トシコロのありのままの暮らし


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実際は自分から他人を遠ざけている・自分の心の歩み

2019-05-09 11:37:00 | 日記
  先のブログで少しだけ述べた、NHKニュースに出た婚活がうまくいかない例です。彼は出会う女性たちにただ「私のお嫁さんになって下さい」とだけ訴えた。端から拒否されたため、「自分の人格が否定された感じで(拒否される度に)傷付いている」と述べていたのが印象的でした。


  でも、よく考えてみると、まず、自分の事をどれだけ他人に伝えているのか。これまでの生きた道筋とか、してきた事が必ずあるわけだし、好きな事や得意な事もあるはずなので、それらを相手に伝えなければなりません。それから、心を相手につなぐこともしないと、結婚どころか、恋人にも、友人や知り合いにもなれません。「つなぐこと」ができれば、自分の人生や人格、心は自然と相手に通じるものです。以上の例は、相手に人格が伝わっていないため、「人格を否定」という言葉もおかしい事になってきます。以上は男性➔女性の例ですが、女性➔男性の例でも変わりがありません。

  自分で自分の御縁を遠ざけているように、僕には見えます。しかも、それに気が付かない。「訴えれば判ってくれる」とでも思っているのでしょうか。変ですね。

   ただ訴えるだけならば、自分の葛藤を新たに作るだけでしょう。

  以上の例は、昔の僕は障碍者運動やボランティア関係で沢山見てきました。先輩が後輩にそのように指導もした。若い時の僕も、「訴えれば世間は判ってくれる」と思っていたわけです。でも、そうではなかった。非常に早くに以上の事に僕も気が付いた。入っていた福祉会で、世間に訴えて社会を変えて、ボランティアも増やす運動していたから。学生会でもあったから、学園祭の場を借りて。僕も、会の仲間も世間に訴えましたが、相手にされなかった。せいぜい「ご苦労さま」と言われるしか、反応はなかった。僕も、ボランティアの人達も「訴える事はムダ」と悟るようになった。1977、8年でしたが。でも、「では、どうすれば良いか」が判らず、僕は落ち込んだし、同様の学生ボランティアの方もいた。その答えを求めて、数年後にキリスト教関係に行きましたが、そこでも同じだった。又、その教派は、当時はカトリックやルター派、仏教の何とか派などま人たちも呼んでの交流会やキャンプもしていましたが、他の教派や仏教の人達も同じ事を述べていました。77年のリプレイを僕は見たようなものです。「神がつなぎになっていない現実」の悩みの手紙を一牧師から、秘密的に頂いた事もありました。その教派からは早くに離れましたが、僕は納得せず、又、90年代になり、どういうわけか、心の問題に関心を持ったため、「神との対話(ニール・D・ウォルッシュ著・サンマーク出版)」などのスビチュアル系の本を読みまくり、一方では、放送大学で経済や法律など、それまでは苦手だったものも学びました。でも、まだ納得がいかなかった。ようやく、2000代後半、日本でも特に船井幸雄氏から量子科学の事が紹介されるようになり、心のつなぎの事も判ってきて、これが僕も、多くの旧友たちも求めてきたものだと気が付いたわけです。それゆえ、冒頭で述べた例も、何がおかしいのか、見えるようにもなっています。

  恋愛や結婚も、福祉関係も、同根だし、恐らくは国際関係も同じだと思うわけです。確かに、日韓にしろ、アラブ・イスラエルにしろ、今のアメリカとイランにしろ、心つなぐものが今は乏しいから、対立が続いています。歴史的葛藤。それに経済利害も絡み、更に複雑化している。今までのままの心軽視の文明が続けば、国際問題の全ては解決できないでしょう。戦争は起きなくても、対立のまま不愉快な世界が続くわけです。良くないでしょう。文明は今は転換期にあると思いたいです。