉の際も飢えを免れたのだ。
そのヨセフのお陰で、ヤコブの家族も飢饉のさ中で命拾いをした。
神がヨセフを予め遣わされて、すべての手はずを整えられたのだ。
ヨセフは人の悪意にさえも、神は働き、それを良きに変えて下さることを知った。
与えられた苦しい理不尽な状況の中で、権威に服し、従う事の模範だ。
理不尽な相手に仕えているか。
その中で、神はあなたを圧迫し、鍛錬し、きよめ、品格を造り上げられる。
今、あなたが不当な苦しみの中にいたら、ヨセフの神を覚えよう。
そして、主の十字架がいかに不当で、理不尽であったかを、十字架をしっかり両眼を開いて見続けよう。
十字架の下には泉があり、愚痴も不満も無くなる。
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主がいかに罪人達の反抗を忍ばれたか考えるようにと御言葉は言っている。
それは、私達の心が元気を失い、疲れ果ててしまわないためだと。
ヨセフの神、主の十字架を思い今ひとたびの忍耐を祈ってみよう。


今日の聖人の記念日

2014年12月11日 07時55分33秒 | キリスト教

聖ダマソ1世教皇

在位366年-384年

 ダマソは、ローマで生まれた。教皇になるまでの経歴は明らかにされていない。当時教会は、異端者や離教者による混乱の中にあり、教皇対立派も出た。そのため、ダマソは司教選挙を国家権力から自由にする教会法の規定をローマ皇帝に承認させ、ローマ司教の権限を保証する道を開いた。382年のローマ教会会議で、ローマ司教の「使徒座」を定め、三位一体(神は唯一であり、父と子と聖霊という三つの位格がある)の教義に関しても聖アンブロジオと協力して、異端を唱えていたアリウス派と闘い、正統信仰を擁護した。

 また、聖書正典問題についても、ダマソの秘書をしていた聖ヒエロニモに、ラテン語訳聖書「ヴルガダ」を出版させた。ダマソは、殉教者に対する崇敬を広め、彼らを賛える詩的碑文を多く残した。


◆中傷でなく仲介

2014年12月11日 07時52分39秒 | 聖書

しもべのことを、その主人に中傷してはならない。
そうでないと、彼はあなたをのろい、
あなたは罰せられる。         (箴言三〇10)

知恵ある人の気配りの一つが語られています。
私たちは、とかく弱い立場の人をいい加減に扱うことがないでしょうか。たとえば、友達の家を訪問して、深い考えもなく軽々しく、「あなたのところのお手伝いさんは、聞いてよ、こうなの」などと、あまり根拠もない、お手伝いさんに不利不名誉になることを口にしてしまうことはありませんか。あるいは会社で、ほかの部長のところに行って、「実は、君の部下の何々君な、こんなうわさだぞ」と、これも根拠のないうわさ話を、軽い気持ちで言ったりすることはどうですか。
パウロは、ローマ人への手紙でこう言いました。「あなたはいったいだれなので、他人のしもべをさばくのですか。しもべが立つのも倒れるのも、その主人の心次第です」(一四4)。
根拠のない悪口などを言って他人の名誉を傷つけることを中傷といいますが、同じ「ちゅう」といっても、聖書の中の「仲介」ということばは尊いことばです。仲介=仲立ち・とりなしです。
パウロは、「ああ、私なんか、もうだめだ。また、罪を犯してしまった」とうなだれている人にこう言いました。「神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです」(ローマ八33―34)。
知恵ある人は中傷するものでなく、とりなす働きをする仲介者・とりなし手になるべきだと思います。

 


◆あなたがたを召された方は真実ですから、

2014年12月11日 07時51分48秒 | 聖書

きっとそのことをしてくださいます。(Ⅰテサロニケ五・二四)

天国は私たちが決して罪を犯さない所である。そこでは、執念深い敵に対する絶えざる警戒から解放される。なぜなら、そこには私たちの足をわなにかける誘惑者は一人もいないからである。天国は「汚れることのない資産」である。それは完全な聖潔の国であり、したがって申し分のない安全の地である。しかし、聖徒たちはこの地上においても、時に、恵まれた安全の喜びを味わってはいないだろうか。神のみことばの教理はこう教える。すべて小羊に結ばれた者は安全であり、すべての正しい者はその道を堅く保つ。自らのたましいをキリストの保護にゆだねる者は、主が真実にして変わりない保護者であることを見いだす、と。
このような教えに支えられて、私たちは地上においても安全を楽しむことができる。それは私たちをすべての過失から解放する、高い栄光ある安全ではない。しかし、イエスを信じる者は一人も滅びず、主のいます所に共にいるという確実な御約束から来る聖なる安全である。信者よ。しばし喜びをもって、神が聖徒を堅く守ってくださるという教えを熟考しよう。そして神に聖い信頼を置くことにより、主の真実をあがめようではないか。
私たちの神が、キリスト・イエスにある安全をあなたに確信させてくださいますように。主があなたの名を手のひらに刻んでおられることをあなたにはっきり信じさせ、「恐れるな。私はあなたとともにいる」との御約束をあなたにささやいてくださいますように。
契約の偉大な保証人である方を仰ぎ見よ。主は忠実であられ、真実であられる。神の家族の中の最も弱いあなたを、他の選ばれた者たちと共に神の御座にささげる義務を負われ、またその約束をしておられる。もしあなたが揺るぎない信仰をもって、「あなたがたを召された方は真実ですから、きっとそのことをしてくださいます」ということを信じることができるならば、あなたは今すでに、天上の完全な聖徒が味わう喜びの幾分かを味わっているのである。

 


第1列王記8章12-21節

2014年12月11日 07時50分12秒 | 聖書

8:12 そのとき、ソロモンは言った。「主は、暗やみの中に住む、と仰せられました。
8:13 そこで私はあなたのお治めになる宮を、あなたがとこしえにお住みになる所を確かに建てました。」



 ここには、ソロモンが神殿を奉献した時の言葉が語られています。

神殿建設の計画を持ったのは、父のダビデであったこと、しかし神様はダビデにその建設を許さず、息子のソロモンに委ねたので、自分が建てたことを語りました。

そして、この神殿の中に納めたものは、契約の箱であったということを語り、これが主なる神とイスラエルの民を結びつけるものであるということを告げました。

 ところで、彼はこの言葉を語る時に、まず「主は、暗やみの中に住む、と仰せられました。」と語りました。

これは、主の栄光がまばゆいばかりのために、人はその栄光を見ることができません。

ですから、主はご自分の臨在を雲というあり方の中で示されました。

そのことを語って、ここで暗闇の中に住むと言われているのです。

神様の持たれる御栄光を、ここで告げているのです。


詩篇103篇14節、ヨハネの黙示録5章10節

2014年12月11日 07時47分50秒 | 聖書

★主は、私たちの成り立ちを知り、私たちがちりにすぎないことを心に留めておられる。
★私たちの神のために、この人々を王国とし、祭司とされました。彼らは地上を治めるのです。

■O:今日のコラム
皆さんは、神様から見て、一体どんな存在なのでしょうか?それを知る事は、本当に大切です。

今日の箇所から、少しそれが読み取れます。

神様から見て、私たちはなんと「ちりにすぎない」存在です。

ショックかもしれませんが、この聖句に続く15,16節には、もっとキツイことが書かれています。そこでは、人の人生が、草や野の花に例えられ、咲いてあった場所ですら、その存在を忘れるって書かれています。皆さん、人間って神様にとって、そんな存在なんですよ。

しかーし!!

今日のもう1つの聖句、黙示録の聖句を読んでください。

このような人間を主は王国、または、王とし、祭司とし、地上を治めさせると。

どうして、ちりの存在である私達が王となり祭司となれるのでしょうか?

それは、私達が素晴らしいからでもなく、特別だからでもないです。もう一度言いますが、私達はちりにすぎない存在です。

その答えは、前の節、9節にあります。

イエス様の血潮です。

私達は、ただそれにより、王となり、祭司となるのです。
なので、神様から見て、イエス様の血潮を受けている私達は、王であり、祭司なのです。


■A:考えてみよう
ちりの存在から王と祭司になる。
なんという恵みを私達は受けているのでしょうか。イエス様の血潮を感謝し、またそれを今日受け取り、王として、祭司として、今日もこの地で歩んでいきましょう。


■P:祈り



イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。


12月10日(水)のつぶやき

2014年12月11日 02時13分10秒 | キリスト教