とりがら時事放談『コラム新喜劇』

政治、経済、映画、寄席、旅に風俗、なんでもありの個人的オピニオン・サイト

加藤隼戦闘隊の最後

2006年07月15日 19時32分29秒 | 書評
今年、4月1日から10日間ミャンマーを旅行した。
三度目になるミャンマー旅行の目的地には、一般の旅行者がめったに訪れないバングラディッシュとの国境に近い遺跡の街、ミャウーを選んだ。

ミャウーへは飛行機やバスで直接行くことはもちろんできない。
まずヤンゴンから民間航空のエアーマンダレーのプロペラ機でヤカイン州の州都シットウェー市へ移動するのだ。
飛行時間は約1時間30分。
座席足下の壁面が「ボコッ」と凹んでいる以外は、恐怖感のない快適な飛行だった。

でミャウーはそのシットウェー市から直線距離で70km。
日本人の感覚からすると自動車で一時間といったところだが、その考えは甘い。
満足な道路がないのでシットウェー市からはボートをチャーターして川を6時間以上も遡らなければならなかったのだ。。

ところでシットウェー空港は短い滑走路と小さな平屋のターミナルビルのある田舎の飛行場だった。
あまりにちっぽけな「JRローカル線の無人駅」に似た飛行場なので、街もちっぽけかと思っていたらそうではなく、病院や大学、パゴダなのどの寺院が数多く点在する大きな街だった。

船着き場へ向かう途中、大通りに面した万屋でボートで食べる食料やドリンク類を調達した。
大通りは自転車のサイドカーやバイク、自動車が頻繁に往来し実に賑やかなところだった。

このシットウェー市のランドマークは19世紀の終り頃に建てられた時計塔。
英国植民地時代の面影が残る街の風景にぴったりの目印だった。

美しい時計台のシルエットを眺めながら私はTさんに質問をした。

「この辺りはヤンゴンからも遠いですから、さすがに日本軍は来なかったのでしょう?」
と。

彼女は地元タクシー運転手にちょっぴり歴史を訊いてくれた。
すると、「ここでも日本軍とイギリス軍が戦争をしたんですって」と教えてくれた。
「へー、こんなところまで来ていたんだ」
と感心し、我が日本軍の行動範囲に驚いていたのだった。
が、この驚きは私の勉強不足。無知の為せる技だったのだ。

♪エンジンの音、轟々と、隼はゆく、雲のはて♪

日本人なら誰でも知っている加藤隼戦闘隊。(10~20代は知らんかもわからんが)
その有名な帝国陸軍の加藤隼戦闘隊を率いる空の軍神「加藤隊長」が戦死したのが、まさにここシットウェー市なのであった。

シットウェー空港は英国軍の基地であったものを我が陸軍航空隊が激戦のうえ占領。
1944年、インパール作戦の失敗まで我が日本の基地となっていたところだった。
ちなみにミャンマーの玄関口。ヤンゴン国際空港ももともとはミンガラドン航空基地という日本軍の基地なのであった。

で、なぜこんな重要なことに気づかなかったかというとシットウェー市は昔アキャブという名前だったのだ。

宮辺英夫著「加藤隼戦闘隊の最後」は加藤隊長の戦死後、第64陸軍航空隊に赴任した著者によって書かれた隼戦闘隊の活躍から解散までの軌跡を綴った回想録だ。

ミャンマーから帰ってきてシットウェーがアキャブであることを知った間抜けな私は、歌だけ知っている隼戦闘隊のことをもっと詳しく知ろうとして関連書籍を調べてみた。
で、一番手軽な検索方法であるアマゾンドットコムに頼って見つけたのが本書なのだ。

加藤隼戦闘隊がミャンマーを中心に東南アジア各所を転戦した実像は、私たち戦後生まれのものにはほとんど知らされていない。
本書に登場する街の名前は、現在の我々が観光で訪れたり、あるいは通過したりするミャンマーの町々であり、それら地名を通じて先の大戦で国のため(家族や友人のため)に散華していった先人たちの息吹を活き活きと感じさせてくれるのだ。
乾期の紺碧の空を駆け巡る隼と、雨期の水墨画のような風景のなか厳しい訓練に励む隊員たちの姿が思い浮かび、ミャンマーに対する私のイメージにまた一つ新たらしい形が加わることになった。

本書の原稿は著者の死後、家族によって発見されたものを戦友の一人が出版化させたものだ。
負けた戦争。
しかも多くの戦友や部下を失った失意の回想録を世に出すことは著者は最後まで躊躇っていたのだ。
しかし、今の戦後日本人がもっとも必要とするのは、こういう生きた証言であって、思想的欠陥のある人たちや外国政府によってねじ曲げられた歴史ではない。
そして、その生きた証言を得ることのできるタイムリミットは刻一刻と迫りつつあるのだ。

本書は意外なきっかけで触れる機会が与えられた、私にとって極めて優れた一冊だった。

~「加藤隼戦闘隊の最後」宮辺英夫著 光人社ノンフィクション文庫刊~