座間コミニティー

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◆その果ては、

2014年12月30日 16時41分54秒 | 聖書

ひどいことになるのを知らないのか。(Ⅱサムエル二・二六)

読者よ。もしあなたが、ただの自称信者であって、キリスト・イエスにある信仰をもっていないならば、次に述べるのが、あなたの終局の真の描写である。
あなたは礼拝に忠実に出席する。あなたの心が神と共にあるから出席するのではなく、他の人々が行くからあなたも行くのである。これがあなたの振り出しである。次の二十年か三十年、今のような状態が続くとしよう。外見は集会に出席して信者らしく見せかけているが、心は真の信仰をもっていない。
静かに聞いてほしい。あなたに、あなたのような人の臨終の床の有様を見せなければならないからである。彼の額は汗にぬれている。彼は目を覚まして叫ぶ。「神よ。死ぬのはつらいことです。……牧師を呼びに行ったか。」「はい。今来られます。」牧師が来る。「先生。私は死ぬのが恐ろしいのです。」「希望がないのですか。」「希望をもっているとは言えません。神の前に立つのが恐ろしいのです。ああ、どうか私のために祈ってください。」彼のために熱心な心からの祈りがささげられ、救いの道が何度も彼の前に示される。しかし、救いの綱を握らないうちに、私は彼が沈んでいくのを見る。その冷たくなったまぶたの上に、私は自分の指を置く。そのまぶたは、もう決してこの地上のものを見ることがないからである。その男はどこにいるのか。そして、その男の真の目はどこにあるのか。「ハデスで苦しみながら目を上げると……」とある。
ああ、なぜもっと早く目を上げなかったのか。それは、福音を聞くことに慣れきって、たましいがその下で眠っていたからである。ああ、もしあなたがかしこで目を上げることになるとすれば、あなたの嘆き、悲しみはどれほどであろう。それを救い主のみことばによって表そう。「父アブラハムさま。私をあわれんでください。ラザロが指先を水に浸して私の舌を冷やすように、ラザロをよこしてください。私はこの炎の中で、苦しくてたまりません。」
どうかあなたが神の御怒りのもとで、このことばを発することが決してないように。

 


「お着物にさわることでもできれば、きっと直る」

2014年12月30日 16時40分52秒 | 聖書

(マルコ5:28)

12年間の長血を患った生活、どんなに辛く、苦しく、絶望的だった事だろう。
治療のために、自分の全財産を使い果たしていた。
しかし、直るどころか、ますます悪化して行った。
経済的にも、身体的にも、精神的にも、又、当時、長血は「汚れたもの」とされ社会的にも、受け入れられず、人生に何の希望も無かったろう。
この苦しみが、彼女をして真剣に必死に、主を求めさせた。
主の着物にでもさわる事ができれば直ると信じたのだ。
群衆の人混みをかき分け、主の着物にさわった。
すると、主の癒しの力が流れ出て、彼女はすぐにその場で直った。
「きっと直る」と信じ続けていたのだ。
すると主は「だれがさわったのか」と探し、彼女のために面と向かって、関わろうとされた。
彼女は恐れおののいて、主の前に出て、辛さ、苦しみ、悲しみの真実を余すところなく話した。
彼女の病を直したのは、紛れもなく主だが、「娘よ」と呼びかけられ、「あなたの信仰があなたを直した」と言われた。
彼女がこのまま人混みに紛れて、隠れて去り、終わってしまったらどうだろう。
身体は直ったが、それだけだ。
しかし、主は彼女の身体だけでなく、全人格に関わって下さった。
そして、「安心して帰りなさい」と、心にも平安を与え、全人格の救いを与えて下さった。
真剣に一心に主を求める心に、主は向き合って下さる。
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主は求める者に、必ず姿を現して下さる。
お着物にさわることでもできればという主を求めた飢え乾きを忘れず、今日も豊かな主との交わりの中を歩もう。


今日の聖人の記念日

2014年12月30日 07時07分07秒 | キリスト教

聖メラニア

383年ごろ-438年

 メラニアは、ローマに生まれた。祖母は大メラニアであり、エルサレムに女子修道院を設立した聖人であった。
 メラニアは、397年に父から強制されて結婚したが、不幸にも2人の子どもを亡くし、夫とともに禁欲生活の道を選んだ。父の死後、莫大な財産を相続したメラニアは、それを貧しい人びとや、教会のため、また多くの奴隷解放のために使った。西ゴート族が襲ってきたときは、夫とともにローマを離れ、アフリカに行き、聖アウグスチヌスと出会ったといわれている。その後エルサレムに住み、431年、夫に先立たれてから、オリーブ山に彼の墓を作ってその近くに小屋を建て、祈りと修行の生活に励んだ。そのうちに彼女のもとに女性たちが集まり、修道院となった。


◆事の終わりは、

2014年12月30日 07時06分02秒 | 聖書

その初めにまさり……。(伝道者七・八)

ダビデの主を仰ぎ見よ。その初めがどうであったかを思え。「彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。」あなたはその終わりを見るか。主は父なる神の右に座し、その敵を足台にしようとしておられる。「私たちもこの世にあってキリストと同じような者である」なら、当然十字架を負わなければならない。そうしなければ、決して冠を得ることはできない。あなたが泥の中をはって進むのでなければ、決して黄金の大通りを歩むことはできない。それゆえ、クリスチャンよ。雄々しかれ。「事の終わりは、その初めにまさり……」とある。
うごめく毛虫を見よ。なんと卑しい姿だろう。それが事の初めである。しかし、あの目の覚めるような羽をもち、日光の中にたわむれ、花の杯より蜜を吸い、幸福といのちに満たされている蝶を見るがよい。それが事の終わりである。あなたは死のさなぎになるまでは毛虫なのである。しかし、キリストが現れたなら、キリストのありのままの姿を見るので、キリストに似た者となる。主に似た者となることを覚えて心を安んぜよ。あなたが目を覚ますその時には、主のようになっていることを見いだして満ち足りるであろう。
天然のダイヤモンドは、研磨機にかけられてその全面を削り取られ、一見貴重と思われる部分までも失わなければならない。王の戴冠の際には、喜びのラッパとともに王冠が王の頭上に置かれ、その冠からはまばゆいばかりの光が輝く。しかしその光は、直前まで研磨機によって悩まされ痛めつけられていたあのダイヤモンドから出ている。このダイヤモンドに、あなた自身をなぞらえてみるがよい。あなたは神の民の一人であり、今は玉を磨く時なのである。信仰と忍耐をもって待て。王冠が永遠不朽の王の頭上に置かれるとき、一条の栄光の光があなたからも流れ出るであろう。
「彼らは、わたしのものとなる。――万軍の主は仰せられる。――わたしが事を行なう日に、わたしの宝となる。」まことに「事の終わりは、その初めにまさる」のである。

 


第1列王記11章1-8節

2014年12月30日 07時04分12秒 | 聖書

11:7 当時、ソロモンは、モアブの、忌むべきケモシュと、アモン人の、忌むべきモレクのために、エルサレムの東にある山の上に高き所を築いた。
11:8 彼は外国人の自分のすべての妻のためにも、同じようなことをしたので、彼女たちは自分たちの神々に香をたき、いけにえをささげた。



 ソロモンは、先代の王ダビデが獲得できなかったものを獲得しました。

それは空前の豊かということです。

しかし、その豊かさは神の与えて下さった知恵によったのですが、いつしか彼はそのことを忘れ、その豊かさの故に、神よりも自分を喜ばすことに心を費やすようになりました。

彼には、700人の王妃と300人のそばめがあったと言われています。

その多くが外国の民からとったものでした。

主は、そのようなことをすれば偶像礼拝に陥って滅びることになろうと警告されていました。

しかし、彼は耳を傾けませんでした。

その結果、彼自身が偶像礼拝に陥ったのみではなくて、彼女たちが行う偶像礼拝を支える働きさえもするようになってしまったのです。

豊かさが罪ではありません。

用い方が問われるのです。


詩篇120篇全体(ヨハネの黙示録20章)

2014年12月30日 07時01分25秒 | 聖書


■O:今日のコラム
 この詩篇には、勇士の鋭い矢が登場します。この鋭い矢とは何でしょうか?『島々よ。私に聞け。遠い国々の民よ。耳を傾けよ。主は、生まれる前から私を召し、母の胎内にいる時から私の名を呼ばれた。主は私の口を鋭い剣のようにし、御手の陰に私を隠し、私をとぎすました矢として、矢筒の中に私を隠した。』(イザヤ49:1~2)とあります。

 島々の遠い国々は、日本を含むアジアであるという事ができます。私たちは、召されています。それは以下のようなものであり、そのために主は、力を注がれます。

(1) 私たちの口を鋭い剣のようにします。
口の言葉が御言葉の宣言、信仰の告白となり、人を建て上げるものとなる召し。

(2) 御手の陰に隠します。
主の御手によって包まれる、臨在の中にとどまる者としての召し。

(3) 研ぎ澄ました矢とします。
その口の言葉の純度を高める召し。口の言葉は心にあるものがでるので、心を主が取り扱われ、きよめられます。

 その後、どうするかといえば矢筒にしまわれます。それは、どんな目的で使われるのかというと、神の民となった異邦人をきよめるために使われます。眠っている神の民の目を覚まし、熱心にさせるのです。イザヤは、口に炭が押し付けられ、きよめられました。
 同じように、神の民として召されていながら、その口に批判、争いを上らせる者の口が変えられます。それは、進む方向が変えられる事を意味します。
 5節のメシェクとは、ヤペテの子です。ノアの子、セム、ハム、ヤペテのヤペテです。セムはイスラエルへと続く系図となり、ハムは呪われ、カナンへと続く系図となります。ヤペテはセムとともに布でノアの恥を覆った(イスラエルと異邦人がともに幕屋を張ることを意味します。花嫁を意味します)ために祝福を受けました。救われる異邦人を意味します。
 ケダルの天幕は、雅歌1章で花嫁の象徴として登場します。雅歌は、花嫁の成長のストリーですから、彼らが、花嫁としてのスタートラインに着くことを意味します。
 彼らは、逆の意味で研ぎ澄まされた矢でした。『彼らは、その舌を剣のように、とぎすまし、苦いことばの矢を放っています。』(詩篇64:3)しかし、主は、悪い言葉によって研ぎ澄まされた矢となった人々を、きよい言葉で研ぎ澄まされた矢によって変えられます。
 この事実を知ったならば、きよい言葉で研ぎ澄まされた矢となるために主にとどまる者、父の愛にとどまる者となりましょう!黙示録の14章で出てくる14万4千人の花嫁は『口に偽りがなかった』(黙示14:5)という特徴があります。
 矢と炭できよめられる側でなく、きよめるために神が用いる側になりましょう!



■A:考えてみよう
口のことばが御言葉、信仰の宣言、励まし、愛の言葉となり、きよいものとなることを求めましょう!また、主の愛にとどまり続けましょう!


■P:祈り



イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。


12月29日(月)のつぶやき

2014年12月30日 01時46分10秒 | キリスト教