座間コミニティー

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◆すべての人に、すべてのものとなりました。

2014年12月07日 16時35分29秒 | 聖書

それは、何とかして、幾人かでも救うためです。(Ⅰコリント九・二二)

パウロの大目的は、単に教えて向上させることではなく、救うことであった。人々の心が新たにされ、赦され、きよめられること、事実、人々が救われることを欲した。私たちのクリスチャンとしての働きは、この重要なこと以下の何かを目標としていたのではないか。もしそうであれば、私たちのやり方を修正しよう。終わりの大いなる日に、人々が教えられ道徳を説かれたのみで、救われることなく神の御前に出るとすれば、いったい何の益があるだろう。私たちが生涯を通じて、より劣った目的を追求し、人々が救いを必要としていることを忘れるならば、私たちの着物のすそは真っ赤になるであろう。
パウロは、人の生来の状態が破滅であることを知って、人を教育しようとはせず、救おうとした。彼は、人々が地獄に沈みつつあるのを見て、彼らを改善するために語らず、来るべき怒りより救うために語った。たゆまぬ熱心さで、広く福音を宣ベ伝え、神と和解するように人に警告し、また求めた。彼の祈りは執拗で、彼の働きはやむことがなかった。たましいを救うことが、彼の焼き尽くすほどの熱情であり、大望であり、使命であった。彼はすべての人のしもべとなり、同胞のために労し、もし福音を宣べ伝えなかったら、わざわいに会うと感じていた。彼は、人が福音を受け入れるなら、形式にはこだわらなかった。伝道が彼にとって唯一の最も重要な務めだった。もしだれかを救うことができれば、彼は満足だった。それが彼の得ようとして骨折った冠であり、すべての苦労と自己否定に対する唯一の、十分な報いであった。
愛する友よ。あなたは、そして私は、このような高潔な心で救霊のために生きてきたであろうか。私たちは、同じ願いにとらえられて、それに没頭しているであろうか。もし私たちが救霊によってキリストの誉れを求めないならば、キリストに対する私たちの愛はどこにあるのか。おお、主がたましいに対する絶えざる熱情を注いでくださいますように。

 


「贖われた者たちは帰って来る。

2014年12月07日 16時34分45秒 | 聖書

彼らは喜び歌いながらシオンにはいり、その頭にはとこしえの喜びをいただく」(イザヤ51:11)

バビロン捕囚のイスラエルの民達に、故国への帰還許可が出た。
バビロニアがペルシャに滅ぼされ、ペルシャ王の命令によってだ。
異国の地から、自分達の国へ帰れるのだ。
喜びであったに違いないが、現実には複雑な状況が横たわっていた。
エルサレムは廃墟であり、町は復興されてはいない。
もう捕囚になって50年近く、その地に馴染み、そこでの生活がそれなりに確立し、むしろ豊かな生活をしていた者もいた。
異国の地での暮らしが成り立っており、神の民という意識も、神を礼拝する心も薄れてしまっていたかも知れない。
それは諦めであったかも知れない。
そんな民に、神は「さめよ、さめよ。力をまとえ。シオン。もとの座に着け」と励まされる。
「エルサレムの廃墟よ。大声をあげて喜び歌え」と。
真に神を知るようになると。
無力な民達はバビロンに、ペルシャにと、まるでほんろうされているように見える。
しかし、そうではない。
見えるところは大国の力関係だが、実は真の主権者は神であり、神のイスラエルへのご計画と御心が確実に成し遂げられているのだ。
私達も日常生活、起こる出来事、見えるところでなく、背後にある、神の主権と御心を見、受け取ろう。
「わたしの計りごと」は成就し「わたしの望む事」をすべて成し遂げられる。
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主のご計画は必ず実現する。見える状況でなく、背後の神を見て行けるように。
私達には刺繍の裏しか見えないので、時にグチャグチャでわけがわからないが、表は見事な綺麗な模様となっていて、完璧に計画通りに進められている。


今日の聖人の記念日

2014年12月07日 07時47分45秒 | キリスト教

聖アンブロジオ司教教会博士

340年-397年

 アンブロジオは、ローマ貴族の子として、ドイツのトリエルに生まれた。父の死後、母に連れられてローマに行き、法律を学んだ。373年、ローマ皇帝ヴァレンチニノ1世から、リグリアとエミリア州の長官に任命され、ミラノに赴いた。ミラノの司教が亡くなると人びとは、信者ではないが慈悲深いアンブロジオを司教に選んだ。短期間のうちに受洗し、司祭に叙階され、374年12月7日ミラノ司教に就任した。

 アンブロジオは、信者の信仰教育のために、説教壇から熱弁をふるった。洗礼志願者への連続説教、聖書解釈の連続講話、独身の生活に関する説教などが有名である。アンブロジオの温かい人柄と、学識の深さにひかれ、指導を求める人が多くいた。その中には、息子アウグスチヌスのことで相談にくるモニカの姿もあった。
 神と人びとのために精根こめて働いたアンブロジオは、397年、57歳で亡くなった。


◆人を恐れるな

2014年12月07日 07時46分28秒 | 聖書

人を恐れるとわなにかかる。
しかし主に信頼する者は守られる。(箴言二九25)

人の上に立つ者の危険は、きのうもお話ししたように、高ぶることです。しかし、もう一方の危険は、反対に人を恐れることではないでしょうか。人の顔色や鼻息をうかがい、確信のない生き方をすることです。
人に弱虫といわれるのを恐れて、麻薬を吸わされ、悲惨のどん底に落ちた男の話を聞きました。男にきらわれて捨てられるのがこわくて、肉体関係に引きずりこまれ、ぞうきんのように捨てられた女子大生の体験をじかに聞いたこともあります。すべての人にとって、恐るべきものを恐れず、恐るべきでないものを恐れる愚かさは、恐ろしいわなとなります。
イエス・キリストは、「からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい」(マタイ一〇28)と言われました。魂も体もゲヘナに投げ入れるものは、罪です。そして、その罪をさばきたもう神です。
人の上に立つ人が「人を恐れる」ケースは、二つあります。第一は、人の評判、つまり自分を人がどう見ているかという恐れです。第二は、自分より能力が上で評判のよい者がやがてのしあがって、自分の座をとりはしまいかという恐れです。
神の前に恐れるようなわだかまりが一つもないなら、自分がこの時に立てられている指導者であることを、神を恐れつつも確信するべきです。そして、能力ある人を、あなたのリーダーシップの一つの力として用いましょう。やがて時が来るなら、自分の大切なリーダーシップを有力な後継者にゆずるという大きな気持ちで、人を育てなければなりません。主を恐れ、主に信頼しており、罪をゆるされ、自我をキリストと共に十字架につけきったリーダーは、何とたよりがいがあることでしょう。

 


◆この世の取るに足りない者や見下されている者を、

2014年12月07日 07時45分41秒 | 聖書

神は選ばれました。(Ⅰコリント一・二八)

あなたがもし望むなら、街の通りを歩いてみるがよい。そこには、犯罪人が何人かいるかもしれない。刑務所に行って監房を一つ一つ見て行くなら、陰気で冷たい感じの人々を見ることができる。そこには犯罪人がいる。少年院へ行けば、あなたはそこにも若い犯罪人を見るであろう。海を渡って他国へ行っても、そこにも犯罪人はいる。あなたはどこへ行こうと、そこで犯罪人を見つけるために捜し回る必要はないかもしれない。犯罪人はあらゆる都会、町、村の大通りにも小路にも、どこにでもいる。
イエスは、このような者たちのために死なれた。もしあなたが、最も下劣な人間の標本を選んで私のもとに連れて来たとしても、その人が女から生まれた者である限り、私は希望を失わない。なぜなら、イエスは罪人を捜して救うために来られたからである。選びの愛が、最悪の者を選び出して最善の者とする。神の恵みは、小川の小石を、王冠を飾る宝石に変える。神は、価値のないくず鉄を純金に変えられる。贖いの愛が、多くの人類の中から最悪の者たちをより分けて、救い主の苦しみの報酬とされるのである。力ある恵みが、最も下劣な多くの者たちを召し出して、恵みの食卓に座らせるのである。このゆえにだれであっても失望してはならない。
読者よ。イエスの涙のあふれた目に宿る愛により、血潮したたる傷口から流れ出る愛により、その忠実な愛により、その強い愛により、その純粋な私心のない永続的な愛により、救い主のあわれみの心により、あなたに願う。この約束があなたに無関係なものであるかのように顔を背けないように。むしろ主を信ぜよ。そうすれば、あなたは救われる。あなたのたましいを主にゆだねよ。そうすればあなたは、主によって永遠の栄光のうちに、御父の右に伴われるであろう。

 


第1列王記6章31-38節

2014年12月07日 07時43分07秒 | 聖書

6:37 第四年目のジブの月に、主の神殿の礎を据え、
6:38 第十一年目のブルの月、すなわち第八の月に、神殿のすべての部分が、その明細どおりに完成した。これを建てるのに七年かかった。



 ソロモンは、自分が王位に就いてから4年目のジブの月、すなわち第2の月に、主の家の建設に取りかかったと語っています。

それから11年目のブルの月、すなわち第8の月に神殿が完成したと語られています。

この建設に7年がかかりました。

ここを見ますと、この建設に当たっては、計画通りに事が行われたと告げられています。

内堂の入り口、本堂の入り口など細かい設計が成されましたが、その通りに作られました。

 私たちが建物を作る時には、土地の形状や地盤、材質、さらには建物の配置なども細かく調査し、また計算して建てます。

そうしなければ安全な建て方ができないからです。

神様は、こうしたいろいろな知識と能力を人に与えてくださっています。

こうした知力を用いることは、大事なことです。

また、その普段の知識を、私たちもそれぞれ磨くことが大切です。


詩篇100篇1~5節(黙示録2章)

2014年12月07日 07時39分59秒 | 聖書

★全地よ。主に向かって喜びの声をあげよ。喜びをもって主に仕えよ。喜び歌いつつ、御前に来たれ。知れ、主こそ神。主が、私たちを造られた。私たちは主のもの、主の民。その牧場の羊である。感謝しつつ、主の門に、賛美しつつ、その大庭に入れ。主に感謝し、御名をほめたたえよ。主はいつくしみ深く、その恵みはとこしえまで、その真実は世々に至る。

■O:今日のコラム
今日の箇所には、<知れ>という言葉が使われています。詩篇には、3回<知れ>という言葉が使われています。(1)詩篇4篇3節、(2)46篇5節、(3)100篇2節です。何を<知れ>と主は私たちに語りかけているか、それは(1)主がご自分の聖徒を特別に扱われること、(2)わたしこそ主であること、(3)主こそ神であり、主がわたしたちを造られたことです。
喜びの声をあげることも、主に仕えることも、喜び歌いつつ御前にいくことも、この3つゆえに出来ることだと思わされました。私たちが何も持たないときも、どんなときでも、この3つは永遠に変わらない真実であること、そのことを心から感謝します。


■A:考えてみよう
以前、「主を知るということは、主に<知られている>ことを<知る>ことだ」ということを聞きハッとさせられました。私はどれくらい主を知っているか経験したか、そういったことで背比べをしたくなる不完全な者で、私が主を知るなんてことは高が知れたものですが、肝心なことは主が私のすべてを知っていてくださることであることを覚えます。
「主よ。あなたは私を探り、私を知っておられます。あなたこそは、私のすわるのも、立つのも知っておられ、私の思いを遠くから読みとられます。あなたは私の歩みと私の伏すのを見守り、私の道をことごとく知っておられます。ことばが私の舌にのぼる前に、なんと主よ、あなたはそれをことごとく知っておられます。(詩篇139篇1~3節)


■P:祈り



イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。


12月6日(土)のつぶやき

2014年12月07日 02時12分46秒 | キリスト教