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◆主は彼女の心を開いて……。

2014年12月10日 17時40分50秒 | 聖書

(使徒一六・一四)

ルデヤの回心には、多くの興味深い点がある。
それは摂理によってもたらされた。彼女はテアテラ市の紫布の商人であった。しかし、折りよくピリピにいて、パウロの話を聞くことができた。恵みのしもべである摂理が、彼女をちょうどよい場所に導いた。
さらに、恵みは彼女のたましいを、祝福のために備えていた。――恵みが恵みのために備えをした。彼女は救い主を知らなかった。しかし、ユダヤ人であったので、イエスを知るためのステップとなる多くの真理を知っていた。彼女の回心には手段が用いられた。彼女は、安息日に、いつも祈る時刻に出かけた。そして、そこで祈りが聞かれたのである。決して恵みの手段(説教と聖礼典)を無視してはならない。私たちが神の家にいない時にも、神はたしかに私たちを祝福されるが、神の聖徒と交わっているとき、神に祝福されることを望むはるかに大きな理由をもつのである。
「主は彼女の心を開いて……」とあるのに注意せよ。彼女は自分で心を開いたのではなかった。また彼女の祈りがそれをしたのでも、パウロがそれをしたのでもなかった。私たちに平安を与えるものを受け入れるためには、主ご自身が私たちの心を開かなければならない。ただ主のみが、戸の鍵穴に鍵を差し入れて戸を開き、中に入ることがおできになる。主は心の造り主であられ、また心の主人であられる。
開かれた心の、最初の外面的な証拠は服従であった。ルデヤはイエスを信じると、すぐにバプテスマを受けた。神の子どもが、さばきを恐れる利己的な動機からではなく、主に対する従順と交わりから、救いには本質的でない命令に喜んで従うのは、その心が謙遜にされ、砕かれている証拠である。
また、次の証拠は愛であった。それは使徒たちに対する感謝の行為となって現れた。聖徒に対する愛は、常に真の回心者のしるしであった。キリストのため、その教会のため、何もしない者は、「開かれた」心の非常に心細い証拠を示しているにすぎない。
主よ。常に私に開かれた心を与えてください。

 


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