舞台を地方の農村みたいな所に設定しなければならないだろう。現に、ハンセン氏病関係を扱った松本清張の「砂の器」は、元患者の父親を殺した犯人をそのような所の出身に設定しているし。
日本に限って言っても、ハンセン氏病差別は最も歴史が古い差別である。例の網野善彦著・日本社会の歴史(岩波新書)では、書いてある筋から、日本の最も古い差別は蝦夷=アイヌ差別だと読み取れるが、実際はそれ以前からあり、ハンセン氏病を持つ人たちは共同体から嫌われ、追い出されてきた経緯があったわけである。いつからなのかは、日本でははっきりしていない。歴史以前と言おうか。そして、古代や封建時代になっても変わりがなかった。他の多くの被差別者の下に置かれたと、人から聞いた事がある。共同体や人々の絆がきっちり受け継がれていった地方の農村部では、ハンセン氏病差別も固定化されたわけである。共同体などが崩れがちだった都市部では、固定化は見られなかった。それは明治以降、更には戦後もそうだったかもしれない。1977年、僕も入っていた福祉会で、多摩全生園に行った時も、地方出身のボランティアの人達には、「自分たちは差別者」という罪意識を持つ者もいたわけだし。でも、東京で育った僕はそのような意識は持てず、上べを見て「S園の方が状況がひどい」と思い、そのままS園にのめり込んでいったわけである。元患者側も出身地で人生経験や意識が違うかもしれない。例の伊藤まつさんは、余り差別とか嫌われた事は話さなかったが、出身地が東京に近い八王子だから、ハンセン氏病を単なる病気としか認識できなかったと今の僕は気が付いている。だから、僕とも付き合えた面もあった。当時の自治会の人達の話が僕には判らなかったが、自治会の人達はほぼ全員が地方の農村出身者だったから、ハンセン氏病特有の差別の話をしたが、その伝統のない所で育ったため、判らなかったと今は気が付いている。
それゆえ、もし、小説にするのならば、地方の農村を舞台にしなければ、ハンセン氏病差別の独特の姿は出ないだろう。また、書く人も、地方出身者に限られるのではないか。都会で育った人は描く事は不可能だと今の僕は見ている。
因みに、遠藤周作著「私が棄てた女」という小説がある。主人公の男性が遊び感覚で、ミツという名の女性と付き合い、飽きて捨てたが、そのミツが皮膚病になり、ハンセン氏病を疑われ、その御殿場にある療養所で診察を受ける。入園を覚悟したミツに、修道女が「病は運命だから仕方ないが、療養所内には、患者同士が支え合って生きる愛の世界があり、見方を変えれば、至福の状態です」と諭す。後、検査の結果、ハンセン氏病ではない事が判るが、見た患者さんの姿と修道女の言葉が忘れられず、その療養所の職員となっていく。ミツの消息を遠くで聞き、棄てた男は考え込む...という筋である。ミツのモデルは、ハンセン氏病関係の医師になった神谷恵美子だと言われている。
大作家の作品を批判する資格は僕にはないが、以上の修道女の「支え合って生きる愛の世界」とは違う事を、伊藤まつさん含む、何人もの元患者から聞いているし、元患者の「至福」の状態は、修道女と言えども、ハンセン氏病を持たない人たちに断定できるのか?という問題もある。そして、その作品は何よりも、ハンセン氏病差別特有の嫌らしさが描かれていない。調べてみると、遠藤周作は東京都出身で、東京で育ったわけだから、いくら勉強していたとは言え、古代から伝えられたハンセン氏病差別の感覚は知らなかったと思われる。だから、修道女発言も書いたと。感覚を知っていたら、全く別な筋の展開になり、修道女発言も違ったものになったと僕は見るようになっています。
大作家にして、以上の通りだから、その足元にも及ばない僕は書いてはいけない問題だと思います。でも、都会が舞台のS園ならば書ける。それで僕は良いと思います。
日本に限って言っても、ハンセン氏病差別は最も歴史が古い差別である。例の網野善彦著・日本社会の歴史(岩波新書)では、書いてある筋から、日本の最も古い差別は蝦夷=アイヌ差別だと読み取れるが、実際はそれ以前からあり、ハンセン氏病を持つ人たちは共同体から嫌われ、追い出されてきた経緯があったわけである。いつからなのかは、日本でははっきりしていない。歴史以前と言おうか。そして、古代や封建時代になっても変わりがなかった。他の多くの被差別者の下に置かれたと、人から聞いた事がある。共同体や人々の絆がきっちり受け継がれていった地方の農村部では、ハンセン氏病差別も固定化されたわけである。共同体などが崩れがちだった都市部では、固定化は見られなかった。それは明治以降、更には戦後もそうだったかもしれない。1977年、僕も入っていた福祉会で、多摩全生園に行った時も、地方出身のボランティアの人達には、「自分たちは差別者」という罪意識を持つ者もいたわけだし。でも、東京で育った僕はそのような意識は持てず、上べを見て「S園の方が状況がひどい」と思い、そのままS園にのめり込んでいったわけである。元患者側も出身地で人生経験や意識が違うかもしれない。例の伊藤まつさんは、余り差別とか嫌われた事は話さなかったが、出身地が東京に近い八王子だから、ハンセン氏病を単なる病気としか認識できなかったと今の僕は気が付いている。だから、僕とも付き合えた面もあった。当時の自治会の人達の話が僕には判らなかったが、自治会の人達はほぼ全員が地方の農村出身者だったから、ハンセン氏病特有の差別の話をしたが、その伝統のない所で育ったため、判らなかったと今は気が付いている。
それゆえ、もし、小説にするのならば、地方の農村を舞台にしなければ、ハンセン氏病差別の独特の姿は出ないだろう。また、書く人も、地方出身者に限られるのではないか。都会で育った人は描く事は不可能だと今の僕は見ている。
因みに、遠藤周作著「私が棄てた女」という小説がある。主人公の男性が遊び感覚で、ミツという名の女性と付き合い、飽きて捨てたが、そのミツが皮膚病になり、ハンセン氏病を疑われ、その御殿場にある療養所で診察を受ける。入園を覚悟したミツに、修道女が「病は運命だから仕方ないが、療養所内には、患者同士が支え合って生きる愛の世界があり、見方を変えれば、至福の状態です」と諭す。後、検査の結果、ハンセン氏病ではない事が判るが、見た患者さんの姿と修道女の言葉が忘れられず、その療養所の職員となっていく。ミツの消息を遠くで聞き、棄てた男は考え込む...という筋である。ミツのモデルは、ハンセン氏病関係の医師になった神谷恵美子だと言われている。
大作家の作品を批判する資格は僕にはないが、以上の修道女の「支え合って生きる愛の世界」とは違う事を、伊藤まつさん含む、何人もの元患者から聞いているし、元患者の「至福」の状態は、修道女と言えども、ハンセン氏病を持たない人たちに断定できるのか?という問題もある。そして、その作品は何よりも、ハンセン氏病差別特有の嫌らしさが描かれていない。調べてみると、遠藤周作は東京都出身で、東京で育ったわけだから、いくら勉強していたとは言え、古代から伝えられたハンセン氏病差別の感覚は知らなかったと思われる。だから、修道女発言も書いたと。感覚を知っていたら、全く別な筋の展開になり、修道女発言も違ったものになったと僕は見るようになっています。
大作家にして、以上の通りだから、その足元にも及ばない僕は書いてはいけない問題だと思います。でも、都会が舞台のS園ならば書ける。それで僕は良いと思います。