座間コミニティー

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◆もはや海もない。

2014年12月19日 19時00分33秒 | 聖書

(黙示録二一・一)

輝かしい大海を失うということは、私たちにとって喜ばしいこととは思えない。もし新しい天と新しい地に、キラキラ光る波や貝がらの散らばった砂浜をもつ、広大な海がないと想像したら、そこがより美しいとは思えない。この聖句は、昔、東洋の人々が海に対して抱いていた普遍的な考え方を加味したたとえとして読むべきではないだろうか。海のないこの世界は、想像するだけでも寂しいものである。それは鉄の指輪を尊くするサファイヤが欠けているようなものだ。そこには霊的な意味があるに違いない。
海は国々を分け、人々をお互いに隔てている。しかし新天新地の時代には、そのような隔てはなくなる。パトモス島のヨハネにとって、深海はあたかも牢獄の塀のように、主にある兄弟やヨハネ自身の働きからも彼を遮断した。しかし、来るべき世界には、そのような障壁は全くない。果てしなく続く大波小波が、私たちと、今夜私たちが祈りの中に覚える多くの骨肉との間に横たわっている。しかし、私たちが行く輝かしい世界においては、すべての贖われた家族の、中断されない親しい交わりがある。この意味においては、海はもはやない。
海は変化の象徴である。満潮があり干潮があり、鏡のようななぎと山のような大波、そして、さざ波のささやきと怒濤のとどろきとがある。決して同じ状態に長くとどまっていることがない。海は気まぐれな風と満ち欠けする月の奴隷であり、その変わりやすさはよく知られている。私たちの人生も、たいへん移ろいやすい。この地上では変化は常のことであるが、天国においてはすべての嘆かわしい変化は知られておらず、私たちの希望を破壊し、喜びをおぼれさせるあらしが吹きたける恐れは全くない。鏡のような海は、波によって乱されない栄光に輝く。天国の平和な岸辺には、あらしが吹き荒れることは絶えてない。別離も、変化も、あらしもないその幸福な地に、私たちはほどなく達するであろう! イエスがそこに伴ってくださる。
私たちは主の中にあるか。これが大切な問題である。

 


「ねたみや敵対心のあるところには、

2014年12月19日 18時59分47秒 | 聖書

秩序の乱れや、あらゆる邪悪な行いがあるからです」(ヤコブ3:16)

ある人が、親友が周囲から賞められたり、良い結果を出したりすると、心にザラッとしたものを感じる事に気づいていた。
しかし、普段は全く気にとめないものだった。
ある日、特にその思いが強くあり、平安が無く、帰宅後すぐ、デボーションの時を持った。
主に心をありのまま打ち明け、御前に静まった。
主に心をくまなく探ってもらうと、心の奥に、友人に対する妬みがある事を示された。
それはずっと以前からあったのだ。
薄々は感じていたが、決して認めたくなくて、ふたをして、考える事も触れる事もせず、心に押し込めたものだった。
しかし、はっきりとした妬みであった。
心から主の御前にその罪を悔い改めた時、赦された。
心がすっきりし平安になり、喜びが来て癒しを経験した。
何か心にざらつきを感じる時、見えない心の奥底に隠されたものがある。
心の底には厳然とあるので、見え隠れして、事あるごとに出て来る。
あなたにも気づく感情があるだろうか。
争いや問題が引き起こされて、それが表面化してしまう事もある。
心の奥にある嫉妬や敵対心、憎しみは、必ず態度や反応、行動に表れる。
認めたくなくて、薄々気づいているものがあれば、はっきり御霊に照らし出されるよう祈ろう。
そして認めて、悔い改める時に、赦しと平安、安堵を経験する。
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普段は出ないが、何かある時に決まって出て来る反応、その感情や態度に向き合おう。
薄々感じているから、根にあるという事だ。きちんと認めて行く時、自由にして下さる。


今日の聖人の記念日

2014年12月19日 07時19分25秒 | キリスト教

聖ウルバヌス5世教皇

在位1362年-1370年

 ウルバヌスは、1309年に、フランスのグリサに生まれ、ギョーム・ド・グリモールと名付けられた。モンペリエ、トゥールーズ、アヴィニョン、パリの大学で学び、とても優秀な学者となった。その後、ベネディクト会に入り、1352年にサン・ジェルマンの修道院長、1361年にマルセイユのサン・ヴィクトル修道院の院長に任命され、教皇の特使などを経て、教皇に選出され、ウルバヌス5世と名乗った。
 ウルバヌスは教皇庁の簡素化を行い、修道生活を重んじた。教皇庁の所在は、過去50年、政治的理由のためにローマからフランスのアヴィニョンに移されていたが、ウルバヌスのときに、皇帝カール4世らの協力を得て1367年にローマに戻すことが実現した。しかし3年後に、ローマの政治的混乱やフランス王、枢機卿の反対によって、ウルバヌスはアヴィニョンに帰らざるをえなくなり、4カ月後に失意のうちに亡くなった。

 ウルバヌスは、ヴィーン大学の創立を認可するなど、学問の発展に貢献した。


◆堂 々 と 前 進

2014年12月19日 07時18分18秒 | 聖書

歩きぶりの堂々としているものが三つある。
いや、その歩みの堂々としているものが四つある。
獣のうちで最も強く、
何ものからも退かない雄獅子、
いばって歩くおんどりと、雄やぎ、
軍隊を率いる王である。                     (箴言三〇29―31)

ここにまた、四つのものをあげています。今度は、堂々と歩き前進する四つのもの、雄獅子・オンドリ・雄山羊・軍隊を率いる王です。「おんどり」は、英欽定訳ではグレーハウンド(猟犬の一種)、日本語文語訳では、戦馬になっています。いろいろ翻訳上むずかしい点がありましょう。
ゆったりと落ち着いて歩く獅子や尾を立てて歩くオンドリ、……どの一つをとっても、その堂々と前進する姿が目に浮かびます。ルカの福音書一三章三三節の「わたしは、きょうもあすも次の日も進んで行かなければなりません」というイエス・キリストのことばを、私はすぐに思い起こしました。またパウロのことばも、心に浮かびました。「兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕えたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、……神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです」(ピリピ三13―14)。
堂々たる前進の人生。――それはパウロにとって、第一に、目標がはっきりした人生でした。第二に、人格の完成に向かい、使命の完遂をめざす、成長前進する人生でした。そのために第三として、過去のきずなを断ち切った人生だったのです。
いつまでたっても自分のために生きるエゴイズムの人生、どこまでいっても欲得ずくで、得よう取ろうという人生、自分の肉の力だけをいつも力にする人生を生きるのでしょうか。過去の罪はイエス・キリストの血潮の中に沈めてきよめていただき、過去の栄光を忘れて、ひたすら神の栄光のために愛の道を行くべきです。この永遠の道を、たゆみなく神と共に前進していきたいものです。

 


◆くじは、ひざに投げられるが、

2014年12月19日 07時17分35秒 | 聖書

そのすべての決定は、主から来る。(箴言一六・三三)

もし、くじを定める者が主であるならば、私たちの全生涯を支配されるのはだれであろう。主はこれについて特に次のように言われる。「雀の一羽でも、あなたがたの父のお許しなしには地に落ちることはありません。また、あなたがたの頭の毛さえも、みな数えられています」と。親愛なる友よ。もしあなたが常にこのことに思いを致すならば、あなたの心は聖なる静けさをもつであろう。それはあなたの心の不安を消し、あなたがクリスチャンらしく忍耐と平安と喜びとをもって歩むことを得させるであろう。
思い煩う時、人は信仰をもって祈ることができない。この世のことに悩まされている時、人は主に仕えることができない。その人の思いが自分自身に仕えているためである。もしあなたが「神の国とその義とをまず第一に求め」るならば、すべてのものはそれに加えて与えられる。あなたが、自分の運命や環境に心を奪われて思い悩むならば、キリストのみわざに干渉しており、あなた自身の仕事を怠っているのである。あなたは、「備える」ことを自ら試み、あなたのなすべきことが従うことだけであることを忘れている。さとくあれ。そして従うことに心を集中し、備えることはキリストにゆだねよ。
来て、父である神の倉を見、そこにおびただしい蓄えがあるのにあなたを飢えさせようとされるかどうか尋ねてみよ。神のあわれみ深い心を見、神が不親切なことをされるかどうか考えよ。神の測り知れない知恵を見、そのような知恵に失敗があるかどうか考えよ。特にあなたの仲保者イエス・キリストを見つめ、主がとりなしておられるのに、御父があなたを冷淡に扱われるかどうかを自らに問うてみよ。神が一羽の雀さえも顧みられるとするならば、まして神の民の小さい者の一人を忘れ去られるということがあろうか。
「あなたの重荷を主にゆだねよ。主は、あなたのことを心配してくださる。主は決して、正しい者がゆるがされるようにはなさらない。」

 


第1列王記8章54-61節

2014年12月19日 07時15分57秒 | 聖書

8:55 「まっすぐ立って、イスラエルの全集団を大声で祝福して言った。
8:56 「約束どおり、ご自分の民イスラエルに安住の地をお与えになった主はほむべきかな。しもべモーセを通して告げられた良い約束はみな、一つもたがわなかった。」



 ソロモンがここで神殿奉献の儀式を終えた時、民の前に万感の思いを述べて、大声で語りました。

「しもべモーセを通して告げられた良い約束はみな、一つもたがわなかった。」と。

主は、その約束通りの事を行い、導き、またその実現を図って下さったと告げたのです。

約束の地への侵入、そこにおける戦いの勝利、そして王国の建設、さらに神殿の建設など、これらを通して、主が共にいて下さるとの約束のすべてが実現をしたと告げているのです。

それは、全く、主の恵みによりました。

またそれらは、約束して下さったことに対する主の真実さを証しするものであると語っています。

彼は、歴史を顧みる時にこのような主の恵みにあふれていると、喜びの思いを持って語っているのです。

主はすばらしい。

主は真実な方であられる。

主を褒め讃えましょう。


詩篇112篇1節

2014年12月19日 07時13分10秒 | 聖書

★ハレルヤ。幸いなことよ。主を恐れ、その仰せを大いに喜ぶ人は。

詩篇112篇6節~7節
★彼は決してゆるがされない。正しい者はとこしえに覚えられる。
その人は悪い知らせを恐れず、主に信頼して、その心はゆるがない。

黙示録11章16~18節
★それから、神の御前で自分たちの座に着いている二十四人の長老たちも、地にひれ伏し、神を礼拝して、
言った。
…しかし、あなたの御怒りの日が来ました。死者のさばかれる時、あなたのしもべである預言者たち、聖徒たち、また小さい者も大きい者もすべてあなたの御名を恐れかしこむ者たちに報いの与えられる時、地を滅ぼす者どもの滅ぼされる時です。」

■O:今日のコラム
黙示録を読む時、どのような気持ちになるでしょうか。
先日、ある方が以下のように証しをして下さいました。
「以前は『黙示録』となると、『裁き』というイメージしかなく、恐ろしい書物でした。
けれども、私たちが花婿なるキリストの再び来られるのを待つ、花嫁なのだと言うことを知った今は、黙示録は喜びの書物になりました。」

詩篇には、主を恐れ、その仰せを喜びとする者は「悪い知らせを恐れず、主に信頼して、その心はゆるがない。」とあります。

また黙示録11章18節には、終わりの日は、裁きの日であると同時に「小さい者も大きい者もすべてあなたの御名を恐れかしこむ者たちに報いの与えられる時」であると記されています。
裁かれる日を震えて待つのではなく、花婿が迎えに来る日を待つ花嫁の心を持つ。それには、どうしたらいいのでしょうか?
詩篇112篇には、「主を恐れ、その仰せを喜びとする」とあります。
私には愛する夫があり、愛する子どもたちがいます。妻として、母親として、家族に愛を示すのに、時には犠牲が伴います。
自分のやりたいようにやり、自分の好き勝手気ままに生きていては、彼ら家族を愛する生き方は到底出来ないでしょう。

同じように、自分の犠牲ゼロでは、花婿なるキリストに、父なる神に、内におられるの御霊に、愛をあらわす生き方は出来ないのではないでしょうか。
犠牲を払って育む関係こそ、尊いものへとなっていきます。
犠牲を払って愛し育てた子どもほど、愛が増し加わり尊い存在です。
同じように、捧げれば捧げるほど、主への愛おしさは増していくでしょう。
呼びかけて下さっている主の命がけの愛に、私たちも人生をかけて応答していきましょう。


■A:考えてみよう
今日、嘆こうとする自分の唇に、主の素晴らしさを宣言させましょう。
今日、人を裁こうとする自分の義を捨て、主の正しさだけに委ねましょう。
今日、否定的になろうとする自分のたましいに命じて、主を褒め称えることを選択しましょう。
今日、肉の求めることを脇に置き、主に喜ばれることを実行しましょう。
それらの決断1つひとつ、犠牲の1つひとつによって、主との愛の関係が育まれていくと信じます!



■P:祈り



イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。


12月18日(木)のつぶやき

2014年12月19日 01時51分05秒 | キリスト教