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とりがら時事放談『コラム新喜劇』

政治、経済、映画、寄席、旅に風俗、なんでもありの個人的オピニオン・サイト

もっと美味しくビールが飲みたい!

2008年08月04日 06時30分31秒 | 書評
「もっと美味しくビールが飲みたい!」

ちょっと細かく指摘すると「もっと美味しくビール(を)飲みたい!」が正解のような気がするのだが、この際無視したいと思う。

サッポロビールの社員さんが執筆した「もっと美味しくビールが飲みたい!」は軽いエッセイながらビールの蘊蓄がつまった私のようなビール大好き人間にはかなり楽しめるものであった。
出荷額でついにサントリーに抜かれたとは言えサッポロビールはサントリーよりも遥かに美味しいビールを造る会社で、こういう社員さんがいるからこそなのだとも感じたのであった。
また同時に、こういう社員さんがいるからこそスチールパートナーズなどという分けの分からんハゲタカに集られるのかとも思った。

私の好きなビールは順にあげると次のようになる。

1位:オリオン・ピルスナービール
2位:サッポロ黒ラベル
3位:アサヒスーパードライ
4位:オリオンビール
5位:キリン一番搾り
6位:シンハービール

以上は夏の場合で冬になると鍋料理にぴったりのエビスビールが2位くらいになる。

オリオンのピルスナービールは今は販売されていないのでサッポロ黒ラベルが私のもっともお気に入りのビールということになる。
だからとってサッポロの社員さんが書いた本が面白いのかどうかは関係なく、大手ビール会社と地ビールの醸造方法の違いやビールの歴史、ヱビスビールが実は欧州で金賞を受賞したのが100年も前だったことなどが書かれており、ビールのジョッキをあげるごとに、そんなあれやこれやを思い出せそうで楽しい。

でも、本書で一番共感できたのはビールは話をしながら陽気に飲むものであるということ。
今週は大阪ドームへ阪神戦を見に行くのだが、野球を観ながらワイワイ言って飲むビールもまた格別。

楽しい一冊だった。

~「もっとビールが美味しく飲みたい!酒と酒場の耳学問」端田晶著 講談社文庫~

イスラム繁栄の弧のゆくえ

2008年07月28日 21時30分12秒 | 書評
キリスト教、仏教、イスラム教。
中学生の時、これらを世界三大宗教と習ったが、このうちイスラム教だけがわけわからなかった。
なぜなら、身近にイスラム教徒の友達がいなかったからだった。

キリスト教の友達は何人かいた。
小学校4年生の時の友達のS君は家の近所のカトリック教会に通うキリスト教の信者さんだった。
小学校3年生の時からの友達のN君は家は仏さんだったが、大学浪人のときにモルモン教に入信し、驚いたとにK大入学後九州地方にミッションに出かけた。
中学校の時の友達I君のお父さんの実家はお寺で、お爺さんは住職だった。

で、私の家は高野山真言宗。

でもイスラム教徒の親類縁者や友人だけは一人もいなかった。
したがってイスラムの風習はちっともしらなかったし、唯一のイスラム情報入手先が映画や雑誌、カール・マイの冒険小説あたりであったために、ほとんど空想の世界で終始した。

そのイスラム教の「生」に接したのは15年ほど前に初めてシンガポールへ行った時だった。
たまたま金曜日の礼拝と重なって、住宅地の中にあるモスクから大音響で流される祈りの声に度肝を抜かれた。
初めて感じる異国情緒。
イスラム教の礼拝風景は私に旅情を感じさせ、やがて訪れるテロの時代に持ってしまったゆがんだイスラムのイメージとはほど遠い平和な印象を受けたのであった。

そのイスラムが今、熱い。
イスラム教の国家は赤道付近にあることが多く、本当に暑いのだが、経済的にもすごく熱くなってきている。

「もう、ドバイの空港を降りて車で街の中心まで走っていると日本製の建機だらけですよ。中古よりも新品。もう日本でビジネスやってられませんわ」
と言ったのは、数年前に得意先の懇親会で出会った某建機商社の常務さん。

オイルマネーを資本にイスラム文化圏の発言力が急激に増している。
ところが私も含め多くの日本人はイスラムについてはとんと知らないことが多い。
そんな人にぴったりの入門書が、
「イスラム 繁栄の弧のゆくえ」
だ。

日本経済新聞に連載されていた記事をまとめたもので、簡単で読みやすい。
とりわけイスラム金融についての記述が多く、興味をそそられるところだ。
考えてみれば、日本の金融制度は明治維新の開国時もたまたま西欧とほとんど同じシステムで違和感はなかった。
ところがイスラムとなれば話は異なり、特に宗教の絡む経済なんてのはこれまでなかった考え方だ。

これをきっかけにイスラム文化について、それも実用的なものについてもっと知りたいと思ったのであった。

~「イスラム 繁栄の弧のゆくえ」日本経済新聞社編 日経ビジネス人文庫~


夜の橋

2008年07月27日 22時11分08秒 | 書評
暗いニュースばかりが報道され、
「この国はいったいどうなってしまうんだろう」
と不安を感じてしまったら、藤沢周平の小説を読むといい。

藤沢周平の時代小説には日本人のアイデンティティがたっぷりと詰まっていて、読みやすい詩的な文章と相まって、心の琴線に触れるものが少なくない。
短編集「夜の橋」にはそういった人情の機微を巧みに表現した名篇が詰まっている。

この短編集は数多くの藤沢作品の中でも私が最もお気に入りとするところのひとつである。
市井物あり。
武家物あり。
辛く厳しい内容のものもあるが、多くは爽快な気分にさせる物語が収録されている。
これらの作品を繰り返し読むごとに、新しい発見をし、そしてまた新しい人の心を感ずることができるのだ。

作品を読む時の自分の年齢で、作品を読んで受け取る感覚が異なるのが、これまた藤沢作品の楽しみにのひとつだ。
主人公が隠居の年齢である時。
また主人公が若侍である時。
そしてまた主人公が乏しく孤独な存在である場合。
など。
心理描写の奥深い作品だけに、読む時に感じる自分の心の動きさえ楽しく感じることの出来る作品が多い。

とりわけお気に入りなのが「泣くな、けい」という作品だ。
どのような筋書きなのかは実際に読んでいただきたいところだが、話の語り方、盛り上げ方、そして武士の世界の責任のとりかたの美しさ、男女のありかたに、きっと心を打たれることになるだろう。

藤沢作品は殆ど読了してしまったが、繰り返し再読することも、また楽しい。
そんな気分にさせる作品集だった。

~「夜の橋」藤沢周平著 中公文庫~

マクマナラ回顧録

2008年07月19日 06時43分55秒 | 書評
「あの戦争は間違いであった」

人は自分の失敗をなかなか認めないもの。
とりわけ責任の大きかったものほど認めたがらない。
そういう意味ではロバート・マクマナラ元米国国防長官は勇気のある人だ。
自分を欠陥のある指導者だったと認めたことは、その指揮のもとで命を張って働いた人びとには言い知れぬ怒りがあるに違いない。

マクマナラはベトナム戦争を指揮した一人なのだ。

数十万人に上る戦死者。
帰還後もなお後遺症を抱えた元兵士達。
莫大な戦費を費やした財政的ツケ。
社会の混乱。
自信の喪失。
などなど。

アメリカ合衆国内はもちろんのこと、世界中に大きな影響を及ぼした戦争。
それが「ベトナム戦争」だった。

それだけ負の遺産を抱えた戦争を「間違いであった」と述べたマクマナラの心境はどういうものだったのか。
これをアメリカの良心と呼ぶべきなのか、はたまたアメリカ人やベトナム人はこの悔恨をどのようにとらえているのだろうか。
興味あるところだ。
近年、ベトナムはマクマナラをハノイに招待することによってその回答を出している。

それにしてもアメリカの無知には驚くものがある。

二千年にもわたりベトナムが中国を毛嫌いしていることも知らなければ、
彼らがイデオロギーのために闘っているのではなく、完全な国家独立のために闘ってることも知らなかったのだ。
少なくとも指導者だったマクマナラも、そのボスであるジョンソン大統領も知らなかった。

相手の文化や宗教、国民性などに対して一切の配慮を示さない。
理解もできない。
理解しようともしない。
シビリアンコントロールの効いている筈の軍隊にしてもクビに鎖を付けるのが難しい。

話は違うけれども、ベトナム戦争が始まったころ映画「ティファニーで朝食を」が公開された。
あの映画の中に白人のミッキー・ルーニー演じる日本人が登場する。
チビで出っ歯で眼鏡をかけている。
こういう不愉快なステレオタイプ的日本人しか描けなかったのがアメリカだ。

4年近くの歳月を全力で戦い抜いた相手の姿も正しく見ることが出来ないアメリカ人だからこそ、ベトナム戦争の泥沼化もあり得たのではないか。
マクマナラの回顧録を読了して、思わずそういう感想が浮かんできてしまったのだった。

~「マクマナラ回顧録 ベトナム戦争の悲劇と教訓」ロバート・S・マクマナラ著 仲晃訳 共同通信社刊~


人生 気のせい、人のせい

2008年07月15日 06時24分40秒 | 書評
哲学者と精神科医。
この2つの職業の組み合わせは常軌を逸しているというか、アホらしいというか。

週刊文春のコラム「棚からエッセイ」の著者であるツチヤ教授と、私はまったく知らない人だったが代々木駅前で精神クリニックを営んでいる杏林大学名誉教授の三浦精神科医の対談で、正直言って最近の若手の漫才よりも面白かった。

お互いのケナシ合で展開される人生論はなかなかだ。
とりわけ人は自分の子供に欠点を見せることが必要だとか、いい加減さも必要だということについては笑いながらも大きく同意。
完璧を目指すがための潔癖症は現代日本人の大いなる欠点と私自身も感じていたので救われる思いがした。

ちょっと話は逸れるが、昨日、うちの会社(大阪難波)の近所にあるホテルで硫化水素による自殺騒ぎがあった。
大阪府警やら大阪市消防局のパトカー、消防車、救急車が10台以上も出動。
周辺は黄色いテープでシャットアウトされ、ホテルに隣接したソニーのサービスセンターやヤマハ音楽教室の入っているビルは集団で避難。
テレビが取材に着ているわ、大変な騒ぎになった。
硫化水素の自殺さわぎになんで消防車が必要なのか不明だが、ともかく「自殺」という日本人にとっては交通事故死よりも多い死因がこれほど身近なものであるとは、私もついぞ思わなかったのであった。

こういう「死んでやろう」などという近所迷惑な人に是非読んでもらいたいのが本書。
人はあるていどいい加減になったほうが幸せなんだと思えるところが本書の魅力だ。

笑い楽しみながら哲学的なお話の出来るそんな一冊。
対談集で短いから3時間もあれば読み切ってしまえるところも、面倒くさくなくてかなり良い。

~「人生 気のせい、人のせい ツチヤ教授、代々木駅前の精神科医と語る」土屋賢二、三浦勇夫著 PHP刊

阪神タイガースの正体

2008年07月02日 06時44分07秒 | 書評
我が阪神タイガースが絶好調だ。
昨夜も中日ドラゴンズを逆転で制圧。
今や阪神主催のゲームの観客動員数は読売ジャイアンツ越え球界トップ。
「阪神との試合は客が入るからええな」
と感想を言ったのは楽天の野村監督。
確かに阪神タイガースの行くところどの球場も満員。
しかも甲子園状態。
どっちがビビジターなのかわからないくらいだ。

「阪神タイガースは関西人だけのものではない。もはや全日本国民の情熱の固まりだ」
と書いていたのは2003年末の月刊「諸君!」の紳士淑女のコラムだった。

ところが、この阪神タイガースはつい最近までボロボロのメチャ弱チームであったことを最近は虎ファンでさえも忘れている人がいる。
幼稚園児なら阪神は強いチームとしか思えないかも知れないが、何十年もファンのやっているオッサン、オバハン、オニイサン、オネエサンにとって現在の阪神が強いことは、「あの弱い阪神が.....(感涙)」という前提があることを忘れてはならない。

例えば昨日の試合のように先制されればそのままゲームセットということも珍しくなく、よしんば5点ぐらいリードしていても抑えられるピッチャーもおらず逆転負けを喫することも少なくなかった。
普通のプロチームであれば、こんなに弱いとファンも離れるのだが、そこはタイガース。
弱くても甲子園に観客が押し寄せ、
「また負けよったか」
とため息をつきつつ、それでも応援を続ける(一時期あまりのふがいなさに応援が自粛されたこともあったが)ファンがいるというのが他の球団にない特長だった。(と言う具合に過去形で書ける時代が来るとは思えなかった)

そこまでファンを魅了させたタイガースの魅力はなんなのか。

井上章一著「阪神タイガースの正体」はプロ野球の歴史とともに、阪神タイガースが他の球団のまったく異なったファンの獲得を成し遂げていったことを記している。
現在ではあたりまえのメディアを利用した人気の上昇。
阪神タイガースはメディア(地元関西の)とファンが無意識に連携して超人気球団に成長した日本初のケースだったのだ。

阪神に特化した地元のスポーツ新聞。
ラジオ・テレビでの平等を無視した阪神偏重主義の試合中継。
「おはようパーソナリティ」など人気番組による静かな後押し、などなど。

そういえば千葉ロッテの広報は阪神タイガースのファン対応を最大のお手本にしているということをNHKのルポで見たことがある。
現在はともすればパ・リーグの球団の方が強くて人気があったりするが、千葉ロッテも、北海道日ハムも福岡ホークスもどれもみんな地元密着型。
この元祖が阪神タイガースなのもわからない。

ともかくタイガースだけではなく読売新聞と毎日新聞の対立から2リーグに分かれたことや、なぜ電鉄会社が球団を所有していたのかといった野球文化について真面目に書かれていたのが、とても勉強になった。

~「阪神タイガースの正体」井上章一著 ちくま文庫刊~

脅威が忍び寄る地球最後のオイルショック

2008年06月25日 06時08分00秒 | 書評
ガソリン価格がリッター当たり200円に迫りつつあるが、この価格は容易に下がりそうにない雲行きだ。
もちろん石油価格に連動する形で全ての製品の価格が上昇している。
食料品、鉄鋼、セメント、プラスチック、塗料などなど。
上がらないの収入だけで、事実上の減収といっても過言ではない。
世界規模で経済の変化が訪れている。
そんな雰囲気が漂う状態がここ二年ばかり続いている。

デイヴィット・ストローン著「地球最後のオイルショック」は衝撃的な内容だ。
その内容は、現在操業を続ける地球上のほとんどの油井がピークを過ぎており、原油の生産は減少の方向に進んでいるのだという。
その原油生産の減少に追い討ちをかけるように中国やインドで想像を絶する需要の増加が続いており「石油の枯渇」を加速させている。遅くとも2015年にはピークアウトを迎え世界経済は人類史上経験したことのない巨大なショックを受けることになるらしい。

この話は、ここ半年ほどの急激な燃料費の高騰を見ているとあながちデマとも思えない。
確かに金融アナリストたちが主張するように株式投資に魅力を感じなくなった投資家たちの「余ったお金」が資源の買い占めに走っていることも一因だろうが、買われる原因のひとつが原油生産の減少であることは、これまた間違いない。

石油が限りある資源であることは、昔から主張されてきたことだ。
私が小学生の頃の70年代、「1990年代にはすでに石油は枯渇して大変な事態に陥っている」なんてことがマンガなどに書かれていた。しかし実際は新たな油田の発見や、石油掘削技術の発達で産油量はむしろ増えてきた。
ところが2001年頃を境として、新たな油田の発見は急激に減少し、今や需要に追いつかなくなっている。

つまり、石油の奪い合いが始まっている。
価格上昇がその兆候だ。

本書は石油に依存しない社会体制を「リスク増を覚悟して」いち早く変革できる国家や社会が次の時代の勝ち組になると提言している。
石油が購入できないくらい高くなると、製品のデリバリーはできなくなる。
地球の裏側からでも食料を調達している我が日本はいち早く飢餓の状態を向えるだろう。
海外産のペットボトルのミネラルウォーターに150円も支払っている場合じゃないのだ。

地球最後のオイルショック。
つい二ヶ月前まで100円だった137円のアイスクリームを味わいながら、明日の日本を考えるのであった。

~「地球最後のオイルショック」デイヴィット・ストローン著 高遠裕子訳 新潮選書 \1500~

「旅行者の朝食」を見てみたい

2008年06月21日 12時09分10秒 | 書評
旅好きの私の旅行中の一番の悩みは「食事」。
いつも一人旅なので食事にはかなり苦労する。
るるぶやブルーガイドなどに書かれているレストランは二人以上で訪れるには最適だが、一人で訪れるとなると量は多いし値段は高いしでなかなか入る気にならない。

生まれて初めて一人で海外を訪れたタイ旅行も一番困ったのが食事。
言葉が通じないし、見たこともない料理ばかりなので屋台で食べる勇気はでない。かといってフードコートもシステムがわからないから取っつきにくい。
結局、観光ガイドブックに書かれていた英語の通じるレストランへ入って料理を頼み、一般の食堂の10倍ぐらいの料金を支払うことになった。
それでもタイの物価についての知識が欠如していたので高いとは思わず、
「おいしかったよ」
「値段、日本とあんまり変わらないね」
などと、今の私がその時の私を横で見ていたら卒倒しそうなセリフを吐いて満足していた。

2回目の旅でシーロム通りに出ていた屋台でクイッティオ(タイの麺料理)に挑戦したら値段はビックリするくらい安いし、美味しいし、屋台のオバチャンは外国人の私にも愛想はいいし、腹はこわさなかったしで、以来旅行ガイドブックに載っているレストランへはほとんど足を向けなくなってしまった。

海外での食事は文化の違いを感じる一番大きな瞬間でもある。

高校生の時に初めて行った海外旅行のロサンゼルス。
テレビや映画で見慣れている筈のアメリカ料理だったが、現実に遭遇したその大ボリュームや味の不味さにがく然とした。
約20年前、沖縄に一ヶ月間滞在した時も豚をベースにした料理の数々に、体重を減らした。
札幌の大阪や東京と変わらないメチャ高居酒屋に激怒して、帰りに寄った函館のメチャ美味リーズナブルな地元居酒屋に感動した。
ミャンマーのヤンゴン郊外にある喫茶店の練乳たっぷりのインスタントコーヒーに「ちょっと甘すぎるな。でも美味し」と舌鼓を打ち、ベトナムのサイゴンの大通り沿いにあるカフェでメチャ美味オレンジシャーベットに旧仏印を想像した。

旅の食事には困ることも少なくないが、楽しいことも少なくない。

米原万理のエッセイ集「旅行者の朝食」は著者が訪れた主に東欧やロシアに関する食のエッセイ。
普段は私たちが遭遇することもないような様々なグルメが紹介されていて味覚がそそられる。
中でも「見てみたい」と思ったのが本のタイトルにもなっているロシアの代表的な缶詰め「旅行者の朝食」。
なんで代表的で、私が「食べてみたい」と言わずに「見てみたい」と言っているのかは読んでからのお楽しみだが、実に面白い抱腹絶倒なグルメエッセイだった。

なお、キャビアのチョウザメのお腹にはYKKのファスナーがついていて、卵(キャビア)の収穫が簡単にできるようになっているとは知らなかった。

~「旅行者の朝食」米原万理著 文春文庫~


そこに日本人がいた!

2008年06月18日 06時34分14秒 | 書評
有名なタイの観光地「アユタヤ」にある日本人町跡を訪れた時、そのあまりの商売気たっぷりな雰囲気にいささかドッチラケけてしまったことがある。
日本人町はアユタヤ駅からもバスターミナルからも離れており、さらにさらにアユタヤの遺跡群からも離れているので、ともかく不便なので私のように団体旅行で動かない個人旅行者はタクシーを利用するか、はたまたレンタサイクルを借りるかしなければ行くことができない面倒くさい(暑いし)ところなのだ。

道端で客待ちをしているバイクタクシーを呼び止めて「日本人町跡に行ってくれる?」と言っても、
「?」
とされるのがだいたいの傾向のようで、日本人には有名な山田長政つながりの日本人町も現地ではイマイチと言う感じだ。

で、クソ暑い中やっとのことで訪れてみると、その日本人町跡の敷地にはやたらめった価格の高い売店があったり、東海地方のとあるロータリークラブの貢ぎ物なんかが展示されていたりして興ざめすることも甚だしく、写真を写すようなスポットもないので、恐ろしくつまらない。
私は一度訪れ、以来行こうとも思わなくなってしまったが、未だにガイドブックには掲載されているから多くの日本人が訪れては失望することを繰り返しているのだろう。
ただガイドブックには写真はなく、なぜ写真が付いていないのか、行ってみて納得できるのである。

ところで、山田長政に限らず、日本人の海外活躍は決して最近のことではないことを書籍「そこに日本人がいた!」で知ることが出来た。
私たち日本人はどうしても江戸200年の鎖国時代のイメージがあるからか、
「日本人は海外を知らない島国根性の田舎者で、海を渡る勇気などありはしない」
という固定観念に捕らえられている。

世界地図の一番端っこに位置する地理的要因が、この根拠のない自分たちの印象を増強しているわけだけれども、著者の熊田忠雄氏のように色々調べると「日本人もなかなかやるやん」となってくる。

よくよく考えてみると幕末の動乱期、「攘夷!」と叫んで外国人を襲っていた人たちでも「攘夷叫ぶならば、まずは敵を知らねば」と海外に密航していることはつとに有名であった。
中でも長州の高杉晋作は上海へ渡り、支那人が白人たちの奴隷のごとく扱われているのを目撃してがく然としてしまった逸話や、井上馨と伊藤博文がロンドンへ渡ってイギリスの国力を肌で感じているところに「日本のダイミョーが馬関で4か国艦隊を砲撃」というタイムズの記事に驚いて帰国する話は多くの人が知るところだ。

それにしても、こういう海外で活躍した日本人のいかに多いことか。

タイのアユタヤほどではないにしろ、そういう日本人のいた痕跡が世界中いたるところにあるというのも、「なかなか我が民族もやるやないか」と心強く思う隠れた歴史的事実なのであった。

~「そこに日本人がいた!海を渡ったご先祖様たち」熊田忠雄著 新潮社刊


ムンクを追え!ロンドン警視庁特捜部の100日

2008年06月10日 21時16分18秒 | 書評
「市民の税金を使って何億円もする絵画を購入なんて、赦せん!」

と、バブルの頃には思うことが少なくなかった。
とりわけ大阪市が「地元出身だから」という理由だけで佐伯祐三のわけの分かんない絵画に何億円も払って買った時は心底憤った。

時は流れ、そういう馬鹿げた価格のオークションは当たり前の時代になってしまった。
度々オークションでの巨額の落札金額を聞くたびに、こっちの感覚もマヒしてきて1枚の絵画に10億円なんてことも不自然とは思えなくなってしまった。
たとえば、先日、ニューヨークで開かれたオークションで運慶作の仏像が三越百貨店に落札された時は「でかした!」と思ってこのブログにも書き込んだ。
でも、その顧客が得体の分からない新興宗教団体だと知った時はいささか失望もしてしまった。

考えてみれば一般市民や自治体が億単位の金を絵画1枚に容易にだすことはできるわけもない。
新興宗教でもなければ何億もするような美術品は買えないということなのか。

それはともかく、エドワード・ドルニック著の「ムンクを追え!」はスリルさ一杯の痛快ノンフィクションだった。

本書は1994年に発生したムンクの著名な絵画「叫び」盗難事件を犯人が捕まるまでを追ったドキュメンタリー。
日ごろ私たちが抱いていた美術品盗難に絡む裏社会の「華麗な」イメージをこてんぱんに打ち破った傑作だ。

美術品ドロボウというとルパン三世や映画に登場するカッコいい盗賊というイメージが先行するが、実際は闇社会と繋がったろくでもないヤツらということがよくわかる。
「とりあえず盗んでみて、金になりそうだったら売っぱらう」
これが美術品ドロボウの実態だ。
で、それを追い求める警察の方もある意味「変な警官」を充てていて、このドキュメンタリーに登場するロンドン警視庁のおとり捜査官もそういう特殊な個性を持つ人物だ。

ドキュメンタリーなのに映画を観ているような感覚に捕らえられ、ワクワクドキドキの連続。
その著者ドルニックの筆致はすでにノンフィクションの領域を遥かに越え、ダイナミックで上質なサスペンスドラマと化しているのだ。

題材が名画ドロボウとそれを追いかける特殊な警察官の物語だけに、物語の価値も芸術品だった。

~「ムンクを追え! 『叫び』奪還に賭けたロンドン警視庁美術特捜班の100日」エドワード・ドルニック著 河野純治訳 光文社刊~