東京大学運動会ヨット部

東大ヨット部の現役部員によるブログです。練習の様子、レース結果、部員の主張から日記まで。

ありがとう!

2022年12月02日 17時52分27秒 | 引退ブログ

最初に言っておきますが12000字くらいあります。
思い出をダラダラ書いてたらこうなりました。のくせに内容薄いですが、怒らないでください。
あと見直していないので、文法がおかしな部分や誤字脱字があるかと思いますが、その小さい脳みそで汲み取ってください。






















2019年春、晴れて駿台予備学校を卒業し、東京大学に入学しました。
同じクラスの調という男に出会いました。
彼との出会いが僕の大学生活をあらぬ方向に持って行きました。

僕は、何をして大学生活を過ごそうか、何も考えていませんでした。
サークルオリエンテーションの日、クラス写真を撮った後、彼に一緒にヨット部のブースへ行こうと誘われました。

ついていくと、そこには当時4年生で主将だった小野まゆこさんがいました。
話に花が咲き、試乗会の予約をしました。

1回目の試乗会の後、新勧コンパにも参加し、あれよあれよで、2次会で入部宣言をしてしまいました。
おそらく、最初に別の部活・サークルの新勧イベントに参加していたら、そのままそこに入っていたかもしれません。

僕を最初にヨット部へ導いてくれた調くんと、そこでヨット部に引き込んでくれた小野さんにありがとう(ございます)と伝えたいです。

入部して最初に書いた自己紹介ブログがこちらです。

新入生自己紹介2019 part20 古山晋

自分が上級生で、入部してきた一年生で、こんなブログ書いている奴がいたとしたら、すごくイヤです。
でも当時の彼もきっとなんとか盛り上げようとした結果だと思うので許してやってください。


5月から八景島でホッパー練習が始まりました。
上級生は葉山で練習しており、八景島はほぼ一年生だけ。
合宿生活はそれはそれは、とってもとっても楽しいものでした。

ひとり乗りは自由で自分の好きな通りにできて、ダブルハンドに乗るよりも格段に、楽しかった。
なんならダブルハンドは嫌いでした。

小松さんも先輩達も、何やっても褒めてくれて、それが僕の原動力でした。

夏休みの8月、江ノ島で行われいたオリンピックウィークの運営と、八景島での練習を行き来し、ほぼ休みなしでした。
それでもなぜかすんごい楽しかった印象しか残っていません。

最後の方は流石に疲れてしまい、運営のラスト1日を休んでしまいました。そしたら同期の青木くんと調くんも同じ理由で欠席していたらしく、finnの運営チームは学生を一気に3人も失ってしまいました。あの時はごめんなさい。
あと間違えて、知らんおっさんの8万円のパドジャケを持ち帰ってしまったのもごめんなさい。


9月八景島から葉山への引っ越し。
の前日に台風によって八景島は破壊されました。
その日の夜は2階の窓にまで、波のしぶきが上がってきていて、一階は浸水し、ロッカーがあっちこっちに行ったり来たりしてたのを覚えています。
台風一過の朝、なんとも形容し難い光景が広がっていました。
自然の脅威を痛感しました。

葉山に移ると、もっぱらレスキューボートに乗っていました。
先輩達は葉山強豪大学と朝から晩までコース練をしていましたが、僕はヨットレースとかわけわからず、ずっと寝てました。
あの時、学ぶ姿勢を持ってコース練を見てれば、もうちょっと上手くなれた気がします。どんまい。

合宿所は全員泊まれないので、一年生はLBさんに貸していただいていた逗子マリーナの家に泊まるか、葉山合宿所の玄関入ってすぐのところで寝るかでした。インカレが近づくにつれてどんどん先輩達がピリついていくのを、その横で、今では考えられないようなかな〜りジットリした敷布団に寝転びながら、ひっそりと聞き耳を立てるのが好きだったので、合宿所に残ることが多かったです。

インカレでは炎の珠屋番をしていました。レスキューから電話で読み上げられるリコールナンバーを、葉山新港の2階でエクセルにぶち込みながら、その一進一退の攻防に、みんなで一喜一憂していました。
この経験から、レースメンバーになったときに陸のみんなが楽しめるようなレースをお届けするぞ!という気持ちを持つようになったのではないかと思います。

そして11月、両クラスで行った西宮全日本インカレ。
そこで感じたことを記したブログです。

粋な漢


ここでは引退後の自分について触れています。
「古山も自分の引退後に何かを掴んでいたいなと思います。」
「やはり古山もつひに引退ブログを書くとなった時、お相撲さんのようにずっしりとした重みを持った言葉を並べられるようになっていたい、そう願ってやまないのです。」

自分は何か掴めたのだろうか。この引退ブログでいいこと書けるだろうか。
一つ言えるのは、この写真を撮った時から三年、粋な男になれたんじゃないかと思います。


代交代しました。
本格的にスナイプの練習が始まりました。
スキッパー志望でしたが、チーム方針でクルーからのスタートでした。
僕はクルー動作に熱中しました。
動画をいっぱい見て、夜遅くまで陸シュミしました。
ひとりでやるのが好きだったので、みんながまったりしている間にこっそり抜け出して、やってました。

最初の練習は鮮明に覚えています。
吉武さんと一緒に乗って、大雨強風の中、無限サークリング編に突入しました。
死ぬほど息切れして、喉が渇いたのですが、自分の飲み物を積み忘れてしまったので、吉武さんの飲み物をもらいました。
そこで渡されたのが、ブラックコーヒーでした。びっくりしましたが、一心不乱にゴキュゴキュと飲みました。心臓の音が鮮明に聞こえました。死ぬかと思いました。


冬のオフに書いたブログです。

正月の漢@1月リレーブログPART3


基本的に何の価値もないクソみたいなブログですが、このブログを読んで一つ思い出しました。

12月の八景レースです。
僕はOBの多賀谷さんのクルーで出場しました。
南西ど強風の中、それなりにカオスなレースでした。スタートして一生懸命スタボを走ってたら、目の前にレスキューボートがいて、そのゴムにずりずりしながら通り過ぎました。多賀谷さんはブチギレていました。
レイラインだけ見といてって言われたのに、気づいたらオーバーセールしてました。
その時の多賀谷さんの気持ち、今はわかります。ごめんなさい。
そして上マークを回航しランチャーを上げようとしました。
ランチャーロープってこんな軽かったっけと思いながら、せっせこせっせこ、オラオラオラと引いてたら、ポールからロープが全部抜けました。艤装ミスでした。訳わかんなすぎて、一瞬、時が止まり無音映画になりました。その時の多賀谷さんの気持ち、お察しします。ごめんなさい。
挙げ句の果てには、コースを把握しておらず、フィニッシュどれか聞かれてもわからず、適当にあれですって言ったら、普通に違ってました。多賀谷さん、ごめんなさい。

艤装は完璧に、そして帆走指示書を読もうという、当たり前のことを習得しました。

2月練習開始です。
2週目からスキッパーの練習を始めました。
ようわからんかったので、とりあえずハイクアウトを頑張っていました。
あとスナイプは上って逃す船やと聞いていたので、ノーメイントリムでステアリングマンをやっていました。
下手くそすぎて船がずっこんバッこんなってました。

でも今思うと不思議なことに、四年生で最後に辿り着いた(というか矢野さんに教えてもらった)走らせ方は同じような走らせ方でした。

八景島レースは大善さんと出場して、スッカスカの下1からスタート、ワンタックでポートアプローチ、シングルの見た目でしたが、スタボレイラインの大名行列に圧倒され、中途半端に受けて入れず、巻き直そうとしたら即ジャイ艇とわちゃわちゃして、気づいたらほぼ最下位にいました。

東北戦では、これまた南西ど強風。行きのリーチングで沈して、ハーバーバックを宣告されました。
陸に戻った後は、コーラ片手に堤防で、みんなの帰りを待っていました。
自分だけレースに出れない虚しさに打ちひしがれていました。

強風で赤旗の日が多く、スキッパーの練習も満足にはできませんでした。
そして春合宿の途中、新型コロナウィルスが日本にやってきました。
後半からはほとんど練習できなくなっちゃいました。

状況はどんどん悪化していき、長い長い長い自粛オフ期間に突入しました。
その時、部員によるリレーブログを自粛が終わるまでエンドレスで続けました。
その時のブログがこちらです。

リレーブログ〜ヨット部に入ってよかったこと〜 古山編

漢の中の漢


一つ目はヨット部に入ってよかったこと、そして二つ目は長渕剛は若い頃透き通った甘い声色だったということを書いています。
興味があれば読んでみてください。

春インカレはありませんでした。

本格的にオフが明けたのは8月からでした。
初日の練習では、自粛期間中ずっと外に置かれて水がくそ入っていた29220で出艇し、くそ遅くて萎えました。
8月に書いたブログです。

ワイルドな漢


僕に最初に与えられた船は自分より年上の29220でした。
かなり愛着を持っていました。自分の乗りやすいように整備していくのがとても好きでした。
ヨットに乗るよりも好きでした。
下位艇なので、好き勝手やりました。いろんな艤装を試しました。
29220は悲劇的な最期を遂げましたが、引き換えに、整備にこだわるということを身につけました。

そのころは同期の大根田と乗っており、どうすれば速くなるのか全然わからんかったですが、二人で知識を持ち寄ってあれこれやるのは楽しかったです。まさか結局、四年で大根田と乗ることになるとも思わんかったです。

9月、葉山で初めて江ノ島スナイプでちゃんとしたレースデビューしました。
普通に下レグで沈しました。


秋インカレ、両クラスともあっけなく敗退してしまいました。
普通に突破できると思っていました。
逆に、全日本インカレへ切符はそんな簡単には手に入らないものなのだと痛感しました。

四年生がごっそり抜けて、インカレ経験者が長岡さんしかいないという状況の中で、新しい代がスタートしました。
しかしコロナ禍は続いていて、1月も練習できないし、春合宿もほとんどありませんでした。
いろんな文献を読んで知識を溜めたり、筋トレしたり、バーチャルレガッタをやったりと。
でも、やっぱり、大学初めの初心者は特に、とにかく海に出て経験を積まなければいけない。
このままで、本当に戦えるんだろうかというもどかしさがありました。

1月・2月に書いたリレーブログです。

リレーブログ14人目漢

二日に一回髪の毛を洗うことにしています。


またも春インカレはありませんでした。
が、葉山でちょっと練習できていたようです。
オリンピックが延期していた影響で江ノ島の船が全部葉山新港に来てて、船をおけない。
だからレスキューボートは森戸であげて、ディンギーは今の合宿所まで、あの心臓破りの坂を毎日持っていっていました。
もう絶対にやりたくないです。


あとは江ノ島スナイプとかに出場していました。

タイタニック見て号泣しました。


管理艇は29220から31418へと大きくジャンプアップし、長岡さんと乗っていました。
長岡さんとの思い出はたくさんあります。結構相性良かったんじゃないかと勝手に思ってます。

どっかの江ノ島スナイプで沈して、センターボードに足が引っかかって長岡さんが死にかけたり。(小松さんの「そういう時こそ焦らず一旦落ち着く」という言葉を思い出して、冷静に対処したようです)

またどっかの江ノ島スナイプでは、10番台を連発した会があって、その時、初めてレースで楽しいという感情が芽生えました。

長岡さんは強風の中、たくさんハイクアウトしてくれました。
「お母さ〜ん、辛いよ〜」っていっつも言ってました。
でもそのハイクアウトは、スキッパーの視界から消えるほどでした。

個人戦ではどのレースも結局25番くらいに落ち着いてしまいました。
次葉山に帰ってくるときには、もっとレベルアップして、長岡さんと古関さんを全日本に連れていくぞという気持ちで八景島に戻りました。

8月夏合宿のブログです。

今日クーラーを使い始めました。


僕が一年生の時に、マストのスティフナーがおでこに刺さった話が書いてありますので、ぜひご一読ください。

当時は31418の浸水と孤独の戦いをしていたようです。
いろんなことをしすぎて途中、418がマーライオンになって時もありました。
結局管理艇を後輩の大野ちゃんに引き継いだ後に、彼が浸水を止め、ハッチプシューを実現させてくれました。ありがとう。お疲れさん!


夏合宿も途中で自粛オフがあり、練習量は多くはありませんでした。


そして秋インカレ。
予選は3位。

東大魂!!


そして決勝は11位に終わりました。
二日目の時点で全日本にはいけないことが決定してしまいました。
合宿所で泣きました。

四年生が長岡さん、古関さんの二人だけで、だからこそ、一個下の僕たちがしっかり支える。
そして、チームを引っ張ってくれた恩返しに、大好きな4年生と一緒に全日本に行こうと、この1年間やってきました。
でも圧倒的な敗北を喫し、四年生を引退させてしまったというやりきれなさと同時に全日本への高い壁に絶望しました。
一番辛い年でした。

最終日、最終レースが終わってハーバーバックしているとき、後ろを振り返ってレース海面を見渡し、来年こそはと誓いました。

470は蒲郡全日本インカレに出場しました。
代交代してこんなブログを書きました。

妥協なき旅



ラスト一年、最上級生としてプレッシャーをかけて取り組んでいこうと意気込みました。
当時の自分には何もありませんでした。
スタートはだめ、スピードもない、コースが引けるわけでもない。

そこでとにかくスピードを伸ばして戦えるようにしようと決めました。
そしてクルーにしっかり頼って二人で船を走らせること。
残された時間が少ない中、これしかないと思いました。

矢野さんがコーチとしてやってきて、矢野さんを信じて僕はやリマした。
正解は他にもあるかもしれない。けど、いろんな正解を試している暇はない。
色々、自分で考えて、自分なりの走り方を見つけるのが理想だしかっこいいとは思っていたが、なんせ時間がないと思った。

だから矢野さんの教えに忠実に取り組みました。
色々教えてくれてありがとうございました。

間違いなく、スナイパーとして大きく成長できたと思います。



春合宿開始前夜、ブログでこんな理論を提唱しました。

ジェット・コースター


ジェット・コースター理論です。
これが、僕がヨット部にはりついてた理由かもしれません。
朝とか、出艇前に辛い時、ぜひ思い出してください。

最後の春合宿は、最初で最後、フルでこなしました。
2月は八景島で週5練習、3月は葉山で週6練習。四年生も入部してから経験したことがなかった。
なかなかにハードでした。
新勧期も、無理を言って、練習も並行して行いました。特に下級生には嫌な思いもさせてしまったと思います。


でも、その分、みんな確実に成長してました。

3月末のエノスナでは、2年生で初めて出たエノスナのデジャブのような沈をしてしまい結果は良くありませんでしたが、(新社会人の皆さん、おめでとうございます。)、所々にレベルアップを感じていました。


そして3年ぶりの春インカレ。
スナイプ5位、4707位で、総合5位入賞。素直に喜びました。
ハーバーバックの曳航では、このためにヨット部やってたんだとも思いました。

でも最終的な目標までは課題はまだまだ沢山ありました。
個人としても、チームとしても。

6月、7月はエノスナや個人戦などのデカレースにバシバシ参加しました。

【調査結果】スナイプのマストの円周は大体180mmです。

投票行って外食するんだ


成績を安定させられるよう、課題を意識してレースをこなしていきました。

それなりに自信を持って臨んだ個人戦は、1レース決着。
しかも、下から出て左展開したかどうかでほとんど勝負が決まってしまう。
自分は上から出た時点で、結果は決まっていました。

次があると思ってレースをしちゃいけないということを学びました。


7月中旬には、これまた3年ぶりの7大学戦@閖上がありました。
14艇という小規模のチームレースで、ビッグフリートとはまた違った楽しさ、難しさがありました。

勝ち負けがはっきりとすぐにわかってしまうし、ライバル校を意識してコースどりをしなければいけない。
劇的な幕切れで、スナイプ優勝を掴み取ることができました。

牛タン焼き 仙台辺見


この瞬間もまた、かなり嬉しかったです。

7月はまた僕の人生を揺るがした一大イベントがありました。

30072改造計画です。
東大スナイプは上位3艇が辻堂でしたが、4番艇が旧奥村の30785でした。
インカレで船が壊れたら30785に乗るのか、、、とちょっと思ってました。
レギュラー争いも、辻堂に比べてハンディキャップがある。

そこで、その昔世界を震え上がらせたデンマークピアソン30072を整備しレース艇に仕立て上げようという一大極秘プロジェクトが始動しました。


約1ヶ月間、桜山に篭りました。
船に付いている部品を全て取るところから始まりました。
所々ステンレスじゃないのが使われてて鬼サビしてました。これまでの人たちが取るのを諦めたことがよくわかります。
力尽くで捻り取りました。
この作業が一番大変だったかもしれません。
デカイクラックが入ってるところを、グラインダーで削って、積層しました。

上裸で、ガラスマットを扱ったら、身体中にガラス繊維が刺さり、死ぬかと思いました。
葉山合宿所の浴槽で、空前絶後の水風呂を作り、かゆみを和らげました。

そして、所々にある、無数の穴をパテで埋めました。
面出しをして、トップコートを吹きかけました。
そこから浮き出てきた不十分なところをもう一回面出ししてから、再度吹きかけました。

すごくすごく綺麗になって感動しました。

毎日毎日、葉山合宿所に泊まって、朝目覚めて作業開始し、途中休みつつ、夜遅くまで、072と向き合いました。
山の中で、蚊が容赦無く血を吸ってきました。作業場の角に魔法陣のように蚊取り線香を配置して対抗しましたが、ほぼほぼ意味はありませんでした。


作業はまだ終わりません。

そこから部品の取り付けです。
ネジは太さ何mm長さ何mmが何本必要か、足りないブロックやカムなどの部品は何かを洗い出すことから始まり、
できるだけ費用をお抑えるために、時には八景島合宿所にいって探し出し、それでも足りない物を購入しました。
大きな声では言えませんが、ナットを全部ステンレスじゃないやつ買ってて、もう一度買い直しました。

ブロックフィッテングはなかなかに面白かったです。
特に、シュルシュルの御トラベラー後ろまわりシステムを完成させた時は大きな声が出ました。

東日本スナイプで072を使うために、最後は徹夜でロープのエンドレスをしました。
ほとんど意識はありませんでした。

突貫工事で間に合わせたので、ちょっと愛着が薄れました。

ちなみにノー睡眠で迎えた東日本スナイプは、1日目は鬼人化モードに入り9位で終えましたが、二日目は反動で沈んでいきました。

それから072はHIKオフィスで再計測しました。少しでも船を軽くするために、色んな部分を削り取りました。
スキッパの足元のアレを除去することで、乗りやすさと引き換えに、1kgのダイエットに成功。

その後、舞台は八景島に戻り、フィナーレを迎えます。
週5練習の解散後に、サイドの水色の線をやすりで消し、船底含め面だしをして、トップコートを吹きかけ、そして仕上げ磨き。
魂込めました。

新艇の青白さは出ませんでしたが、社会人が使ってるようなちょっと古めだけど綺麗で粋な船に生まれ変わりました。
海に出て乗った時は、もう、最高に気持ちよかったです。
デンマークピアソンの、モールドを全身で感じました。

このプロジェクトを通して、いろいろなものを犠牲にしました。
自分は何か始めてそれにハマると、それを始めた目的も忘れて、一心不乱になるタイプです。
ご迷惑をおかけした関係各所の方々ごめんなさい。そして自分にもごめんなさい。
072に没頭していた時間はかけがえのない思い出です。

それらは全て、30072の中で生き続けていくことでしょう。
みんなの想いを乗せて、燃え尽きる最期の時まで輝き続けてほしいです



あの、072の話は終わったけど、このブログは終わってませんよ。

とはいえ疲れたので、夏八景島は飛ばします。

9月、葉山に戻ってきました。
秋インカレまで1ヶ月。
課題はまだまだあったけど、できないことをできるようにするというよりかは、
積み上げてきた自分の持っているものをどれだけ発揮できるか、そこにだけ集中しました。

秋インカレ1週間前、前哨戦とも言える秋六大学戦。
僅差ではありましたが、東大スナイプは6位に沈みました。

秋インカレも同様、接戦になるだろうと覚悟しました。
正直同じくらいレベルのライバル校が団子になっていると。
上位で入賞の可能性も大いにありうるし、逆にここで敗退してしまうのではないかという不安も大きくなりました。
最後は、レース当日にパフォーマンスを発揮し流れを掴めた大学が勝つんだと、大野の隣で受動喫煙しながら、話したりしていました。

そして秋インカレ、6位で通過しました。

ら・ら・ら/大黒摩季


最終日、最終レースが終わってハーバーバックしているとき、またも後ろを振り返り、ちょうど1年前を思い出していました。
あの時の気持ちを忘れまいと、練習してきました。
ようやく報われたように思えました。

陸に戻ったあと、大野と西尾と抱き合ったことを覚えています。
去年も同じスキッパー陣で敗退して、舵を持つ者として同じ悔しさを抱えてきました。
自分は最上級生スキッパーだったけど、上からぐいぐい引っ張っていけてはいませんでした。二人はとても頼もしく、先輩後輩というより、対等に切磋琢磨していく仲間のようで、僕の心の支えでした。
ありがとう。

そしてなんと言っても、何十年ぶりの総合入賞
調がずっと掲げてきた、470スナイプという垣根を超えた一つの「チーム東大」で戦うという姿勢が形になったんだと思います。

あとは、もう琵琶湖で、思いっきりヨットを楽しむだけでした。
チェレンジャー精神を忘れずに、やることをやる。

琵琶湖前入り初日。
10m以上吹いてました。
午後から出ようとしていたところ、慶應スナイプが昼着してきて、話を聞いてみると、爆ヘダーで2艇同時にアンヒール沈したらしい。
琵琶湖はチンしたらマストが折れるって聞いてたし、こわ!って思いました。
風が少し落ちてから出艇したけど、それでも、それなりに強弱があって、ビビってました。
これが琵琶湖の風かと。琵琶湖の風は裏切らない!と思いました。

でもね、それ以降は、そんな風入ってきませんでした。

琵琶湖で練習していくうちに、結局やることは変わらないと、思えました。
難しく考えすぎるんじゃなくて、矢野さんがいつも言うようにセオリー通りシンプルに考える。

全日本インカレ当日、ノープレッシャーで思いっきりできると思っていましたが、やっぱり緊張してました。
3艇大きく崩さず、コツコツと点数を積み重ねていきました。
最終日前にして、スナイプ5位入賞圏内。

迎えた最終日。
朝、ハーバーにはたくさんの保護者、LBの方々がいらっしゃってくれました。

僕はそれまで、出艇の瞬間が一番緊張する瞬間で、あまり好きな時間ではありませんでした。
でもこの日は違いました。
みんなの声援が自分の背中を押してくれるようなそんな感じがしました。
最期の最後に、出艇が好きな時間に変わりました。

レース海面に着く頃には無風に。

ラバーの横にみんなでつけて、ずっと風まちをしていました。

31494と書かれたセールをじっと見上げながら、最期のMTGの、4年生から一言コーナーで何話そうか考えていました。

なんで自分はヨットを始めたんだろう、そしてなんでヨットを続けてきて、今もヨットに乗っているんだろうなんて考え出して、結局それは今もわかりませんが、確かに言えるただ一つのことはヨット部に入って学生ヨットやってきてよかったな、ということでした。

フォーンがなってAPA。

誰がなんと言おうと、全日本5位入賞。
思いっきり喜びました。

去年、関東11位から全日本5位、それはもう、ね。

琵琶湖の湖面は光り輝き、比叡山も笑っていました(→?)


その日の夜は、宿で同期みんなで、爆睡しました。
朝起きると、まだみんな寝てて、ドフラミンゴファミリーを倒した次の日の麦わらの一味みたいで、なんかええな〜、と近江牛カレーパンを食いながら思いました。

外に出てみると、空はとても青く、太陽が眩しかったです。





謝辞

入部してから今まで、基本中身のないブログしか書いてこなかった反省として、幾らかの人々にお礼・メッセージを述べたいと思います。

大学でヨットを始めた時から小松さんに褒められることがモチベーションにつながっていました。
そして常に気にかけてくれて、行き詰まった時はいつもヒントをくれました。調子乗ってるときも、落ち込んでいるときも、叱咤激励で指導してくださりました。

矢野さんには、もっと早くから教えてもらいたかったです。スナイプの走らせ方はもちろん、シンプルに考えてヨットレースをすること、そして何よりヨットは楽しむものなんだと学びました。一緒に072作ったのは僕の一夏の思い出ですし、矢野さんのクルーで乗るのも楽しかったです。


大根田くんとは一番最初にペア組んで、そんときはエノスナとかでまじで全然走れんかったけど、1艇だけの自主練で一緒に乗ったり、2年生で全個に通ってないけど事前練習にだけ参加したり、する中で、ポジションは違えど互いに刺激しあって上手くなっていけました。4年生になって、また一緒に乗ることになって、嬉しいことも悔しいことも一緒に分かち合えて、楽しかったです。スナイプリーダーとしても、1年間次から次へと頭を悩ませることが降り注いできて、よく夜に電話がかかってきたのを覚えています。いろんなところに配慮しつつ、けど自分が作りたいと思うチームの軸はブラしませんでした。尊敬です。ありがとう

大根田もくれはも、いいクルーで、間違いなく東大スナイプの中核を担っていました。大根だもくれはも気付いたら、すげーハイクアウトするようになってて、気合が違かったです。やっぱ国立大スナイプはクルーがカギだと思いました。それくらい、頼りがいのある二人でした。ありがとおう

大吾くんとは同期スキッパーとして共に頑張りました。なぜか一緒に出た伝説のエノスナは、知らないうちに他艇を沈させてマストを曲げさせてたことだけ覚えています。いい思い出です。大吾と自分は、すごく似ているところがあるなと、よく思います。夜シャワーを浴びず、朝早く起きてシャワー浴びるところとか。だからこそ一緒にいて居心地が良かったのかもしれません。最後の9月には、葉山合宿所で、毎日一つの布団で一緒に寝てくれました。そしてサポートに回ったあと、結構大変で、PTPのプレッシャーを一身に背負いながら、役割を果たしてくれました。秋インの二日目に寝落ちして次の日朝5時に起きて、せかせか準備していたのを僕は知っています。ありがとう

西尾、大野は、上にも書いた通り、まさに同志と言えるような存在でした。
すごく頼もしかったし、一緒に戦えて楽しかったです。ありがとおう
千田ちゃんと中静も下から突き上げてくれたし、9月の葉山でのコース練では速っ!って思ってました。
あと千田ちゃんの笑顔にいつも元気をもらってました。中静も千田ちゃんには敵わないけど、いい笑顔してた。ありがとう。
二人とも、もうすぐに僕なんかより上手くなると思うので楽しみです。
Q太郎大野には、僕の実力不足が故に、この一年苦しい想いを何度もさせてしまったと思います。
当の4年生にかかるプレッシャーよりも、その4年生の引退を背負って戦う下の代にのしかかるプレッシャーは半端じゃないと思います。そのプレッシャーの中で、一緒に戦ってくれてありがとう。
やはり、東大が長く強くあり続けるためには、未経験者でもいいクルーがどんどん生まれてくることが大事だと勝手に思っています。神田はデキる奴だし、今ぽは冬の葉山レスキューの後部座席でさなぎになっていた頃から成長してるし、船を支配するクルーになるべく、貪欲に!、Q太郎中心に切磋琢磨していってください。ありがとう。

いい同期に囲まれました。みんなまとめてありがとう。よんななまら〜ずの引くくらいの自主練の量に触発されていましたし、特に調くんには1年生の頃から僕を自主練に連れ出してくれて、なぜか葉山北風ど強風でスナイプで一緒にハイクアウトしてくれたりしました。ちなみにその時途中で気づきましたが、センターの流れどめがついてなかったです。

ななさん、ミオさん、かほさん。いつも元気をくれてありがとう。明るい女性は好きです。
いつも僕のだるい絡みに付き合ってくれて、楽しい時間が過ごせました。


先日、自主練にお呼ばれしたときに、小松さんとお話して、古山がもし現役に戻れたら何をするかを後輩たちに伝えていくんだと言われたので、全ての下級生に向けて一つだけ書かせていただきます。
えっと、風をみる力を養うことです。
風がもっと見えたら、ヨットレースをもっと楽しめる思うわけです。
ヨットレースを楽しめたら、どんどんヨットが上手くなっていくはずです。
そんな感じです。

そういや生ちゃんは、全日本インカレの総括で東大のことあんま書いてくれませんでした。
やっぱり総合入賞じゃないと。

とりあえず東大が総合入賞するまで陰ながら応援させていただきます。

あざした!
手疲れた!





















ちなみに、わたくし



























スナイパー 古山晋 でした
























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