座間コミニティー

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◆私はキリストとともに十字架につけられました。

2014年12月14日 19時59分30秒 | 聖書

(ガラテヤ二・二〇)

主の行為は、大いなる公の代表者としてなされた。そして主の十字架上の死は、実質上主のすべての民が死んだことを意味する。その時すべての主の聖徒は、義に対して負うものを支払い、そのすべての罪に対してなされる神の報酬に対して、贖いをなした。
異邦人への使徒パウロは、キリストの選民の一人として自分がキリストにあって十字架上に死んだと考えることを喜んだ。彼はこのことを、単に教義として信じるばかりでなく、確信をもってそれを受け入れ、彼の希望をその上に置いた。彼はキリストの死によって、神の義に満たされ、神と和らぐことができたと信じた。
愛する友よ。たましいがキリストの十字架の上に自らをかけて、「私は死んだ。律法は私を殺したが、私はその力から自由になった。私の保証人であるお方にあって私はのろいを負い、私の代理人であるお方にあって、律法がなし得るすべてのことは刑罰として私の上に執行された。なぜなら、私はキリストとともに十字架につけられたからである」と感じることができるのは、なんという祝福であろう。
しかしパウロが言うのは、単にキリストの死を信じ、それに信頼していたことだけではなかった。彼の古い腐敗した性質を十字架につけることによって、キリストの死の力を現実に自分のうちに感じたのである。罪の歓楽を見た時、彼は、「私はこれを楽しむことはできない。私はそれに対しては死んだ」と言った。これは、真の信者がすべて経験することである。信者はこの世に対して全く死んだ者であるが、同時に使徒とともに、「それにもかかわらず、私は生きている」と叫ぶことができる。彼は神に対しては全く生きている。クリスチャンの生活は無比の謎である。世の人はそれを悟ることができず、信者自身でさえも理解できない。
死んだ、しかし生きている。主とともに十字架につけられたが、同時に主とともに新しいいのちによみがえった! 苦しみ、血を流された救い主と結び合わされ、この世と罪に対して死ぬことは、たましいを慰め、励ます。このことをさらに深く体験したい。

 


「また神のすべてのみこころを十分に確信して立つことができるよう、

2014年12月14日 19時58分33秒 | 聖書

あなたがたのために祈りに励んでいます」(コロサイ4:12)

祈らないで、事を行ってしまって、失敗した経験は無いだろうか。
誰しもあるはずだ。
祈らないで高価な物を衝動買いし、無駄遣いに後悔したり、祈らないで活動を始めてしまい、途中で対人関係がギクシャクし、ストップしてしまう。
良い事でも、祈らないで、肉の思いで始めてしまうと、中途で頓挫してしまう。
ある人は祈らないで、目の前に来た好条件のバイトに飛びつき、余りの多忙にデボーションの時間も無くなり、神が二の次になり、本末転倒の生活を示され、途中で辞めた。
ある人は祈らないまま、高額報酬の仕事を選んでしまった結果、全く教会へ行けなくなってしまった。
ヨシュアがギブオンの住民達に騙されて、盟約を結んだ箇所がある。
ギブオン人達が計略を巡らし、変装し、遠くから来たと思わせ欺いた。
実は自分達の中に住む近隣の者達であった。
この時、対応するのに「主の指示を仰がなかった」のだ。
私達も心しよう。日常生活、一つ一つの事をよく祈り、主の指示を仰ぎつつ歩もう。
あの決定、この判断、主を仰ごう。
でなければ、結局、肉で始めた計画は頓挫し、刈り取る事になる。
主に祈り、頼み、平安与えられ、確信持って前進しよう。
それは「主と一つ」になって進める幸いな歩みだ。
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ささいな事も祈りとともに始めよう。
自分の思いは想像以上に強いから、すぐに肉に呼応してしまう。
委ねて行く事が二の次にならないよう、瞬間、瞬間を祈りとともに。


今日の聖人の記念日

2014年12月14日 07時42分17秒 | キリスト教

聖ヨハネ(十字架の)司祭教会博士

1542年-1591年

 ヨハネは、スペイン、アビラの近くで生まれた。21歳のときカルメル修道会に入り、司祭となった。当時カルメル会は世俗主義が入り、創立当初の精神を失っていた。

 ヨハネは、1567年に女子カルメル会の改革にあたっていたアビラの聖テレジア(10.15)と出会い、ともに会の改革に力を尽くした。翌年、改革派最初の男子修道院「男子跣足カルメル会」を創設した。1577年に反改革派に捕えられてトレドに幽閉されたが、翌年に脱走し、そのころから詩作と著述を始めた。『カルメル山登攀』、『霊魂の暗夜』は、獄中の体験をもとにして書かれたといわれる。彼は、真の聖性はキリストのために苦しむこと、自分に打ち勝つことであると説いた。その後もヨハネは修道会の改革に奔走し、1581年に教皇の認可を得たが、テレジアの死後、改革派の中でも意見の違いがあり、1591年に役職を解かれ、病の後に亡くなった。

 ヨハネは、詩人としても名高く、先に挙げた作品をはじめ、『霊の賛歌』など、スペイン文学史上珠玉の名作と称されている。カトリック教会の最大の神秘家のひとりである。


◆不 思 議 な 道

2014年12月14日 07時40分57秒 | 聖書

私にとって不思議なことが三つある。
いや、四つあって、私はそれを知らない。
天にあるわしの道、
岩の上にある蛇の道、
海の真中にある舟の道、
おとめへの男の道。
姦通する女の道もそのとおり。
彼女は食べて口をぬぐい、
「私は不法を行なわなかった。」と言う。(箴言三〇18―20)

どのようにして鷲は大空を飛び、どのようにして蛇は岩の上をはい、どのようにして船は横ぎる道を見つけ、どのようにして若い二人の間に愛情が芽生えるのかも、確かに不思議(ワンダフル)なことです。しかし、この箴言の言いたいポイントは、最後の姦通する男女の道の不思議さです。
第一に、どんなところにも、奇想天外な姦通する男女の道が通じており、わながあることです。
・ ダビデとバテ・シェバ(Ⅱサムエル一一章参照)。
・ 王ヘロデと、その弟ピリポの妃ヘロデヤ(マルコ六17参照)。
・ ダビデの子アムノンと、腹違いの妹タマル(Ⅱサムエル一三章参照)。
第二は、どんな理性の意志の力も押し流してしまうセックスの力・肉の欲情の力こそ、まことに驚くべきです。「口をぬぐい、『私は不法を行なわなかった。』と言う。」――これこそ、二十世紀の姿そのものではないでしょうか。
第三に、ダビデが陥った驚くべき不安、アムノンの恐ろしい虚無、ヘロデとへロデヤにおよんだ永遠のさばき。――何と驚くべき結果でしょうか。
あなどってはならない不思議な暗黒の道であり、その結果です。私は大丈夫だと、遊びのような気持ちでそこに近づくのは危険です。聖書は、このように語ります。「それで、あなたは、若い時の情欲を避け、きよい心で主を呼び求める人たちとともに、義と信仰と愛と平和を追い求めなさい」(Ⅱテモテ二22)。

 


◆彼らは、

2014年12月14日 07時40分12秒 | 聖書

力から力へと進み……。(詩篇八四・七)

彼らは、力から力へと進む。このことばには種々の訳がある。しかしそのすべては進歩の意味を含む。
私たちの訳は今朝の教訓を学ぶのに十分である。「彼らは、力から力へと進み……。」すなわち彼らは、次第に強くなるというのである。通常私たちが歩くとき、強さから弱さに進む。私たちは元気よく調子を整えて旅に発つ。しかし、やがて道は険しくなり、日も暑くなる。私たちは、道のかたわらに腰を下ろして休み、また立ち上がっては苦しそうにやりきれない旅を続ける。
しかし、常に新しい恵みの供給を受けるクリスチャンの旅は、何年もの苦しい旅の後にも、出発した時と同じように活気にあふれている。彼はかつてのように意気盛んでもなく、また快活でも血気にはやってもいないかもしれない。しかし彼ははるかに強くなっており、ゆっくりとではあるが、以前よりも確実に歩んでいる。
白髪の老練な信者の中には、真理を把握することがいよいよ堅実になり、それを伝えようとする熱情においても青年時代をしのぐという人がいる。しかし悲しいことに、その反対の場合もあることをしばしば認めなければならない。多くの人たちの愛が冷たくなり、不正がはびこっているのを見るからである。
しかしこれは、彼ら自身の罪であり、次の神の約束に欠陥があるからではない。この約束は、現在なお有効なのである。「若者も疲れ、たゆみ、若い男もつまずき倒れる。しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。」
性急な人々は、座って前途を思い煩う。彼らは言う。「ああ、私たちは患難から患難へと進む」と。しかり、そのとおりである。しかし、信仰の薄い者たちよ。それだけではない。同時にあなたは力から力へと進む。患難の束の中には十分な恵みが入れられていて、神は屈強な者の肩にふさわしい重荷を与え、同時に十分な力をも与えられるのである。

 


第1列王記8章27-30節

2014年12月14日 07時39分04秒 | 聖書

8:27 「それにしても、神ははたして地の上に住まわれるでしょうか。実に、天も、天の天も、あなたをお入れすることはできません。まして、私の建てたこの宮など、なおさらのことです。
8:28 けれども、あなたのしもべの祈りと願いに御顔を向けてください。私の神、主よ。あなたのしもべが、きょう、御前にささげる叫びと祈りを聞いてください。」



 主は偉大なお方であり、この天と地を創造された方です。

その偉大さは計り知れないことです。

従って、このようなお方を、この神殿にお住まいくださるなどということは、とても考えられないことですと、ソロモンは語っています。

しかし、それにもかかわらず、主がそこに名をおいてくださり、共にいてくださると約束してくださっていますので、この神殿で祈る時にお聞きくださいと願っています。

私たちも罪深い汚れた者で、私たちの祈りなど聞き入れられる資格のないものです。

しかし、主の名によって祈りなさいと言ってくださいます。

イエス様のおかげで聞いていただけるのです。

このようなすばらしい恵みはありません。

ですから、祈りましょう。


詩篇106:30-31(マタイ1)

2014年12月14日 07時34分33秒 | 聖書

★そのとき、ピネハスが立ち、なかだちのわざをしたので、その神罰はやんだ。
このことは、代々永遠に、彼の義と認められた。この、なかだちのわざは民数記25:7-8に記されています。

民数記25:7-8
祭司アロンの子エルアザルの子ピネハスはそれを見るや、会衆の中から立ち上がり、手に槍を取り、そのイスラエル人のあとを追ってテントの奥の部屋に入り、イスラエル人とその女とをふたりとも、腹を刺し通して殺した。するとイスラエル人への神罰がやんだ。


祭司ピネハスがしたことは、わたしの目から見ると「もうちょっと優しくても…」と思いますが、天のお父さんの心にはかなっていました。

そして、それは代々永遠に義と認められたとあります。

義とは、神様から正しいとされる事です。

ピネハスがしたことは人の目に「?」に見えたとしても、天のお父さんからは正しいとされました。ピネハスの行動はお父さんの心を満たしたと思います。


■A:考えてみよう
わたしたちも人の目ではなく、天のお父さんから正しいとされる事、天のお父さんを喜ばせる事を日々選んでいきたいと願います。

その場だけ良しとされることではなく、永遠にお父さんから義と認められる事を選択し、実行していく、お父さんの心を満たす歩みが出来ますように。


■P:祈り


イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。


12月13日(土)のつぶやき

2014年12月14日 02時56分46秒 | キリスト教