座間コミニティー

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◆あなたの窓をルビーにし……。

2014年12月13日 18時19分22秒 | 聖書

(イザヤ五四・一二英訳)

教会は神の熟練によって設計され、天の力によって建てられた建物にたとえるのが最も意義深い。そのような霊の建物は、暗くあってはならない。イスラエル人の家の中は明るかったからである。したがって、光を入れ、また中に住む人々が外をながめることができるように、窓がなければならない。これらの窓はルビーのように尊い。教会が主を見、天を見、そして一般の霊的真理を見る通路は、最も重視すべきものである。
ルビーは、最も透明な宝石ではなく、半透明と言うべきものであろう。
 天上の生活に対する私たちの知識は浅く
 私たちの信仰の目はかすんでいる
信仰は、これらの尊いルビーの窓の一つである。しかし、ああ、それはしばしば曇っているため、私たちはおぼろげに見るにすぎず、またしばしば誤って見る。しかし私たちがダイヤモンドの窓を通してながめ、私たちが知られたように知ることができず、ルビーのようにかすんだガラスを通してであっても、とにかく、この上なく麗しいお方を見ることはすばらしい。
経験もまた、このようにかすんだ、しかし尊い窓の一つであり、おぼろげな光を与え、その光の中に、私たちは自らの苦しみを通して、悲しみの人であられる主の御苦しみを見る。霊的な視力が弱い私たちの目は、透明な窓ガラスを通して入る主のご栄光を見るに堪えない。しかし、私たちの目が涙にかすむ時、義の太陽の光は調節され、ルビーの窓を通してやわらかな光を投げかけ、誘惑に会うたましいをこの上なく慰める。
私たちを主のかたちに似たものとする聖潔もまた、もう一つのルビーの窓である。天にふさわしい者となることによってのみ、私たちは天のことを理解できる。心のきよい者が、きよい神を見る。イエスに似た者が、イエスを見ることができる。私たちはまだ主に似ていないが、幾分かは似ているので、ルビーの窓をもっている。私たちは自分のもっているものを神に感謝し、さらに多くを求める。私たちが、神とイエス、天国と真理を、顔と顔を合わせて見るのはいつであろう。

 


「わたしのくびきは負いやすく、

2014年12月13日 18時18分32秒 | 聖書

私の荷は軽い」(マタイ11:30)

「重荷」と「荷」は違う。「重荷」とは、私達を憔悴させ、損ない、疲れ果てさせてしまうものだ。
「荷」は、私達一人一人に与えられた義務、使命、仕事等だ。障害や病もそうだ。
確かに荷も重い場合もある。仕事や病気や身体障害は重い。
しかし、それはむしろ主に在り、生きがい、やりがい、喜びとされる。
身体は疲れても、心は疲れない。だから快い疲れとなる。
それは本人にも充足感、達成感が来て、神からも報いがある。
主がわたしのところへ来なさいと、言われている「重荷」は、思い煩いや苦しみ、不安、焦り、苦悩でずっしりと重くなり負い切れなくなった状態だ。
心が疲れて一歩も前に進めなくなる。
主は「私達各々に与えられた義務、使命」を負うために来られたのでなく、疲れ果てて進めない、重すぎる荷を負いに来て下さった。
つまり、あなたを疲れさせる重荷を取り去って、あなたが、自分に与えられた荷をしっかり負えるようにして下さるのだ。
あなたの使命、仕事、義務を果たして行く時にこそ、あなたは平安と喜びに満ち、生きている実感を得る。
私達の罪の重荷とその結果をも、主は十字架で、すでに解決して下さった。
使命、仕事、義務…しっかり負って主に従おう。
それは誇りであり、そして、そこに安らぎと喜びを味わう。
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主から与えられた負いやすく心地よい荷と、負わなくても良い重荷があることを覚えよう。
負い切れないと弱りはてる重荷なら、すぐに主の所に行こう。
活路は主が切り開いて下さること信じて今日も喜んで歩んで行こう。


今日の聖人の記念日

2014年12月13日 07時38分21秒 | キリスト教

聖ルチアおとめ殉教者

?-304年

 ルチアは、イタリア、シシリア島シラクサの裕福な家に生まれ、信仰深い両親のもとで育てられた。父の死後、母の健康がすぐれなかったため、母とともにカタニアの聖アガタ(シシリア島の殉教者)の墓に巡礼し、母の病が癒された。この奇跡を機に、ルチアは生涯を神にささげる決意をしてそのことを母に話し、自分の財産を貧しい人びとに与えた。以前ルチアとの縁談があり、彼女に好意を寄せていた青年はそのことを知って怒り、彼女がキリスト教徒であることを知事に訴えた。当時は、ローマ皇帝ディオクレチアヌスのキリスト教迫害下にあり、すぐに彼女は捕えられ、信仰を貫き通したために殺された。

 彼女は、多くの人びとから尊敬され、ローマでは早くから彼女の記念祭が行なわれた。彼女の殉教伝は、イギリスの詩人の聖アルドヘルムによって著わされた。

 ルチアという名が光と関係があるために、彼女は目の保護者とされている。また、拷問のときに、眼をくりぬかれたと伝えられていることから、彼女は自分の眼を盆の上に載せている姿で描かれている。


◆貪欲にご用心

2014年12月13日 07時37分07秒 | 聖書

蛭にはふたりの娘がいて、
「くれろ、くれろ。」と言う。
飽くことを知らないものが、三つある。
いや、四つあって、「もう十分だ。」と言わない。
よみと、不妊の胎、
水に飽くことを知らない地と、
「もう十分だ。」と言わない火。(箴言三〇15―16)

これは、ユダヤの数え歌になっています。一つとや二つとやの、あの日本の数え歌のようなもので、「もう十分だ」と言わない、飽くことを知らない貪欲さを語っています。
私が福島県の山の中で農作をしていた時、田にヒルがたくさんいました。田に入ると、たちまちすねに食いついて血を吸います。放っておくと、きりがありません。吸いに吸ってぽろっと自分で落ちるまで、血を吸い続けます。そしてまた、死ぬまで血を吸うのです。まるで、貪欲を絵にかいたようです。
貪欲には、漫画的な愚かさが見られます。もし、私の妻がお金の力にたより、お金を大切にするあまり、財布を拝み、財布にいろいろサービスし、そのお金を毎月財布に入れている夫の私は、全く無視するとしたらどうでしょうか。
トルストイはこんな話をしています。一日中自分の足で歩いた土地にしるしをつけておくなら、その土地を全部ただでやると言われた男が、朝早くから、くわをかついで駆けずりまわりました。日が沈むと同時に出発点にもどり、前代未聞の広大な土地を自分のものにしましたが、その場でばったり倒れて死んでしまったのです。貪欲は、物一点張りになって、いのち・本質・ほんとうの目的は放ったらかしにします。そこで、聖書は貪欲は偶像崇拝だと言うのです。
金や物ばかりではなく、食欲・性欲・名誉欲の分野でも、愚かな貪欲がはびこります。イエス・キリストは、「どんな貪欲にも注意して、よく警戒しなさい」(ルカ一二15)と言われました。神を知る者は、富める時にも貧しい時にも、足ることを知っています。

 


◆塩は制限なし。

2014年12月13日 07時36分19秒 | 聖書

(エズラ七・二二)

主へのすべての全焼のささげ物には塩が用いられた。塩は腐敗を防ぎ、物を清める性質をもつので、たましいに対する神の恵みの象徴と言える。アルタシャスタ王が塩を祭司エズラに与えた時、量を制限しなかった。
これは私たちが深く注意を払うべきことである。そして私たちは、王の王なる方がその祭司たちに恵みを分けられる時にも、その量を制限されないことを確信してよい。私たちはしばしば自分に困窮する。しかし主にあっては、決して困窮することはない。多くのマナを集めようとする者は、望むだけ集め得ることを知るであろう。私たちのエルサレムには、市民がパンの重さを量って食し、水の量を量って飲むような飢きんはない。ある種のものは摂理によって決められている。たとえば酢や苦味などは正確に量を量って与えられ、たとえ一滴でも多くを手にすることはできない。しかし恵みの塩は、少しも出し惜しみされない。「求めなさい。そうすれば与えられます」と言われている。
果物の入っている戸だなや甘いものの入っているつぼには、しっかりと錠をして密閉しておく必要がある。しかし、塩の容器には錠をおろす必要は少しもない。塩をむさぼって食べようとする子どもは、ほとんどいないからである。人は金や名誉をもちすぎることがある。しかし、恵みを多く受けすぎることはない。エシュルンは肥え太ったとき、神を足でけった。しかし、恵みがあふれすぎることを恐れる必要はない。恵みが多すぎるというのはあり得ないことである。富が増すにしたがって心労も増す。しかし恵みは増すにつれて喜びをもたらす。知恵は増すにつれて悲しみを増加させるが、聖霊があふれるならば、喜びも満ちあふれる。
信者よ。多くの天の塩を受けるために御座の前に行け。あなたの患難は、塩がなければ価値がない。天来の塩はその患難に味をつけるであろう。また天来の塩は、もしそれがなければ腐敗するあなたの心を守り、塩が虫を殺すようにあなたの罪をも殺すであろう。あなたは多くの天の塩を必要としている。多く求めよ。そして多くを得よ。

 


第1列王記8章22-26節

2014年12月13日 07時35分07秒 | 聖書

8:22 ソロモンはイスラエルの全集団の前で、主の祭壇の前に立ち、両手を天に差し伸べて、
8:23 言った。「イスラエルの神、主。上は天、下は地にも、あなたのような
神はほかにありません。あなたは、心を尽くして御前に歩むあなたのしもべたちに対し、契約と愛とを守られる方です。」



 神殿の奉献式の中で、ソロモンは主に祈りました。

その祈りの言葉がここに語られています。

彼は祈りの時に、両手を天にさしのべて祈っていますが、当時の祈りがこのようなあり方を持っていたことがわかります。

 さて、この祈りの中で、ソロモンは主が持たれるご性格のことを告げています。

それは、主は「契約と愛とを守られる方です」ということです。

つまり、主を信じ、主に信頼して歩む人々に対しては、主は限りなく恵み深くて、その語り約束してくださったことに対して、いつも真実であるのみではなく、いつも愛を持って見守り導いてくださるお方であることを語っています。

私たちも同じように、この主の真実さと愛によって守られ、導かれているのです。


黙示録7章14-17節 (詩篇105篇)

2014年12月13日 07時32分05秒 | 聖書

★「彼らは、大きな患難から抜け出て来た者たちで、その衣を小羊の血で洗って、白くしたのです。だから彼らは神の御座の前にいて、聖所で昼も夜も、神に仕えているのです。そして、御座に着いておられる方も、彼らの上に幕屋を張られるのです。彼らはもはや、飢えることもなく、渇くこともなく、太陽もどんな炎熱も彼らを打つことはありません。なぜなら、御座の正面におられる小羊が、彼らの牧者となり、いのちの水の泉に導いてくださるからです。また、神は彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださるのです。」

■O:今日のコラム
黙示録7章に記されている天での礼拝の姿は、私達に対する大きな励ましであり、私達が目指すべき重要なゴールの一つです。

ここでは、あらゆる国民、部族、民族、国語のうちから、だれにも数えきれない程の大勢の群衆が、白い衣を着、主の前に立ち、礼拝を捧げている事から世界宣教の完成、世界規模での魂の大収穫が成された事を見る事が出来ます。

さらに彼らは「大きな患難から抜け出て来た者たち」と言われている事から、大患難の前か、ただ中にあって聖徒達が主のもとへと引き挙げられるのを知る事が出来ます。

その条件はただ一つ、衣を子羊イエスの血潮で洗い、白くする事です。つまり、主イエスの十字架に依り頼み、血潮で聖められ、御霊に導かれ、御言葉に従順する中でしみも傷も無い、花嫁としての歩みをする事です。

その歩みの報いとして与えられるものが何と、主ご自身が私達の上に幕屋を張られる。と言う報いです。主は私達と共に住み、親しい関係を持つ事を切に願っておられます。

この終わりの時代に、主が全世界で建て上げておられる祈りの家は、主との親しい関係の回復と、教会が聖さを持って成熟して行く為の働きであり、さらに主との愛の関係にある聖徒達を通して福音が力強く全世界に宣べ伝えられて行くのです。

エノクが日々、主との親しい関係に生きた様に私達も、祈りの家においても、日々の生活の中でも、絶えず主との親密さを求めて歩みましょう。これが終わりの時代の聖徒達にとって重要な霊性であり、その報いは大きいと言う悟りを黙示録7章から受け取りましょう。


■A:考えてみよう
黙示録7章を通読しましょう。


■P:祈り
主よ、日々あなたの聖さを求めます。子羊イエスの血潮により私を、しみも傷も無い者として聖めて下さい。花嫁としての歩みを聖霊様、導いて下さい。

イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。


12月12日(金)のつぶやき

2014年12月13日 02時50分17秒 | キリスト教