井上財政と社会不安の高まり

2016年05月18日 | 歴史を尋ねる
 二・ニ六事件の首謀者の一人、青年将校の安藤輝三は事件後次のように証言している。安藤が国家革新運動に関心を持った契機は初年兵教育からで、兵の身上を通じて農山漁村、中小商工業の疲弊窮乏の状態を知り、世相の瀕廃人心の軽佻等に憤慨し国家の前途を憂えた。こうして軍人としては考えては不可と云われる政治問題まで考えを致さねばならぬようになりましたという。不景気の中、除隊した兵が就職口を探してくれと云ってくるのでそれらに補助を与えても焼け石に水で、私自身が破産する様になりました、と。筒井清忠氏の著書では証言内容の時代を特定していないが、昭和恐慌の時期であろう。仙台陸軍地方幼年学校、陸軍士官学校を経て昭和元年歩兵少尉として第三連隊に入隊。戸山学校・歩兵学校を経て昭和10年、歩兵第三連隊中隊長就任。昭和6年8月、菅波三郎が第三連隊に現れ手からは一層急進化し、十月事件クーデタ計画に加担している。北・西田に会い「改造法案」を読み、菅波が満州に去ってからは、歩兵第三連隊の国家革新青年将校の中心的存在となり、その人格から「安藤が起てば歩三が起つ」と言われるほどの存在になった、と筒井氏。

 前回は、井上蔵相の「金解禁準備不況」に始まって、世界恐慌の影響による「価格恐慌」が押し寄せたまでだったが、日本社会に与えた影響を鈴木正俊氏の著書で見ておこう。
 政府は1930年度予算を超緊縮型とした。これは金解禁に備えるという意味もあったが、財政難が深刻となっていたこともあった。もう一つの特徴は、国際発行がゼロであったこと。井上は「国民経済の立直しと金解禁決行に就いて国民に訴う」で、「借金をして歳出を計っているような不健全なことを止めて、借金もせずにバランスを合わせて、この財政上の状態を立て直すつもりです。収支のつぐなわない不合理な財政状態を改善して、財政の基礎を確立するつもりです。この趣旨から、政府はすでに財政緊縮に着手し、昭和五年度予算編成に当たって非常なる緊縮方針をもって臨み、既定経費の整理節約、新規事項の抑制を図り、一般会計においては公債を発行せず、特別会計において公債を半減する計画であります」と。
 しかしこの予算編成の結果は、政府の予想を大きく裏切るものであった。政府が均衡予算に固執し財政支出を削減したため、民間設備投資の落ち込みを招き、それが回り回って税収不足に跳ね返り、結局歳入不足になったからだ。均衡予算を目指し、歳出を削減したものの、不況のあおりで歳入が減ったために縮小の螺旋階段をくだるようなことになった。デフレが深刻化したのだった。
 アメリカの大不況、保護主義の高まりを受けて、日本のアメリカ向け輸出、特に生糸の輸出が大きく減少したことが日本経済にとって大きなダメージとなった。生糸は日本の輸出の38%を占め、特にアメリか向け輸出の96%と大部分を占めていたから、その価格下落の打撃は致命的であった。国内需要が停滞している時、輸出の落ち込みが重なったから国内経済は深刻な不況となった。工業生産額は31年に37%減、農業生産額は43%減、農業の落ち込みが大幅であったが、東北地方の農村の惨状が特に目立ったことは既述済である。
 30年前後の日本のGNPは、実質が堅調な中で名目が大きく落ち込むという特異な様相を示した。1929年を100とすると、実質GNPは30年、31年とわずかであったがプラスを維持したが、31年の名目GNPは約80と二割も減少した。恐慌下で生産量は堅調に推移したが、物価の下落が極めて大きいという特徴を示した。深刻なデフレである。デフレの指標としての卸売物価の動きをみると、1929年を基準とすると、30年に18%、31年に30%も下落した。この鋭角的な落ち込み理由は、1、人為的なデフレ政策と30年の旧平価による金解禁、2、アメリカの保護主義の高まりと大恐慌の影響、3、卸売物価、特に米、生糸など農産物の価格暴落の三つの複合的な要因だと鈴木氏。当時の経済史を担当する専門家は大恐慌だから経済の落ち込みも止むを得なかったとの見解が多い。確かに日本の力ではどうにもならない世界恐慌の勃発とその波及が、日本経済に大きな影響を及ぼしたことはわかるが、経済政策の誤りを第一に挙げるべきでないか。それは、井上の後を継いだ高橋是清が見事に大恐慌からの脱出を図った史実があるし、井上蔵相が在任当時、即効性のある景気対策、農業対策などをとった気配がなかった。やはり経済政策の当事者は時局に適合したタイムリーな経済政策を撃つべきであったし、自らの信念の中にとどまるべきでなかった。

 また、政府は金解禁に当たって金が流出しないよう財界に協力を求めていたから、金の海外流出は大規模になるまいと楽観していた。しかし現実に金解禁が始まってみると、企業や銀行の実需に加えて、金融機関の投機的なドル買い、円売りも起きた。特に1931年9月21日、イギリスが金本位制を離脱すると、日本の金輸出再禁止を予想してドル買い・円売りが横浜正金銀行の窓口に殺到した。その間のドル買いの順位は、一位ニューヨーク・ナショナル・シティ銀行、二位三井銀行、三位三井物産、四位住友銀行、五位三菱銀行であった。当時の日本では自由貿易が行われており、為替についても何の制限もなかったから、ドルの売買は自由にできた。この結果、日銀の正貨準備は31年末には金解禁前に比べて半減した。日銀の金準備が減少するにつれて、その分通貨量が縮小、金利が上昇し、不況が加速したのも、政策当局の予想外の出来事だった。
 ドル買いに対して井上は徹底的にドル売り、円買いで立ち向かった。またドル売り・円買いの効果を上げるために公定歩合を二度に亘って引き揚げた。それでもドル買いの勢いは止まらなかった。イギリスが金本位から離脱し、さらに世界の国々がこれに続こうというときに、日本だけが流れに逆らうことは不可能であった。
 しかし井上は退任後も高橋の金輸出再禁止策や在任当時のドル買いについて執拗に攻撃しているが、高橋の以下の反論が正論であろう。参考までに高橋の演説を引用すると「井上前蔵相は、我が国がついに金の輸出再禁止をなさざるべからざるに至りしは、我が銀行家または資本家が妄りにドル貨を買い付けたる結果なりとて、盛んにこれを攻撃致しますが、それならば何故、井上君は断然金の輸出を禁止するか、或いは他の法律上または行政上の手段によって、為替の思惑を取り締まらなかったのであるか。何らこの種の手段を講ぜずして、内外貨幣の売買を長く自由の立場に置き、ただ日本銀行の金利を引き上げ、以てその解合(とけあい)を期待したるがごときは、大いなる見当違いであったと言わねばなりません」。
 そしてその結果、財界批判の炎は彼方此方から上がりついには32年3月5日、三井合名理事長の団琢磨は血盟団の菱沼五郎によって暗殺された。血盟団は井上日召が一人一殺主義を標榜して組織したが、目的は政財界人、西園寺公望、牧野伸顕、池田成彬、団琢磨、若槻礼次郎、井上準之助、犬養毅らを暗殺するためであった。追記事項として、井上準之助前蔵相は32年2月、総選挙の候補者応援に駆け付けたところを、同じ血盟団の小沼正に射殺された。逮捕された小沼は「旧正月帰郷した時、百姓の窮乏見るに忍びず、これは前蔵相のやり方が悪かったから殺意を生じた」といい、小沼の来歴を当たると、実家の事業が失敗、再起を決して上京したが、貧困から這い上がろうとしても、独占営業者の専横や警察署の腐敗を身にしみ、そうした中で悪戦苦闘していた。さらに昭和恐慌で最終的に家族離散となった。重なる挫折を味わっていた1930年(昭和5年)に井上日召を知り、血盟団に加わった、とある。当時の社会が生み出した悲劇なのだろう。