座間コミニティー

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

◆なんと、

2014年12月02日 16時12分17秒 | 聖書

すべてがむなしいことよ。(伝道者一・一四)

主の愛と主ご自身以外のものは、それがどのようなものでも、人を心から満足させることはできない。聖徒たちは他の停泊地にいかりを下ろそうとしたが、そのような危険な避け所から追い出された。あの賢人ソロモンは、私たちに代わって実験をし、私たちがしてはならないことを、私たちのためにすることを許された。ここに彼自身の証言がある。
「私は、私より先にエルサレムにいただれよりも偉大な者となった。しかも、私の知恵は私から離れなかった。私は、私の目の欲するものは何でも拒まず、心のおもむくままに、あらゆる楽しみをした。実に私の心はどんな労苦をも喜んだ。これが、私のすべての労苦による私の受ける分であった。しかし、私が手がけたあらゆる事業と、そのために私が骨折った労苦とを振り返ってみると、なんと、すべてがむなしいことよ。風を追うようなものだ。日の下には何一つ益になるものはない。」「空の空。すべては空。」
すべては空だと言うのか。おお、恵まれた王よ。あなたのすべての富も空だと言うのか。川から海に至る、あなたの広大な領土も、タデモルの壮麗な宮殿も、レバノンの森の宮殿も空だと言うのか。すべての音楽や舞踊、酒や豪華さの中にも何もないと言うのか。彼は言う。「空である。ただ心の労苦のみ」と。これは、彼が歓楽の全地を行き巡った後の結論である。私たちの主イエスを抱き、主の愛の中に住み、主と結び合わされていることを確信する――これがすべてである。
愛する友よ。あなたは他の生活様式が、クリスチャンのものよりよいかどうかを試みる必要はない。もしあなたが世界中を行き巡っても、救い主の御顔のようなものを見ることはできない。もしあなたが人生のすべての慰めをもっても、あなたの救い主を失うならば惨めである。しかし、キリストをあなたのものとするなら、たとえ牢獄の中で朽ち果てたとしても、それがパラダイスであることを見いだすであろう。あなたが無名の一生を送り、飢えて死ぬようなことがあっても、主の恵みの深さと満たしに満足するであろう。

 


「へロデとポンテオ・ピラトは…あなたの御手とみこころによって、

2014年12月02日 16時11分21秒 | 聖書

あらかじめお定めになったことを行ないました」(使徒4:28)

時々「どうしてこんな事が?」という意味のわからない事が起こる。
その時、どっと不安と恐れに襲われる。
しかし、神の許しなしには何一つ起こらない。
雀の一羽さえ父の許しなしには地に落ちない。
起こる出来事は、一つ一つすべてが神の御手の内の事だ。
不運なのではなく、わけのわからない運命にほんろうされているのではなく、神の摂理、御心の中と認める時に、信じる時に、安堵と平安に包まれる。
それが信仰だ。弟子達への迫害も、御手と御心によって定められていた事が、行われたに過ぎない。
弟子達の命を真に握っているのは、議会ではなく、主御自身だ。
私たちも、日常に起こる一つ一つに、主の御手を認めよう。
そしてその時の彼らの祈りが「みことばを大胆に語らせて下さい。
しるしと不思議なわざを行わせて下さい」であった。
状況を変えて下さいでなく、相手をどうこうでなく、逃げる事でもなく、「大胆に御心を行って行けるように」との祈りだった。
その時、皆が聖霊に満たされ、御言葉を大胆に語り出した。
御心にかなった祈りは答えられる。
一つ一つの出来事に神を認めよう。
「そうすれば主はあなたの道をまっすぐにされる」。
--------------------
いかに自分の思いを強く握りしめていようとも、すべては神様の御心がなるのだ。
それを認めて、目先のことに囚われず、大胆に前向きに祈り始めよう。
神様が変えて行ってくださる。


今日の聖人の記念日

2014年12月02日 07時16分17秒 | キリスト教

聖ヴィヴィアナおとめ殉教者

4世紀

 日ごろからキリスト教に反感を抱いていたローマの総督アプロニアヌスは、あるとき、事故で片目を失ったことをキリスト信徒の責任にしようとした。そのため、キリスト信徒であった前の総督フラビアヌスと妻を捕え、財産もすべて没収した。フラビアヌスは顔を焼かれ、妻は斬首の刑を受けた。

 彼らには、2人の娘ヴィヴィアナとデメトリアがおり、困難な中にあっても信仰を守っていた。この様子を知ったアプロニアヌスは、激怒して2人を裁判にかけ、最初に信仰を宣言したデメトリアが死刑に処せられた。ヴィヴィアナも棄教するように説得されたが、信仰を守りとおしたために死刑となった。


◆情  報  処  理

2014年12月02日 07時15分12秒 | 聖書

支配者が偽りのことばに聞き入るなら、
従者たちもみな悪者になる。     (箴言二九12)

へつらいを言う者や告げ口・ざん言をする者に取り巻かれた、ばか殿さまが目に見えるようです。
上に立つ者にとって必要なのは、やはり情報だと思います。社長が、仕事面の情報を細大もらさずつかんでいるばかりか、お茶くみの娘さんの家庭の事情・社員の経済問題・健康問題・家庭問題・祝儀不祝儀などもよく知って、行き届いた思いやりのある手が打てるようなら、内部をよく治めることができましょう。相手方の外部の情報も、正しく把握する必要があります。勝つためには、敵を知らなければなりません。
そこで、上に立つ者にとって大切なことは、第一に情報収集であり、第二にその情報処理です。まず、情報処理として、このようなことがあります。
・ 信頼できる筋から情報を集める。
・ 一方的でなく、反対側からの情報も集める。
・ 多方面からの情報を集める。
次にこの情報を処理するには、ふるいにかけて、役に立つ正しいものを選び分けなければなりません。だれが言ったか、どんなルートで、そして何のために、だれのために言ったかの動機を考える必要がありましょう。しかし、一番大切なのは、その情報の用い方です。すべての情報を誤りなく用いる根本的原則を、聖書が教えています。
・ そのように用いたら、神の栄光に役立つか。
・ そのように用いたら、人の徳を建てるか。愛の原則にかなうか。
・ そのように用いたら、ほんとうの目的を達成することになるか。役に立つか。
ですから、このような原則に立つために上に立つ人にまず必要なのは、上からの知恵・神を恐れ人を愛する心ではないでしょうか。

 


◆わが愛する者よ。

2014年12月02日 07時14分16秒 | 聖書

あなたのすべては美しく……。(雅歌四・七)

主がご自身の教会を賞賛されるとは、まことに驚くべきことである。主が描写される教会の美は、実に輝かしいものである。それは、主が贖罪の血をもって洗い、ご自身のいさおしの義を着せた教会をご覧になるからである。だから驚くほどのことではない。主が賞賛されるのは、ご自身の完全な優秀さなのだから。教会の聖潔、栄光、完全は、主が愛する花嫁に着せられた、ご自身の輝かしい衣である。
教会は単に純潔であり、顔かたちが整っているばかりでなく、積極的に愛らしく美しい。現実の価値がある。教会の罪の醜悪は取り去られる。のみならず、主のいさおしによる義を着せられたことにより、いっそうの美が与えられる。信者は、「愛する御子によって受け入れられた」時、絶対的な義を与えられる。
教会は単に愛らしいばかりでなく、たぐいなく美しいのである。主は教会を「女のなかで最も美しい人よ」と呼ばれる。教会はこの世のすべての貴族、王侯も匹敵することのできない価値と美をもっている。たとえイエスが、ご自分の選ばれた花嫁をこの地上のすべての女王、皇后、あるいは天の使いとさえ換えることができるとしても、主は決してそうはなさらないであろう。それは、主が教会を、第一の、そして最上の地位――「女のなかで最も美しい人」――に置いておられるからである。教会は月のように、他の星々に抜きんでて輝く。主はご自分の教会についてこう考えることを恥とされないばかりか、すべての人を招いてそれを発表したいと願っておられる。
主は「なんと」ということばを、同じような聖句の前に置かれた。これは特別な感嘆詞であって、人の注意を引こうとする語である。「ああ、わが愛する者。あなたはなんと美しいことよ。なんと美しいことよ。」主はご自身の意見を今も公言され、いつの日にか、栄光の御座からその真理を、全宇宙に向かって言明されるのである。「さあ、わたしの父に祝福された人たち」とのみことばは、主が選ばれた者たちの愛らしさを厳粛に肯定されたことばである。

 


第1列王記6章1-6節

2014年12月02日 07時12分56秒 | 聖書

6:1 イスラエル人がエジプトの地を出てから四百八十年目、ソロモンがイスラエルの王となってから四年目のジブの月、すなわち第二の月に、ソロモンは主の家の建設に取りかかった。
6:2 ソロモン王が主のために建設し
た神殿は、長さ六十キュビト、幅二十キュビト、高さ三十キュビトであった。



 神殿の建設という大きな働きですので、それがいつ始められたのかということがここに語られています。

今までは、主が共にいてくださる印というのは、幕屋でした。

その幕屋は移動が可能で、どこでも持ち運びできました。

しかし今、イスラエルの民にカナンの地が与えられ、恒久的に住むことができるようにされた時、エルサレムの町に神殿が建てられることによって民が集い、礼拝を通して、神様との交わりを持つことができるようにされたのです。

それは記念すべき時です。

 しかし、そのためにどれほどの時が経ったかといいますと、エジプトを出てから480年目であるというのです。

長い期間が経過しています。

私たちが会堂建築をするためには、長く忍耐し祈り続けることは、当然の事なのです。


ヨハネの手紙第一 2章-11節(詩篇94篇)

2014年12月02日 07時09分49秒 | 聖書

★光の中にいると言いながら、兄弟を憎んでいる者は、今もなお、やみの中にいるのです。 兄弟を愛する者は、光の中にとどまり、つまずくことがありません。兄弟を憎む者は、やみの中におり、やみの中を歩んでいるのであって、自分がどこへ行くのか知らないのです。やみが彼の目を見えなくしたからです。

■O:今日のコラム
光の中を歩む。これこそ私たちが歩む喜びの道です。幸せの道です。
『神は光であって、神のうちには暗いところが少しもない。これが、私たちがキリストから聞いて、あなたがたに伝える知らせです。もし私たちが、神と交わりがあると言っていながら、しかもやみの中を歩んでいるなら、私たちは偽りを言っているのであって、真理を行ってはいません。
しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。』(1ヨハネ1:5~7)とあるように、光の中を歩む入り口は、主に正直に告白し、悔い改めることです。そうすることによって、私たちは、主との親しい交わりの中に入っていけるのです。それは、私たちの喜びが全きものとなるためなのです。(4節)主の御前に正直な子どもとなる事。これが私たちの成長を促し、平安をもたらします。喜びをもたらします。
 この喜びが全きものとなることというのは、同じヨハネの書いた福音書の方を見ると父の愛にとどまることに結びついているのです。『もし、あなたがたがわたしの戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたの喜びが満たされるためです。』(ヨハネ15:10~11)
 父の愛にとどまりましょう!ここにまことの安息があります。努めてこの安息に入りましょう!そのために主の前に正直になって、光の中を歩みましょう!
 そして、2章でもこのテーマがまた出てきます。ここでは、光の中を歩むことは『兄弟を愛する』ことであるとあります。これは5節を見ると、神の愛が全うされることです。またイエス様が残されたキリストの律法、『わたしがあなたがたを愛しているように、互いに愛し合いなさい』の成就です。つまり光の中を歩む事の完成形がここなのです。入り口は1章にある正直さ。出口(?)はここです。
 ときに『全ての人を愛しましょう!』というようなチャレンジがなされる事があります。それは素晴らしい事ですが、主は、神の愛で兄弟が愛し合うことを求めておられます。兄弟がです。まず家族が愛し合わないで、どうして家族でない者を愛せるでしょうか?まず兄弟を愛しましょう!このときに素晴らしい事が起こる事を確信します!ゆるし、親切にし、仕えることです。兄弟の悪口を言わず、祝福する事です。
 兄弟が仲の悪い家に、父は居心地が悪いはずです。兄弟が愛し合っている家は、父もそこに憩うことが出来ます。
ダビデは『主の家に住まう』ということをただ一つのこととして願いました。ならばまず主に家に住んでいただかなくてはならないのではないでしょうか?父が憩う家、主の臨在が絶えず住まう『神の家』である教会を回復したいと願いませんか?
 同時に自分自身が、神の家、主の宮です。ここに愛が満ちているなら、主はここに憩われます!



■A:考えてみよう
主が愛してくださっているように、兄弟が互いに愛し合う教会を願いましょう!また愛することを選び取る歩みをチョイスしましょう!


■P:祈り



イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。


12月1日(月)のつぶやき

2014年12月02日 01時55分03秒 | キリスト教