座間コミニティー

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◆彼らは主を裏切り……。

2014年12月12日 17時20分14秒 | 聖書

(ホセア五・七)

信者よ。ここに悲しい真理がある!  あなたは主に愛され、血によって贖われ、恵みによって召され、キリスト・イエスの中に守られ、主にあって受け入れられ、かつ天国への途上にある。ところが、最上の友である神を「裏切った」。あなたはイエスのものであるのにイエスを裏切り、聖霊によって永遠のいのちに生かされているのに、聖霊をも裏切っている。あなたは誓いと約束をどれほどほごにしてきたことだろう。
あなたは、あなたの結婚式の時の夢、あの幸福な時――あなたの信仰生活の春――の愛を記憶しているか。おお、あなたはその時どれほど親密に主にすがっていたことだろう。あなたは言った。「主は決して、私を冷淡だと言って責められることはない。私の足は決して、奉仕を面倒だとは思わないであろう。私の心は決して、他のものを愛してさまようようなことはしない。主の中には、筆舌に尽くせないよいものが蓄えられている。私は、私の主イエスのためにすべてをささげる」と。
今まであなたはずっとこのようであったか。ああ、もしあなたの良心に語らせるならば、こう言うだろう。「彼は、約束だけはすばらしかったが、実行はなっていない。祈りはしばしばなおざりにされ、短く、味気のない、冷淡な祈りであった。キリストとの交わりは忘れ去られた。天のことを思う代わりに、世俗的心労、この世の虚栄、邪悪な思いがあった。奉仕の代わりに不従順が、燃えるような熱情の代わりになまぬるさが、忍耐の代わりに不機嫌が、信仰の代わりに肉の腕に対する信頼があった。そして十字架の兵士として、恥ずべき臆病、不従順、荒廃があった。」
「あなたは主を裏切った。」イエスに対して! これに反論することばはない。ただ私たちは罪を悔いて、自己の内に根を下ろす罪を憎もう。御傷に対して! イエス様。私たちを赦し、再び罪を犯さないように守ってください。決して私たちを忘れず、その胸当てに私たちの名を刻んで、今日も永遠の御座の前に立たれるお方を裏切るとは、なんと恥ずべきことであろう。

 


「御国のことばを聞いても悟らないと、

2014年12月12日 17時19分11秒 | 聖書

悪い者が来て、その人の心に蒔かれたものを奪って行きます」(マタイ13:19)

神がわからない、御言葉がわからないと言う人々があるが、土地の問題の場合がある。
良質の種と肥沃な土地が一つになった時に芽が出て実がなる。
つまり、「土地=心」であるから、素直な聞く耳のある心が大切だ。
その心に御言葉の種が落ちると、必ず芽が出て結実する。
「種と土地=御言葉と心」が一つになる時に実を結ぶ。
ゆえに神の言葉を聞きながら成長しないなら、聞く側の土地を顧みる事が必要だ。
種が落ちるが、根を張れない、石ころだらけの土地だろうか。
喜んで聞き、すぐ芽が出るが、信仰のための困難が来ると、すぐにつまずく。
根が張るのを妨害する石を取り除く必要がある。
でなければ、決して実がならない。
農夫である御父が石を取り除けようとされるのに執着して放さないだろうか。
それは世の快楽や、世の賞賛や、富、名声、地位、愛する人や好きな事、習慣…あなたの石は何だろう。
又、農夫がすきで、石を掘り起こし、土を柔らかく耕す。
種が育つ土壌にするための「試練、訓練」をしっかり受け止める事が必要だ。
その時、よく耕された、砕かれた素直な土地とされる。
あなたの心(土地)はどうだろう?問題、妨げは無いか?
神は豊かに実をならせようと絶えず世話をして下さっている。
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種が無い限り結実は100%あり得ない。
聞き方に注意せよ悟れと言われた。
道ばたの種はサタンに取られた。
傍観者、他人事として聞くので、自分の事だと気づかない事だ。
自分の事として聞く事が重要だ。


今日の聖人の記念日

2014年12月12日 07時19分22秒 | キリスト教

グアダルペの聖母マリア

 

 1531年12月9日、メキシコのグアダルペで、ミサに行く途中だった55歳のファン・ディエゴというインディオに、聖母マリアが現れた。
 聖母マリアは、ディエゴに出現したこの場所に大聖堂を建設するよう司教に求めるように頼まれた。彼が、このことを司教に話すと、司教は、聖母にそのしるしを残してもらうようにと言った。
 12月12日の早朝、再び聖母の出現を受けたディエゴは、聖母にしるしを残してくださるように願った。すると聖母は彼に、バラの花を集めて司教のもとに持って行くように言われた。そこは岩の多い土地で、しかも冬であったためバラなど咲いているはずはなかった。しかし、ディエゴはその言葉に従った。すると、そこには本当に、美しいバラが咲いていた。

 ディエゴは、そのバラを折り、着ていた外套に大切に包んで司教のところに持って行った。司教はそのバラを包んだ外套を見て驚いた。その外套には、美しい聖母の姿が写されていたのである。それは、出現された時と同じ姿であった。

 現在、聖母が出現された丘には、聖母マリアにささげられた美しい大聖堂が建っている。

1754年、グアダルペの聖母マリアは、教皇ベネディクト14世によってメキシコの保護者とされ12月12日にその祝日が定められた。


◆人を人とも思わない世代

2014年12月12日 07時17分32秒 | 聖書

自分の父をのろい、自分の母を祝福しない世代。
自分をきよいと見、汚れを洗わない世代。
なんとも、その目が高く、
まぶたが上がっている世代。
歯が剣のようで、きばが刀のような世代。
彼らは地の苦しむ者を、
人のうちの貧しい者を
食い尽くす。        (箴言三〇11―14)

あなたのきらいな人のタイプを四つあげよといわれたら、どんな回答が出るでしょうか。ここには、アグルという人の見たきらいな人のタイプが、四つあげられています。
第一は、年をとって体力が衰え、経済力・生産力・指導力がなくなった両親を、やっかい者にしたり、ないがしろにする人です。
第二は、あくまで自分は正しいと思いこんで、人の忠告や教えをばかにして受けつけず、自分を見つめない人・反省しない人です。
第三は、人を見くだし、えらそうにしている高慢な人です。
第四は、弱い者に対して残酷な人・思いやりのない人です。
この四つのタイプに一つの共通点があると思いませんか。ルカの福音書一八章の初めで、イエス・キリストが「神を恐れず、人を人とも思わない」ということばを使われています。――まさにこれこそ、この四つのタイプの共通点です。
神がもし、「人を人とも思わない」態度で、私たちに臨まれたらどうでしょう。私のような、自分勝手で思いあがった、きたない罪人は、掃き集めて一時も早く始末してしまうほうが簡単です。しかし、神は、聖書の中で言われるのです。「私は折れかかった葦の葉を折らない。消えかかったろうそくを消さない」(マタイ一二20参照)と。ことばに表せない神の思いやりと愛を思う時、私たちはせめて、神を神と思い、人を人と思う者になりたいものです。

 


◆しかし、

2014年12月12日 07時16分48秒 | 聖書

その軌道は昔のまま。(ハバクク三・六)

神は、かつてなされたことを、また再び行われる。人の行うことには定まりがない。しかし、神の軌道は昔と変わらない。この最も慰めに満ちた真理には多くの理由がある。その一つは、主の軌道は賢明な熟慮の結果だということである。神はみこころのままに万物を統べ治められる。人の行いは、しばしば激情や恐怖の性急な結果である。そして後悔や変更がそれに続く。しかし何ものも全能の神を驚かすことはできず、神が予見される以外のことは何も起こらない。
神の軌道は不変のご性質の結果である。そしてその中に、確固とした神の性質がはっきりと現れている。永遠なる神ご自身が変わられない以上、その軌道――それは活動しているご自身であるが――は永遠に同じでなければならない。神は永遠に正しく、あわれみ深く、忠実で賢明で優しいだろうか。それなら、神の軌道も、常に同様の卓越した点を備えているに違いない。すべての生き物は、その性質によって行動する。その性質が変化する時、彼らの行いもまた変化する。しかし神は移り行く影のない方であるから、その行われるところも永遠に不変である。
さらに、神の軌道を外部から逆転させることはできない。なぜならそれは不可抗的な力が具体化されたものだからである。預言者は、主がご自分の民を救うために出て来られる時、地は裂かれて川々とされ、山々は震え、深い淵はその手を高く上げ、太陽と月はとどまると言っている。だれが御手を差し押さえて、「あなたは何をされるのか」と言うことができよう。
しかし、不変性は力だけから来るのではない。神の軌道は、正義の永遠の原則が現れたものである。だからそれは決して廃れない。悪は腐敗をもたらし、破滅を宿している。しかしまことと善は、歳月によって減少することのない活力をもつ。
今朝私たちは、イエス・キリストはきのうもきょうも、いつまでも同じ方であり、主にあって神は常にその民にあわれみを注がれることを思い起こそう。そして確信をもって父なる神のみもとに行こうではないか。

 


第1列王記8章44-53節

2014年12月12日 07時15分34秒 | 聖書

8:47 「彼らが捕らわれていった地で、みずから反省して悔い改め、捕らわれていった地で、あなたに願い、『私たちは罪を犯しました。悪を行って、咎ある者となりました』と言って、
8:48 捕らわれていった敵国で、心を尽くし、精神を尽くして、あなたに立ち返り、あなたが彼らの先祖に与えられた彼らの地、あなたが選ばれたこの町、私が御名のために建てたこの宮のほうに向いて、あなたに祈るなら、」



 戦いに敗れて、敵の捕虜となり、苦しみの内に置かれている時、自分たちがこのようになったのは、主の御心を無視してきたからだということをよく理解して、そのことを悔いる時、その時には許しを与えて立ち直らせて下さいと、主に祈っています。

その悔いの姿勢についてソロモンは、「捕らわれていった敵国で、心を尽くし、精神を尽くして、あなたに立ち返り、」とこのように語って、心からの悔い改めを勧めています。

 私たちも、いつも悔い改めが求められます。

しかしその時の悔い改めは、このような、心を尽くし精神を尽くした、全人格的な悔い改めが求められるのです。



黙示録6章2節(詩篇104篇)

2014年12月12日 07時11分34秒 | 聖書

★私は見た。 見よ。 白い馬であった。 それに乗っている者は弓を持っていた。 彼は冠を与えられ、 勝利の上にさらに勝利を得ようとして出て行った。


■O:今日のコラム
みなさんは、白馬に乗った王子様に憧れたことがありますか?白馬に乗った王子様は誰が考えてもヒーローの象徴のように思えます。今日の聖書の箇所にその白い馬に乗り、冠を与えられた勝利の上にさらに勝利を得る人が登場します。この人は救い主でしょうか?それとも…?その事を詳しく見て行きたいと思います。

(1)白い馬
この「白い馬」というのは、黙示録の19章にも2回登場します。実は、黙示録19章の白い馬に乗ってくる者と、この黙示録6章の白い馬に乗ってくる者は別の人物なのです。結論から言うと19章の方はイエス様で、6章の方は偽物です。(その確固たる理由は後ほど記します)
「白」という色は神様の神聖、聖さを表す色です。私たちが忘れてはならないのは、このみことばです。
「しかし、 驚くには及びません。 サタンさえ光の御使いに変装するのです。」(第二コリント11章14節)
そうです。サタンは光の御使に変装するのです。多くの場合、サタンは「ハッハッハ~!私はサタンだぞ~!」と言って私たちに近づいてくることはありません。そんなことをしたら、イエス様のお名前で一発でやられてしまうことをサタンは知っているからです。では、どのように近づいてくるかというと、羊の皮をかぶってやってくるのです。つまり、いかにも良さそうな、正しそうな格好をしてやってきます。私たちはこれを見抜く目を持たなければなりません。
そのためには、いつも本物に触れ続けることが必要です。祈りとみことばを通して、主との生きた関係があれば、サタンがどんなに巧妙に光の御使いの姿に化けたとしても、すぐに違和感を覚え、それを見ぬくことができます。

(2)弓
ここで「弓」という言葉として使われている言語は「トクソン」ということばで、実はここでしか使われていない言葉です。弓は、当時使われていた武器の中でも一番遠くまで届く武器でした。つまり、その力、支配が遠くにまで及ぶと言うことを意味しています。
悪魔の火矢を防ぐものは何でしょうか。そうです。それは信仰の大盾です。
「これらすべてのものの上に、 信仰の大盾を取りなさい。 それによって、 悪い者が放つ火矢を、 みな消すことができます。」(エペソ6章16節)
みことばにしっかりと立った信仰を建て上げていきましょう。

(3)冠
黙示録6章と19章に出てくる白い馬に乗った者の正体を見抜く決定的な部分はこの「冠」です。
日本語では「冠」という一つの言葉にまとめられていますが、実は新約聖書の中には二つの冠が登場します。一つは「ステファノス」、もう一つが「デアデマ」という言語です。ステファノスとはマラソンランナーの勝者に与えられるようないわるゆる「栄冠」の冠です。朽ちていく冠ということもできるでしょう。
一方、「デアデマ」とは、世の始まる前から王、また支配者として与えられている冠です。この冠はキリスト以外に与えられることはありません。黙示録6章で使われている冠は「ステファノス」、黙示録19章で使われている冠は「デアデマ」です。どうですか?これで、どちらがどちらかはっきりしたでしょう。この黙示録6章に出てくる冠(ステファノス)を与えられた白い馬に乗った者は光の姿に化けた反キリストです。
この者は世界中のあらゆる難問を次々と解決していき、人々から勝利者としての栄冠(ステファノス)を与えられていきます。しかし、それは惑わしであり偽りです。その見せかけの平和はやがて破綻していきます。

イエス様はマタイの福音書24章で弟子たちが「世の終わりの前兆はどういったものでしょうか?」という質問をしたことに対して、最初に言われたことは「?に惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が?勢現われ、「私こそキリストだ。」と?って、多くの?を惑わすでしょう。」ということでした。イエス様の口から最初に出てきた言葉は「惑わし」だったのです。
様々な現象、また預言、その他あらゆる不思議なことを行ったからといって、それがそのままイエス様からだと思ってはいけません。今はそういう時代だということを私たちは知らなければなりません。いつの時代も常に正しいのは「みことば」です。みことばを私的解釈を施すこと無く、みことばをみことばとして受け取り、これを朗読し、心にとめることが大切です。
「この預言のことばを朗読する者と、 それを聞いて、 そこに書かれていることを心に留める人々は幸いである。 時が近づいているからである。」(黙示録1章3節)


■A:考えてみよう
あなたは、全てを良いからといってそのまま受け入れてないでしょうか?食事でも同じです。見た目に麗しく、美味しそうに見えて何も考えずに食べると、それはロウでできた食品サンプルかもしれません。私たちは吟味する必要があります。間違った食品を食べてしまうとお腹が痛くなります。それは霊の世界でも同じです。間違った教えをそのまま受け入れてしまうと、混乱の霊が働いてしまい、最後にはイエス様が見えなくなってしまいます。
それを回避するためにはみことばと祈りの生活が欠かせません。しかも、それを自分勝手に行ってはいけません。必ず、教会にしっかりと植えられている必要があります。教会の覆いはとても強力です。この覆いの外に出るなら、悪魔の餌食となってしまうかもしれません。牧師のカバリングのもと、祈りとみことばの生活を続けるなら、主との生きた関係を続けていくなら、私たちは本物と偽物を見分けることができます。
もし、主とのゆるがない関係が築かれたらどうなるでしょうか。「主は私とともにおられる」という確信が与えられ、どんな困難、災難、また、迫害がやってきても、心は主の平安で満たされた状態になるはずです。そうなるなら、たとえ患難を通されても私たちは恐れることはありません。
天国に行ってから、また、携挙されてから幸せになるのではなく、私たちはたった今、この地においても幸いとなることができます。この地にいながら御国がこの地に侵入してくるのです。私たちはその鍵を主から頂いています。御国の鍵を用いて、イエス様のお名前の権威によって閉じられるものは閉じ、開かれるものは開かれていくように祈っていきましょう!


■P:祈り


イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。


12月11日(木)のつぶやき

2014年12月12日 02時33分56秒 | キリスト教