座間コミニティー

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◆戦いに力ある主。

2014年12月03日 16時56分21秒 | 聖書

(詩篇二四・八)

私たちの神が、その民のために、その民のうちに、その民により、驚くべきことをもたらされたのを見るなら、私たちの神が栄光のお方として民の目に映るのは、実に当然のことである。
彼らのために、主イエスはカルバリですべての敵を敗走させ、その全き従順のうちにみわざを完成されたので、敵のすべての武器は打ち砕かれた。主は勝利の復活と昇天によって地獄の望みを完全にくつがえし、とりこを捕えて引いて行き、私たちの敵を公然とさらしものにし、十字架によって敵に勝利を得られた。サタンが私たちに対し「罪がある」と責める矢は、砕かれる。だれが神の選ばれた者を責めることができるだろう。地獄の悪意の鋭い剣も、へびの子孫の不断の襲撃もむだである。なぜなら、教会では足の不自由な者も収穫を得、最も弱い戦士も栄冠を得るからである。
主が彼らのうちに征服者となられたことに対して、救われた者が主をあがめるのは当然である。彼らの生来の憎しみの矢は折られ、反抗の武器は砕かれたからである。私たちの邪悪な心の中に、恵みがなんという勝利を得たことか! イエスが私たちの意志を征服し、罪を王座から下ろされた時の主のご栄光の輝きよ! 私たちの中になお残る腐敗も同様に必ず敗北を喫するものであり、すべての誘惑、疑い、恐れはことごとく滅ぼされてしまうであろう。私たちの平和な心のエルサレムでは、イエスの御名はたぐいなく偉大である。主は私たちの愛を獲得し、それを身につけられる。
それゆえ私たちは、私たちによる勝利を確信して待ち望む。私たちは、私たちを愛してくださった方によって圧倒的な勝利者となる。自分の信仰、熱情、聖潔によって、この世にあるやみの力を打ち破るであろう。罪人をイエスに獲得し、偽りの組織をくつがえし、諸国民を回心させるであろう。神は私たちと共におられ、何ものも私たちを妨げることはできないからだ。
クリスチャンの戦士たちよ。今夜、歌を歌い、明日の戦いの備えをしよう。私たちのうちにいますのは、世にある者よりも大いなる方である。

 


「あなたがたの敵である悪魔が、

2014年12月03日 16時55分22秒 | 聖書

ほえたけるししのように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています」(Ⅰペテロ5:8)

誘惑に際して、自分の弱さをよく知る事は大切だ。
常に誘惑が来ているところだ。
皆、弱点がある。高いプライド、強い虚栄心、嫉妬心、思い煩い…どの部分だろう。
そこが弱点なのだから、サタンをよく警戒していよう。
必ずそこに誘惑が来る。
気をつける事は、まず、誘惑を受けるような環境に身を置かない事だ。
避ける事。アルコールに弱い人はネオン街へわざわざ行かない事、無駄遣いに弱い人は、不必要なショッピングに出かけない事だ。
又、雑誌類、テレビ、ネット…有意義に使える時間をダラダラと無駄にしていないか。
誘惑が来る状況はどうか、疲れた時か、一人の時か、又、時間帯は、深夜か、早朝か、サタンをよく見張ろう。
そして「きよい心で主を呼び求める人たちとともに…」主を求める人々と共にいる事、交わりは大切だ。
交わりの中で祈り合う時、誘惑から守られる。どうしても誘惑に勝てず、罪にがんじがらめなら、必ず指導者や信頼できる人に一緒に祈ってもらう事だ。
一人では戦えない。
共に祈ってくれる人がいる時、勝利できる。
そして、御言葉に従う事が秘訣だ。
自分の思いで立ち向かわず、御言葉に従うのだ。
主が荒野の誘惑で、御言葉を握り、御言葉に立ち、従われたように。
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サタンが持って来る誘惑、思い煩い、苦い思い…すべて神様の平安から私達を引き離すものから解放されますように。
何に弱いのか、よく見極め、すぐに助けを主に求めよう。
自分では決して勝利できない。


今日の聖人の記念日

2014年12月03日 07時22分59秒 | キリスト教

聖フランシスコ・ザビエル司祭

1506年-1552年

 ザビエルは、スペイン、ナバラ地方の貴族の家に生まれた。1526年からパリ大学で学び、そこでイグナチオ・デ・ロヨラと知りあった。イグナチオの考え方に影響を受けフランシスコは、名誉も財産も捨て、キリストに従う生き方をしようとイグナチオの仲間となった。1534年にパリのモンマルトルで誓いを立て、宣教に身をささげるイエズス会を創立した。3年後に司祭となったフランシスコは、イタリアで活躍し、その後1541年にはポルトガル王の要請を受けて、イグナチオからインドに派遣された。
 インドでは、気候・風土・習慣などの困難にあいながらも、宣教に尽くし多くの人びとに洗礼を授けた。その後マレーシア、インドネシア、フィリピンなどの島々を巡り宣教した。マラッカで日本人のやじろうと出会い、彼を信仰に導き、1549年、彼とともに日本の鹿児島に渡った。平戸、博多、山口を通って、天皇から宣教の許可を得るために京都に向かったが、会うことができずに山口に戻った。そこで大名の大内義隆より宣教の許可を得、熱心に活動した。その後、日本が中国の仏教の影響を受けていることを知ったフランシスコは、まず中国に渡ることを決意し、1551年に日本を離れインドに戻った。中国に入ろうと努力するが、広東港外の上川島で病気になり、亡くなった。フランシスコの遺体はゴアに移された。


◆義と愛の会えるところ

2014年12月03日 07時21分54秒 | 聖書

誠実をもって寄るべのない者をさばく王、
その王座はとこしえまでも堅く立つ。(箴言二九14)

二九章は、特に上に立つ王の資格について、ところどころで言われています。
第一に、公平と正義の原則を貫き、信賞必罰をもってさばき、治めることです。しかも第二に、愛と思いやりを末端まで行き渡らせなければなりません。
・ 貧しい人や寄るべのない者を生かす。
・ 圧迫・迫害されている人を解放して自由にする。
・ やもめ・みなしご・老人・病人・耳や目の不自由な人・その他ハンデのある人を助け励ます。
このような上に立つ者となるために、二つのことが必要です。
第一は、自分自身が正義と愛の人であることです。しかし、だれが、生まれつき正しくきよく愛に満ちた人でありえましょう。神の前に、自分のみじめさをいやというほど知らされながら、罪をゆるされ、神の愛を受け入れた人こそ、そんな人になれるのです。
第二は、自分自身が十字架を負うことです。正義と愛の二つは、相反するものです。正義は犯罪者をさばいて暗黒の刑罰へ送りこみます。愛は犯罪者まで愛して、暗黒から光へと救い出します。もし正義であり愛でありたい時は、必ず十字架があります。
イエス・キリストは、愛するがゆえに十字架にかかり、私たちの身代わりとなって、私たちの罪の罰を受けてさばかれ、私たちをゆるし救い生かしてくださいました。愛と義が、十字架で会ったのです。私たちには、けっしてイエス・キリストのカルバリの十字架のような十字架は背負いきれません。しかし、私たちなりに負うべき十字架があるのではないでしょうか。自己犠牲こそ、支配者の道です。「自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません」(ルカ一四27)。

 


◆あなたには何の汚れもない。

2014年12月03日 07時21分06秒 | 聖書

(雅歌四・七)

主はご自身の教会が、美に満ちていることを積極的に宣言され、その後で「何の汚れもない」と消極的なことばで賞賛しておられる。中傷を好むこの世は、花婿なる主が花嫁である教会の美点のみをあげて、欠点や汚点はわざと省いていると言うかもしれない。花婿なる主は、このようなことを予想されたかのように、花嫁のすべては美しいと言われた後に、何の汚れもないと述べておられる。一点の汚れ、美を損なうごく些細なものも、まもなく除かれるであろう。しかし現在においても、信者は主の目からすれば、このような小さな欠点からも解放されているのである。
もし主から、あなたには大きな傷やはなはだしい欠点はないと言われたとすれば、それでさえ大きな驚きである。まして、教会には何の汚れもないというみことばを聞く時、私たちの驚きはどれほどのものであろう。もし主が、すべての汚れを一つ一つ取り去ることを約束されたとしても、それだけで私たちの永遠に喜ぶべき十分な理由となる。しかし、主がすでにそれを成し遂げたと言われる時、だれがあふれる満足と歓喜を抑えることができよう。私のたましいよ。ここに髄と脂肪とがある。満ち足りるまで食し、その美味に飽き足りるようにせよ。
イエスはその花嫁と争われない。花嫁はしばしばイエスのみもとを離れてさまよい、聖霊を悲しませる。しかし、イエスはそれによって花嫁に対する愛を変えられることはない。時に、花嫁を訓戒されることはある。しかしそれは常に優しく、愛情深い意図をもってである。主はその時にすら「わが愛する者よ」と呼ばれる。私たちの愚かな行いは記憶されない。主は私たちについて悪感情を抱かれず、罪を犯した後も私たちを赦し、かつ愛される。これは幸いなことである。
イエスが私たち人間と同じように無礼を心に留められるなら、どうして私たちは主と交わることができよう。時折信者は、わずかな摂理の変化にも感情を害する。しかし私たちの夫は、この愚かな心をよく知っておられるので、その悪い行為にも怒られることはない。

 


第1列王記6章7-10節

2014年12月03日 07時19分54秒 | 聖書

6:7 神殿は、建てるとき、石切り場で完全に仕上げられた石で建てられたので、工事中、槌や、斧、その他、鉄の道具の音は、いっさい神殿の中では聞かれなかった。



 神殿それ自体は、おもに堅固な石材で作られていました。

そのために、ソロモンやヒラムやゲバル人の建築家が働きました。

その中には、主を知っている者も、知らない者もいました。

また、彼らに指示が与えられていて、神殿を作るための石切や加工の働きは、神殿の外部で行うように言われていました。

誰が出した指示かはわかりません。

しかし、神殿が神を礼拝する所であるという強い自覚の下で、初めからこのような指示が出されたのです。

つまり、神殿内部で加工することを禁じたのです。

従って、工事中も、神殿では大きな音が聞こえなかったと言われています。

責任者たちが、神の宮を建てるのだという自覚と、神を恐れる感覚を強くもっていたことがわかります。

 教会も同じです。

神を拝する所であることには、どこも変わりありません。

失ってはならない意識です。


詩篇95篇3~6節

2014年12月03日 07時16分56秒 | 聖書

★主は大いなる神であり、すべての神々にまさって、大いなる王である。
地の深みは主の御手のうちにあり、山々の頂も主のものである。
海は主のもの、主がそれを造られた。 陸地も主の御手が造られた。
来たれ。私たちは伏し拝み、ひれ伏そう。私たちを造られた方、主の御前に、ひざまずこう。

ヨハネによる手紙第一3章1,16節
★私たちが神の子どもと呼ばれるために 、-事実、いま私たちは神の子どもです-御父はどんなにすばらしい愛を与えてくださったことでしょう。世が私たちを知らないのは、御父を知らないからです。

キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです。


■O:今日のコラム
12月2日の朝です。今日1日、主の偉大さを賛美していきましょう。すべてにまさる主の愛があるからです。

僕らの主は、偉大な大いなるお方です。色々理由はありますが、一つは、主御自身が『愛』であるということです。

僕らは、主以外に大切なものを自分のために用意してしまうことがあります。これが偶像礼拝となります。この偶像は、僕らが選ぶものです。僕らが、自分の力を注いでいくものです。その偶像が、僕らを愛してくれる訳ではありません。僕はコーヒーや釣りが好きですが、コーヒーが僕に力や安らぎを与えて、僕らを愛してくれる訳ではありません。釣りが僕を楽しませ、愛してくれる訳ではありません。コーヒーを創造された主が、コーヒーを通して僕に力や安らぎを与えてくれます。この世界を創造し、釣りのメカニズムを創造された主が、釣りを通して僕に楽しみを与えてくれるのです。

しかし、僕らの主は、主御自身が、僕らが主を知る前から、僕らを愛しています。愛し続けてくださっています。一方的な愛を、まず主から先に与えてくださるのです。僕らの主は、『愛』だからです。

どんなにすばらしい愛を与えてくださったのでしょうか。御自身のいのちを十字架の上で捨てる愛です。僕らを天のお父さんの子供とするためにです。いのちを捨てる愛は、この世で最も大きな愛です。イエス様しか持っていない愛です。

この愛を受け取っていきましょう。そして、この愛によって、イエス様を信じ、聖霊様と共に歩む者となりました。だから、聖霊様によって、イエス様と同じ愛で、主にある兄弟のためにいのちを捨てることができるのです。僕らは、主の愛を受け取り、主の愛を流し出す者となっていくことができるのです。


■A:考えてみよう
神様の愛を受け取っていきましょう。神様の愛を受け取るならば、あなたは、今日何ができますか?

神様の偉大さを賛美していきましょう。神様がどれだけ大いなる方なのか書き出し、告白し、聖霊様による祈りによって宣言し、賛美していきましょう。

さあ、主に向かって、喜び歌おう。われらの救いの岩に向かって、喜び叫ぼう 。感謝の歌をもって、御前に進み行き、賛美の歌をもって、主に喜び叫ぼう。詩篇95:1~2


■P:祈り



イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。


12月2日(火)のつぶやき

2014年12月03日 01時57分47秒 | キリスト教