座間コミニティー

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◆こうして祝宴の日が一巡すると、ヨブは彼らを呼び寄せ、聖別することにしていた。

2014年12月25日 17時03分59秒 | 聖書

彼は翌朝早く、彼らひとりひとりのために、それぞれの全焼のいけにえをささげた。ヨブは、「私の息子たちが、あるいは罪を犯し、心の中で神をのろったかもしれない。」と思ったからである。ヨブはいつもこのようにしていた。(ヨブ一・五)

この族長が、朝早く、家族へのふるまいの後になしたことを、信者が今夜寝る前に自分のためにするのはよいことである。家族が集う楽しさの中で、罪深く、はしたない行為にたやすく陥ったり、私たちが公言するクリスチャンとしての品性を簡単に忘れてしまったりする。宴を催しても聖なる喜びの日になることはまれで、しばしば罪深い歓楽に堕するのである。これは、あってはならないことであるが、事実である。しかし、ちょうどエデンの川に浴するような、純粋な聖い喜びの道もある。聖い感謝は、ちょうど深い悲しみと同じく清めの力をもつ。ああ、私たちの貧しい心にとって、悲しみの家が饗宴の家にまさることは確かである。
信者よ。あなたは今日どのような罪を犯したか。自分の尊い召しを忘れていたか。他の人々のように無益なことばを語り、だらしのない話をして過ごしたか。ではその罪を告白し、いけにえのもとに走って行け。いけにえはあなたをきよめる。ほふられた小羊の尊い血は、罪を除き、私たちの無知と不注意の汚れをきよめる。これは、クリスマスの祝日の最もよい終わり方である。きよめの泉によって洗われ、新たにされるのである。信者よ。絶えずこのいけにえに来れ。今夜それがよいことなら、それは毎夜よいことなのである。
祭壇において生きることは、王の祭司の特権である。彼の罪は大きいが、それが失望の原困とはならない。なぜなら、彼は罪を贖ういけにえに幾度となく近づき、彼の良心は死の働きからきよめられるからである。
 私は祭壇の聖い角にすがりながら
 喜びをもってこの祝日を閉じる
 私の過去は洗い去られた
 小羊が、すべての罪を負われたから

 


「イサクはその地に種を蒔き、その年に百倍の収穫を見た。

2014年12月25日 17時03分11秒 | 聖書

主が彼を祝福してくださったのである」(創世記26:12)

「先の飢饉とは別に、この国にまた飢饉があった」との状況にあり、飢饉の中で、イサクは種を蒔いたのだ。
作物が育つどころか、どんどん枯れて行く状況での種蒔きだ。
外側を見ると、作物が育つような状況では全く無かった。
何のために蒔くのか。蒔いても種が無駄ではないか。
飢饉のまっただ中で何が望めよう。
しかし、その地に種を蒔いた。
イサクには信仰があったからだ。
見た目の状況ではなく神を信じたのだ。
そうでなければ、種を蒔くことなど出来ない。
見えるところは、種も無駄、労力も徒労だ。
しかし、百倍の収穫を得た。
「主が彼を祝福して下さった」通りに神の一方的な祝福だ。
私達も信仰によって進む時、大きな祝福を見る。
しかし、もしイサクが蒔かなかったらどうだろう。
「パンを水の上に投げよ。ずっと後の日になって、それを見いだそう」
「雲を警戒している人は種を蒔かない」
「朝のうちに種を蒔け。夕方も手を放してはならない」
神は祝福して下さる。しかし、私達の側ではなすべき事をする必要がある。
忠実に種を蒔く事が大切だ。
状況を見ていたなら決して蒔けない。
見えるところでなく信仰によって歩もう。
豊かに蒔く者が豊かに刈り取る。
あなたにも、今なすべき事が示されているだろうか。
蒔かない限り、刈り取りは無い。
蒔いて祝福を刈り取ろう。
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自分の思いや気力なら、恐れや不安で蒔く事は不可能にしかみえないだろう。
しかし蒔かない種に実は成らないのだ。
主に助けられ、励まされ、祝福を信じて蒔き続けよう。


今日の聖人の記念日

2014年12月25日 07時57分14秒 | キリスト教

聖アナスタジアおとめ殉教者

?-304年ごろ

 アナスタジアは、ローマの貴族プレテクタトスの娘として生まれた。アナスタジアは結婚したのち、クリュソゴノスの指導のもとにキリスト者となった。ローマ皇帝ディオクレティアヌスによるキリスト教迫害下にあって、彼女は捕えられた人たちを牢獄に訪ね、慰め、力づけた。
 しかし、アナスタジアがキリスト者であると分かると即座に捕えられ、シルミウムのイリリクム(現在のユーゴスラビアノミトロウィツ)の法廷で、信仰を捨てるよう命令された。断固として拒否した彼女は、死刑の宣告を受けるが、奇跡的に助かり、他の助かった罪人たちはみな心を改め、キリスト信者になったといわれている。その後、彼女はパルマリア島に送られ、火あぶりの刑を受け、殉教した。  5世紀に、彼女の遺体はコンスタンチノープルに移され、ナジアンゾスのグレゴリオ(カパドキアの3大教父の一人)によって建てられた教会に安置された。この地から聖人を敬う祭儀が広まったといわれ、アナスタジアの名前を付けた教会がローマに建てられた。


◆恋愛か見合いか

2014年12月25日 07時56分13秒 | 聖書

しっかりした妻を
だれが見つけることができよう。
彼女の値うちは真珠よりもはるかに尊い。(箴言三一10)

きのうに引き続き、もう一度このことばに注目しましょう。今は養殖真珠の時代ですから、真珠は非常にポピュラーな宝石となりました。しかし、旧約聖書でも新約聖書でも、尊いものの代名詞は、ダイヤモンドでもルビーでもサファイヤでもなく、真珠なのです。よい妻を持つのは、その真珠を持つことどころではなく、すばらしいというのです。
さて、一一節以下に、よい妻・すぐれた妻・すばらしい妻の姿が、いろいろな角度から描き出されています。まず、きょうの箴言のことばは、「しっかりした妻をだれが見つけることができよう」と言っています。
テレビで夫婦のインタビュー番組がいくつかあるようですが、いつも「お見合いですか、恋愛ですか」と聞きます。日本では、結婚相手の見つけ方にこの二つがあるようです。一つは、自分にぴったりくる人を自分で捜し、自分で見つけます。もう一つは、他の人に捜してもらいます。恋愛結婚は、相手を自分で確かめて捜すのでしょうが、このほうが離婚率が高いと聞きました。見合い結婚は、人だのみ結婚です。成功率はどうでしょうか。
ある人は、「二十代はあつあつ、三十代はいやいや、四十代は我慢、五十代はあきらめ、六十代は相手が互いに必要だからくっついている」と、結婚を皮肉っています。
さて、聖書はこう言うのです。「思慮深い妻は主からのもの」(箴言一九14)と。箴言の別なところには、「良い妻を見つける者はしあわせを見つけ、主からの恵みをいただく」(一八22)ともあります。よい妻は、神の賜物なのです。
きょう十二月二十五日のクリスマスの日に、神の最上の賜物、救い主イエス・キリストのことを思います。このお方から、すべてのよきことが流れ出ます。

 


◆見よ。処女がみごもっている。

2014年12月25日 07時55分21秒 | 聖書

そして男の子を産み、その名を「インマヌエル」と名づける。(イザヤ七・一四)

今日ベツレヘムに行き、驚く羊飼い、礼拝する博士たちと共に、ユダヤ人の王としてお生まれになった方にお会いしようではないか。それは私たちが信仰により主にあって富を求め、「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる」と歌うことができるためである。イエスは受肉された主であり、私たちの主、私たちの神であり、さらに私たちの長兄であり友である。私たちは彼をあがめ、ほめたたえようではないか。
まず注意したいことは、主が奇蹟によってみごもられたことである。これはかつて耳にしなかったことであり他に例がない。処女がみごもって男の子を産んだというのである。最初の約束は、「女の子孫」であり、男の子孫ではなかった。初めに女が楽園喪失の罪を招いたため、今は女が楽園の回復者を迎え入れた。
私たちの救い主は真に人であられたが、同時に神の御子であられた。主はその罪のないことによって、人間の喪失した昔の栄光を回復された。私たちは、主が私たちのうちに栄光の望みとなられるように祈ろうではないか。
また主の両親が決して身分の高い人ではなかったことを見落としてはならない。主の母は、「処女」と記されているのみで、女王とも女預言者とも、大金持ちの夫人であったとも記されてはいない。たしかに彼女の血管には、王族の血が流れていた。また教育のない女でもなかった。なぜなら、彼女は実に巧みに神をほめる歌を歌うことができたからである。しかし彼女の地位はなんとみすぼらしく、その婚約者はなんと貧しく、新しい王の誕生のための設備はなんと貧弱であったことか。
インマヌエル――神は私たちの性格の中に、悲哀の中に、生涯の事業の中に、受けなければならない懲罰の中に、また私たちの墓の中に共におられ、現在も共におられる。否、私たちは、復活に、昇天に、勝利に、そして輝かしい再臨において主と共にいるのである。

 


第1列王記10章1-5節

2014年12月25日 07時54分03秒 | 聖書

10:4 シェバの女王は、ソロモンのすべての知恵と、彼が建てた宮殿と、
10:5 その食卓の料理、列席の家来たち従者たちが仕えている態度とその服装、彼の献酌官たち、および、彼が主の宮でささげた全焼のいけにえを見て、息も止まるばかりであった。



 ソロモンの豊かさとその知恵は、当時の世界でこうした航海や交易などが行われた結果、良く知られることとなりました。

当時のアラビア半島の南西部とアフリカにまたがって支配をしていた、シェバの国の女王にも関心が及ぶことになり、彼女の訪問を受けるまでになったのでした。

彼女は、始めは自分の国の繁栄に比べるならばソロモンの繁栄ぶりはたいしたことはないと思っていましたが、実際に来てみて、その見事さに驚いたようでした。

それは、単に国の建物がすばらしいということのみではなくて、食事の内容の豊かさや、仕えている人々の礼儀正しさが優れていることなど、国の生活の隅々まで、その秩序が整っているのを見て、驚嘆したことを告げているのです。

これはソロモンの知恵の豊かさに起因するものであることを、彼女は知ったのでした。


詩篇119篇44,45節 (ヨハネの黙示録15章)

2014年12月25日 07時50分46秒 | 聖書

★こうして私は、あなたのみおしえをいつも、とこしえまでも、守りましょう。そうして私は広やかに歩いて行くでしょう。それは私が、あなたの戒めを求めているからです。

■O:今日のコラム
ここに書かれている「広やか」。
英語では、Freedom、自由となっています。

いろんな決まり事、命令、戒めを守ることは、縛られると思いがちですが、今日のみことばには、神様の戒めを守ることは、私達を自由にするとあります。

主のみことばを受け取り、今日も喜んで主のみことばを守っていきましょう。


■A:考えてみよう
みことばを行い、自由を受け取りましょう!ハレルヤ!!


■P:祈り


イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。


12月24日(水)のつぶやき

2014年12月25日 01時48分40秒 | キリスト教