座間コミニティー

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

◆胸に金の帯を締めた……。

2014年12月06日 17時15分57秒 | 聖書

(黙示録一・一三)

パトモスにおいて「人の子のような方」がヨハネに現れた。主に愛された弟子は、主が金の帯を締めておられるのを見た。帯――イエスはこの地上におられた時、決して帯を解かれず、常に奉仕のために備えておられた。今も永遠の御座の前にあって、その聖い務めをやめず、祭司として「エポデのあや織りの帯」を締めておられる。主が私たちのために、その愛の務めをやめられないのは、私たちにとってよいことである。なぜなら、主がいつも生きて私たちのためにとりなされるのは、私たちの最も心強い安全の保証だからである。
イエスは、決して務めが終わったというふうに帯を解かれることなく、勤勉にその民のために働かれる。金の帯は主の奉仕の卓越、人格の高貴、地位の尊厳、報いの栄光を現す。主はもはや、ちりの中から叫ばれるのではなく、王として、また祭司としての権威をもって嘆願される。私たちは王座に着かれたメルキゼデクの御手の中にあって、この上なく安全なのである。
主は、そのすべての民に模範を示された。私たちは、決して自分の帯を解いてはならない。今は、横になってくつろぐ時ではなく、奉仕と戦いの時である。真理の帯をさらに堅く腰に結ばなければならない。それは金の帯である。だから、私たちの最も立派な装飾である。そして私たちは、非常にそれを必要としている。なぜなら、イエスのようにしっかりと真理をもって引き締められていない心、聖霊によってもたらされる忠実をもたない心は、たやすくこの世のものに足をすくわれ、誘惑のわなにかかるからである。
私たちは聖書を持っていても、それを帯のように巻きつけて、自分の全性質を包み、品性の秩序を保ち、全身全霊を引き締めていなければ、無益である。天国においてイエスが帯を解かれないとすれば、まして地上にいる私たちは当然そのようにすべきである。それゆえ、腰に真理の帯を締めて立て。

 


「イスラエルは打ち負かされ、

2014年12月06日 17時15分03秒 | 聖書

おのおの自分の天幕に逃げた…神の箱は奪われ、エリのふたりの息子…は死んだ」(Ⅰサムエル4:10)

偶像礼拝とは、神を自分の願望のために利用しようとする事だ。
自らを砕いて、御前にひれ伏すのではなく、自分の幸福や、願望のために、どこまでも自分のために、神を持ってこようとする態度だ。
だから、自分は何一つ変えられる事はなく、矯正される事もなく、ただ自分の欲望を遂げるための手段となる。
神を自分の都合のために、引きずり回し、利用する。
ペリシテとの戦いで敗北した時、民は主の契約の箱をかつぎ出して来た。
箱をかつぎ出してさえくれば、勝てると思った。
しかし、箱を持って来れば、神をかつぎ出せるのではない。
そもそも、自分達の都合のために、神をかつぎ出そうなどという不遜な考えが根本的間違いであった。
イスラエルは打ち負かされ、箱まで奪い去られた。
神は箱を奪われるがままにされた。
守られなかったのでなく、神が敗北させられたのだ。
裁きであった。主の箱の中を見た、ベテ・シェメシュの人々を激しく打たれた。
神を畏れ、敬い、崇め、御前にひれ伏すのでなく、好奇と興味でのぞいたのだ。
自分の欲望充足のために、神をかつぎ出し、自分に仕えさせる、恐ろしい態度だ。
そうでなく、神を神として伏して崇め、自らが仕えて行く、これが方向変換であり、悔い改めだ。
神の喜ばれる態度だ。祝福して下さる。
-----------------------
神を神として崇め従って行くのではなく、信じたいものを信じて行っていないか。
都合が悪ければ神様に代わるものはいくらでも持っていないか。
私達は神様に変えられているだろうか。


今日の聖人の記念日

2014年12月06日 07時20分29秒 | キリスト教

聖ニコラオ司教

270年-343年

 ニコラオは、有名な「サンタ・クロース」の名で知られる聖人である。
 小アジアのパタラの財産家の家庭に生まれ、信仰深い両親に育てられて、知恵にも行ないにも優れた人になった。両親が亡くなって、莫大な遺産を相続したが、優しいニコラオはそれを貧しい人びとのために使おうと決心した。

 司祭になったニコラオは、エーゲ海に面したミーラで宣教した。ミーラの町の飢饉を何度も救い、また信仰の面でも優れた保護者であった。貧しい靴職人のため娘3人の結婚を援助するなど、人びとを愛し、困っている人を見るとすぐ助けた彼は、人びとに推されて司教になった。
 ローマ皇帝ディオクレチアヌスのキリスト教迫害時代には信徒たちとともに投獄されたが、313年、コンスタンティヌス大帝が信教の自由の勅令を発布したことによって、ニコラオらは釈放された。そして教会の復興にとりかかり、また325年にはニケア公会議に出席し、アリウス派の異端と戦うなど亡くなるまで、教会と人びとのために生涯をささげた。

 彼の遺体はミラノ大聖堂に葬られ、そこは巡礼の中心地となった。1087年、東ローマ帝国に侵入したイスラムの破壊から守るため、遺体はイタリアのバリ市に移され大聖堂が建てられた。

 12世紀から、ヨーロッパ、とくにスイス、フランス、ドイツ、オランダでは聖ニコラオの祝日である12月6日が子どものための祝日となった。かつてニコラオが助けた3人の娘の話がもとになって、聖人の祝日の前夜、子どもにそっとプレゼントをする習慣が始まったのである。

 宗教改革のころから、プロテスタントの地域では、司教服の色である赤色の頭巾と服をつけたおじいさんが贈り物を入れた袋を背負うという形に変え、クリスマスと結びつけた。名前もオランダ語なまりで、「サンタ・クロース」と呼んだ。

 酒屋、無実の罪に苦しむ人の保護者である。


◆指導者の謙遜

2014年12月06日 07時18分21秒 | 聖書

人の高ぶりはその人を低くし、
心の低い人は誉れをつかむ。    (箴言二九23)

箴言二九章は、上に立つ人・支配者・治める人について中心的に教えている箇所です。その観点からきょうのことばも考えてみると、よく分かります。今までに会った、ほんとうの指導者は、みな謙遜だったように思います。
そうです。人の上に立つ人は、謙遜でなければなりません。「出るくいは打たれる」で、自分を鼻にかけすぎると、必ずたたかれ、痛い目に会います。私たちは、自分を鼻にかける人をきらいます。最後までは従おうとしません。しかし、それだから謙遜にしていることが必要だというわけではありません。
似て非なる謙遜も、いろいろあります。コマーシャル的な腰の低さとか、いんぎん無礼とかがあふれる中で、あなたをほんとうに高くし、誉れある者とし、指導者とする真の謙遜さとは、どんなものでしょうか。
第一に、自分自身を知りきっているゆえの謙遜です。自分がどんなに弱く自分勝手な罪深い者であるかを神の前にはっきりと知っています。そんな自分をも愛しゆるし救ってくださる神の恵みを知った人は、人を理解し、愛するのです。これこそ、上に立つ人の不可欠の資格ではないでしょうか。
第二に、自分の能力・地位・成功のすべては、神が与えてくださったものであり、何一つ自分のものはなく、自分がやったと誇るものがないことを悟りきっています。頭がいい。――神の賜物です。めぐり合わせがいい。――神の配剤です。家柄も健康も容貌も土地財産も、何一つ、自分のかせぎ出した自分のものといえるものはありません。神が与え、神が人の上に立つ者として、人と仕事を管理するように任せてくださったと思う時、へりくだって恐れおののくのです。
水が低いほうに流れるように、神の恵みと誉れは謙遜な人に流れこみます。

 


◆天からの者はみな、

2014年12月06日 07時17分43秒 | 聖書

この天から出た者に似ているのです。(Ⅰコリント一五・四八)

頭と器官は同じ性質のものであって、ネブカデネザルが夢の中で見た大きな像のようなものではない。彼の見た像の頭は純金であったが、胸と両腕は銀、腹とももは青銅、すねは鉄、足は一部が鉄、一部が粘土であった。キリストの霊妙なからだは、このように相いれないものの奇妙な結合ではない。器官は死すべきものであった。それゆえ、イエスは死なれた。栄光のかしらは不滅である。したがって、からだも不滅なのである。なぜなら、「わたしが生きるので、あなたがたも生きるからです」と記されているからである。私たちの愛するかしらとからだ、また器官の各部分は同じ性質をもつ。かしらが選ばれているなら器官も受け入れられ、かしらが生きているならば器官も生きているのである。もしかしらが純金であれば、からだのすべての部分も純金である。このように、同一の性質が、たぐいない密接な交わりの基礎となっているのである。
敬虔な読者よ。しばしここにとどまって思え。惨めなあなたを、御子の栄光との幸いな結合にまで高められた主のへりくだりを思う時、どうして喜びと驚きとを覚えずにおられよう。あなたが、自分のもつ卑しさと死すべき性質を思うならば、朽ちるものに向かって、「おまえは私の父だ」と言い、虫に向かって、「おまえは私の妹だ」と言わざるを得ないかもしれない。しかしキリストにあるなら、あなたは尊ばれ、全能の神に向かって、「アバ、父」と言うことができ、受肉された神に向かって、「あなたは私の兄弟であり、私の夫です」と言うことができる。
もし、由緒ある高貴な家系と関係のあることが、人々を何か偉い者のように思わせるとすれば、私たちは、それらのすべてにまさって誇りを感じるべきではないか。最もさげすまれる信者もこの特権に頼るがよい。怠惰によって、自分の光栄ある系図をたどることをなおざりにしてはならない。愚かにも現在のむなしさに引かれて、キリストに結合されているという栄光の誉れを忘れてはならない。

 


第1列王記6章23-30節

2014年12月06日 07時16分35秒 | 聖書

6:23 内堂の中に二つのオリーブ材のケルビムを作った。その高さは十キュビトであった。
6:24 そのケルブの一方の翼は五キュビト、もう一方の翼も五キュビト。一方の
翼の端からもう一方の翼の端まで十キュビトあった。
6:25 他のケルブも十キュビトあり、両方のケルビムは全く同じ寸法、同じ形であった。




 神殿の内部の至聖所に置かれた、契約の箱を守る印としての2つのケルビムが作られました。

1つのケルビムの高さは約、4.5メートルでした。

また幅は、左右の翼をあわせると、やはり4.5メートルありました。

その2つのケルビムを、神殿の奥の壁の所に置きました。

それらはオリーブ材で作られました。

また、それらは純金で覆われていました。

この2つのケルビムが、奥の壁の所に並べて置かれますと、壁は約9メートルありましたので、ちょうどその壁を両方から覆う形になりました。

 神殿も、またその中に作られた至聖所も、幅は約9メートルほどですので、それほど大きなものではありません。

しかし、そこには至聖所とそこに置かれる契約の箱を守るというための、十分な配慮が成されたのです。



黙示録1章3節 (詩篇99篇)

2014年12月06日 07時12分57秒 | 聖書

★この預言のことばを朗読する者と、それを聞いて、そこに書かれていることを心に留める人々は幸いである。時が近づいているからである。

■O:今日のコラム
黙示録を朗読していますか?
難しい書巻ではありますが、「幸いだ」とはっきり書いてありますから、定期的にこの書を朗読し、そこに書かれていることを心に留めていきましょう。

今日は、黙示録に限らず、聖書朗読のチャレンジです。

1テモテ4:
13
私が行くまで、聖書の朗読と勧めと教えとに専念しなさい。

聖書を朗読している時に起こること

    1.    心が刺される・信仰が来る
    2.    天に同意する
    3.    御心を祈る

1.神の言葉は鋭い両刃の剣・信仰のもと
神様の御口から御言葉が出る時、それは剣のように私たちの魂、心を刺し通して、私たちに悔い改めを迫ります。これはよいことです!この御言葉に従って悔い改める時、神様からの赦しと聖めが与えられ、神様と親しい関係を回復することができます!

また私たちの口が、御言葉を朗読する時、私たちの耳は同じ御言葉を聞きます。聞く中で神様の生きた御言葉レーマが与えられ、信仰が与えられていきます。(ローマ10:17)

2.天に同意
聖書を朗読する、ということは、自分の口を使って、御心を告白する、宣言する、ということであり、神様の基準に同意する、ということです。

align アラインという言葉がありますね。コンピューターで表や図を作ったりする時も、それぞれの表の端をそろえるとか、一つの基準の線に合わせて図形を並べる、などという時に使いますが、御言葉を宣言する時、私たちは、自分たちの思いを、神様の基準に合わせていきます。

最近タイマーを使って、10分おきに、「いつも喜び、絶えず祈り、すべてのことに感謝する」というのを実践していますが、文句が出そうな時にも、自分が失敗してがっかりする時にも、「喜び、感謝する」「祈る」この神様の基準に合わせると、心に大きな平安がやってきます。

聖書の言葉に基づいて、「わたしは天のお父さんの愛する子どもだ」「真の礼拝者だ」「王である祭司だ」「キリストにあって、天にあるすべての霊的祝福をもって祝福されている」と宣言していきましょう。私たちを告発する悪魔の声ではなく、神が言われることに同意しましょう。

3.御心を祈る

イエス様は、私たちのことは、神様が本当に心配してくださり、よくしてくださるから、自分の必要を第一に祈らなくても、ちゃんと備えてくださる、守ってくださる、助けてくださるんだよ、と言われました(マタイ6:8)。

じゃあ、私たちは何を祈ればいいのでしょう?
御言葉を祈りましょう!
どこから始めればよいかわからなければ、イエス様の教え(福音書など)、また、パウロの手紙を開いて、御言葉を朗読しながら、主の心がこの地上で実現することを求めましょう。詩篇の朗読はそのまま賛美ですね。

教会が聖められ、成熟し、油注がれ、癒しや、解放、救いが起こるように、キリストの愛にとどまり、御霊の実が結ばれるように、家庭に回復があるように求めましょう。
日本に御国が、キリストの支配が、力をもって来るように。聖霊の力によって、私たちがキリストの証人となり、大胆に福音を伝えて行けるように。ひとりとして滅びることなく、一人でも多くの魂が救われるように。
福音がすべての民族に伝えられるように。
イスラエルに平和があり、イスラエルが救われるように、祈りましょう。

御心にかなうこの願いはすでに聞かれました!

1ヨハネ5章14 - 15節
何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。
私たちの願う事を神が聞いてくださると知れば、神に願ったその事は、すでにかなえられたと知るのです。


■A:考えてみよう
今日、時間をとって御言葉を朗読してみましょう。
(注:イスラエルの民も聖書を朗読し続けていますが、心におおいがかけられていて、神様を知ることができません。私たちも、イエス様の愛の中、神様を知ることができるよう求めながら読んでいきましょう。)
今日の勧めは、信仰生活の一部です。
私たちは主の前に、自由に、何でも祈ることができます。神様と会話できます。
朗読、ということに、縛られる必要はありません。

しかし、最近、何人かのクリスチャンの方と話す時、聖書と違う基準(老後のことを心配するのは当然です。赦せないのは、当たり前です。姦淫するのも、世に影響されるのも、仕方がない。牧師が間違っているのだから牧師批判も必要です。…)で歩んでいる方が多い事に気づきました。↑これらの気持ちは、正直で、本音です。憐れみ深い大祭司は、私たちの弱さに同情してくださる方です。
ですから、ここから始まりますが、ここにとどまらないで、信仰によって勝利していきましょう!
メディアや、この世の人々が発信するメッセージを反復したり、告白したりするのではなく、神様の御口から出る、真理の言葉を朗読し、宣言して、私たちの人生を、神様のご計画に合わせていきましょう。


■P:祈り
今日も、王である祭司、私たちを通して、天のお父さんの支配がこの地に及び、御心が、この地で行われますように!


イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。


12月5日(金)のつぶやき

2014年12月06日 02時09分36秒 | キリスト教