トシコロのありのままの暮らし


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心つなぐものがあれば

2019-05-06 11:43:53 | 日記
  1977年7月、東村山市の多摩全生園。当時の僕も会員だった福祉会での交流合宿。元患者自治会の人達が合宿場に来て、何かを必死に訴えている。でも、福祉会の人達はそれを聞こうとしても、よく判らない。僕含め、数人は(「シマハタ」の名で実録小説に書いている)「S園の方がひどい」と思い、福祉会員には勿論、元患者たちにもS園の事を話す始末。何のために行ったのか?も判らない有様。明らかに元患者たちの事は聞えないわけだ。交流は失敗し、挫折感を持った会員もいた。判らなかった理由を僕はつい先日まで、「医学知識の不足」とばかり思っていた...。


  その6年前、高校生だった僕。学年で一番頭の良い生徒が諸々の学生運動や障碍者運動を見て、「自己主張は自己満足に過ぎない。ムダだ。私はニーチェに同感するようになった」と言い出した。当時の僕はニーチェの事は判らなかったが、後年知るに「つなぐものは何もない」と。そこから当時の彼の言も判ってきた気がする...。

  1980年代。僕は縁があり、ある教会関係に行っていた。ところが、世代の別なく、皆「何が人を結ぶのか、判らない」と悩んでいた。牧師や神学生にもそのような人が多かった。表向きは「神」が人をつなぐことにキリスト教ではなっているのに。「セックスしか結ぶものはない」と公然と言っていた人もいた。それはおかしいわけだが、その発言に誰も反論できない状態。牧師の一人が在日韓国人を侮辱する事件が起きたようで、内紛にもなっていった。その事件については僕は詳しくはよく知らないので述べられないが、本当に神がつなぎ役になっていれば、人種の違いも越えられるだろうから、本来はあり得ない事件である。それが起きてしまった。本当に「神」は表向きになっていたと。

   以上は、日本から遠いアイルランドの神父たちの児童たちへの性虐待にも言えると。両者がしっかり心つながっていれば、いくら性欲が強くても、相手の気持が通じて、相手の嫌がる・恐がる事をする事は、あり得ないのに。そのような事をした神父たちの言う所の「神」は表向きのものなのかと、僕は思ってしまうのだ。

   以上挙げた事の全てに「心つなぐもの」があり、本当につないでいたら、大きく展開も変わったと。例えば、冒頭の福祉会の人たちのほぼ全員も元患者たちの訴えが判ったと思う。元患者たちも、ただ訴えれば他人は判ってくると思っていたようだ。心つなぐものは、クリスチャンの元患者でも考えてもいなかった。それでは、交流は失敗したわけだ。当時の社会状況ゆえに仕方なかったかもしれないが、訴える側も「心つなぐもの」を頭に入れないといけないわけだ。

   キリスト教の例も2つ挙げた。「神がイエス・キリストを介して、人をつなぐ」とキリスト教ではなっているのに、どうしてこんな事が起こり、傷付く人たちも出るのか。しかも、子供たちも。近代以降の物質主義に偏った文明・科学の世界観が知らず知らずの内に、キリスト教関係にも入り込み、恐ろしい結果になったのだろうか。非常に難しい問題なので、僕には解説はできないが、今までとは違った心・意識・命を重視する世界観が生まれて欲しいと願わずにはいられないわけです。