座間コミニティー

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◆見よ。わたしは、世の終わりまで、

2014年12月26日 17時41分12秒 | キリスト教

いつも、あなたがたとともにいます。(マタイ二八・二〇)

主イエスは、ご自身の教会の真ん中におられ、金の燭台の間を歩まれる。主の御約束は「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます」である。現在もたしかにイエスは私たちと共におられる。肉体をもってではないが、まことにイエスは私たちと共におられる。
これは幸いな真理である。イエスがおられるところには愛が燃え上がるからである。この世のすべての人の心を燃え立たせるもののうち、イエスのご臨在にまさるものはない。主の香り高い御衣からしたたる没薬、アロエ、肉桂の香りさえ、病める者、弱い者を強くする。私たちがほんの一瞬でも主のあわれみ深い御胸に自分の頭をもたせかけ、主の御愛を私たちの貧しく冷たい心に受け入れるならば、私たちはもはや冷ややかでなく、セラフィムのように燃え立ち、あらゆる任務に耐え、どのような苦しみもいとわなくなる。
もし私たちが、イエスが共におられることを知るならば、私たちのすべての力は明らかにされ、すべての恵みは強められ、全心、全霊、全力を傾け尽くして主の御用に献身するであろう。ゆえに、キリストのご臨在こそ、すべてのものにまさって望ましい。
キリストのご臨在は、主に最もよく似た人々の中に実現される。もしあなたがキリストを見たいと思うなら、あなたはキリストに似た者にならなければならない。聖霊の力により、あなた自身をキリストの願い、動機、行動の方針と結び合わせなければならない。そうすれば、主に愛されるであろう。
主のご臨在が得られることを覚えよ。その御約束は昔も今も変わりなく真実である。主は、私たちと共にあることを喜ばれる。もし主がおいでにならないならば、それは、私たちが無関心によって主を妨げているからである。主は私たちの熱心な祈りに応えてご自身を現され、私たちの嘆願と涙によって、あわれみ深くも私たちのもとにとどまられる。なぜなら、これらは、イエスとその民を結び合わせる黄金の鎖だからである。

 


「ほんとうに、私は主のはしためです。

2014年12月26日 17時39分59秒 | 聖書

どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように」(ルカ1:38)

マリヤにとれば、突然の出来事であった。
何の前ぶれもなく、ある日突如として、自分の人生に介入して来られ、一方的に御使いから「みごもって、男の子を産む」と言われたのだ。
マリヤは、ヨセフと婚約していて幸せな時であり、準備をしつつ結婚生活を思い描いていたであろう。
しかし一方、マリヤはメシヤ到来を知り、信じていた。
だが、余りも唐突な戸惑う出来事だ、処女で出産するとは。
当時、婚約中の姦通は石打ちの刑だ。
おことば通りこの身になるなら、死ななければならない。
それこそ命がけだ。
それに、ヨセフとの関係はどうなるのか。
聖霊によってみごもったなどと誰が信じるだろう。
ヨセフをどんなに傷つけ恥をかかせる事か。
信頼関係はめちゃくちゃだ。恐れと不安があった事だ
ろう。しかし、そんな中でマリヤは、自分自身と自分の人生を、主に差し出した。
「おことばどおりこの身になりますように」と何もかもを明け渡した。
マリヤが思いついた事ではなく、選んだ事ではない。
「自分の思い通りになりますように」ではなく、まさに命がけで御心が成りますようにだ。
このマリヤの従順により、救い主の誕生が実現した。
今、目の前に戸惑う事態があるだろうか。
マリヤが特別に選ばれたように、あなたを主の素晴らしいご計画のために選んでおられる。
明け渡せるよう、まず祈ろう。
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どんなに不安に思えても、おことばの通りに…と従って行けるのは不断の神様との交わりの中にあるからだ。
神様だけが私を一番輝く道へと生かして下さると覚え、全てをおゆだねしこのクリスマスを祝おう。


今日の聖人の記念日

2014年12月26日 07時11分28秒 | キリスト教

聖ステファノ殉教者

?-37年ごろ

 キリスト教最初の殉教者といわれるステファノは、ギリシャ語を話すユダヤ人であった。イエス・キリストが昇天されてから数年がたち、キリスト信徒が増えていたころ、ギリシャ語を話すユダヤ人信徒たちから、ヘブライ語を話すユダヤ人信徒に対する苦情がもち上がった。それは、彼らのやもめたちが教会からの配給を十分受けられないということであった。そこで、12使徒(イエス・キリストに選ばれた弟子)たちは、やもめたちへの日常品を配給・監督し、使徒を補佐する7人を選んだ。ステファノはその1人であり、「信仰と聖霊に満ちた人」で、その活動はすばらしいものだった(使徒行録6~7章参照)。
 しかしキリスト教に反対する人びとは、ステファノを憎み、彼が神殿を破壊しようとしているという偽りの罪を着せ、告訴して彼を衆議会の裁判に連行した。ステファノは弁明し、イスラエルの救いの歴史に対して人びとが神にしてきた過ち、そして今のイスラエルの人も救い主である神を裏切り、死に至らしめたことを堂々と述べた。それを聞いた議員たちは怒り、ステファノを冒とく者として石打ちの刑にした。その刑に賛同した人びとの中に、後に異邦人の使徒となるサウロ(使徒聖パウロ)がいた。  ステファノは、石打ちに遭いながらも、「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」と言って眠りについた。ステファノという名は、ギリシャ語で「冠」という意味であり、その名にふさわしくキリストの名のために殉教の冠を受けたのであった。


◆愛  と  献  身

2014年12月26日 07時10分10秒 | 聖書

夫の心は彼女を信頼し、
彼は「収益」に欠けることがない。
彼女は生きながらえている間、
共に良いことをし、悪いことをしない。(箴言三一11―12)

すばらしい妻の第一点として、夫が心から信頼できる妻、徹頭徹尾、夫に善意をもって仕える妻が語られています。
悪妻に悩まされている人も多くいます。「叱りゃすねるし、ぶちゃかみつくし……」と、江戸時代の端唄にいわれています。結婚生活二十六年目の人妻から、離婚の相談を受けました。「主人は、ごはんを食べる時、犬みたいにがつがつ食べるのです。もう我慢ができません。」「ご主人は、このごろそうなったのですか。」「いいえ、結婚した時からです。」その話を聞いて、背筋を冷たい風が通るような気がしました。
しかし、「私の妻はすばらしい」と心の底から感謝しているご主人も、案外多いことでしょう。結婚生活六十年にして妻に先立たれたある方は、彼女のために石碑を建てて、こう刻んだそうです。「彼女は常に家庭を幸福にしてくれた。」人間ですから、だれにも欠点はあります。「うちの女房、気がきかない。掃除がへたで料理がまずい。手がのろいし、口ベただ。」そんなことを言いながらも心の中では、この箴言のことばのように「うちの女房は真実だ。信頼できる。徹底的に、おれによかれと仕えてくれる」と、たいてい思っているのではないでしょうか。
そんなすばらしい夫人は、どこにいますか。どうしたら、そんなすばらしい夫人になれますか。
第一は生まれつきです。そして生まれつきは、神の賜物です。第二は、夫がつくります。どんな人でも、大切にすると大切な尊いものになります。夫の愛と真実が、よい妻・すばらしい妻をつくるのです。しかし第三に、神を恐れ、神を愛し、神から愛をいただいた女性は、だれでもすばらしい妻になれるのです。

 


◆最後のアダム……。

2014年12月26日 07時09分23秒 | 聖書

(Ⅰコリント一五・四五)

イエスは、選ばれた者たちのかしらである。ちょうどアダムが、行いの律法の下にあって人類の契約の締結者であり代表者であったために、すべての血肉の子孫は彼と個人的関係をもったように、恵みの律法の下において、すべての贖われたたましいは、天から降られた主と一体である。なぜなら、主は第二のアダムであり、新しい契約の下において選ばれた者たちの保証人、あるいは代理人だからである。
ヘブル人への手紙の著者は、メルキゼデクがアブラハムに会ったとき、レビはアブラハムの腰の中にいたと言う。永遠の昔に恵みの契約が定められ、批准せられ、永遠に確定されたとき、信者がイエスの腰の中にいたことは確実な真理である。このように、イエスがなされたことはすべて、教会全体のためであった。私たちは主にあって十字架につけられ、主と共に葬られた。さらに驚くべきことに、私たちは主と共によみがえらされ、共に天の所に座らせられたのである。こうして、教会は律法を成就し、「愛する御子によって受け入れられた」のである。そして義であられる神は、満足して教会をご覧になるのである。なぜなら、神は教会をイエスにあって見るのであり、契約のかしらであるイエスと別なものとは見られないからである。
イスラエルの油注がれた贖い主であられるキリスト・イエスがもたれるもので、教会と関係ないものは一つでもなく、主の所有されるものはすべて教会のためのものである。アダムの義は、彼がそれをもち続ける限りは私たちのものであった。そして、アダムが罪を犯した瞬間に、彼の罪は私たちのものとなった。同様に、第二のアダムは私たちの代表であるため、第二のアダムとその行為はすべて、主のものであるとともに私たちのものである。ここに、恵みの契約の基礎がある。
殉教者ユスティノスは、この代表と身代わりの恵みに感動して、「おお、聖なる転換よ。甘美なる交換よ」と叫んだ。これこそ救いの福音の土台であり、強い信仰と無上の喜びをもって受け入れるべきものである。

 


第1列王記10章6-10節

2014年12月26日 07時08分07秒 | 聖書

10:7 「実は、私は、自分で来て、自分の目で見るまでは、そのことを信じなかったのですが、驚いたことに、私にはその半分も知らされていなかったのです。あなたの知恵と繁栄は、私が聞いていたうわさよりはるかにまさっています。
10:8 なんとしあわせなことでしょう。あなたにつく人たちは。なんとしあわせなことでしょう。いつもあなたの前に立って、あなたの知恵を聞くことのできる家来たちは。」



 シェバの国の女王がソロモンの所に来たのは、彼女に何か悩みがあったからではありませんでした。

彼女はソロモンのことを聞き、彼に知恵があるということを知らされました。

また、その国が大変繁栄をしていると聞かされていました。

ですから、彼女はそのことを実際に自分の目で見て確認したいために来たことでありまして、それは、むしろ自分の優越感の確認のために来たようなものでした。

ですから、その優越性を示すために、多くの金品の贈り物をソロモンの所に携えて来たのでした。

ところが、その贈り物は、ソロモンの知恵と豊かさを実際に見る事によって、ソロモンへの真の贈り物となったのでした。


詩篇119篇71節

2014年12月26日 07時05分36秒 | 聖書

★苦しみに会ったことは、 私にとってしあわせでした。
私はそれであなたのおきてを学びました。

■O:今日のコラム
年末が近づくと、私はいつもこの一年、主がして下さった数々の恵みに思いを馳(は)せます。その時は苦しかったことも、喉元過ぎれば熱さを忘れるではないですが、振り返ってみると、「なぜあんなに苦しんでいたのか」と思うこともあります。しかし、それは苦難を主と共に乗り越えた者だけが感じることができる特別なものなのではないかと思います。
この詩篇の作者は、「苦しみ=しあわせ」だと言っています。なぜ苦しみに会ったことが幸せなのでしょうか。それは、この作者が苦しみを通して主のおきてを学んだからです。続く72節では、「このおきては幾千の金銀にまさる」と書かれています。どんな代価を支払っても得ることができないほど、価値のあることを苦しみから得ることができるのです。
しかし、すべての苦しみがしあわせになるとは限りません。もし私たちが苦しみの中でしあわせを見出したいのならするべきことがあります。それは、主への全き信頼です。65節では「【主】よ。 あなたは、 みことばのとおりに、あなたのしもべに良くしてくださいました。」と書かれています。主のみことばは決して変わること無く、永遠にまで続くものです。自分の都合のいいように自分にみことばを適用するのではなく、みことばに自分を従わせていく姿勢です。これこそ、「悔い改め」です。
みことばは私たちを励ましてくれます。
「あなたがたの会った試練はみな人の知らないものではありません。 神は真実な方ですから、 あなたがたを、 耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。 むしろ、 耐えられるように、 試練とともに脱出の道も備えてくださいます。」(コリント人への手紙 第一10章13節)
苦しみの試練は必ず終りがあります。そこで私たちはみことばによって試し、練られるのです。もし、私たちが苦しみの中にあっても主に信頼することをせず、自分の経験やカンを頼りに歩み続けるなら、イスラエルの民が荒野で40年間さまようのと同じようになってしまいます。
「あなたのみことばは、 私の足のともしび、私の道の光です。」(詩篇115篇105節)とあります。みことばに導かれていく人生こそが祝福の人生の最短コースです。自分がどう思うかを脇に置き、みことばをみことばとして受け取っていきましょう。そういった人には次のみことばの約束が成就すると信じます。
「私ヨハネは、 あなたがたの兄弟であり、 あなたがたとともにイエスにある苦難と御国と忍耐とにあずかっている者であって、…」(黙示録1章9節a)
苦難を主と共に忍耐するなら、苦難と忍耐の間には御国が現されていきます。忍耐は地味かもしれません。痛みを伴うかも知れません。逃げたくなるかもしれません。しかし、そういった時が勝負です。主を見上げられない時こそ、主を見上げる最大のチャンスです。そこでこそ本当の信仰が試されます。


■A:考えてみよう
今の苦しみはどれほどでしょうか?誰にもわかってもらえないほどの苦しみでしょうか?しかし、その苦しみを誰よりも知ってくださっている方がおられます。それはイエス様です。主は、あなたのその苦しみを担うために十字架にかかって下さいました。つまり、あなたはその苦しみを持ち続ける必要はないのです。それはイエス様にお委ねしなければならないことなのです。
「すべて、 疲れた人、 重荷を負っている人は、 わたしのところに来なさい。 わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、 へりくだっているから、 あなたがたもわたしのくびきを負って、 わたしから学びなさい。 そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、 わたしの荷は軽いからです。 」(マタイ11:28-30)
本当の安らぎ、平安はイエス様にすべてを委ねきったものに与えられる特別なものです。私たちはこの領域で生きていく必要があります。いつも喜び、神とともに歩むエノクのような生き方です。それは難しいことでしょうか?シンプル過ぎて逆に難しく感じているだけではないでしょうか。ただ、主に信頼するということだけです。主の全き愛によって恐れを閉めだしていただき、全信頼を主に置き、全てを主に委ねましょう。


■P:祈り



イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。


12月25日(木)のつぶやき

2014年12月26日 01時46分52秒 | キリスト教

詩篇119篇44,45節 (ヨハネの黙示録15章) goo.gl/cpKsy8


◆見よ。処女がみごもっている。 goo.gl/xCcLyU


「イサクはその地に種を蒔き、その年に百倍の収穫を見た。 blog.goo.ne.jp/tosi_1968/e/ef…


◆こうして祝宴の日が一巡すると、ヨブは彼らを呼び寄せ、聖別することにしていた。 blog.goo.ne.jp/tosi_1968/e/b0…