座間コミニティー

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◆あなたの羊の様子をよく知り、

2014年12月18日 16時43分45秒 | 聖書

群れに心を留めておけ。(箴言二七・二三)

覧明な商人はみな、時々棚卸しをする。そして、決算をし、在庫品を調べ、商売がうまくいっているかどうかを徹底的に確かめるのである。神の国においても、賢明な人はみな「神よ。私を探り、私の心を知ってください」と叫び、しばしば特別な期間を設けて自己点検をし、神と自分のたましいとの関係が正しいかどうかを見ようとする。私たちが拝する神は、心を探られる偉大な方である。神が「思いと心をためされる主」であることを、昔のしもべは知っていた。
私はあなたを神の御名によって、自らの状態をよく探り、まじめに試みるように奮起させよう。あなたが、約束された安息に入る資格に欠けることがないためである。今夜、あなたに勧める。すべての賢明な人がなし、神ご自身が私たちと共になしておられることをあなた自身がするように。年老いた聖徒にも、その信仰の根本をよく調べさせよう。なぜなら、白髪まじりの頭が黒い心を隠しているかもしれないからである。そして若い信仰告白者が、警告のことばを軽視することがないようにしたい。なぜなら、若い未経験と偽善の腐敗が結びつくこともあり得るからである。
杉の木は、しばしば私たちの真ん中に倒れている。敵はなお、麦の中に毒麦を蒔き続けている。しかし、あなたの心の中に疑いと恐れとを導き入れることは、私の意図するところではない。むしろ、自己点検の強風が、それらを追い払う助けとなることを望んでいる。私たちが殺そうとするものは、真の安心ではなく肉の安心である。くつがえそうとするものは、真の平安ではなく偽りの平安である。
尊いキリストの血――それはあなたを偽善者にするためにではなく、真実なたましいが主に対する賛美を表すために流された――によって、私は、あなたに懇願する。「あなた自身を探れ」と。なぜなら、最期の時になって、「メネ、メネ、テケル……あなたがはかりで量られて、目方の足りないことがわかった」と言われることがないためである。

 


『イエスは・・「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい」

2014年12月18日 16時42分54秒 | 聖書

と言われた…そのとおりにすると、たくさんの魚がはいり、網は破れそうになった』(ルカ5:4)

夜中働き続けて、朝を迎えた。
一匹の獲物もなく、徒労に終わったペテロは心身共に疲れ果てて、ヘトヘトだっただろう。
網を洗い、片づけに入っていたペテロが、もう一度漁をせよと言われた時、どう思ったのだろう。
夜の間中働いたのだ。
もう面倒臭く、しんどい作業だったに違いない。
早く家に帰り、眠りたかったろう。
この道のプロのベテラン漁師である自分がしてダメだったのに、素人のあなたに何がわかると思っただろうか。
「でもお言葉通り」網を下ろした。
様々な思いがあったろうが、主の言葉ゆえ従った。
ここに一つの大きな違いがある。
外側、全く同じ事=漁をするが、今度は主の言葉が動機だ。
自分の思いゆえの行動でなく、主の言葉ゆえだ。
自分から出た事でなく主から出た事だ。
あなたにも同じ事をもう一度せよと、言っておられるだろうか。
以前失敗した、何度やってもダメだった、今度もダメだろう…しかし、その同じ事を、今度は主に従うゆえに、もう一度試みよと。
今度は、主と共に、主に導かれてその同じ事態に当たるのだ。
やっている事は同じだが、動機が違う。
主の働きを、わざを見る。祝福が備えられている。
あなたにも御声をかけられているだろうか。  
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同じ事をしているようでも、祈り導かれてやっているなら、主が先立って下さっていること覚え、ゆるがず立っておれる。
御霊に導かれるよう、まず祈ろう。


今日の聖人の記念日

2014年12月18日 07時30分05秒 | キリスト教

聖ウィニバルド

701年-761年

 ウィニバルドは、イギリスのウェセックスの貴族の家に生まれた。722年に兄ウィリバルドとともにローマや聖地を巡礼したおり、モンテ・カッシーノの修道院に滞在し、そこで修道士となった。兄ウィリバルドは、同修道院再建のためにそこにとどまり、力を尽くした。ウィニバルドはイギリスに戻ったが、ゲルマンで宣教に身をささげていた聖ボニファティウス(ドイツ第1の使徒と呼ばれている)と教皇グレコリウス3世の要請を受け、ゲルマン人への宣教のため738年に派遣された。主にテューリンゲンで活動し、司祭となって7つの教会の司牧にあたった。

 一方、兄ウィリバルドも741年からボニファティウスに協力するためにドイツに派遣され、アイヒシュタットの司教に任命された。その後、兄弟は協力して、751年にヴュルテンベルクのハイデンハイムに男子修道院と女子修道院を設立した。そして、イギリスにいる彼らの妹ウァルブルガを女子修道院の院長として呼んだ。

 ウィニバルドは、ハイデンハイムの修道院長として会員を導き、宣教に生涯をささげた。
 兄弟3人は、ともに神に生涯をささげ、みな聖人とされている。


第1列王記8章44-53節

2014年12月18日 07時27分11秒 | 聖書

8:47 「彼らが捕らわれていった地で、みずから反省して悔い改め、捕らわれていった地で、あなたに願い、『私たちは罪を犯しました。悪を行って、咎ある者となりました』と言って、
8:48 捕らわれていった敵国で、心を尽くし、精神を尽くして、あなたに立ち返り、あなたが彼らの先祖に与えられた彼らの地、あなたが選ばれたこの町、私が御名のために建てたこの宮のほうに向いて、あなたに祈るなら、」



 戦いに敗れて、敵の捕虜となり、苦しみの内に置かれている時、自分たちがこのようになったのは、主の御心を無視してきたからだということをよく理解して、そのことを悔いる時、その時には許しを与えて立ち直らせて下さいと、主に祈っています。

その悔いの姿勢についてソロモンは、「捕らわれていった敵国で、心を尽くし、精神を尽くして、あなたに立ち返り、」とこのように語って、心からの悔い改めを勧めています。

 私たちも、いつも悔い改めが求められます。

しかしその時の悔い改めは、このような、心を尽くし精神を尽くした、全人格的な悔い改めが求められるのです。



◆神の宮に住む

2014年12月18日 07時22分56秒 | 聖書

やもりは手でつかまえることができるが、
王の宮殿にいる。         (箴言三〇28)

世にも小さくて弱い四つのもの、しかし知恵者中の知恵者としてあげられたのは、第一に蟻、第二に岩ダヌキ、第三はイナゴでした。きょうは第四として、「ヤモリ」の番です。
沖縄の北部にある小さな教会で私がお話をした時、教会の壁に何匹か張りついているヤモリを初めて見ました。その後、東京世田谷に住んでいた時、何と、家にもヤモリがいました。家族そろって食事をする部屋のガラス戸に、毎晩決まって一匹か二匹がへばりついて、虫を待っています。こわがっていた娘まで、いつか「かわいいわね」と言い出しました。足の小さい吸盤でぴったり張りついている姿は、いじらしい感じすらします。しかし、私たち家族が、この毎晩の訪問者ヤモリを愛するようになった最大の原因は、きょうの箴言三〇章二八節のことばによります。ヤモリは、手でつかまえて放り投げてしまえるほど小さくて弱い動物ですが、王の宮殿に入りこむことができます。
ダビデは王宮に住んでいる王でしたが、心の底から神の宮に住むことを恋い慕って歌いました。「万軍の主。あなたのお住まいはなんと、慕わしいことでしょう。私のたましいは、主の大庭を恋い慕って絶え入るばかりです」(詩篇八四1―2)。フランスのブラザー・ローレンスは、コックさんでしたが、信仰によっていつも神の臨在の中に住み、生きました。彼の記した手紙や日記は、今でも、多くの人に読まれて励ましになっています。
罪人のかしらが、罪ゆるされるばかりか神の子とされ、神と共に王宮に住み、「アバ、父よ」と神を呼び、そのひざにのぼる道があるのです。
「この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった」(ヨハネ一12)。

 


◆着物ではなく、

2014年12月18日 07時21分46秒 | 聖書

あなたがたの心を引き裂け。(ヨエル二・一三)

着物を裂くとか、その他の外面的な行為によって宗教的感情を表現するのは、容易になし得ることであり、しばしば偽善的なものである。しかし、真の悔い改めははるかに困難であり、はるかにまれなものである。
人は非常に煩雑な儀式に心をひかれる。それは肉を喜ばせるからである。しかし真の宗教は肉の人にとってはあまりに地味であり、またあまりに内省的であり、徹底的である。彼らはそれよりもずっと華美で、浅薄な世的なものを好む。外面的儀式は一時的には快い。目と耳は喜び、うぬぼれは強くなり、独善の心が起こる。しかしそれらは結局ごまかしである。死の瞬間、あるいはさばきの日に、たましいは儀式よりもはるかにまさる何ものかに頼る必要があるからである。生きた信仰がなければ、すべての信仰は全く無益である。誠実な心がないままでささげられた礼拝のすべては偽物であり、王の栄光をあざ笑うものである。
心を引き裂くことは神によって与えられ、厳粛に実感させられるものである。それは個人的に経験されるひそかな悲しみである。単なる形式としてではなく、個々の信者のたましいを揺り動かす聖霊の働きとして経験される。それは単に話したり信じたりすることではなく、生ける神の一人一人の子どもが、鋭く敏感に感じなければならないものである。またきわめて屈辱的なものであり、高慢な、へりくだることを知らないたましいは受けることができないものである。そして全く罪をきよめるものであり、祝福に満ちた慰めの準備となる。またこれには明らかな区別があり、神に選ばれた人々のみがあずかることのできるものである。
今朝の聖句は、私たちの心を引き裂くことを命ずる。しかし私たちの心は、生来のままでは大理石のように堅い。それをカルバリに携えて行かなければならない。まさに死のうとしておられる救い主の御声は、かつて岩を裂いた。その力は今も変わらない。
おお、御霊なる神様。私たちに救い主の死の叫びを聞かせてください。そうすれば、人々が悲しみの日に着物を裂いたように、私たちの心も裂かれます。

 


ヨハネの黙示録 10章8節 (詩篇110,111篇)

2014年12月18日 07時20分05秒 | 聖書

★それから、前にも私が天から聞いた声が、また私に話しかけて言った。「さあ行って、海と地との上に立っている御使いの手にある、開かれた巻き物を受け取りなさい。」

■O:今日のコラム
この「開かれた巻物」って、いろんな解釈があると思うのですが、私は、個人的にこれは、私達にとって「聖書」であると感じています。

聖書は、神様が私達に与えてくださっている、唯一、主のみこころが書かれた書物であり、また、隠されているのではなく、オープンに開かれている書物です。

確かに聖書には、たくさんの奥義が隠されています。しかし、それは開かれているのです。もし、私達が行って、その巻物を取りに行こうとするのであればです。

ここで巻物を持っているのが御使いだと書かれているので、イエス様かどうかははっきりしていません。しかし、例えとして、この御使いをイエス様として見ましょう。

イエス様は、開かれた巻物、聖書を手にしています。私達に隠されている奥義は、彼の手の中ではすでに開かれており、彼はそれを持っています。もし、私達がその奥義を得たいと思うならば、ヨハネのように行って、彼に近づき、彼からそれを受け取らなければなりません。イエス様を通して、私達は開かれている奥義を受け取ることができます。

また、受け取るだけではなく、イエス様は言われます。「それを取って食べなさい。」と。


■A:考えてみよう
今日、もっと聖書のみことばを知りたいですか?啓示を受け取りたいですか?イエス様のとこには、すべてが開かれています。彼に近づき、彼から受け取りましょう。そして、受け取ったみことばを、しっかりと食べて自分のものにしていきましょう。


■P:祈り


イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。


12月17日(水)のつぶやき

2014年12月18日 01時48分30秒 | キリスト教